「
よくわかる祝詞読本」(瓜生中著)角川ソフィア文庫、2017年発行
日本古来の宗教とされる神道にはキリスト教における聖書、イスラム教におけるコーランのような経典が存在しません。
ただ、仏教ではお経を読むという作業がありますが、それに似ているのが神職が祈祷の際に口にする祝詞(のりと)です。
祝詞の内容はどんなものなのか、以前から興味がありました。
随分前ですが、NHKのEテレで「
U-29」といういろいろな職業を紹介する番組で「
神職」を扱った回を見たことがあります。
新人女性神職が、ある祈祷を任されて自分で一生懸命に祝詞を考える、という場面がありました。
「え? 祝詞を考える? 自分で作る?」
祝詞とは、すでにあるものからTPOで選んで奏上するものと思い込んでいた私には驚きでした。
しかし実際は、神職の各個人が過去のものを参考にしながら新たに作っていくものらしい。
それから、以前から私の中には「美しい日本語」を求める気持ちがありました。
おそらくそれを追求していくと、目で読む文章ではなく「口にして心地よい」「耳にして心地よい」言葉にたどり着くのではないか、と何となく感じてきました。
古今の中で一番美しい日本語は「平家物語」という説があります。
琵琶法師が名調子で語る物語に、多くの日本人が涙してきました。
この視点からも、祝詞は「延喜式」の時代から語り継がれてきたものであり、やはり耳心地がよく洗練された日本語ではないかと思われます。
祝詞を知る手ごろな本がないか探しているときに、この本に出会いました。
<内容紹介>
例文+現代語訳を収録。基礎からわかる文庫オリジナルの必携入門!
「恐み、恐み」の決まり文句以外、意味や単語すらよく分からないまま聞くことの多い祝詞。日本古来の信仰に根ざし、記紀神話の時代から奏上されてきたそれらの言葉には、どんな由来や役割があるのか。神話と神々との関係や参拝のマナーとともに、祝詞の基礎知識をていねいに解説。月次祭・節分祭などの祭祀、七五三・成人式などの人生儀礼や諸祈願ほか、24の身近な例文を現代語訳とともに掲載する、文庫オリジナルの実用読本。
第一章 神道の基礎知識
第二章 祝詞の基礎知識
第三章 祝詞の例文と現代語訳
第四章 神話に登場する神々
付録 神社参拝等のマナー
第二・第三章がこの本の中心です。
祝詞はすでに記紀神話に登場し、天照大神(アマテラスオオミカミ)が岩戸隠れをしたときに、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)が岩戸の前で祝詞を唱えたという記述がある。
平安時代に編纂された法令書である『延喜式』には28種類の祝詞が掲載されており、それを参考に今も神職が神事や祭礼ごとに作成している。
だから、祝詞には仏典などのように校訂本があるわけではなく、神社ごと神職ごとに異なり、時代によっても変遷する。
・・・のだそうです。
そして祝詞の内容は、「崇高な神に対して最大限の敬意を払い、平身低頭して仕えることを約し、恐れ謹んで願い事をする」と書かれています。
ひたすらに神を褒め称え、感謝するものであることがわかりました。
神道の教えは「清く、正しく、美しく」に尽きるような気がします。
ただ、人間が生きていく上で無視できない「ダークサイド」をフォローする視点がなく、そこを仏教が補填して日本の生活宗教・信仰を形成してきたのでしょう。
私にとって第一・第四章も知識を整理するのに大変役に立ちました。
記紀神話に登場する神様達の関係も少しわかりました。
それとともに、記紀神話でさえも、当時の政治と絡んでいることがわかりました。
天皇家が自分の家系の正当性を訴えるために創作した神話なのです。
先日、TV番組で「聖徳太子は実在しなかった!」という内容を放送していました。
聖徳太子は、中大兄皇子達が企てたクーデターを正当化するための虚像であり、架空の人物であったというのです。
なので、現在の歴史の教科書から「聖徳太子」はなくなりつつあり、そのモデルになった「厩戸王子」に書き換えられているそうです。
宗教・信仰と政治とは、古今東西の歴史を振り返っても切っても切れない関係なのですね。
