知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

趣味Do楽 「籔内佐斗司流 ほとけの履歴書 ~仏像のなぞを解きほぐす~」

2014年06月22日 16時24分00秒 | 寺・仏教
2014年4-5月に放映されたNHK-Eテレの番組です。
録画しておいたものを、まとめて一気に視聴しました。

<紹介文>
 日本には、大仏から十一面観音までさまざまな姿の仏像があります。仏陀から生まれた仏教なのに、なぜこのように多用な仏像があるのでしょうか? 
 仏像ファンならだれでも抱くこの疑問にお答えします。代表的な仏像について、その履歴に迫り、豊富な写真、籔内佐斗司先生と篠原ともえさんの軽妙なやりとりでわかりやすく紹介します。
 仏教がインドで生まれた当時、ペルシア由来のゾロアスター教、インドの民族宗教であるヒンドゥー教などさまざまな宗教が混淆していました。それらの神々が仏教に取り込まれて六道という構造を成していきました。こうしたなか1~2世紀頃、ガンダーラでヘレニズム美術の影響下で仏像は生まれました。さらにシルクロードを経て、中国に渡り、日本に来歴するまでに進化変容していったのです。
 本書では日本に存在する多用な仏像の履歴に迫り、なぜそのような像が生まれてきたのか豊富な写真・図解でわかりやすく解説します。籔内流仏像拝観術の第3弾、どうぞ心してご覧ください。



第1回 仏教はグローバル   ~仏像からみるユーラシア古代世界~
第2回 仏界と六道輪廻    ~天部の神々~
第3回 籔内流 阿修羅のすべて
第4回 鬼を考える      ~中国の鬼(キ)と日本のオニ~
第5回 “ほとけの世界”を学ぶ ~仏教伝来と法隆寺~
第6回 多面多臂(ためんたひ)のほとけさま ~密教って何?~
第7回 日本で進化した木のほとけ ~にっぽん木彫仏1500年の歴史~
第8回 “荘厳(しょうごん)”が語る仏教世界 ~光の世界のほとけさま~
第9回 籔内流 仏像検定(総集編)


仏像を俯瞰して理解するにはとてもよい内容だと思いました。
個々の仏像を探求することにより、仏教の歴史的成り立ちや仏師の系譜にまで言及しています。

・仏には階級・序列があり、歴史の中で仏教が取り込んできた宗教の神々が形を変えて存在している。初期のバラモン教由来神は高位であるが、敵対したヒンドゥー教ゾロアスター教の神々は位が低く設定されていること。

・阿修羅の二面性~戦う顔と穏やかな顔は、その役割により使い分けられたこと。

・中国の鬼は六道輪廻界の「餓鬼」に生きる邪気から来ているが、日本に渡ってから独自の発展を遂げ、調伏して明かりを灯す役割を担うに至るという改心した軟らかいイメージが重なり、日本の鬼になったこと。

・多面多臂(ためんたひ)の仏像は密教の呪術的要素が反映され、その大元はヒンドゥー教の自在に変化(へんげ)する神々に由来すること。

・唐から渡ってきた鑑真一木造りの仏像を日本に伝え、榧(カヤ)を用いた木彫が一世を風靡した。その後、大量生産の必要に迫られ、定朝(じょうちょう)によるヒノキを用いた寄木造りが主流になっていったこと。

等々。

しかし、ひとつ残念なことがあります。
生徒役である篠原ともえの仏像ガールを気取った過剰なリアクションに辟易しました(次回は他の人に替えて欲しい)。
彼女がハイテンションでがなり立てていた頃を知っている私としては、猫なで声で丁寧語を使う慎ましい女性を演じても白けるだけ。うっとうしい。


<参考>
・2011.1.3放送 日テレ「たけしの教科書に載らない日本人の謎!仏教と怨霊と天皇…なぜホトケ様を拝むのか
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「恐山」(南直哉著)

2014年06月17日 10時22分31秒 | 寺・仏教
新潮新書、2012年発行。

いきなりパワースポットで有名な恐山の本の登場。
といっても、観光の本ではありません。
著者は永平寺で19年間修行し、その後恐山菩提寺の院代(住職代理)という経歴を持ちます。
ま、院代となったのは、偶然(?)恐山山主の娘と結婚したからだそうですが。
僧侶として内側から見つめた「恐山」とその周辺事情を記した書物ということになります。



