りゅういちの心象風景現像所

これでもきままな日記のつもり

好きだけど、持っていない(*‘ω‘ *)

2023-08-02 02:19:26 |  日 記 
大好きだった恩人の田中さんに「あなた、アンドリュー・ワイエスが好きなんでしょ?」と、なにかの拍子に見透かされて、うろたえたことがあるΣ(゚∀゚ノ)ノ
なんの脈絡もなく、いきなり言い当てられたので、そりゃ驚きましたとも(・o・)
田中さんのおっしゃるとおり。
僕はアンドリュー・ワイエスの絵がどうしようもなく、大好きである。
だけど、その時にハタと気づいたのだけど、僕はワイエスの画集などを、ただの1冊も所有していない。
われながら、これはなかなかに奇妙なことだ(・o・)
画集なら、他に山ほど持っているというのに、なぜだか、アンドリュー・ワイエスの画集については、僕の欲望の外にあった。
心に秘していたことを見透かされたことも驚きだが、見透かされるほどに、僕の中の何かがそのことを田中さんに示していた?そして、そのことは「所有」とは一切関係ない。これが不思議だった。

好きな絵ということなら、一番大好きなのは長谷川等伯かもしれない。
ずっと見ていられる(*´ω`*)
だいたい、子供の頃からずっと好きでい続けたのに、画集くらい、どうして手元に引き寄せなかったのか?
僕は「長谷川等伯」関連の画集を1冊も持っていなかった。
気づけば、これもアンドリュー・ワイエスのときとおんなじ。
つい数年前に展覧会の図版を手に入れて、それが自分が持つ初めての「長谷川等伯」の作品集になったことに、あらためて驚いた。その時に、田中さんに言われたことも思い出した。

例えば。
「大好き」な音楽について、その音源を持っていないにも関わらず、ずっと好きでい続けることもある。
ホントに良いなぁと思っているクルマなどは、とてもじゃないけど手が出せない領域にいる。手に入ることはまずない。
それでも、なぜか心の中では気のおけない友人のような立ち位置に居続けてくれている。

「大好き」だけど「持っていない」。そういうことはたくさんある。持つ持たないとは関係なく、所有とは関係なく、心惹かれることがある。僕などは、そんなことばかりに包まれて生活しているとさえ言える。そういうとき、モノは果たしてモノでしかないのか?
モノをモノである以上のなにかにしてしまうのが人の仕事なのかもしれないなぁ(*´ω`*)

もちろん、持てるなら持ちたい。そう思うことはある。
あれやこれやの物欲がないわけではない。「画集」くらいなら、手に入れてしまいなよって思うし、今まで、自分たちが現実に手に入れてきたモノたちの存在だってかなり大切。
だけど、どれだけ好きでも、例えば「長谷川等伯」のホンモノを私物として手に入れることは極めて難しいし、手に入れることの意味そのものが別の望みへと繋がりそう。「好き」ということと直接にリンクしないのだ。
「持つ」ことの意味はあるのだろうけど、それと「好き」であることは、必ずしも一致するものではないのかもしれないなぁ(*´ω`*)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「黄色いヤツ」 | トップ | 「緊急ドライブ」(≧∇≦)b »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。