知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「幕末・明治の日本は外国人にどう見られていたか」

2015年08月16日 05時58分20秒 | 日本人論
 ニッポン再発見倶楽部 著、三笠書房 発行

 日本人にとって当たり前のことは、敢えて書き残さないもの。当時の常識はどんなものだったのか。
 むしろ、日本を客観的視点で観察した記録は、外国人の書き残したものの方がよくわかることがあります。
 この本は、江戸時代末期(幕末)~明治時代に日本を訪れた外国人達が書き残した文章から、分野別に抜粋した内容です。
 私が好きな人物・・・ハインリッヒ・シュリーマンをはじめとして、エドワード・S・モース、イザベラ・バード、ブルーノ・タウト、ラフカディオ・ハーン、エドウィン・フォン・ベルツの名前もありました。
 欧米と日本の文化の違いや、同じ日本でも現代と当時の文化の意外な違いがわかり、興味深く読みました。
 育児文化は150年前も今もあまり変わらないのですねえ。
 医学に関しては分析的な西洋医学からみると、経験的・帰納的東洋医学は「遅れた医術」に見えたようです。しかし現在、漢方薬ブームで世界中からの需要があり生薬価格が高騰している状況を考えると、どちらが正しいとは決めつけられないと思います。

□ 江戸の上下水道
 江戸の地下には「木樋」(もくひ)と呼ばれる配水管が巡らされ、各町に設置された井戸(湧水の井戸ではない)まで水を運んだ。この上水システムにより、江戸の約6割の人々が水道を利用することができた。
 下水はといえば、当時の人々は屎尿をすべて肥料にしていたため、わずかな生活水を流す溝程度のものさえあれば十分だった。屎尿をそのまま放流し、川が汚水で汚れていた西洋諸国とは大違いだ。
 しかし明治維新後、西洋化が進むと汚水が放流されはじめ、飲料水として使用できないどころか、衛生状態はどんどん悪化してしまう。
 ようやくヨーロッパ式の下水道が建設されたのは1884年(明治17)年のこと。日本は水道設備の整備を進め、再び世界有数の水道先進国となった。


□ 江戸時代に花開いた園芸文化
 江戸時代は園芸文化が大きく発展した時代だった。植木鉢が普及し、庭がなくても草花を育てることが可能になったこともあり、将軍家などの上流階級から庶民に至るまで広く園芸が広がり、品種改良熱が高まった。

□ 世界屈指の治安のよさ
 「こんなに泥棒が少ない国は珍しい。その理由は法律が厳格に施行されているためで、泥棒が捕まると命は決して容赦されない。」(フランシスコ・ザビエル)
 江戸時代は泥棒をすると容赦なく死刑にされた。

※ 江戸時代の窃盗罪 
 強盗殺人:市中引き回しのうえ獄門(公開死刑後さらし首)
 追いはぎ:獄門または死罪
 強盗傷害:死罪
 空き巣:むち打ちの後、入れ墨を入れられる


□ 江戸時代の入浴習慣
 上級武士の家には内風呂があり、庶民は銭湯を憩いの場として楽しんだ。風呂の種類も多彩;

戸棚風呂:蒸し風呂の一種
据え風呂:現在のようにお湯に肩までつかる
鉄砲風呂:おけに鉄の筒を入れて下で火を炊く
五右衛門風呂:桶の底に平釜をつけて湯を沸かす

 日本人の風呂好きは、幕末明治に渡来した西洋人達を大いに驚かせた。当時のヨーロッパでは貴族階級であっても風呂に入るのは数ヶ月に一度くらいの頻度であり、庶民の間で風呂に入ることが習慣化したのは第一次世界大戦以降のことだった。


□ 日本人の識字率は当時世界ナンバーワン
 幕末の武士階級の識字率は100%、町人・農民ら庶民層も4割ほど読み書きができ、中でも江戸の子どもの識字率は7~8割と高く、中心街に限れば9割に達した。
 江戸時代の日本では寺子屋が普及していたためである。