恐山というとイタコの口寄せ、と言うイメージがありますね。
イタコは民間のシャーマン(霊媒師)で、著者の属する仏教界とは直接の関係ありません。

実は私、今から遡ること30年前の二十歳の時、恐山に行ったことがあります。
当時、大学の「民俗研究部」というマイナーなサークルに所属しており、その仲間で大祭が行われている恐山へ二十歳を迎える夏に向かったのでした。
硫黄臭が立ちこめる荒涼とした土地に到着すると、そこは別世界。
ひときわ人だかりのある一帯があり、そこにはイタコの出店が並んでいました。
祭文を唱える独特のイタコの口調が聞こえる中、シクシク泣く声も混じり、非日常的な異様な空間を感じたことを記憶しています。

そんな私には、恐山を紹介する第一章は、とくに目新しい情報はありませんでした。
第二章以降には著者の経歴と思索遍歴が記されており、興味深く読みました。
著者の印象は“頭でっかちの理論派僧侶”といったところでしょうか。

「死」は生き残った者がいて初めて成立する概念であること、
「死」を受け入れるには時間と器が必要なこと、
「死」を受容する器として仏教や恐山が存在すること、
等々、彼の説が述べられ、一部納得させられました。

しかし「受容」という意味では、仏教より恐山の方が優れているのではないかと私は感じています。
著者も薄々そのことに気づいているようで、恐山に来る人たちを前にして、それまで学んできた仏教教義・禅の知識が役に立たなかったことを告白しています。
「受容」は「カウンセリング」と言い換えることも可能です。
古来、日本には至る所に「カウンセラー」としてのシャーマンが存在してきました。
その一つが、恐山を活動の場にしているイタコさんなのでしょう。

読後感は、永平寺で20年近く修行してもこんなものなのかな、とちょっと肩すかしを食らった気分。

メモ
 自分自身のための備忘録。

恐山に来る人たちには仏教教義は通用しない。
 私が恐山で身にしみて感じたこと、それは実際、これまで蓄えてきた仏教や禅の知識がほとんど通用しない領域だった。それなりに苦心して制作した理屈が、まるで無効な相手だった。
 入山当初の正直な感想は「怖かった」というものであった。霊や超常現象を経験したわけではない。何かここにはわけのわからないものがある。それを求めて多くの人がやってくる。しかしそrはこれまで培った知識や経験では、とてもじゃないが捌けるものではない。そんな、わけのわからないものと対峙するときに生じる怖さである。
 恐山を「あんなところは日本の土俗信仰に仏教の皮をかぶせたものに過ぎない」となめていたわけではない。今まで考えてきた枠組みの中には、恐山の濃厚なリアリティを収納する器がないことを、早々に痛感させられた。「ただの教義理論や修行経験が通じる次元ではない。一から考え直さないとダメだ」と途方に暮れた。
 恐山の信仰というのは、集まってくる人々が作っているもので、上から教義や原理を押しつけてできたものではないことを決して忘れてはいけない。
 恐山がパワースポットとして人気を博しているが、これは既存の宗教がすくい取れなかった不安や感情が今を生きる人々に根深く存在することを意味している。

イタコと恐山
 もとは青森を中心とする北東北地方で霊媒をする女性のことを指す。「口寄せ」と呼ばれる降霊術を行い、死者の魂を呼ぶといわれる。
 しかしこれは起源がはっきりしない。目の不自由な女性の生業として始まったのだろうといわれているが、定かではない。
 現在のイタコの平均年齢は80歳を超え、後継者は少ない。40歳代の若いイタコは2人しかいない(弟子はいるがすぐにドロップアウトしてしまうらしい)。
 世間で誤解していることがある。「恐山のイタコ」は存在しない。
 つまり、恐山がイタコを管理しているわけでも、イタコが恐山に所属しているわけでもない。両者の間に一切の契約関係はない。
 イタコは個人業者である。本来は自宅に人を招いて行う者である。
 それが、北東北地方の神社仏閣で大きな祭礼や法要があると、そこに人が多く集まるので、「出張営業」に来ているのである。縁日の出店みたいな者である。
 恐山では、夏の7/20~24にかけて、大祭と呼ばれる地蔵会(じぞうえ)がある。子爵用中心の行事で、全国から参拝や観光客が多く集まる。イタコが一年で一番多く集まるのもこの時期である。大祭の時は、イタコの所に最低3時間待ちの行列ができる。

