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知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

神社が消えていく・・・

2025年03月16日 10時39分50秒 | 神社・神道
お寺は住職がいて檀家さんたちからお金を集めて維持されています。
神社は宮司がいて氏子さん達が守っています。

近年、お墓離れで寺院の経営が困難になってきたという話を耳にします。
神社もしかり。
地方の神社では若者がいなくなって氏子組織が継続困難になり、
お祭りの開催も危ぶまれてきました。

そんな神社の台所事情が記事になっていましたので紹介します。
やはり厳しい現状がそこにありました。
神様に使える宮司さんにも、経営の知識とスキルが必要な時代になったのですね。


▢ 年収300万円未満の宮司が6割以上…コンビニよりもいっぱいある日本の神社経営の「シビアな実態」「お守り1000円、ご祈祷1万円」に値上げした神社の挑戦
田川 伊吹:病厄除守護神 廣田神社 第17代宮司
2025.3.14:PRESIDENT Online)より一部抜粋(下線は私が引きました);

 神社の数が減少し続けている。全国最年少の23歳で廣田神社(青森市)の宮司に就任した田川伊吹さんは「経営が立ち行かない神社が多く、宮司の成り手不足が深刻化している。神社の経営を成り立たせるには、神社や神様のファンを増やしていく必要がある」という――。

▶ 計22の神社を「かけもち」する理由
 日本にある神社の数は、8万709社(文化庁『宗教年鑑 令和5年版』)にものぼり、全国のコンビニエンスストアの数(約5万5000店)よりも多くなっています。住宅街の片隅やビルの隙間、田んぼの真ん中や山の頂など、日本のいたるところに神社はあります。
 ちなみに、神社には大きく分けて2種類あって、ひとつが氏神神社といって地域を守ってくださる氏神様をお祀りする神社です。昔から地域の人々に信仰され、守られてきました。もうひとつは崇敬神社と言われる神社で、個人の特別な信仰などによって崇敬される神社です。たとえば、明治天皇をお祀りしている明治神宮などがこれに当たります。
 約8万社の神社がある一方で、宮司はどのくらいいるのかというと、全国に約1万1000人しかいません。そのため、一人で複数の神社をかけもちしている宮司が多く、なかには50社以上の神社で宮司を務めているという人もいます。私自身、廣田神社以外に21の宗教法人格のある神社をお預かりしています。これほど宮司のなり手が不足しているのは、経営が立ち行かない神社が多いからです。

▶ 安泰なのは一部の有名な神社だけ
 神社の主な収入源は、お賽銭やご祈祷料、お守りやお神札などの授与品による収入(初穂料はつほりょう)、寄付金などです。しかし、こういった宗教活動による収入だけで経営が成り立っている神は、ほんの一握りです。
 想像してみてください。京都などの観光地にある有名神社や初詣に何十万〜何百万人も参拝者が来る神社は別として、各地域にある小さな神社に1日何人の人が参拝に来るでしょうか? そしてお賽銭は一人いくら納めてくれるでしょうか? また、近所の神社で1年に1回でもお守りやお神札を受ける人は、どのくらいいるでしょうか?いずれも非常に少ないことが容易に想像できるはずです。地域の神社に寄付をする人となれば、さらに少ないでしょう。

▶ 兼業しないと家族を養っていけない
 多くの神社の経営状態が厳しいなか、1年間の収入が300万円未満の宮司が6割以上とも言われています。それでは家族で食べていくのが難しいため、会社員や公務員と兼業している宮司が大勢います。
 青森市と周辺地区をあわせて100社ほどある神社のうち、生活するだけの十分な収入がある神社は5社ほどしかありません。そういう状況で、社家をやめてしまったところもあります。
 神社の経営不振・後継者不足は日本全国で起こっていて、その結果、神社の数は減少の一途をたどっています。國學院大学の石井研士教授の調査によれば、2040年までに3万2867法人が「限界宗教法人」と位置付けられるとされています。
ではこんな時代にも、守られ、続いていく神社とは、どんな神社でしょうか?
ローマの遺跡のように歴史的価値があればよいかというとそんなことはありませんし、観光地でもなく、国の援助もない状態では維持していく収入を得ることも難しい神社がほとんどでしょう。ただ、それよりも重要なのは、地域の人たちとのつながりです。