□ 時代劇でも採用されない化粧法「お歯黒」
 お歯黒とは、鉄漿(かね)という液体を使い、歯を真っ黒に染める化粧法。鉄漿は小間物屋などで売っているわけではなく、女性が自分の家で手作りする。まず壺に古釘などの鉄を入れ、米屑や水と混ぜて数日間おいて錆びさせる。このとき出てくる汁が鉄漿である。ただし、黒手はなく往昔色をしているので、前段階として「五倍子粉」(ふしこ)を歯に塗らなければならない。五倍子粉とは、五倍子虫(ふしむし)が木の幹や枝に作った瘤上の塊を粉にしたもので、タンニンを多く含み、染色やインク製造などにも用いられる。この五倍子粉を塗ってから、刷毛で何度も鉄漿を塗ることでようやく歯は真っ黒になる。鉄漿は強い刺激臭がするし、皮膚にも悪いから、歯茎や唇につけないよう細心の注意を払う必要がある。
 奈良時代頃から上流婦人の間で行われ、やがて庶民にも普及した。江戸時代以降はお歯黒が気根であることを示したり、決まった贔屓客(=パトロン)がいる芸者のしるしと見なされるようにもなった。
 西洋人には不評で「恐ろしい習慣」(ペリー)とまで言い切っている。
 当時は顔を真っ白に塗りたくる厚化粧がふつうであり、西洋人は「人形のよう」とか「死人のよう」と評した。
 現代の化粧は、自分の自然な表情や魅力を引き出すために行うが、当時の化粧は喜怒哀楽を押し隠すためのものだったのだ。感情を露わにするのは不作法ではしたないことと考えられており、化粧をして表情を読み取られないようにするのが礼儀とされていた。

 
□ 武士のちょんまげはサラリーマンのネクタイ
 ちょんまげは、昔の男性にとっては会社員のネクタイのようなものであり、一人前の成人男性として社会に参加していることの証明だった。年を取って髪の毛が薄くなり、ちょんまげが結いにくくなると、昔の男性は隠居か出家を考えた。
 明治時代になるとちょんまげは姿を消していく。1871(明治4)年、明治政府は「断髪抜刀勝手令」を出した。


□ 名誉・礼節を重んじる国民性は「武士道」由来
 日本人が名誉にこだわるようになった理由は、武家社会で武士道の精神が育まれたからである。新渡戸稲造によると、武士の子は幼児期から名誉を教え込まれ、「人に笑われるぞ」「体面を汚すなよ」「恥ずかしくないのか」という言葉で振る舞いを矯正されていた。
 その究極の行いが切腹であり、名誉を守るため、または傷つけられた名誉を回復させるためにはむず~腹を切って死ぬしかないと考えられていた。古来、腹部には人間の霊魂が宿っていると信じられており、腹を切ることが武士道を貫く方法とされてきたからだ。
「日本人は誇り高く自尊心の強い性格で、侮辱に対して敏感、・・・この鋭敏すぎるほどの道義心が復讐心に結びついて、腹切りという名で知られる異常なまでの自己犠牲をなさしめるのである」(スエンソン)。

★ 切腹の作法
1.切腹刀を左手で取りあげ、刀の下から右手を添えて、目の高さに持ってくる。
2.切腹刀を右手に持ち替えたら、切っ先を左脇腹に突き立て、右腹の方に切り裂く。
3.切腹刀を一旦抜き、刀をみぞおちに突き立て、へその下まで切る。その後、介錯人が一気に首を切り落とす。
※ 江戸時代は腹を切らず、すぐに首を切り落とした。


□ 世界遺産の“和食”の評判は当時悪かった
 少ない食事量も食材も西洋人から見ると不満だったようだ。
 明治以前の日本には、獣肉を食べたり、牛乳を飲んだりする習慣は定着していなかった。実際にはごく稀に鶏やイノシシを食べることもあったが、公然とは食されておらず、滋養を得るための「薬喰い」と称された。その理由は宗教で説明される。神道では肉食は穢れと見なされており、仏教では殺生は禁じられており、肉食はタブー視されていた。
 明治時代に入ると、政府は近代化の一環として国民に肉を食べるよう奨励した。政府は明治天皇に肉を食べてもらい肉食を宣伝し、これをきっかけに都市部では牛鍋を食べるのがブームになった。