死後の世界は「あるのか、ないのか」
 仏教の公式見解は「答えない」ことであり、それを「無記」と呼ぶ。
 なぜ答えないのか。
 それは「ある」と答えても、「ない」と答えても、いずれにせよ論理的な矛盾が生じて、世界の体系が閉じてしまうから。
 仏教において、この類の話は大して重要ではない。
 それよりも、人間が生きていると、うれしくて結構なことよりも、切なくてつらくて苦しいことの方が多い。それについてどう考えるか、この方がよほど大事だとするのが、仏教である。
 必ずしも簡単とは言えない人生を、最後まで勇気を持っていき切るにはどうするか。それこそが仏教の一番大事なテーマであって、死んだ後のことは、死ねばわかるだろう、ぐらいに考えればよい。

魂とは何か?
 それは人が生きる意味と価値のことである。
 魂という者は、一にかかって人との園で育てる者。他者との関係の中で育むものでしかない。
 人間は「あなたが何もできなくても、何の価値がなくても、そこにあなたが今いてくれるだけでうれしい」と誰かに受け止めてもらわない限りは、自分という存在が生きる意味や価値、つまり魂を知ることは、絶対にできない。それは自分一人の力では見つけることができないものである。

「取引」でこじれる親子関係
 登校拒否、校内暴力、引き込み裏、リストカット、拒食症・過食症、パニック障害などの相談を受けてきた。
 そんな苦しみを抱いている人達の話を何度も聞いていると、十のうち八、九割は、親子関係に何らかの歪みがあることに気づいた。残りの一、二割は、小学生か中学生の時に経験した猛烈ないじめだった。
 親子関係の歪みとして、共通するのは親子関係の基本が「取引」でできているということ。
・パターンA:母親が愛情という名の圧倒的な支配力で、特に息子を囲い込む。
 「あなたのことはお母さんが一番よくわかっているの。お母さんの言うとおりにやればいいのよ」と、母親が先回りしてみんなやってしまうので、息子は楽。それに甘えたままでいるうちに手遅れになり、思春期になってようやく自分の足腰で多糖としても立てない。当然、焦る。そして荒れてくる。荒れることさえできないと引きこもる。
 こうした家庭の父親は、判で押したように同じタイプで、存在感が枯れ葉のごとく薄い。子どもに父親のことを聞くと、決まって「あの人」と言う。
・パターンB:家庭内で独裁者のごとく振る舞う父親と、奴隷のように従う母という構図。
 父親が子どもの人生の行き先を全て決めてしまう。そんな父親は、子どもが自分の敷いたレールから降りることを絶対に許さない。母親はただ心配して、そのまわりをウロウロするだけ。
 この二つのパターンの底にあるのは「取引」である。
 「お父さん、お母さんの言うことを聞くならば愛してあげましょう」という取引の関係。しかもそれは親本人には自覚がない。子どものためを思って、よかれと思ってやっているので始末に悪い。

人は死んだらどこへ行く
 ある老僧に仕えていた修行僧時代に、老僧から
 「おまえは人が死んだらどこへ行くか知っているか。」
 と聞かれた。
 「知りません。」
 と答えると、
 「人が死ぬとな、その人が愛したもののところに行くんだ」
 「人を愛したなら、その愛した者のところへ行く。仕事を愛したんだったら、その仕事の中に入っていく。だから、人は思い出そうと意識しなくても、死んだ人のことを思い出すだろう。入っていくからだ。」
 さらに、
 「愛することを知らない人間は気の毒だ。死んでも行く場所がない。」

恐山の由緒と歴史
 大昔、そもそも恐山という場所は湯治場として地元に知られていた。由緒には、慈覚大師・円仁(天台宗三代目座主)によって平安時代の貞観4年(861)に開闢された。十五世紀、地元の争いに巻き込まれ、寺は破却、その後百年近く荒廃していた。それが大永2年(1522)、下総にいた曹洞宗の僧侶が、麓の田名部、現在のむつ市に円通寺を開き、続いて享禄3年(1530)、恐山を再興、菩提寺を建立して以来、曹洞宗が管理するようになった。
 おそらく最初、恐山は神仏の加護や病気平癒などといった現世利益を祈る場所であり、それが現在のように死者供養の礼状として知られるようになったのは、それより後と考えられる。
 恐山というのは、あくまでも器である。それは火口にできた土地である。きれいな湖があって温泉が出る。そこにはこの世とは思えない異様な風景が広がっている。その風景に魅せられて多くの人が集まってきた。それから何か信仰のようなものが芽生えた、と考えるのが自然だろう。
 恐山にある信仰というのは、特定の教義では決して割り切れるものではない。極端に言えば、拝む神仏の種類は何でもいい。実際恐山には、地蔵菩薩もいれば、阿弥陀仏も不動明王も観音も薬師もいる。円空仏まであって、仏像のワンダーランド状態。