ヤレヤレ・・・。
私は「山神社」という小さな神社が好きです。
宮司さんもいないし御朱印ももらえませんが、山里の奥に位置する村の鎮守様に参拝すると、清冽な気持ちになれます。
「ああ、1000年前の日本人もここに立って私と同じ気持ちになったんだなあ」
と、祖先達と時空間を共有するタイムトラベルができるのです。
<備忘録>
□ 和魂(にきみたま)と荒魂(あらみたま)
日本の神には和魂と荒魂という二つの側面がある。前者は我々人間に幸いをもたらしてくれる優しい性格、後者は禍をもたらすような荒々しい性格である。
そういった二面性を持つ神に最大限の敬意を払って丁重に仕えることによって和魂の部分が顕現し、われわれに幸いをもたらしてくれると信じられている。
□ 神道の本質
仏教伝来(538年)以前から行われていた民俗信仰である。
アニミズムと呼ばれる原始的な信仰と、祖先信仰が合体したものである。
★ アニミズム(精霊崇拝):近くの山川草木などの自然物に精霊が宿るとして崇拝すること。
日本では共同体(ムラ)で亡くなった人の霊は、近くの山を彷徨った末に、浄化されてその山頂から昇天すると考えられていた。そして、昇天した先祖の霊と自然物の精霊が融合したものが後世、氏神と呼ばれる共同体の守護神になると信じられてきた。
このような神が年に一度、共同体近くの山頂などに降臨し、人々がその神を丁重に迎えて神饌(神に捧げる食物)を供え、祝詞を上げたり、舞を舞ったりして神々を敬い、饗応することによって、神々は村人に幸いをもたらしてくれると考えられていた。
この年に一度の神々の降臨が例大祭で、その構図は今も古代と全く変わっていない。
□ 伊勢神宮の成り立ちと天照大神
先祖の霊と融合する自然物は、共同体でその神聖さが共有されているものでなくてはならない。
(例)浅間大社:浅間大神(富士山の祭神)は村々の祖先神と霊峰富士山が融合したもの
伊勢神宮の祭神である天照大神は、天皇家の祖先の霊(皇祖)と太陽を合体したものである。天照大神ももとは天皇家の氏神だったが、5〜6世紀頃にかけて天皇家が他の豪族を凌いで強大な権力を握ると、国家的な神として君臨するようになった。
そこで、全国津々浦々の豪族や民衆にとってもっとも重要で神聖な自然物である太陽が選ばれた。縄文時代から稲作を営んできた日本民族にとって、太陽は五穀豊穣を約束してくれるありがたい存在である。その太陽と天皇家の祖先の霊とを合体することにより、天皇家の求心力を高めようとした。
□ 神は目に見えない存在
本来、日本の神々は無色透明で目に見えないものとされている。伊勢神宮の御神体が八咫鏡(やたのかがみ)であることはよく知られているが、御神体は神霊がそれを目印に降りてくる目標となるもので、依代(よりしろ)と呼ばれ、神霊そのものではない。そして依代の神体自体も神聖視され、直視することはタブーとされている。
一方、我々日本人は、日本古来の神といえば、白い狩衣のような装束で腰に太刀をはいた、素戔嗚尊や大国主命のイメージを持っている。その姿は時代が下ってから、記紀の神話などの記述に基づいて作られたもので、おそらく江戸時代くらいに徐々に普及し、明治維新を迎えて国家神道の時代になり、維新政府が神道の啓蒙用に一流の画家に描かせたものが一気に広がったものと考えられる。
もともと日本の神に対する信仰は偶像否定で、この観念はキリスト教やイスラム教でも厳格に守られている。キリスト教ではイエスキリストや聖母マリアの像はあるが、全知全能のヤーウェの神の像を造ることはタブーである。また、イスラム教は厳格な偶像否定主義で、絶対神であるアラーの神の像を造ることは決してない。
□ 鎮守の杜〜神が降臨する場所
日本の神々は、共同体(ムラ)の近くにある山の頂上付近、あるいは海辺の岬の先端のようなところに降臨すると考えられてきた。
降臨の場所として忘れてならないのが鎮守の杜(もり)である。
安芸の宮島の背後にそびえる弥山(みせん)の社叢(神社の擁する森林)は「千古斧を入れず」といわれ、社叢内の樹木の伐採はタブーとされてきた。
□ 八坂神社(祇園社)の祭神は牛頭天王(ごずてんのう)、それとも素戔嗚尊(すさのおのみこと)?
