知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「東京が焼きつくされた日〜今語る東京大空襲」(2016.3.24:BS朝日)

2016年08月07日 11時12分19秒 | 震災
番組内容
 日本の首都東京の下町がたった一夜、しかも2時間で焼き尽くされた、1945年3月10日東京大空襲。10万もの人たちの人生が犠牲になりました。そして生き残った多くの人生も大きく狂わされました。もはや人と言う尊厳さへも失われた形で積み上げられた数多くの屍には、それぞれの人生が確かにそこに生きていました。
 それから70周年を経て、今年は71年目。あの悲惨な出来事を話して下さる方々が年々少なくなってしまっています。番組では、あの日何が起き、人々はどう生き抜いたのか。今なお様々な思いを抱えた人や戦火の傷跡が残る場所を、若手俳優の大野拓朗が辿り、その眼を通して実感あるものとしてお届けします。家族6人が犠牲になった海老名香葉子さん、母の決断に命を救われた毒蝮三太夫さんをはじめ内海桂子さん、桂由美さん、野村万作さん他、生と死が隣り合わせであった壮絶な光景、貴重な体験談を語ります。
 今なお癒えることのない空襲の傷跡から多くの事を感じ、思い、そして次世代へ。戦争の悲劇を繰り返さないために、いま私たちに出来る事とは何かを問いかけます。


人間の歴史の中で最大級の無差別殺戮事件、それが東京大空襲です。
わずか2時間の間に10万人が死亡し、100万人が焼け出されました。

使用された爆弾は「M69焼夷弾」(ナパーム弾)。
破壊ではなく火災を目的にした特殊な爆弾です。
爆薬にパーム油を混ぜることによりゲル化し、標的に当たるとそれが四方に飛び散り、何かに付着すると剥がしにくく、火がつくと1000℃で燃え続けるもの。
アメリカは日本家屋が木造であることを研究し、効率的に被害を大きくするための開発したのでした。

1945年3月10日の東京大空襲には、325機のB-29により30万本(1665トン)の焼夷弾が投下されました。
文字通り、東京は火の海になり、生き地獄の様相を呈しました。

一方、日本の空襲・火事対策は防空壕とバケツリレー。
ナパームは水をかけてもはじいてしまい、火は消えません。
バケツリレーは役に立ちませんでした。
火の海状態で防空壕に避難すると、窒息死が待っていました。
水を求めて川に飛び込むと、3月の水温は10℃と冷たく、溺死・水死が待っていました。

しかし、消火作業をやめて逃げることは犯罪行為に近く「国賊」と非難されました。
国が指導する避難対策により逃げるに逃げられない男達は、子どもだけ逃がして自分は残り、その結果死者が膨大な数になりました。

親を失った戦災孤児は数万人を数え、しかし遺体が行方不明の場合は「遺族」扱いされません。
軍人には戦後補償がありましたが、民間人の空襲被害者には補償がありません。

国が始めた戦争ですが、都合が悪くなると責任者は逃亡し、責任の所在をうやむやにしてしまう体質に、原発事故と共通するものを感じました。

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「沈黙を破る手紙〜戦後70年目のシベリア抑留」(2015.9.6:NHK、ETV特集)

2016年08月06日 21時43分20秒 | 震災
番組内容
太平洋戦争終結後、57万以上の人々がソ連の収容所に連行され、少なくとも5万5千人が犠牲になった、「シベリア抑留」。京都府の舞鶴市で、シベリア抑留の知られざる断面を物語る貴重な資料が見つかった。それは、当時公表されていなかった抑留者の安否と帰国の予定を、その家族に伝えた手紙。終戦後、生死もわからず、いつ帰るとも知れない夫や子を待ち続ける家族にとっては、まさに"希望の手紙"だった。
当時シベリアに抑留されていた人々の多くは、氷点下40度を下回る屋外で、森林伐採や鉄道敷設といった肉体労働に従事。みずからの生死を家族に知らせる手段さえなかった人がほとんどだったという。そうした中、なぜ、抑留者の安否を知らせる手紙が届けられたのか?
カギとなったのは、アメリカとの冷戦下にあったソ連が、共産主義のプロパガンダのために放送していたという国営ラジオ放送。そのラジオ番組を通じて、大阪に住んでいたひとりの青年と、抑留されていた元新聞記者とが偶然にもつながれ、700通にも及ぶ希望の手紙に結びついたのだった。 戦後70年。時を経て見つかった手紙の先にあったのは、終戦後も戦争と国家に翻弄された抑留者と家族たちの苦難。さらに、手紙の発見をきっかけに、封印していた記憶を語り出した元抑留者や、教科書の中でしか知らなかった戦争を身近な問題として捉え始めた若者もいる。
今、手紙が私たちに問いかけることとは何か?いまだ癒えることのない抑留者や家族一人一人の声に耳を傾ける。


二人のキーマンが登場します。
一人目は、シベリア抑留者で元樺太の新聞記者である木村慶一さん。
彼の抑留生活は寒さに凍える肉体労働ではなく、モスクワ放送の日本語放送を担当することでした。
その内容は、日本へ向けて共産主義の優秀性をひたすら訴えるプロパガンダ放送。
そのほんの一部を使って、シベリア日本人抑留者の安否情報を流したのでした。

二人目は、シベリア抑留者の安否情報を手紙に書いて家族に送った電気工の坂井仁一郎さん。
彼はモスクワ放送の日本語放送をラジオで聞いて、それを筆記したのでした。
安否情報が流れた人たちは、実際にその後舞鶴港へ帰国することになりました。

なぜこんな事が起きたのか?