※ ふだんの恐山の姿:例年、開山すれば、まず沿岸の各漁港の漁師さん達が大量祈願のお参りに来られる。それが済むと、農作業が一段落した6月当たりから、団体や家族で先祖供養の人たちが続々上山してくる。

著者が出家した理由
 小さい頃から生きるということより「死とは何か」というテーマが問題の中心にあった。それを抱えたまま大学を出て社会人になったが、世俗にとどまったままではその問題をいかんともしがたく、とうとう出家してしまったのである。

仏教における死者の位置づけと恐山の違い
 永平寺の死者供養というのは、オーソドックスな修行体系あるいは教義の体系がまず先にあって、そこに死者供養や先祖供養が持ち込まれている、という構造をしている。つまり、道元禅師の仏法というか正法が軸にあり、死者供養というのはその中の一部分に位置づけられているに過ぎない。
 ところが恐山では違う。
 死者がまずいる。あるいは死者を想う人がまずいる。
 仏教というのは、それを収めるひとつの器に過ぎない。つまり死者の位置づけが、永平寺とは百八十度違うのである。

恐山における「死」の存在
 死者から生者に与えられるもの、それは生者にとって決定的に欠けているもの、生きている限りは手に入れることができないもの、つまり「死」である。
 恐山というのは、死者を媒介にして、生きている人間にその欠落を気づかさせてしまう場所である。
 死は実は使者の側にあるのではない。むしろそれは死者を想う生者の側に張り付いている。
 霊魂や死者に対する激しい興味なり欲望の根本には「自分はどこから来てどこに行くのか」という抜きがたい不安がある。この不安こそがまさに人間の抱える欠落であり、生者に見える死の顔であり、「死者」へのやむにやまれぬ欲望なのである。
 死者の想い出というのは、それが懐かしさを伴うものだろうが、恨みを伴うものだろうが、死者に背負わせるべきもの。生者が背負うものではなく、死者に預かってもらうしかない。
 そして、「死者を思い出すこと」が一番の供養になる。

“宗教”という仕掛け
 人間には拝むものが必要である。
 なぜなら、死や死者に対する懐かしさとおそれが、人間には抜き難くあるから。
 なぜそのような感情が生じるかというと、死というわけのわからない何かが自分の内側にもあるから。それを処理するためには、拝む対象がどうしても必要になってくる。
 死者を拝むためには、死者の輪郭をはっきりさせて、自分との距離を作ってくれるものが必要になってくる。それが宗教の仕掛けである。
 「鎮魂」という行為は、まさに生者と死者の間に距離を作り出すこと。
 恐山という所は、死者に近づくことができる場所ではあるが、さらに深く考えていくと、死者と距離を作るための場所でもある。


<追記>
日本100巡礼「ジュディ・オングが青森県恐山へ死者と向き合う旅
BS日テレ 2013年8月7日放送
ー番組解説ー
今回の巡礼の舞台は、死者の魂が集まる霊場「恐山」
旅人はジュディ・オング。
比叡山・高野山とともに、日本の三大霊場の一つに数えられている「恐山」。
「人は死ねば、お山(恐山)さ行ぐ。」 と、下北の人々はそう言い、この山に深い祈りを捧げてきた。
「この世」にいながら「あの世」に近づける場所と言われている。
霊界と俗界を隔てる三途の川にかかるのは、朱塗りの太鼓橋。
罪人にはここが針の山に見えて、渡ることが出来ないと言われている。
無事に渡り、境内に足を踏み入れると、今度は荒涼とした岩場と硫黄臭が立ち込める。地の池地獄や無間地獄など、あらゆる名前の付いた地獄や賽の河原をめぐり、やがてたどり着く宇曽利山湖の白い砂浜は、まさに極楽浄土を思わせる景観。
仏の慈悲に救いを求めて訪れる人、亡き人の思いに触れたいと願う人が訪れる
この地で、ジュディ・オングは何を思い、何を得たのか…。