京都の八坂神社の御祭神は牛頭(ごず)天王という疫病除けの神で、丁重にまつれば疫病を流行らせないが、粗末にしたり非礼を働くと忽ち疫病を蔓延させる恐ろしい神である。
牛頭天王は、インドで釈迦がたびたび説法をした祇園精舎の疫病除けの神としてまつられていたものが、仏教とともに日本に伝えられた。八坂神社は江戸時代までは牛頭天王を祭神として牛頭天王社、あるいは祇園社と呼ばれていた。この近くの地域を祇園というのも祇園社にちなむ。
また、牛頭天王は古くから素戔嗚尊と同一視されていた。疫病神としての性格が素戔嗚尊の荒魂と重なったのだろう。そして、明治維新の神仏分離で牛頭天王は仏教由来の神ということで祭神から外され、同体と見なされていた素戔嗚尊を祭神として、新たに八坂神社と名乗った。
毎年7月に行われる八坂神社の祇園祭は疫病退散を祈願する祭で、他にも博多祇園山笠などのように「祇園」を関した疫病退散祈願の祭がみられる。また、牛頭天王を祭神として「天王祭」と証する祭りも行われている。こちらも同じく疫病退散祈願の祭である。
□ 言霊信仰と祝詞
インドでは太古の昔から、祭官の称える呪文が万物を動かすと信じられてきた。そして、これらの呪文を集積して成立したのが密教である。密教では真言、陀羅尼という呪文を駆使して、さまざまな利益を引き出すことができると考えられている。
祝詞の背景にも言霊信仰があり、これを奏上することによって神の霊力を授かることができると考えられている。祝詞がいつ頃から称えられるようになったのか、はっきりした時期はわからない。おそらく、4-5世紀頃には何らかの形で神に対する祈願や感謝の言葉が読まれていたものと考えられる。そして平安時代の中頃に完成した『延喜式』という法令書には多くの祝詞が収録されており、今も各地の神社では『延喜式』の祝詞が読まれている。
□ 注連縄・神輿・社殿の起源
注連縄は天照大神が岩屋から出てきたときに、二度と入らないように巡らせたのが起源。つまり、聖域と俗界とを隔てる縄である。
古代の神社には社殿がなく、榊や依代が神事や祭の中心だった。しかし、時代が下ると仮設の社が登場してくる。神事や祭の時だけの特設の社で、神事が終わると撤去されて次の神事や祭事まで大切に保管された。この仮設の社が、後に神輿担ったと考えられる。ちなみに社(やしろ)とはもともと家代(いえしろ)、家の代わりの意味である。
538年に仏教が伝来し、その半世紀後には隆盛期を迎え、仏教寺院の大伽藍が誕生すると、日本の神々にも家を建てなければならないという気運が高まってきた。
最初の社殿は、登呂遺跡の復元などにみられるような弥生時代の高床式の穀倉庫モデルにした。高床式穀倉庫は翌年に蒔く種籾を保存する倉庫で、中には棚を設え、そこに御倉棚の神を祭った。縄文時代から稲作を始めた日本人は古くから、稲の中には穀霊という霊が宿っていると考えていた。伊勢神宮や出雲大社の本殿は、その構造が高床式倉庫に似ている。伊勢神宮社殿の創建は天武天皇の時代(680年頃)、出雲大社はそれより半世紀ほど後である。
□ 基層宗教と成立宗教
世界の他の民族(例:北米インディアン、アイヌ、イヌイット、アボリジニー、マオリ等)のアニミズムは古代の習俗をそのまま残したもので、規模的にも集落単位である。
日本の神に対する信仰が他民族のそれと異なるのは、その規模が時代を追って大きくなり、組織も広範にわたるようになったことである。とくに仏教と密接に結びついたことによって、ますます強大化し政治的にも大きな力を持つようになった。