□ 食事のマナー
 日本人は7世紀頃から箸を使っている。
 ヨーロッパではフォークやナイフが使われはじめたのは16世紀頃からで、それまでは王侯貴族でさえも手づかみで食事をしていた。


□ 日本における結婚のしきたりの変遷
古代     ・・・ 恋愛結婚:乱婚または雑婚で一人の相手に縛られない自由な結婚形態。
飛鳥・奈良時代 ・・・ 恋愛結婚:男子から媒酌人を通し、女子の父母に申し入れて承諾を得る。
平安時代   ・・・ 恋愛結婚:和歌や文などのやりとりを本人同士で行い、男が女の家に通って共寝する。
鎌倉・室町時代 ・・・ 見合い・恋愛結婚:公家は嫁取り婚、武士は嫁迎え婚を行う。相手はある程度自由あり。
安土・桃山時代 ・・・ 見合い・恋愛結婚:嫁迎え婚が基本となる。式三献やお色直しなどの現代の結婚式の次第が始まる。
江戸時代   ・・・ 見合い結婚:仲人や親が相手を取り決め、結納を交わす。武家では本人に選択の自由はなかった。

 戦国時代の離婚は女性の恥になることではなかった。ところが江戸時代になると、妻は夫の離縁状を取らなければ離婚できない状況になる。女性が唯一離婚を請求できる方法が、尼寺への駆け込みだ。江戸時代に幕府が認めていた「駆け込み寺」は鎌倉の東慶寺と群馬の満徳寺で、この寺で足掛け3年在寺すれば、夫から離縁状を受け取ることができた。
 一夫一婦制はあくまで妻が跡取りを産んだときに適用される決まり事だった。不幸にして跡取りができない場合は「夫は家系を守るために子孫を育てるために女を置くことが公然と認められ、またその妻からも強く勧められる」(グリフィス)ことが多かった。当時の男性にとって、妾を持つことは男の甲斐性だった。


 平安時代の「和歌や文などのやりとり」で恋愛感情を高めていくなんて、ちょっとロマンチック・・・現代人に出来るかなあ。

□ 同性愛事情
 日本には古くから同性愛の風習があった。日本人の同性愛と言えば、仏教寺院での男色が有名で、僧侶が稚児と呼ばれる召使いの少年を相手に色事を行っていた。
 武家社会でも男色は存在し、源義経と弁慶、織田信長と森蘭丸などが同性愛カップルだったと言われている。戦国時代は女性蔑視が強く。男色が賛美される傾向にあったため、男色がごく当たり前のように行われていた。
 来日した外国人はこうした日本の同性愛事情に驚愕した。


□ 子どもに甘い日本人、厳しい西洋人
 ベネディクトは双方の育児様式を比較し「日本人は子どもを徹底的に甘やかせて育てる」「西洋人は子どもに対して躾が厳しく、体罰を与えたり、食事なども大人とは別に与えるなど厳格である」と分析。その具体例として「赤ん坊が泣くと日本人の母親ならすぐ抱いてお乳を与えて泣き止まそうとするが、西洋人は決まった時間にしか乳は与えないで泣いたままで放っておく」ことを挙げた(菊と力)。

□ 遅れた(?)医療レベル
 ツュンベリーは日本の医者の脈の取り方を見て「病人の脈拍を教えようとするときは、まず一方の脈を取り、次いでもう一方の腕を取っており、量脈拍数はまったく同じであることや、一つの心臓から血液が両方へ流れていることを知らない。彼らの脈のはかり方はまた、きわめて長いので15分はかかる」と記している。

 ・・・これは西洋医学的視点での記述であり、東洋医学を理解していないことをさらけ出してしまう文章です。
 東洋医学の「脈診」は三本の指で手首を触れ、そこから体の情報を引き出す高度な技術です。左右両方行います。中国の皇帝のお抱え医は脈を取って病を見極め、見立てが外れると死罪になるという緊張感の中で診療をしていました。当然、時間をかけて慎重に行います。