この中で、南氏が出演していました。
長身で痩せた風情でトクトクと語ります。
「頭でっかちの理論派僧侶」という私のイメージがぴったりのお方でした。
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「砂漠と鼠とあんかけ蕎麦」(五味太郎&山折哲雄の対談集)

2014年06月13日 12時46分06秒 | 神社・神道
2011年、アスペクト社発行。

絵本作家の五味太郎と宗教学者の山折哲雄という、不思議な組み合わせの対談集。
この対談のきっかけは、1995年の某TV番組での司馬遼太郎と山折哲雄の対談だそうです。

神道とはどういう宗教なんですか?
と司馬が質問すると、
あれは宗教ではありません、生活の礼節ですよ
と山折が軽く答えるのを五味太郎が見て(この人はすごい!)とその瞬間から恋に落ちたらしい。

五味は早速「神って、いったい何ですか?」と聞いてみたくて山折に対談を申し込んだそうな。
という経緯で成立した、延べ30時間にわたる対談をまとめたモノがこの本です。



五味の素朴な疑問に対して、古今東西の知識を縦横無尽に駆使して答えを探す山折のやり取りが見物です。
ホントに山折先生、博識です。

一神教と多神教、その成立の背景は風土の違いによる、という指摘には納得させられました。
ユング心理学の神髄は「聞く人間がいないと必ず狂気を発する、不安定になる。それがさまざまな犯罪を発生させる原因になっている。」を見抜いていたこと、という記述にも驚きました。
他にも「ははあ、そういうことなのか・・・」と目から鱗が落ちる情報がたくさんあり、読後感良好です。

ただ、対談集の欠点として、詰めが甘いことは否めません。
まあ、読みやすいからいいんですけど。


メモ
 自分自身のための備忘録。

宗教を定義づける必要十分条件
 世界の大宗教、普遍的な宗教と言われているもののほとんどが、「教祖」「教義」「儀礼」を必ず備えている。
 その次に「伝道」が必要になってくるが、これはしばしば攻撃的で、救済の教えを伝えるという大義名分のもとに、実際は戦争をやり続けてきている。それが二千年、三千年経って、今日の世界における宗教対立、民族対立、国家と国家との対立、殺し合い、血で血を洗う状況を作り上げてきた。

「神道」が“宗教”ではない理由
 本来の日本の神道は「教祖・教義・儀礼・伝道」という四要素を持っていなかった。
 人間の心の奥底に潜んでいる、あるいは自然との調和を自然に準備するような、そういう世界。
 ところがその神道も、仏教と結びついたり儒教と結びついたりして国家神道になったときに、おかしくなる。
 平安時代に律令国家と結びついた神道というものができあがり、中世になると仏教と結びついたり密教的な神道ができあがったりして、その延長線上に明治以降の国家神道がある。
 国と結びついたときに日本の神道は変質して、ふつうの宗教が持っている狂気を持つようになった。

宗教と近代化の関係
(五味)宗教的なものからなるべく離れていくことが近代化という感覚をもっている。
(山折)そうならば、近代になればなるほど宗教というものは乗り越えられていっていいはず。ところが、近代を準備したヨーロッパ世界を中心に、宗教対立がますます盛んになってきている。結局、近代というものは宗教を乗り越えることができなかった。

一神教/多神教が発生する風土
 イスラエルの砂漠を歩いたときに、この地上にはなんら頼るべきものがないんだなあという実感に襲われた。だからこの砂漠の民は、天上の彼方に唯一の価値あるもの、絶対神を考えざるを得なかったのだ。
 一神教というものが発生する風土的な条件というのは砂漠である。キリスト教とかイスラム教の発生を考えるときには、砂漠的風土というものを考えなければならない。
 一方、日本は列島全体が森と山に覆われていて海の幸・山の幸が豊かであり、なにも天上の彼方に唯一価値のあるものを求める必要がない。つまり多神教的なものが発生する風土的条件というのは日本的風土なのだ。

