りゅういちの心象風景現像所

これでもきままな日記のつもり

「青い山」

2011-08-07 21:35:21 | 阿豆麻波夜



     分け入っても分け入っても 青い山



種田山頭火の有名な俳句ですが、これを評して素人登山家の我父曰く、



     分け入っても分け入っても 山 



これのほうがよいと言って、断固、主張を曲げなかったことがありました。
どうしても「青い」が余計だというのです。
ちょっと変わってますでしょう?
僕の父はたまにこういう変なことを突然いい出すところがあります。

父が余計だという「青い」という形容詞。
しかし、これこそが山頭火の言いたかったことなのでは?と思うので、とりあえず僕が空気遠近法のことや、あのときはセザンヌかなんかを譬えに話したのですけど、「いやいや、そんなの関係ない。山に入ればわかる。」とにべもなく突っぱねる。。。うん。まぁ確かに空気遠近法はちょっと遠くから攻めすぎたかな?偏屈な父だというのが分かっているからこういう角度からならどうだ!と思ったまでなんだけど。
「青い山」はまずは「遠い山」であることをあらわしているのは間違いないのに。。。それが逆に癪にさわったらしい。さらに強情になって「目の前には山しかないのだ」と。山頭火の句に限ったことではなく、一事が万事この調子なのです。人の話は聞かないけれど「オレの話は聞け」っていうようなものでして。僕は父のあまりに近視眼的(で、しかも頑固)な発想にいいかげん迷惑してきましたが、この種田山頭火の俳句に絡んだ話は「いいかげん」にその全体を象徴しているかのように詠めてしまうので、「山」も「山頭火」も大嫌いでした。

それから20年は過ぎてしまいました。
だいたい当時の僕が「青かった」のは当然のことだけれど、いまさらながらに振返って見ると我が敬愛すべき父もかなり「青い」。。。

おいっこと一緒に登れるくらいの山にしか登っていませんが、さしあたっての目的もあって、今度の秋から始めて一年のうちに足柄の山々を登り尽くそうと考えています。やることは「山に登る」ですが、目的は二つです。ひとつは山登りが好きだというサクに、故郷の山をひとつひとつ歩かせてみたい、ということ。あやが母親として願っていることでもある。それが本人の好きなことであるなら、サクにとって確かな経験になってくれるんじゃないかと。できるだけ多くのチャンスを作っておきたいところです。
もうひとつは、父が暇さえあれば登っていた山々は「足柄」にあるということ。僕にしてもそのうちのいくつかしか知らず、あとは外から眺めていただけっていうのがほとんど。風景の中の一部でしかなかった。このブログで「足柄」について考えるようになったことでもあるし、やっぱり歩いてみてはじめて分かることもあるだろうと。
この2年ほどでいよいよ心臓のことが深刻になってきた父には、もう山登りはムリなのかも知れません。
僕が登るつもりという話をすると、父が本棚から山の地図を引っぱりだしてきて、テーブルの上にバッと広げる。この山で注意しなくちゃいけないところとか、子どもと一緒に登るときに考えておくこととか。。。そういうレクチャーが始まります。勘所とかがはっきりしているので、たしかにディテールがわかりやすい。
それで、冒頭の山頭火の話を思い出していました。
あの頃に、四の五の言わずにとっとと一緒に登ってしまって、一緒に遠くの頂を眺めて「次はあそこに登りましょう」といえば良かった。そうやっていくつもの山を登っていけば、いつだって「青い山」を目指していたってことに気づく瞬間が来たかもしれない。。。そんな確かなことが傍らにあったのだと、いまさらながらに思うのです。





















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