「運慶」が東日本、とりわけ鎌倉に進出する足がかりとなった最初の仕事は、まだ鎌倉幕府が立ち上がる前のこと。
執権という権力の座に至るよりもずっと前、平家滅亡の頃。
北条時政が都で運慶に仕事をオファーしたのがはじめということになるらしい。
それも運慶がまだ三十代半ばと言うから、時代の変わり目に時代の寵児が現れる!を地で行っているΣ(゚∀゚ノ)ノ
慶派の仏師に仕事を依頼するというのは、当時にあってどういう意味を持つのか?
慶派にあって、どちらかと言えば若手寄り(?)の運慶を時政がなぜ指名したのか?あるいはなぜ指名できたのか?
このところは僕の勉強不足でいまいちわかっていない。
だけど、妄想を膨らませると、なんだかとっても面白い風景が見えてきそうな気がする(^ω^.)
なんとなくなんだけど、これから世の中心へと駆け上がっていく二人が出会った的な、かなり胸熱なシーンがあったんじゃないか?って(≧∇≦)
願成就院に納められたのは当時の記録では7体ということになっているとか。
欠けているのは阿弥陀如来坐像に寄り添うはずの脇侍2体。
観音様と菩薩様がいたはずなのだ。
ちなみに江戸時代には阿弥陀三尊が完璧に伝えられていたという記録があるそうで。
ということは?廃仏毀釈で?
明治の初頭にやられた、とか?
なんてこった( ´Д`)=3
不動明王とコンガラ童子、制吒迦童子の三像が完璧に残っているのに、なぜご本尊の阿弥陀三尊が破られた?
阿弥陀様の光背も失われていて、やけにまぶしい、新しく造られた光背を背にしていらっしゃる(+_+)
現存する5体の内、毘沙門天立像は北条時政をモデルに彫られた、とかいう話を聞く。
毘沙門天の足は餓鬼を踏んづけているのだが、一説には、家臣を踏んづけてポーズをとった、とか?
依頼主の要望というのがどの程度のものだったかは想像の域を出ないのだが、すでにしてこの毘沙門天立像は「運慶」のカタチが完成している。
やっぱり、5体ならんでいるというだけで、かなり見応えがあります。
失われた2体が本当に残念ですな〜(TωT)
執権という権力の座に至るよりもずっと前、平家滅亡の頃。
北条時政が都で運慶に仕事をオファーしたのがはじめということになるらしい。
それも運慶がまだ三十代半ばと言うから、時代の変わり目に時代の寵児が現れる!を地で行っているΣ(゚∀゚ノ)ノ
慶派の仏師に仕事を依頼するというのは、当時にあってどういう意味を持つのか?
慶派にあって、どちらかと言えば若手寄り(?)の運慶を時政がなぜ指名したのか?あるいはなぜ指名できたのか?
このところは僕の勉強不足でいまいちわかっていない。
だけど、妄想を膨らませると、なんだかとっても面白い風景が見えてきそうな気がする(^ω^.)
なんとなくなんだけど、これから世の中心へと駆け上がっていく二人が出会った的な、かなり胸熱なシーンがあったんじゃないか?って(≧∇≦)
願成就院に納められたのは当時の記録では7体ということになっているとか。
欠けているのは阿弥陀如来坐像に寄り添うはずの脇侍2体。
観音様と菩薩様がいたはずなのだ。
ちなみに江戸時代には阿弥陀三尊が完璧に伝えられていたという記録があるそうで。
ということは?廃仏毀釈で?
明治の初頭にやられた、とか?
なんてこった( ´Д`)=3
不動明王とコンガラ童子、制吒迦童子の三像が完璧に残っているのに、なぜご本尊の阿弥陀三尊が破られた?
阿弥陀様の光背も失われていて、やけにまぶしい、新しく造られた光背を背にしていらっしゃる(+_+)
現存する5体の内、毘沙門天立像は北条時政をモデルに彫られた、とかいう話を聞く。
毘沙門天の足は餓鬼を踏んづけているのだが、一説には、家臣を踏んづけてポーズをとった、とか?
依頼主の要望というのがどの程度のものだったかは想像の域を出ないのだが、すでにしてこの毘沙門天立像は「運慶」のカタチが完成している。
やっぱり、5体ならんでいるというだけで、かなり見応えがあります。
失われた2体が本当に残念ですな〜(TωT)