「祟り信仰」が日本の信仰のベース
 八百万の神のうちの一人が祟ったために、地震が起こるとか、誰それが病気になるとか、死んでしまうとか、政治が混乱するとか、社会が乱れるとか、全部そういう何者かの祟りだっていう考え方が、昔からず~っと続いている。
 これは「祟り信仰」というもので、日本人の信仰の一番ベースに流れているもの。
 誰かの祟りによって誰かが敗北に追い込まれていく。それを鎮めなければならない。そこで鎮魂の儀礼が登場する。大昔からそういう知恵が働いている。鎮魂の儀礼を怠ると社会は乱れる。
 世界の中で日本が非常にずば抜けて、こういうメカニズムを政治に転用してきた。

2種類の多神教
 一つは目に見える多神教。
 ギリシャの多神教とか、ヒンドゥー教の世界とか、中国の道教の世界のは、全部目に見える多神教。神々が全部人間の姿をしている、つまり肉体性を持っている。
 もう一つは目に見えない多神教。
 それが日本の記紀神話に現れる日本の多神教的な世界と私(山折)は考えている。本来の記紀神話に現れてくる神々というのは、形を、肉体性を持っていない。それは自然の中に隠れている。日本の神様は、みんな記号で表現できる。あるいは、場所で表現できる。
 そういう神々はなぜ存在したかーこの日本の風土と非常に大きな関係がある。それは森の中に鎮まっている、川に存在している、樹木の中に神々がいる、そういう考え方である。
 自然の中に存在しているそういうものを人格化したのが、目に見える多神教であり、ここが大きな違いである。
 今から五千年前とか一万年前の人類の全体の状況は、圧倒的に「目に見えない多神教」だった。キリスト教とか仏教が発生する以前の地球上の人間が考えたことは、天地万物に命が宿っているという信仰だけだったはず。
 それをそのままに受け継いでいるのが日本の神道である。
 自然に鎮まっている目に見えない神々を人格化したヨーロッパが、一神教を生み出した。
 ところが、「あらゆるものに命が宿っている」という信仰もずっと生き続けている。
 それがカトリックの世界に吸収されていった。だからカトリックはかなり多神教的な要素をたくさん持っている。あれを一神教というふうに言ってしまうと間違う。

イスラムの特異性
 イスラムは形あるものに対する徹底した拒否の考え方を持ち、それは中心的地域である砂漠的な世界に起因する。砂漠的世界では、どうしても抽象的な一神というものにこだわる。

「ノアの方舟」は“生き残り”戦略の象徴
 地球に大洪水が襲ってきて、ほとんどの人類は絶滅するけど、ノア一族だけは船に乗って助かるという物語、つまりこれは人類の「生き残り」の物語である。
 このサバイバル、生き残りという思想は、ヨーロッパの歴史、あるいはユダヤ、キリスト教の歴史にずーっと貫いて、それこそ生き抜いている。哲学、宗教、経済、倫理、あらゆる分野の学問のそこを流れているのは、生き残り戦略である。
 アングロ・サクソン(※)というのは、その生き残り戦略に基づいて世界制覇を続けてきた。
 今日のアングロ・サクソンのグローバリゼーションというのは、アングロ・サクソンが作り上げた正義とか理性とか公平さというものを、いわば契約の条件として、それで生き残れといっているのである。
 アングロ・サクソンが“生き残り作戦”と言う場合、それはアングロ・サクソンの生き残り作戦であり、人類全体の生き残りという意味ではない。
※ アングロ・サクソン:5世紀、現在のドイツ北岸、デンマーク南部よりグレートブリテン島に移住してきたアングル人、サクソン人らゲルマン系の部族の総称。

“生き残り”ではなく“覚悟する文明”としての仏教
 ノアの方舟の大洪水のような大災害が地球を襲って、大部分の人間が死ななければならないという運命に落とされたとき、オレも一緒に死んでいこう、我また多くの人々と共に死滅しようという物語、そういう“覚悟する文明”というものがある。それが仏教の無情の物語であり、老子や荘子が考え出した混沌という物語である。
 “生き残り戦略”に対する“無常戦略”と云うべきか。