□ 遊女の立場、西洋と日本の比較
 遊女の多くは16~17歳くらいでデビューする。実働年数は8~9年程度で、25歳まで働けば開放される。
 西洋では売春婦になると、そこから抜けだつことはほとんどできなかった。
 それに対し、日本の遊女は一定年数働けば更生するチャンスが与えられた。
 その理由は、本人が希望して遊女になったのではなく、親の都合でならざるを得なかったというケースが多かったからだ。遊女の出身階層をみると、北国の貧しい農民の娘が大半だった。彼女たちは、わずか6~7歳で両親によって売られ、禿として姉妓に仕え、読み書き三味線などのたしなみを教わりながら育てられた。

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「平成の名香合~香道 五百年の父子相伝~」

2015年08月15日 16時17分03秒 | 日本の美
 2009年制作の番組を再放送で視聴しました。
 
<解説>
わずか数ミリの香木を熱すると“日常では出会えない不思議な香り”が漂う。感性を研ぎ澄まし、それに身をゆだねるのが香道。室町時代から五百年にわたり香道を受け継ぐ志野流では、奥義が「父子相伝」で継承されてきた。2009年2月、究極の催しとされる「名香合」が、80年ぶりに開かれた。「六十一種名香」と呼ばれる最高級の香木を味わうもので、ごく限られた秘録と口伝によって継承されてきた。番組では、香木が生み出す、豊な世界を紹介する。


 名香木の走りは正倉院に保存されていた「蘭奢待(らんじゃたい)」。それほどの歴史があるのです。
 香は“齅ぐ”ではなく“聞く”と表現し、その香りは「五味」に分類されるそうです。

 香道では香木の香質を味覚にたとえて、辛(シン)・甘(カン)・酸(サン)・鹹(カン・しおからい)・苦(ク)の5種類に分類する。これを「五味」という。

 番組の中では、
 :香辛料(チョウジ、コショウ、トウガラシなど)の辛さ
 :ハチミツの甘さ
 :ウメボシなどの酸っぱさ
 :海藻を火にくべたときの磯の香り
 :柑橘類の皮を火にくべたときの苦味
 と紹介していました。
 実はこれ、漢方の生薬の味の表現法と同じなのです。まことに興味深い。

 また、名香合に招待された人々の肩書きに驚きました。
 尾張徳川家当主・徳川義崇氏、冷泉家当主夫人・冷泉貴実子氏、慈照寺(銀閣寺)住職・有馬頼底氏、近衛家次期当主・近衛忠大氏。
 彼らが二つの香を聞き、それを言葉で表現するとともに優劣をつけるという高度の遊び。
 当然、教養がないとできない貴族的遊びです。
 一般の日本人には馴染みのない「香道」の奥深い世界を垣間見たような気がしました。

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BS歴史館「大江戸・妖怪ブーム」

2015年08月15日 15時57分52秒 | 民俗学
 いつの放送だったんだろう・・・たまっていた録画を夏休みなので見てみました。
 出演はレギュラーメンバーの他に、荒俣宏氏、そして民俗学者の小松和彦氏。
 小松先生はその著作を何冊か読んだことがあるのでなじみの人物でしたが、本物を目にするのは初めて(笑)。

 その昔は怖い&恐ろしいだけの存在だった妖怪が、現在のような「怖いけど親しみのある存在」というイメージに落ち着いたのは江戸時代だそうです。
 妖怪の図鑑が発行され、大きなブームとなったそうな。

 本来、妖怪とは存在してはならない“もののけ”でした。
 江戸時代の思想の規範である朱子学(儒教)では妖怪の存在を認めていません。
 また、仏教は死んだ人を成仏させることも仕事ですが、その失敗例として妖怪が存在することになります。
 つまり、江戸時代の妖怪ブームは、時代を支える思想が破綻を来した結果として生まれたのです。
 そして妖怪は社会のひずみを風刺する手段として利用されるようになりました。

 江戸末期に妖怪を学問として研究した人物がいました。
 彼の名前は平田篤胤。
 そこに至る前に、平田はありとあらゆることを学び研究しました。
 仏教・儒教・西洋の学問・・・しかし、どの分野でもわからないことが残ることに疑問と不満を持ちました。
 分析的な西洋の学問もいよいよ説明できないことが出てくると「神の領域」として逃げてしまう。