▶ コンビニより多い神社が存続する方法
 たとえば、日頃の収入が少なかったとしても、お正月には地元の人々が集い、お祭りの際には金銭や労働力を惜しまず提供してくれたり、境内の修繕が必要な際には寄付が寄せられたりします。これらは単なる協力としてではなく、地域の人々が日々の感謝の念を神様に捧げ、神社を大切な存在として守りたいという思いがあってこそ成り立つのです。
 こうした「ご奉仕」の心が広がれば、結果として神社そのものの収入は微々たるものでも維持することができるでしょう。
 あるいは、近くを通ったついでに「ちょっとご挨拶」といった感覚で、出退勤や外にお出かけする通り道としてお参りするのが習慣化され、毎日50人ほどお参りされる神社だったらどうでしょう。一人のお賽銭が100円であったとしても、ある程度の運営資金を確保できます。
 まず、地域の人たちにとって、現在進行形で祈りを捧げる場所、拠り所となるという、本来の神社の役割を果たすこと。そうすれば結果として、守られる存在になれるのです。

▶ 「お守り500円」は高い? 安い?
 お守りは神社の主な収入源のひとつですが、私が宮司に就任した当時、廣田神社で頒布していたお守りの初穂料は350〜500円。全国的にみても500円程度が一般的でした。みなさんは、この500円という金額、お守りの代金として妥当だと思いますか? その頃の私は「お守りの価値はその程度のものなのか」と疑問に思っていました。
 そもそもお守りは、「買う」ものではありません。「授与品」という言葉からもわかるように、神様から授けていただくものです。そのため、お守りの金額は「価格」ではなく、「初穂料」と言います。
 初穂というのは、その年に初めて収穫された稲穂のこと。実りの秋に感謝の気持ちを込めて神様にお供えしていたため、「神様に供えるもの」の意味でも使われるようになりました。そこから、お供えする金銭のことは、「初穂料」と言われるようになったのです。
 お守りは神様のお力をいただくものですから、本当は、値段はつけられません。昔はそれぞれが自分の「お気持ち」を納めて、いただくものでした。しかしそれだと、いくら納めればよいかわからないという人が増えたため、神社が「初穂料は○○○円」と決めるようになったのです。

▶ お守りの本来の価値が忘れられている
 金額が決められてしまえば、それはそのものの価値を測るひとつのものさしになってしまいます。500円程度で比較的手軽に手に入れば、その分の価値しかないと感じてしまう人も少なからずいるでしょう。そのせいか、いただいたお守りを大切に、肌身離さずもち歩いている人は減っているように感じます。つまり、お守りの本来の価値や役割が忘れられてしまっているのです。
 ご祈祷に関しても、私には同じような懸念がありました。初宮参り、七五三、厄除祈願など、人生儀礼のご祈祷は、本来、神様の前でこれまでの人生を振り返って感謝したり、今後の成長を祈ったりする場ですが、そういう意識をもっている人は少ない。たくさんあるイベントのひとつとして、写真を撮ることに一生懸命になっている人も多いです。
 こういった現状は、お守りやご祈祷の意味やありがたみをきちんと伝えられていない宮司にも原因の一端があると考えています。