アニミズムは主として呪いや占い、祈祷などを行う原初的なもので、木や岩や森など身の回りの自然物が我々を守ってくれると信じられている。このような宗教は“基層宗教”と呼ばれるのに対して、仏教やキリスト教、イスラム教などは“成立宗教”と呼ばれて区別される。
成立宗教には仏典や聖書、コーランなどの聖典があり、教理もしっかりと具えられている。現在、世界の宗教人口は以下のようになっている;
・キリスト教:約20億人
・イスラム教:11億9000万人
・ヒンドゥー教:約8億1000万人
・仏教:約3億6000万人
□ 氏神(うじがみ)と産土神(うぶすながみ)と記紀神話の神
(氏神)ある特定の地域に住む共同体の祖先神
(産土神)その土地に古くから鎮まる神
上記が基本であるが、厳密に区別されることなく、一般的には“氏神”と呼ばれている。
これらの神々は、それを崇拝する共同体の構成員、すなわち“氏子”の繁栄を約束してくれる。もともと氏神は、ごく狭い共同体(ムラ)だけに降臨してそこの構成員を護ってくれる神だった。
現在では、共同体(ムラ)の鎮守の祭神も八幡神や天照大神などとされているが、もとは祖先神だったものが、作物の生育を助けてくれる太陽や水などの自然現象を神格化したものと結合したと考えられている。こうした神々が、記紀の神話などによって天照大神をはじめとするさまざまな神格に発展したのである。
時代が下って古墳時代(三世紀末〜六世紀中頃)になると、近隣の共同体を征服して領地を拡大する豪族が出現し、支配された共同体の氏神は支配者の氏神に無理矢理変えられていった。
豪族の頂点に立ったものが大和朝廷を築き上げた天皇家である。
この天皇の氏神が天照大神だった。天照大神はもともと太陽神で、太古より稲作を営んでいた我々の祖先の多くは、同種の太陽神を氏神として崇めていたと考えられている。しかし、大豪族の大和朝廷が出現すると、より強力な太陽神像が必要となり、各地に点在する太陽神系の氏神を統合する形で天照大神という強力な神を創り出した。さらにその正統を明らかにするために記紀の神話を作り、いざなぎ・いざなみをはじめとする神々の系譜と地位を不動のものにしたのである。
□ 日本古来の信仰と“神道”は別のものである
日本の神に対する信仰は、外界のあらゆるものに精霊が宿ると考えるアニミズムと日本古来の祖先信仰が融合したものである。神はいわば自然の摂理のようなもので、人々がそれに逆らわずに行動することにより、自ずと我々を正しい道に導いてくれて幸いをもたらしてくれるという。
祝詞には「畏(かしこ)み、畏み」という言葉が頻出する。「畏み」とは体を屈(かが)めて精一杯、畏敬の念を表しますという意味である。神事や祈願の折も、祝詞を読む以外はすべて無言で執り行うのが大原則で、鳥居を潜ったら頭を垂れて無言で神前に進む。
ここに述べた古来の素朴な神社を中心とした神に対する信仰と、いわゆる“神道”とは全く異なるものである。“神道”という言葉は、非常に政治的、政策的意味が強いのである。その最もたるものが明治維新以降の国家神道である。
□ 造られた「伊勢神道」
室町時代に伊勢神宮の外宮(げくう)の神官が「伊勢神道」というものを提唱した(度会神道とも呼ばれる)。もともと外宮は内宮(ないくう)に鎮座する天照大神の食事の世話をするために、豊受大神が内宮の創祀から約500年後に祀られた。
昔から外宮先拝先祚(せんそ)と言われるように、参拝に際してはじめに外宮に参拝し、神事や例祭なども外宮から執り行って、大御所の内宮に進むしきたりになっている。また外宮は社殿もやや小ぶりで、何かにつけて内宮に遠慮する形になっている。