 妖怪の存在をも認めるような学問、民衆が安心できる思想を生涯求めた彼は、最終的に日本神話にたどり着きます。
 死んだ人は見えないけどすぐそばにいるんだよ、という安心感が日本人に一番馴染むことを発見したのです。
 彼の思想は尊皇思想へつながり、明治維新を民衆側から支えることになりました。 

 ・・・という解説にうんうん頷きながら視聴しました。
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「キャノン・ハーシー“ヒロシマ”への旅 ~なぜ祖父は語らなかったのか~」

2015年08月08日 16時16分34秒 | 戦争
 戦争を考える月、第4弾は原爆を落とされたヒロシマの惨状をレポートしたアメリカ人ジャーナリスト、ジョン・ハーシーに関する番組です。
 彼の孫であるアーティスト、キャノン・ハーシーが祖父の足跡を辿る旅。
 前編・後編合わせて100分の大作です。

■ キャノン・ハーシー“ヒロシマ”への旅 ~なぜ祖父は語らなかったのか~
2015.8.4:NHK-BS
 アメリカで初めて原爆被害の惨状を伝えた書として知られるジョン・ハーシー記者の『ヒロシマ』。その孫・キャノンが、祖父の足跡を辿るために現代の広島を旅する。
 1946年。原爆投下後の凄惨な被害を描き、アメリカで大きな反響を呼んだ1冊の本『ヒロシマ』。しかし、著者でピュリツァー賞受賞記者のジョン・ハーシーは、その後、『ヒロシマ』について沈黙してしまう。孫・キャノンは、祖父がどのような思いで本を執筆したのかを知るため調査を開始し、これまで知られていなかった発表当時の状況が次々と明らかに。そしてキャノンは広島で会う人々を通して、今の“ヒロシマ”を見つめる。

 原題:Hiroshima Revealed
 制作:国際共同制作 ZENGO/NHK(アメリカ/日本 2015年)


 原爆投下は、核兵器を実際に使ってみたかったトルーマン大統領、放射能を浴びた人体がどんな状態になるかを知りたい科学者達の思惑が絡み合い実施された「実験」的要素が強いとこの番組でも感じました。
 終戦後にヒロシマに設けられた医療施設は「検査・研究」目的であり、治療はなされませんでした。
 そして、そこで得られたデータは軍事機密として隠蔽されたのでした。

 アメリカでは大戦勝利の歓喜と共に核兵器を賞賛する声が溢れ、「日本の降伏がもう少し遅れれば3つめの原爆を落とせたのに」という声まであったそうです。
 そこに水を差す形で発表されたのがジョン・ハーシーによる6人の被爆者のインタビュー記録「ヒロシマ」。
 雑誌「ニューヨーカー」が秘密裏に発行にこぎ着けた内部告発的内容でした。

 その凄惨な状況を知ったアメリカ人は「なんて恐ろしい兵器を使ってしまったんだ」と我に返りました。
 当然、アメリカ政府は反論します。
 「アメリカ軍が上陸して地上戦になったら100万人の死者が出たはず、原爆はそれを20万人弱で済ませた優秀な兵器」という論法です。
 今でもこの考え方に毒されたアメリカ人がたくさんいますね。

 被爆者は被害者ですが、さらに日本国民からも差別を受けます。
 女性は「異常な子どもが生まれるから」と結婚できません。
 ですから、みな口をつぐんでしまいます。

 公害問題でも同じ現象が観察されます。
 有機水銀による公害の被害者なのに、「あいつはミナだ」と差別されました。
 悲しい人間の性です。

 ジョン・ハーシーも「ヒロシマ」発表以後、口を閉ざしました。
 孫であるキャノンの印象は「被爆者と同化してしまったから」というものでした。

 番組の中で繰り返してできた単語「記憶」。
 記憶を伝えることにより未来が開かれる。
 原爆の悲惨な被害の記憶を伝えなければならない。
 伝えることにより同じ過ちを繰り返さないように。

 これは、オリバー・ストーン監督が「もう一つのアメリカ史」で「記録」として言及したことと同じです。
 そういえば、本番組にもストーン監督の朋友であるカズニック教授が登場していましたね。