▶ 1000円に値上げした時にやったこと
 神社経営は単なる商売ではありません。神様に奉仕し、神様と参拝者の仲立ちをする「なかとりもち」が本業です。経営を成り立たせるには、その本業を通して、神社や神様のファンを増やしていく必要があります。授与品やご祈祷の意味や価値を、参拝者に正しく理解してもらうのも私たちの務めなのです。
 廣田神社の場合は10年ほど前から、初穂料を1000円ほどに金額を上げたうえで、金額以上の価値があると感じてもらえるよう、お守りをより丁寧に取り扱うようにしました。
 宝飾店を思い浮かべてもらえるとわかりやすいでしょう。ジュエリーや時計はガラスケースに入れられ簡単には触れられません。取り出すときには素手でなく手袋をはめて、トレイに載せられます。このように丁寧に扱われる品に対して、人は高い価値を感じるものです。
 そこで当社では、参拝者が自由にさわれないようにお守りの見本をガラスケースに入れて展示しています。また、授与する際には、手渡しではなく、折敷おしきという神事に使われる角盆に載せてお渡ししています。
 このほか、グラフィックデザイナーさんがデザインしたお守り袋をつくって、もち歩きたいと思ってもらえるような工夫もしています。

▶ 「お値段以上」と感じてもらえている
 ご祈祷に関しても、初穂料5000円の神社がほとんどでしたが、当社では1万円にして、その分、丁寧に儀式を執り行うよう、職員全員に徹底しています。お辞儀の角度や歩くスピードなど、決められた作法を折り目正しく行うのが基本で、神職全員で行う朝のご祈祷(朝拝)のとき、所作が乱れているところがあれば、お互いに指摘するようにしています。
 作法ひとつひとつを丁寧に行うことで、ご祈祷を受けるみなさんにもその緊張感が伝わるので、より厳かな気持ちで儀式に臨んでいただけるようになったと思います。その証として、1万円以上お包みされる方も多数いらっしゃいます。
 神様とのつながりを感じられる品や儀式には、他のものには代えがたい価値があるはずです。参拝してくださる方々にその価値をどのように伝えるのか、それが神職の頭の使いどころであり、重要な役割なのです。

▶ コストがかかる以上、利益は必要だが…
「神社がお金儲けをしていいの?」
 こんな疑問を投げかけられることがあります。神社のような宗教法人がお金を稼ごうとすると、「人々の幸福のため」「平和な社会をつくるため」といった理念は参拝者からお金を巻き上げるためのウソのように思われてしまうのでしょう。病院や学校なども同じような目で見られがちです。
 ただし、当然ながらどんな法人も利益がなくては、経営が成り立ちません。何かしら事業を行えば、人件費、原材料費、家賃、光熱費など、必ずコストはかかるからです。神社であれば、その建物を維持したり、季節ごとにあるお祭りを行ったりするにもお金が必要になります。
 廣田神社の場合、1945年の青森大空襲でほとんどの建物が焼失し、現在の社殿は1972年に再建されたものです。すでに半世紀以上が経ち、あちこち傷んできているので、修復が必要になっています。突然、建物が壊れて再建が必要になることもあり、その都度、多額の費用がかかります。
 建物や境内の整備は、神様が安らかにお鎮まりいただくために不可欠ですが、それだけではありません。傷んだ部分を放置しておくと、不思議なことに神社の清浄な空気は失われ、人々の足は遠のくようになります。人々の「祈りの場」を守るために、境内は常にきれいにしておかなければならないのです。

▶ 「神社経営」と「企業経営」の共通点
 神社を守っていくには、理念も、利益も両方必要です。どんなにすばらしい理念があっても、利益がなければ実現不可能ですから、ただの机上の空論になってしまいます。反対に利益はあっても、そこに理念がなければ、氏子崇敬者や働く人からは信用されません。
 理念と利益を両立させて初めて、神社を維持・発展させられます。これは、一般企業も同じでしょう。