しかし、古くから外宮には優秀な神官が集まった。室町時代になって、その神官らが内宮への劣勢を挽回するために打ち立てたのが伊勢神道である。彼らは『神道五部書』という聖典を作って、内宮よりも遙か昔に創祀された外宮が伊勢神道の起源であると主張した。
□ 室町時代に席巻した「吉田神道」
室町時代のはじめに京都の吉田神社の神職だった吉田兼倶(かねとも)という人物は、吉田神社を拠点に「吉田神道」を旗揚げした。
ある日、兼倶は「昨夜、吉田神社の本殿の前の松の木に伊勢の皇大神宮から天照大神が飛来して止まり、本殿の御扉を開けたところ中に入って鎮まった。続いて全国から八百万の神が続々と集まってきて松の木に降臨し、本殿に鎮まった」と言いだした。
吉田神社の本殿は八角形の独特な建築で、宇宙の根源という意味で太元宮(たいげんきゅう)と呼ばれている。これは宮中に八百万の神を迎えて祈念する八神殿という建物を模したものだ。兼倶はあらかじめ太元宮を建立しておいて、そこに八百万の神が鎮座したと喧伝したのだった。
律令制の時に整備された神社行政は、律令制の衰退とともにすでに平安時代には機能しなくなり、神社行政を担う神祇官という中央官庁も休眠状態になっていた。兼倶はこのような状況の中で、神社界の再編成を企てたのであった。その結果、兼倶は神祇官代として認められ、日本の神社行政を一手に担うことになり、その後も江戸時代まで吉田神道が日本の神社界を束ねたのであった。
□ 政治的に作られた「国家神道」の悪夢
明治維新以降に「国家神道」が作られた。
神道を担ぎ出して幕府を倒し、維新を敢行した勤王派の志士たちは、もともと天照大神を頂点にその子孫(天皇)が国を治めるのが我が国のあるべき姿(国体)であると考えていた。だから神道を国教として政治を司ろうと考えた。
しかし、この極めて集権的な思惑で作られた国家神道は、多神教であるはずの日本の神々の信仰を一神教にしてしまった。そして、そのことが日清戦争や日露戦争、ひいては太平洋戦争を戦う国家としての原動力となった。とくに太平洋戦争はイスラム教のジハード(聖戦)と全く変わらない様相を呈したのである。
□ 「靖国神社」
「国家神道」を象徴する靖国神社は明治2年に創祀された。
幕末の討幕運動の激化で、薩長の勤王の志士たちの間に多くの戦死者が出た。しかし江戸幕府にまだ勢力のあるうちは、殉難の士の鎮魂祭を公に執り行うことはできなかった。そこで、とくに長州(山口県)では、建武の新政の時の騒乱で神戸の湊(みなと)川で討ち死にした楠木正成の鎮魂祭を行い、それに紛れて殉難の士の御霊を鎮めた。この楠木正成の鎮魂祭「楠公祭」(なんこうさい)と呼ばれ、幕末も最末期になって幕府がほとんど死に体になると、長州では招魂社が創建されて公然と殉難の士を鎮める「招魂祭」が執り行われるようになった。
1867年、大政奉還を迎えて天皇が江戸城に入ると、江戸城内に東京招魂社が創建された。そして明治2年、参拝の便を図るために九段の現在地に新たに社殿を設けて英霊の御霊を祀った。その後、他の招魂社と差別化を図るために靖国神社と社郷を改めた。
□ 神仏習合から神仏分離へ
神道は八百万の神と言われるように、多神教である。
一方、仏教はもともと神のいない宗教である。しかし、大乗仏教の時代になると、多くの仏、菩薩、明王、天(神々)などが誕生し、日本に伝来した頃にはすっかり多神教に変容していた。
多神教は他の信仰と接近しやすい。