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「戦争に勝ち 平時に負けた政治家、チャーチル」

2015年08月07日 08時09分35秒 | 戦争
 チャーチルは政治家として有名ですが、私には彼が愛した嗜好品の数々に興味あり、どちらかというとヘミングウェイや開高健のような存在です。
 一方、地元イギリスでは、現在でもチャーチルの政治家としての評価は分かれているそうです。
 その様子をNHK-BSのドキュメンタリーで扱っていました;
 
■ チャーチル 戦争に勝ち 平時に負けた
2015年8月6日:NHK
 20世紀の偉大な政治家の一人と称されるウィンストン・チャーチル元首相。彼がナチスドイツに勝利した直後の選挙で敗北を喫したのは何故だったのか、その理由を探る。
 チャーチルは1945年の総選挙で大敗。福祉国家の充実を掲げた労働党のアトリーが首相の座についた。戦争に勝利した宰相はなぜ、平和を取り戻した国民に疎んじられたのか。上流階級出身のチャーチルは労働者の権利を認めず、戦前から組合との確執が続いていた。「戦争がなければチャーチルは平凡な政治家で終わっていた」という歴史家もいる。総選挙前後のチャーチルの言動を読み解き、知られざるチャーチル像に光を当てる。

 原題:Churchill: Winning the War, Losing the Peace
 制作:Oxford Film and Television (イギリス 2015年)


 チャーチルを評価する歴史家、評価しない歴史家、中立の評論家たちが次々とコメントを述べていく構成なので、聞いている方はちょっと混乱します。
 無理にまとめれば、チャーチルは戦争時に力を発揮した政治家であるが、平和時には時代遅れの考えのため役に立たなかった、という論調です。
 それは貴族階級出身という出自も影響し、労働者の気持ちを理解できなかったことが大きいようです。

 ポツダム会談でスターリンとトルーマンと3人で写真に納まった時、チャーチルは総選挙の結果待ちの状態でした。当選を疑わなかった彼は「また会おう」と軽く挨拶を交わして各国首脳と別れましたが、イギリスに帰ると保守党大敗という現実が待っており、その後歴史の表舞台から消えたのでした。

 確かに、政治家の適材適所、あるいはタイミングというのは歴史上あるようですね。
 ソビエト連邦崩壊にゴルバチョフは尽力しましたが、新しいロシアを造る能力はなく、エリツィンに取って代わられた経緯を思い出します。

 それにしても、ポツダム会談に集まった3首脳(トルーマン、スターリン、チャーチル)は戦争だから力を発揮できた指導者という感が無きにしも非ず。
 みんな変人です。
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カラーで見る「独裁者スターリン」

2015年08月06日 13時15分21秒 | 戦争
 戦争を考える月の第三弾は、ロシアの共産党書記長スターリン。
 NHKの「世界のドキュメンタリー」で放映された番組は、その光と闇をあぶり出す内容でした。

■ カラーで見る 独裁者スターリン
(2015年5月12日:NHK-BS)
 第二次世界大戦で、ナチス・ドイツを倒した立役者とされるソビエトの最高指導者スターリン。自らも非道な独裁者であったスターリンの実像が、カラー映像でよみがえる。
 スターリンはいかにして絶大な権力を手にしたのか。どのようにナチス・ドイツと対峙し、ソビエトを勝利に導いたのか。ヨーロッパ各地で掘り起こされた歴史映像によって独裁者の軌跡がよみがえる。貧しい靴職人の家に生まれたスターリンは、若くしてロシア革命に参加した。革命の指導者レーニンが1924年に死去すると、対立するトロツキーを追放。以後、自分に反対する者をことごとく粛清していく…。


 さて、番組を見て私が感じた光と闇を列挙してみます;

☆ 光
・第二次世界大戦でドイツに勝利した。

★ 闇
・レーニンの葬儀の時に棺桶を運んだ共産党幹部はその後権力争いのライバルと化し、全員殺した。
・粛正という名目で、100万人のロシア国民を処刑した。700万人のロシア国民を餓死させた。合計2000万人の自国民を殺した。
・1930年代に飢餓であえぐウクライナから農民がモスクワに来ることを禁止する法律を作り、切り捨てた。
・1930年代以前に強制労働収容所を作り、各地域に「おまえの担当地域はひと月に○○○人」とノルマを課して犯罪人をでっち上げて収容所送りにした(この頃から妄想癖があったらしい)。ドイツに勝利した後は、収容所送りになった人々のほとんどがユダヤ人だった。