「一日、一年、一生を共にする廣田神社」
・ 一日
日常の中の祈り。神棚やお神札に手を合わせ、お守りを身につける習慣とする。
・ 一年
年中行事や祭りへの参加や参拝を慣習とする。
・ 一生
人生儀礼を家族の伝統とする。
そのために重要なのは、利益の生み方と使い方です。当たり前ですが、理念と利益を両立するには、理念に沿ったお金の稼ぎ方をしなければなりません。

▶ 得られた利益の「正しい使い道」
 神社の場合ならば、宗教活動と関係ない事業で儲けようとしたり、「御神徳がある」といってお守りやご祈祷に高額な初穂料を支払わせたりしては本末転倒です。簡単に言えば、神様から見られて恥ずかしい利益の上げ方はできません。
 そして、得た利益は理念を達成するために使います。神社であれば、先ほども述べたように、まずは神様のため、境内の環境を整えるために投資します。
 当社は、デザイナーズお守り袋や期間限定の御朱印といった新しい授与品をつくったり、SNSを活用したりするなかで、参拝者とともに利益も徐々に増やすことができました。
 その増えた利益は令和元年(2019)の「奉祝記念事業」など、境内の整備のほか、神様に奉仕する職員の教育などに活用しています。さらに、金魚ねぶた献灯祭や御仮屋お茶会、八甲田山の祠の再建プロジェクトなど、地域の文化や歴史を守る取り組みにも資金を投入しました。
 利益は目的ではなく、理念を実現するための手段なのです。

▶ 渋沢栄一も「道義と算盤の両立」を説いた
 このように、理念のもと、神様に喜んでいただくために、あるいは地域社会に貢献するためにお金を使っていけば、神社の雰囲気がよくなり、新聞やネットニュース、一般の方々のSNSで取り上げられる機会も増えます。それが新しい参拝者を呼び、利益が増え、神様や社会に還元できる、というよい循環が生まれるのです。
これは一般企業に置き換えても同じことが言えます。得た利益を理念に基づいて正しく使えば、必ず新たな利益となって返ってくるものです。
 ちなみに、日本の資本主義の父と言われる渋沢栄一も、『論語と算盤』のなかで、道徳と経済の合致説を説きました。簡単に言えば、「商売においては道義(論語)と算盤(利益)の両立が大切で、道義を伴った利益を追求することで、企業も会社も豊かになる」としています。

<参考>
・田川伊吹『宮司の経営 ビジネスパーソンに伝えたい神職のわたしが得た仕事の知見』(クロスメディア・パブリッシング)
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谷川俊太郎氏、逝く

2024年11月30日 07時18分55秒 | 日本の美
詩人の谷川俊太郎氏が亡くなりました。
ふだん「詩」に縁がない私もその名前を知っているほど有名です。

昔々、テレビのCMで流れた詩に感動し、記憶に刻まれたのでした。
それは「ここ」という作品です。

どっかに行こうと私が言う
どこ行こうかとあなたが言う
ここもいいなと私が言う
ここでもいいねとあなたが言う
言ってるうちに日が暮れて
ここがどこかになっていく

最後のフレーズ「ここがどこかになっていく」を耳にすると、
イメージの世界が広がり・空気感が変わることを実感しました。

言葉の力ってすごい!
詩の力ってすごい!

のちに、スヌーピーシリーズの翻訳を手がけたことも知りました。
その後の活躍はご存知の通り。

ご苦労さまでした。
合掌。
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「海外神社」の歴史

2024年10月04日 20時39分22秒 | 原発
日本以外の国にも神社が存在します。
それは、過去に日本人が住んでいた植民地や占領地で、
朝鮮半島、中国の一部(満州など)、台湾、南洋地域、樺太などです。
第二次世界大戦敗戦とともに日本人が去り、今ではほとんど消失していると思われます。
日本の闇歴史の一部ですね。