20世紀は夏目漱石の時代~21世紀に引き継ぐのは宮沢賢治
 「殺すな」「盗むな」「嘘を言うな」という、いわば人類的な黄金の戒律を裏切り続けてきたのが人間だという、その痛烈な認識を文学作品に表した、これが漱石である。
 ところがこれからは、あらためてその3つの文言はどういう意味かというのを考えなければならない時代になってきた。
 それを象徴する作家が宮沢賢治である。
 賢治は黄金律を自分の生活の場で実践するとすればどういうことができるのか、ということを考え続けた男である。とりわけ『なめとこ山の熊』(熊捕りの名人が最後に熊のために自分の体を投げ出して食べさせる物語)にその問題が現れている。「オレはお前たちを捕って食べてそれで生活してきた、だから最後はオレの体をお前たちにやろう」と。熊と人間との関係はギブ&テイク、まったくの平等な関係という世界観。それは犠牲の精神の具現化というレベルの話ではない。人間が動物のために犠牲になるという考え方は、動物を対等に扱っていないことになる。人間は動物を殺して食べる、動物もまた人間を襲って人間の肉を喰らう、そのことを受け入れるという思想。
 人間は動物を殺して食べてもいいけれど、動物は決して人間を襲って食べてはいけないという倫理を、我々が勝手に作った。その歴史が数千年続いているわけで、それを銅生産するかという問題である。

海を見た民族・宗教家
 海を眺めることのできた民族と、まったく見ることのできない民族とは、精神形成においてものすごく違いがある。
 日本の代表的な宗教家(親鸞、道元、空海、最澄)は、海によって精神的に成長している。
 海は無限、山は有限。
 キリストは砂漠地帯で生きたが地中海を見ている、一方ブッダは海を見ていない。

武力を持たないで武力をコントロールしてきた公家の思想
 日本人の潜在能力は「ニコニコへらへら生き抜いていく」「風に柳」という感じ。
 「二枚腰」「三枚腰」「二重三重の複眼的な思考」は公家的なものの考え方。身に寸鉄を帯びずして、軍事力を一つも持たずに、武力というモノをコントロールしてきた、千年の歴史は一種の“日本的非暴力”である。
 ところが現代社会は、その曖昧、中途半端、いい加減を、ほぼ全面的に否定する。「間」のない文化は窮屈である。

人類が唱え続ける「殺すな」「盗むな」「嘘を言うな」という黄金律は実現不可能?
 “近代化”とは“殺し合わないでいける方法”?
 大昔から「殺すな」「盗むな」「嘘を言うな」ということを言い続けてきた。モーゼが云い、ブッダが云い、あらゆる宗教のリーダーたちが言い続けた黄金律。ところが人類はこれを裏切り続けてきている。
 現代では黄金律をうまく言い換えてマイルドな響きにしている。「殺すな」を「命を大切に」と言い換え、「嘘を言うな」という代わりに「真実を語ろう」、「盗むな」の代わりに「与えよ」と云っている。
 これは黄金律を「もうそろそろあきらめようや」と言い始めていると見ることも可能であり、危機的である。

ヨーロッパの矛盾
 大航海時代にヨーロッパの国々があちらこちらの出かけていって略奪三昧し、ヨーロッパは富み、産業革命を経てさらに豊かになった当たりでヒューマニズム(人文主義)が出てきた。メチャクチャ他の世界をやっつけて、そこから奪っていったもので金持ちになって余裕が出てきて、ヒューマニズムが出てきたというのが、笑っちゃうね(五味)

キリスト教以前・以後のヨーロッパ
 古代ギリシャは非常に科学的で冷静に物を見ている。明るくてエロティックで生命を謳歌していた。
 それがキリスト教という一神教が出てきて灰色に変わった。
 塩野七生の『ローマ人の物語』では、キリスト教がヨーロッパの国教になるまでは、ヨーロッパ(ギリシャ、ローマ)の歴史は上昇している。キリスト教が国教化されたときからローマは衰亡の道を辿り始めたという歴史認識を示している。
 上昇した段階の宗教は多神教、一神教になって下降する。

人間の完成度は半分位まで来た、いや来ない
 脳と内臓器官と消化器官と筋肉、血管、神経、その繋がりがどうなっているかということになると、西洋医学でもお手上げ状態。局部的な研究はできているけれども。
 ところが、全体の体の流れがどうなっているか、これについては漢方、東洋医学の方が非常に進歩している。
 
永遠に生きる天津神と寿命のある国津神
 日本の記紀神話の中において、天津神、天上の高天原で活動した神々の世界には、神が死ぬという考え方はなかった。
 ところが、天孫降臨以降は地上の神々ー国津神が出てきた。この国津神というのは全部死んでお墓に葬られている。つまり、神々は死ぬんだよという考えが出てきた。天孫降臨したニニギノミコト以降、神武天皇にいたる尊たちは全部、日向の周辺の山陵(みささぎ)に葬られている。