 ・・・というわけで、人を殺すことを趣味にしていたのです。ヒトラーに勝るとも劣らない最悪の独裁者と言うほかありません。
 彼の「邪魔者は犯罪者にでっち上げて消す」とか「政策がうまく行かない時は誰かが邪魔していると言い訳して逃げる」などの政治手法を、現在のロシア大統領であるプーチンがまねしていますね。
 スターリンの右腕として働いてくれた腹心が気に入らなくなり抹殺したとき、彼の写っている写真まで修正して抹消したところなんか、北朝鮮の手法と同じです(というか北朝鮮が真似をした)。

 第二次世界大戦が終了したにもかかわらず、満州にいた日本兵をシベリアに年余にわたって抑留するという非常識さは間違いなく犯罪行為ですが、自国民であるロシア国民の方がもっとつらい思いをしていたことを知りました。
 この繰り返されるえげつないやり方はロシア民族の特徴なのでしょうか、それとも共産主義の特徴なのでしょうか。
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「赤い屍体」と「黒い屍体」

2015年08月06日 05時28分17秒 | 戦争
 私的「戦争を考える月間」の第2弾。
 NHKで放映された“知の巨人”と呼ばれる立花隆さんの戦争論です。

■ 立花隆 次世代へのメッセージ ~わが原点の広島・長崎から~
(2015年2月14日:NHKで放映) 
 日本を代表するジャーナリストで評論家の立花隆さん(74歳)。実は、立花さんは原爆と深い関わりがあります。1940年、原爆投下の5年前に長崎で生まれ、20歳のときに被爆者の映画や写真を携えて半年間ヨーロッパを回り核兵器の廃絶を訴えました。
 知の巨人と呼ばれ、これまで100冊以上の著作を世に問うてきた立花さんですが、原爆の問題を本格的に取り上げたことはありません。しかし、ガンや糖尿病など多くの病気を抱え、死を意識した今、核廃絶を夢見たあの若き日を振り返り、未来に何かを残したいと考えるようになりました。
 さらに戦後70年を迎えた広島と長崎では、被爆者が次々と亡くなる中、被爆体験の記憶をどのように受け継いでいくのかという深刻な問題に直面しています。「被爆者なき時代」にどのように核廃絶の道を探るのか。立花さんは去年夏から、被爆地、広島・長崎を精力的に訪ねながら核廃絶の問題への思索を深めていきました。ヨーロッパで学生時代に大きな刺激を受けたカナダ人社会活動家との半世紀ぶりの再会。そしてことし1月、長崎大学で30人の学生を前に行った核廃絶についての初めての特別授業。立花さんは次世代を担う若者たちにどのようなメッセージを送ったのか。
みずからの原点に立ち返り未来を考えた半年間の密着の記録です。


 立花氏は50年前、東京大学在学中から反核運動に参加して世界中を奔走したものの手応えがなく、一時離れていました。
 しかし残り少ない人生を自覚した今、再度取り組み始めています。

 彼の原点は、シベリア抑留を描いた画家、香月泰男(かづきやすお)の「赤い死体」という作品だそうです。
 その作品は、シベリア抑留から帰国する途上、中国を列車で移動する時に目にした、皮膚を剥がれて赤い筋肉をさらけ出したたくさんの死体を描いたものです。
 その死体はおそらく、戦争中に日本人に虐げられてきた中国人が、終戦後に恨みを晴らすべく日本人を殺戮した姿。
 「赤い死体」が目に焼き付いた香月氏は日本に帰国し、ヒロシマやナガサキでの惨状を写真で見ました。
 そこには黒こげの「黒い死体」が写っていました。

 終戦後、日本では被害者の象徴である「黒い死体」を中心に戦争が語られるようになりました。
 しかし、それはちょっと違うんじゃないか、という違和感が香月氏にありました。
 加害者の象徴である「赤い死体」の視点でも語られる必要があるのではないか?