こちらの本に記載がありましたので、
引用・抜粋させていただきます。

<海外神社>
・昭和戦前の日本の植民地や占領地などに官主導で創建された。
・台湾以外は天照大神を祭神とするところが多い。
・社殿は伊勢神宮・靖国神社にならった神明(しんめい)造りが基本。
・居住民である日本人だけを対象にするものではなく、現地住民に「神道」を宣伝・弘布する役割を担い、結果的に住民達は参拝を強制された。海外神社は植民地・占領地の住民の「皇民化」政策の一環でもあった。
・1945年(昭和20年)の敗戦と共に海外神社はその存在意義を失い、ことごとく消滅した。

<台湾の神社>
日清戦争を経て清から台湾を割譲された。

▢ 台湾神社(台北市)
・1901年(明治34年)に官幣大社として創建され、鎮座式が行われた。
・祭神:オオクニタマノミコト、オオナムチノミコト、スクナヒコナノミコト、北白川宮能久(きたしらかわのみやよしひさ)親王の合わせて四神。
・北白川宮能久親王は、1895年(明治28年)、日清戦争を経て清から台湾を割譲されたことに伴い、近衛師団長として台湾に渡り、征夷軍を指揮したが、現地で病没した。すると、異国の地で非業の死を遂げた皇族を慰霊すべく台湾に神社を創建することが国会で建議され、創建に至った。
・それまでにも、日系人・在留邦人を中心に海外に神社が建てられることはあったが、官立の海外神社は台湾神社が史上初であった。
・以後、台湾に神社がいくつも建てられたが、そのほとんどが能久親王を祭神とした。
・台湾神社は1944年(昭和19年)、天照大神が祭神に加わり、台湾神宮と称している。

<朝鮮半島の神社>
日韓併合時代があった。

朝鮮神宮(ソウル市)
・1925年(大正14年)、ソウルの南山(なむさん)に朝鮮総督府の主導で創建され、官幣大社となった。
・南山は古来、王城鎮護の霊山とされていた地であり、当初は朝鮮の神話上の始祖である壇君(だんくん)を祭神にする意見があった。
・最終的には天照大神と明治天皇の二神が祀られ、例祭に勅使が派遣される勅祭社となった。

▢ その他の朝鮮半島の神社(50以上)
・京城(けいじょう)神社(祭神:天照大神・開拓三神、国幣小社)ソウルの総氏神。
・平壌(へいじょう)神社(祭神:天照大神・国魂大神、国幣小社)。
・総督府は神社に至らない小規模の神道の礼拝施設を「神祠」とした(1000以上)。

<満州の神社>
満州は日露戦争後、日本の租借地になった。満州事変(1931年)以後、神社創建が急増した。

安東神社(祭神:天照大神)
・1905年(明治38年)創建。

▢ (幻の)関東神宮
・1938年(昭和13年)、大陸鎮護の聖地として天照大神・明治天皇を祀る官幣大社を旅順に創立することが内閣告示により発表され、6年後の昭和19年に竣工・鎮座式が行われたが、創建から1年足らずで敗戦を迎え、消滅した。

<その他の海外神社>
樺太、南洋地域(パラオなど)にも社格を持った神社が創建された。

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江戸時代の性事情

2024年08月08日 08時07分25秒 | 民俗学
突然ですが、私は「性教育認定講師」という資格を持っています。
これは「日本思春期学会」に入会し、講習を受けて取得する資格です。

講習を受けていて疑問に思ったことがいくつかあります。

1.デリケートゾーンは国や地域・文化により異なるのではないか?
・・・講習ではデリケートゾーンを「水着で隠すところ」と説明していました。
でも考えてみてください。
熱帯地方に住む裸族は、胸を隠していません。
 → 彼らにとってバストはデリケートゾーンとは言えない。
イスラム教の女性は肌を極力隠す。
 → 彼らにとっては全身がデリケートゾーン。
つまり、講師が設定しているのは「西欧文明」のデリケートゾーンなのです。