仏教も伝来してまもなく、徐々に神道と接近していき、時代が進むに従って神仏の関係は密接になっていった。
奈良時代になると、神と仏の関係に「神前読経」(神前で僧侶が今日を唱えるもの)という具体的な形が現れる。各地の神社で盛んに行われるようになり、まもなく“社僧”と呼ばれる神社所属の僧侶が常駐するようになった。
さらにこのような状況が進むと、「神宮寺」という神社所属の寺院が建てられるようになるのである。
平安時代になると、本地垂迹(ほんぢすいじゃく)という究極の神仏習合思想が搭乗する。「本地」とは本来の姿、「垂迹」は仮の姿という意味である。日本古来の神々は、インドの仏、菩薩が衆生を救うために現した仮の姿であるという意味である。
本地垂迹説は仏教を神道の上に位置づけるもので、言うまでもなくこのような思想は仏教側で作られたものである。
仮の姿は“権現”といわれ、時代とともに各地の名だたる神々は「○○権現」と呼ばれて盛んな信仰を集めるようになった。権現の権は「仮の」という意味で、文字通り仮に現れることを意味する。
さらに権現と並んで“明神”(みょうじん)という言葉も普及した。これはもともと「名神」(みょうじん)で、古くは由緒ある神社のことだった。しかし神仏習合が進むにつれて「明神」の字が使われるようになり、各地の名だたる神社は「○○権現」あるいは「○○明神」と呼ばれるようになったのである。
しかし明治維新を迎えていわゆる国家神道が唱えられるようになり、神道が国の宗教として定められると、国家としては神と仏をはっきりと区別する必要に迫られた。日本の神を拝んだら、その実体は仏、菩薩だったというのでは、日本の神道の面目丸つぶれだからだ。そこで維新政府は「神仏判然令」を出していわゆる神仏分離を徹底した。その結果、「権現」や「明神」という言葉は禁止され、全国に点在していた神宮寺などは撤廃され、神社に祀られていた仏像や境内にあった仏教的なお堂などの施設はすべて撤去された。
□ 檀家(だんか)制度と廃仏毀釈
明治維新政府の神仏分離政策を敢行した過程で起こったのが廃仏毀釈である。廃仏毀釈は国の政策ではなく、それまでの寺院や僧侶に反感を抱いていた民衆が寺院を攻撃し、仏像を焼き捨てるなど狼藉を働いた。廃仏毀釈は維新政府が意図したものではなく期せずして民衆の側から起こったものだという見方をする専門家も少なくない。
江戸時代に檀家制度が確立すると、民衆はどこかの寺の檀家になることが定められた。もともと檀家制度はキリシタン締め出しのために作られた戸籍制度だったが、これが確立すると寺院は檀家の葬儀などを行って定期的に布施を受け、経済的に安定した。僧侶は檀家1人1人の身元引受人となり旅行をするにも結婚するにも菩提寺の僧侶を通じて役所に届け出なければならなかった。
その結果、僧侶の中には檀家に対して不遜な態度をとる者もおり、民衆の中には長きにわたってその抑圧に耐えてきた者もいた。そこで、維新政府が神仏分離政策に着手すると、この政策を仏教撲滅運動と捉えた民衆が、いわゆる廃仏毀釈という暴挙に出たのである。
□ 山岳信仰と密教
山岳修行者は仏教伝来以前から存在しており、奈良時代以前にはすでに相当数の行者が吉野の金峯山(きんぷさん)、葛城山などで修行に励んでいたと考えられる。
そして、このような山岳修行者(山伏)の元祖として、今でも修験者(しゅげんじゃ)の間で敬われているのが役小角(えんのおづの)、別名役行者(えんのぎょうじゃ)である。