 非人道的核兵器である原爆を投下されて敗戦を迎えた日本人は“被害者目線”で戦争を語る傾向があります。
 それは、アジア諸国に対して“加害者”として君臨した歴史から目を背けてしまうことにもなってきたと反省する立花氏。
 日本の反核運動が世界の人々に今ひとつ届きにくいのは加害者としての反省が伴わないからではないのか?

 ・・・そんな内容の番組でした。

 2013年、映画監督のオリバー・ストーン氏が「もうひとつのアメリカ史」という作品で、戦勝者としてのアメリカではなく、加害者としてのアメリカを検証することを初めて試みました。
 彼がその後のインタビューで「次は日本の番だ、日本も加害者としての戦争責任を自ら検証すべきではないのか?」とコメントしたことが耳から離れません。

 近年の中国・韓国とのすれ違いの一因はここにあるのではないか、と考えさせられる今日この頃です。
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神様の罰が当たりそう・・・。

2015年08月05日 18時17分44秒 | 神社・神道
 伊勢神宮周辺のお店で脱税が発覚しました。
 「神様の罰が当たる」という感覚はなかったのでしょうか・・・残念です。

■ 式年遷宮:伊勢神宮周辺の32業者所得隠し2億円超
(毎日新聞 2015年08月05日)
 「式年遷宮」で多くの観光客が訪れ、特需となった三重県の伊勢神宮周辺の飲食店やホテルなど32業者が名古屋国税局の税務調査を受け、主要行事が行われた2013年までの7年間で計約2億1000万円の所得隠しを指摘されたことが5日、分かった。経理ミスによる申告漏れも約7000万円あり、追徴税額は重加算税も含め約5000万円とみられる。
 関係者によると、指摘を受けたのは同県伊勢市にある神宮周辺の飲食店や土産物店、隣接する鳥羽市のホテルなど。売り上げを実際より低く装ったり、経理操作をした帳簿を作ったりして所得を圧縮していた。
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ファットマン~マッハステム

2015年08月05日 14時01分11秒 | 戦争
 毎年8月は私的には戦争を考える月。
 録画しておいた戦争関連の番組を今年も見始めました。

 まずは 2014年8月18日に放映されたNHKスペシャル;

■ 「知られざる衝撃波~長崎原爆・マッハステムの脅威~
 1945年、長崎に投下された原子爆弾。被爆直後の死者のおよそ半数は、爆風が原因と見られているが、詳しいことはわかっていない。2013年、爆風による破壊を解明する手がかりが見つかった。爆心地から遠ざかるほど爆風が威力を増す「マッハステム」という現象を捉えた一枚の地図。取材を進めるとアメリカがマッハステムの破壊力を事前に計算し、意図的に利用したことが明らかになった。長崎を襲った衝撃波マッハステムの脅威に迫る。

 「ファットマン」とは1945年8月9日に長崎に落とされたプルトニウム型原子爆弾の名前です。
 ファットマンの爆弾としての特徴は、放射線や熱線よりも爆風による衝撃波の威力が強いことでした。
 投下された年に死亡した7万人のうち約半数が爆風死だったそうです。

 ファットマンは地上503mの高さで爆発しました。いや、正確には“させました”と言い換えるべきですね。
 事前の実験でその高さが一番効果的に被害を与えるという綿密な計算の結果はじき出された数字なのでした。
 
 当時のアメリカ軍は攻撃対象として民家と軍事施設を区別していませんでした。
 とにかく、町の中心地に原爆を落とし、大きな被害をもたらすことが最優先の目的でした。
 今、こんな無差別爆撃をしたら、世界中から非難囂々です。

 終戦後にアメリカの調査隊が長崎原爆の被害を詳細に調べ上げました。
 建物の被害状況から、どの部屋にどういう名前の人がいて何が原因(爆風、圧死、火傷など)で死んだのかがノートに詳しく記載されていました。

 ファットマンは“戦争を終わらせる”というより“新しいタイプの原爆の人体実験”という目的だったのですね。
 戦争という狂気(凶器)の恐ろしさを改めて思い知らされる内容でした。
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