2.LGBTQの隠された歴史は?
・・・出産で子どもを取りあげる際、従来は、
「おめでとうございます!元気な男の子(あるいは女の子)です」
と言ってきましたが、講習で登場した産婦人科医は、
「おめでとうございます!元気な赤ちゃんです」
「外性器は男性型(あるいは女性型)ですが、
 この子の心が男子か女子かは大きくなってからわかるでしょう」
と説明する、と断言したのです。

すご〜く違和感がありました。

でも、こんな話を耳にしたことがあります。
歴史の教科書に載っているフランシスコ・ザビエル氏。
彼の日本旅行記には、
「日本仏教寺院の僧は男色に走る傾向にある、
 これはいただけない」
と記されているそうです。

とかく性の問題は隠されがちで、歴史の表舞台には出てきません。
ここでは、江戸時代の性事情について情報を拾ってみます。

▢ はなしちゃお!〜性と生の学問〜「裸大国ニッポンより;
・江戸時代、かごかきや飛脚などの仕事着は“ふんどし一丁”だった。銭湯では混浴が一般的で、男も女も裸はあたり前のことだった。
・明治時代になると、文明開化を掲げた政府は西洋に習い、裸や肌の露出を条例で禁止した(それでも脱いでしまうひとが続出した)。
・民俗学者柳田国男の著書にも「夏の仕事着には裸という一様式もあった」と記されている。その習慣は戦後まで残っていた。海女さんも仕事の時は上半身裸だった。
・(民俗学者の言葉)当時のひとからすれば、それは裸ではなく、当たり前の恰好だった。それを隠せと言われても違和感があっただろう。

▢ 「エロティック日本史」下川 耿史著より;
・現代のような娯楽の無かったら江戸時代は、月を見て酒を飲み、男女は自由に交わることで楽しんだ。
・盆踊りはお百姓さんの楽しみの一つで、祭りの日は男女の営みが無礼講だった。独身の男女も、結婚してる男も女も、その日は自由にその場で出会った人と楽しんだ。
・混浴文化も、乱交の文化と密接に関係がある。
・日本がこんなに何もかも厳しくなったのは明治時代以降で、本来の日本は多様性や寛容のお手本のような国だった。
・性に対する古くからの日本人の感覚は、神話の神々に現れている。

以上、江戸時代の性事情はおおらかだった…
と結論づけられそうですが、そうでもない一面もあった様子。

それは」「不義(不倫)に対する刑罰」です。
こちらによると「姦通罪は死罪」だったとのこと。

・江戸時代の「姦通罪」は、町人にも適用されていた時期もあったが、基本的には武家にのみ適用されていた法律で、御定書百箇条(おさだめがき ひゃっかじょう)に定められていた。
・江戸時代の武士は面目を何よりも重要視していたため、恥を搔かされた場合は相手を殺すという、厳しい罰を科していた。
・御定書百箇条の「四十八.密通御仕置之事」には、次のように定められている。
  • 密通致候妻:死罪
  • 密通之男:死罪
  • 密通之男女共夫殺候ハ:無紛ニおゐてハ無構
(現代語訳)
  • 不倫した妻:死刑
  • 不倫相手の男:死刑
  • 夫が不倫現場に遭遇した場合:妻と相手の男を殺してもかまわない
・この不平等な法律は(刑罰こそ緩和されたものの)明治の法律にも引き継がれ、昭和22年まで残っていた。
・江戸時代に心中が流行したのは、不倫相手とは絶対に結ばれず、関係が続けばその先には死しかないことが明らかだったため。時代劇などでは不倫相手との駆け落ちが描かれることもあるが、当時は駆け落ち(本来の表記は「欠落」)も重罪であり、残された家族や関係者にも大きな迷惑を掛けることになるため、恋愛で周りが見えなくなっている男女は「あの世で一緒になろうね」と心中を選んだ。

フムフム・・・武士はメンツが大事なので厳しい罰が設定されていたのですね。
一方で、武士以外の階級はおおらかに性を解放していた、というのが本当の姿かな?
もうちょっと、探求する必要がありそうです。
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仏像の誕生と変遷