役小角は謎に包まれた人物で、歴史上の人物かどうかも判然としない。『続日本紀』の中に(文武天皇の三年:699年)、金峯山や葛城山で修行して超自然的な霊力を身につけ、空中を飛翔したり、妖術を駆使して人心を惑わせた「惑百姓」の罪で捕らえられて伊豆に流された、という記述がある。
山岳修行者は時代とともに増え続け、平安時代に空海が密教を伝えて、これが短期間のうちに普及すると、護摩などの加持祈祷を取り入れて密教との結びつきを強めることになる。もともと拠点となる寺を持たない行者たちは、ふだんは山中の岩窟や堂などで修行生活をしていたが、積雪期や閉山期になると拠点がなくなる。そこで行者たちは真言宗や天台宗の密教寺院に身を寄せるようになる。
加持祈祷や占いなどに優れた行者の存在は、受け入れる寺としても信徒を獲得するために好都合だった。その結果、平安時代から鎌倉時代にかけて密教寺院の数が増えていった。そこで室町時代になってこれらの山岳修行者の集団を独立させて「修験道」という一宗派を立ち上げたのである。
修験道では神と仏の両方を礼拝の対象にした。
□ 分霊(ぶんれい)される神社の神様
分霊とは神霊の一部をもらって他所にまつることで、別御霊(わけみたま)とも呼ばれている。
八幡社や稲荷社など同じ名前の神社が各地に点在するのはそのためだ。
ただし、仏教界の本山末寺のように、総本社が同じ祭神をまつる他の神社を支配することはない。大小の差はあってもそれぞれ独立している。
□ 摂社と末社
(摂社)本殿の主祭神と関係の深い神(親子や兄弟)を祭った社
(末社)神社の境内にある小さな社で、さまざまな祭神がまつられている。末社は室町時代以降、庶民信仰が盛んになると、それらの本拠地に参詣した人々がその御霊を勧請して地元の神社にまつったもの。
□ 神社、大社、神宮の違い
これらは神社の規模や由緒によるもので、神社の格式を表すものである。
(神社)村々にまつられているいわゆる氏神の社
(大社)各村々を統治する強力な豪族などの氏神は大神と呼ばれ、その大神をまつった社が大社
(神宮)天子(天皇)の御殿に勝るとも劣らない美麗な社という意味
もともと神宮号が許されたのは皇祖神(天皇家の祖先神)をまつる伊勢の皇大神宮だけだった。ついで平安時代には関東の鹿島神宮と香取神宮が神宮号を許された。この両神宮は東国(東北)警護の最前線にある極めて重要な社だったからである。
明治になって各地の神社が神宮を名乗るようになった。明治二年に創祀された札幌の北海道神宮、明治二十二年に創祀された奈良の橿原(かしはら)神宮、明治二十八年創祀の平安神宮、大正九年に創祀された明治天皇と昭憲皇太后をまつる明治神宮など。
□ 鳥居
鳥居は俗界と聖域を隔てる結界で、記紀神話では岩屋に隠れた天照大神を引き出すときに常世の長鳴鳥(鶏)を止まらせた止まり木が起源で「鳥が止まり居るところ」から鳥居というのだという。
そのほか、鳥居の起源については諸説ある。
□ 樹木信仰
神社境内・社域に自生している樹木や草花を伐採したり、摘み取ったりすることはタブーとされている。ほとんどの神社の鎮守の杜は、台風や大雪による倒木の危険を防ぐためなどやむを得ない事情がない限り、決して伐採することはない。
樹林帯に恵まれた日本では樹木に対する信仰が強く、とくにご神木などに対する霊木信仰が盛んである。ご神木や霹靂木(落雷を受けた木)は霊木と見なされ、伐採することは許されない。そしてその霊木が立ち枯れした場合は、建築材や調度品などの用材としては決して使ってはいけないという掟がある。それらの霊木の多くは仏像や神像をつくるのに用いられ、できあがった像は再び信仰の対象となるのである。