生け贄の歴史
 日本は、民俗学の研究では生贄としてかつては人間を殺していた。やがて人間から動物とか鳥を殺すことへと変わっていった。たぶんかなりすごく古い時期に。
 アステカでは15世紀まで人肉を喰っていた。

世界中にある太陽信仰
 人類の歴史というのは、最初は太陽信仰がほとんど地球を覆っていたような気がする。エジプトも日本も、どこ行ったってお天道様信仰。そこへ一神教が出てきて、神が出てくる。神と太陽の戦いの時代があって、これが人類史における重要な戦いだったのかもしれない。やがて太陽信仰がやっつけられて、神信仰が前面に出てくる。キリスト教とそれ以前の宗教との戦いも含めて、それ以来、人類は不幸に陥ってきたと考えられる。

文明は砂漠から
 人類というのは乾いた風土から創造的な物を生み出してきたという感じがあって。大きな声では言えないけれど、農業地帯からはあまり創造的な物を生み出していない。何もしなくても、天然の恵みがたくさんあるから、創造的な思考力を必要としない。

間伐材で人間を焼こう
 森が非常に荒れ始めている。間伐が必要だが、間伐材をどうするかが次の問題になる。昔の日本人にとって間伐材は燃料だった。そのエネルギー資源が、石油あるいは原子力に取って代わられ、放ったらかしにされたら山が荒れた。
 私(山折)の提案は「間伐材で人間を焼こう」ということ。インドでは今でもそうしている。
 人が亡くなれば、山から切り出してきた薪や柴を積んで、最小限の油をかけて焼く。じーっと4時間。白骨化するまで見送る。それをガンジス川のように目の前の鴨川に流す。そういうところまでいけば、我々は初めて万葉の時代に戻ることができる。
 今は石油を使って人間を焼いている。火葬場で焼いている。

極楽のイメージ
 日本人にとっての極楽は、魂になって山の上に行って神様仏様になる、ただそれだけ。
 絢爛豪華な極楽をイメージしたのは乾燥地帯の人たち。

キーワードは“捨て子と多聞”
 人間というのは要するにみんな捨て子。
 ブッダ自身、生まれて7日目にお母さんが亡くなって捨て子状態。それから自分の子どもに「悪魔」という名前をつけている。その名前をつけることによって子どもを一遍捨てている。そして出家をして、妻と子どもを勝手に捨てて自分は一人旅に出てしまった。ここでも捨てている。つまり、ブッダの子どもは二重に捨てられていることになる。
 その仕打ちを受けた子どもは、絶対に父親に対する殺意を抱いたと思う。
 最後にその捨てた子どもは釈迦の9番目の弟子(羅睺羅、ラゴラ)になる。
 二度捨てられて父親に敵意を持ち殺意を抱いたに違いないその子どもが、最終的にはその父親の弟子になるという構図。これはもう、人類が二千年、三千年追求してきた大いなる謎に対する答えが、そこに横たわっているという気がする。
 私(山折)の直感では、親父に対する敵意まで持つに至った羅睺羅の不平不満、愚痴、身の上話を、朝から晩まで年がら年中聞いて聞いて聞いた人間が、阿難尊者(10番目の弟子、特徴は“多聞”)だったのではないか、究極的にカウンセリングをしていたんだろうと思う。聞くということに優れた阿難が側にいたから、羅睺羅は立ち直ることができたのだ、と。
 学生と教師、あるいは患者と医者、患者とカウンセラー、その根本の問題は“聞く”っていうことだろうと思う。母親と子ども、父親と子ども、その関係で一番大事なのは、やはり“聞く”ということ。それで開放されていく。

「人というのは罪を犯すものだ」への2種類の対応
1.殺すな、嘘を言うな、盗むなという黄金律を守らせる
2.聞いて聞いて聞くことに徹する
 すべての宗教的なシステム、人間の知恵として、そういう2つの方法があった。

ユングの慧眼
 今日、臨床心理学、ユング的な心理学というのは非常に多くの人に受け入れられ、ほとんど宗教の変わりをしている。
 聞く人間がいないと必ず狂気を発する、不安定になる。それがさまざまな犯罪を発生させる原因になっているということを、ユングは非常に早い時期に知っていた。
 彼は西洋文明の危機的な状況を肌で感じていた。それがフロイトに対して反抗していく契機になる。
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