2023年01月22日 13時14分25秒 | 原発
私は仏像ファンではありませんが、
あるとき、一つの仏像に魅せられました。

それは「ガンダーラ仏」。

「ガンダーラ」という単語は、
50歳代以降の人には「ゴダイゴ」というグループが歌い、
ヒットした曲が思い浮かぶと思いますが、
そう、そのガンダーラです。

現在のパキスタン、ペシャワールがその地であり、
シルクロードに存在した都市です。
三蔵法師も立ち寄りました。

ガンダーラは東西文明の交流地点でもありました。

教科書に出てくる「アレキサンダー大王の東征」の際に、
ギリシャ/ローマ文明がこの地にもたらされることになり、
その影響でそれまで作られてこなかったブッダの像(仏像)が作られるようになりました。

ブッダ入滅後、すでに500年が経過していました。

こういう背景があるため、
初期の仏像はギリシャ/ローマ彫刻のように、
彫の深い西洋人のお顔をしていました。

それがなんとも魅力的なのです。
今風に言えば“イケメン”。

西洋と東洋のエッセンスをまじりあわせて作った、
ハーフのような顔立ち。

日本の仏像は中性的で優しい雰囲気がありますが、
ガンダーラ仏は男性像です。

ガンダーラ仏がシルクロードを介して当方に伝わる際に、
徐々にその土地の文化の影響を受けつつ変化し、
日本にたどり着いたときには現在のお顔になった、
ということですね。

こちらのサイトに初期仏教美術について記載されていたので、
メモ的に抜粋させていただきます;

▢ 仏陀の呼び方
・釈迦、釈迦牟尼、釈尊との呼ばれているが、本名は「ゴータマ・シッダールタ」。
・釈迦は出身部族名からくる通称。
・仏陀は「目覚めた人(悟った人)」を意味する語。

▢ 仏陀の生涯
・インド北部の小国の王子として誕生。
・29歳で出家し、35歳の時に菩提樹の下に座して悟りを得た。
・その後インド諸国を旅して周り、80歳でこの世を去るまで説法に努めた。
・入没は紀元前480年ごろ(諸説あり)。

▢ 初期の仏陀美術
・仏舎利(仏陀の遺骨)を収めた仏塔(ストゥーパ)など仏陀の遺物崇拝と荘厳(しょうごんー装飾)。
(例)インド中部のサーンチーやバールフトに残る仏教遺跡
・仏塔を囲む石造の塔門や、欄楯(らんじゅんー柵)に多くの浮彫がされ、仏伝図(ぶつでんずー仏陀の生涯を描いた図)や本生図(ほんじょうずージャカータ・前世物語)などが彫られている。

▢ 無仏像時代の彫刻
・紀元前3世紀~前1世紀初頭の頃の仏教美術には仏陀の姿は表されておらず、「無仏像時代」と呼ばれている。
・仏陀は人のカタチをとらず、記号のようなものにより存在が示された。
(例)
 仏足跡(ぶっそくせきー仏足石)…仏陀の足跡
 菩提樹…悟りを得た仏陀を象徴
 傘蓋(さんがい)…古代インドの貴人の外出具
 仏塔
 法輪
 台座
 三宝標(仏・法・僧と呼ばれる3つの宝物)
・古い経典には「仏陀の体は形象化できず、また測ることもできない」という意味の言葉が記されている。当時の人々にとって、仏陀を生身の人間の姿であらわすことは畏れ多かったためと推測される。

▢ 仏像の起源
・仏陀の死後500~600年後に仏像が造られるようになった。
・最初の仏像はガンダーラ地方(現在のパキスタン北部)でクシャーン朝時代の紀元1世紀頃という説が有力。続いて中インド北部の小都市マトゥラーで2世紀初頭頃に造られた。
・紀元前4世紀にマケドニアのアレキサンダー大王が東征を行い、ガンダーラ地方にも多くのギリシャ系民族が流入し、西方文化が伝えられた。
・前3世紀半ばに仏教信者であるマウリヤ朝のアショーカ王がこの地方まで領土を広げ、寺院や仏塔が建てられた。
・やがてクシャーン朝(1世紀後半~3世紀頃)に入って最初の仏像が生み出された。

▢ ガンダーラの造像
・初期の仏教遺跡であるインドのサーンチーやバールフトでは、紀元前3世紀から前2世紀にかけて、仏陀を象徴表現(仏足跡や菩提樹など)で表した仏陀なき「仏伝図」がつくられていた。
・期限1世紀頃のガンダーラでは、象徴表現ではなく頭光(ずこう)や僧衣をつけた人物像として表現したものが登場し、これが仏像の始まりとされている。
・初期の仏像は仏伝図に描かれた他の人物と同程度の大きさであったが、しだいに大きく目立つように表現されるようになり、これが礼拝の対象となり、ついには「単独の彫像」が造られるようになった。

▢ ガンダーラ仏は西洋人?
・ガンダーラ仏はギリシャ・ローマ美術の影響を受けている。
・人物表現は、彫の深い顔立ちに高い鼻、引き締まった口元にひげを蓄えた顔貌で、東洋人よりは西洋人の特徴を備えている。
・その思索的な表現と写実味あふれる肉体表現は、ガンダーラ美術が東西文明の交流により形成されたヘレニズム美術の影響下に造られたことを物語る。

もう一つの仏像の起源とされてきたマトゥラーについても記述されていますので、
こちらも引用・抜粋されていただきます:

▢ マトゥラーという都市
・仏像の起源をめぐって北西インドのガンダーラと長年論争の的になってきた地であり、中インド北部のジャムナー川とガンジス川が合流する地点にある。
・水路によりインド全域と交流があり、通商路の交差点として栄えてきた。
・宗教に関する造形活動も行われ、土俗神の石像や大型のストゥーパ(仏塔)、寺院建築など、紀元前2世紀ごろにまでさかのぼる造形技術の長い伝統を有していた。
・ガンダーラ地方でヘレニズム美術の影響による造像が始まったのと同時期に、マトゥラーではインド独自の様式を持った仏像が造られ始めた。

▢ マトゥラーでの造像の発生
・マトゥラーに仏像が出現したのは、クシャーン朝時代の紀元2世紀初め頃で、仏教庇護者であったカニシカ王の時代(2世紀半ば頃)に最盛期を迎えた。
・マトゥラーにおける仏像の政策は、ガンダーラと同様ストゥーパ(仏塔)の装飾として彫刻された仏伝図からはじまり、しだいに礼拝用の単独像が造られるようになった。
・ガンダーラの仏像は西洋文化の影響を強く受けた彫りの深い顔立ちや、写実的な衣文(えもんー絵画や彫刻に描かれる衣装類のシワ)を特徴としていたが、マトゥラーの仏像は力強く生気があふれる表情をしており、肉付きのよい豊満な体と、強く張り出した両肩と体に密着したごく薄い衣文、小ぶりにあらわされた巻貝の肉髻(にっけい) などが特徴。

▢ マトゥラー仏の衰退と復活
・3世紀半ば頃にはクシャーン朝が終わりを告げ、同時に仏像づくりも陰りが見え始めた。
・北インドの仏教芸術が再度活発になったのは、4世紀のグプタ朝時代で、古典復興の機運に乗り、マトゥラー彫刻の伝統を踏まえた新たな造像が始まった。
・伝統的な造形に加え、写実性が増し、顔の表情にも微妙な表現が付与されるなど、精神性を加味した優美な様式に変化していった。
・仏教美術は東南アジア諸国や西域、中国にも伝播し、影響を及ぼしていった。


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