太平洋戦争を終結させたポツダム宣言には「敗戦国の捕虜を速やかに帰国させる」というルールがありました。
しかしソ連は、日本人をシベリアに抑留し労働させるという行為を続け、そのルール違反は国際社会から強く非難されていました。
抑留者の安否情報はその批判をかわすトリックだったのです。
ソ連のずるい体質は昔から変わらないのですね。

シベリア抑留の目的は強制労働だけではありません。
抑留している日本人に思想教育を行い洗脳し、その後帰国させて共産主義を日本に広めるという目的もありました。
つまり、抑留者はプロパガンダを目的とした武器に仕立て上げられたのです。

実際にシベリア抑留からの引き揚げ者の中に、共産党へ入党したり、町中で赤旗を振ってデモ行進を行う人もいました。
そのため、引き揚げ者は「アカ」と呼ばれて差別され、就職できない状況も発生したそうです。
どう転んでも、戦争は不幸な人を作り出します。

ハバロフスクにあった日本人収容所は1953年に取り壊されました。
今は草原になっており、そこに収容所があったことを知る人は少なくなりました。

戦争の歴史が風化すると、戦争経験のない人たちが、また戦争を仕掛けるというのが歴史・・・やりきれない気持ちだけが残りました。

戦争中の強制労働の補償について。
中国人や韓国人が日本政府や企業に対して訴訟を起こし、見舞金をもらっているけど、シベリア抑留された日本人はなぜ訴えないのでしょうか?
筆舌に尽くしがたい経験であり、口を閉じて墓場まで持って行くということ?
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“終戦”〜知られざる7日間(2015.8.16:NHKスペシャル)

2016年08月06日 17時55分11秒 | 戦争
番組解説
8月15日の玉音放送で終結したと思われてきた太平洋戦争。しかしその後も各地の部隊が特攻作戦を続け、米軍上陸に備えてゲリラ戦の準備も行われるなど、本土決戦への意欲を高めていた。
一方、日本進駐を進めようとしていた米軍は、日本の部隊が戦闘をやめない事態を想定。武力で日本上陸を行うことを計画していた。再び戦闘が起きれば本土が戦場となり、私たちが知る戦後と違う道を歩む可能性もあったのだ。当時、政府・軍中央の統制は弱まり、空白期間とも言える状況に陥っていた。この危機を乗り越える原動力となったのは、「終戦の詔勅」に向き合い、部下にどう行動すべきかを説いた前線の名も無き将校たちだった。
玉音放送から戦闘が停止するまでの“緊迫の7日間”を追い、今に至る戦後へと踏み出した日本人の姿を見つめる。


1945年8月15日、玉音放送で太平洋戦争は終戦を迎えました。
天皇の言葉を賜り、一般国民は納得しました。

しかし、兵士達は納得するのに時間がかかりました。
前日までは敵を殲滅するという至上命令で戦ってきた人間に、戦争が終わったから今日から武器をおきなさい、といっても頭と体がついていきません。

8月15日時点で、国外に派遣されていた日本兵士は800万人いたそうです。
まず、外地の兵士達は直接玉音放送を直接聞いておらず、「天皇がそんなことを言うなんて信じられない」状態。

かつ、戦闘状態は各地でまちまちでした。
特に中国南部に展開していた「支那派遣軍」は優位に立ち、負けを認める雰囲気は全くなかったといいます。
そこにいきなり武装解除となれば、混乱は必至、攻められていた中国軍の反撃も予想されます。

それから、日本には海上の特攻隊である「震洋隊」が組織されていました。
2×6mのボートの頭部分に火薬を詰め、敵艦船に体当たりして自爆する船が、本土決戦に備えて全国に2000隻以上配備されていました。

日本政府は鈴木貫太郎内閣が総辞職し、皇族の首相へ変わるとともに戦争最高会議を戦後処理委員会と名称を変え、終戦をソフトランディングさせるべく知恵を絞りました。
アメリカ進駐軍とのトラブルを避けるためにはゆっくりと1ヶ月をかけて終戦処理を進めたいとアメリカに提案したところ、アメリカは即刻進駐する旨を突きつけてきました。

その裏事情は、ソ連侵攻にあります。
ソ連は日本領土だった樺太を制圧し、数日以内に北海道に進出する勢いでした。
それを阻止するためには、アメリカが早期に進駐して日本を管理する必要性があったのです。

8月19日に軍部大本営から命令が下されました。
「8月22日を持って一切の戦闘行為を停止する」
戦いに明け暮れた兵士達をなだめて戦争を終わらせるには、大変なエネルギーが必要だったことがわかりました。
判断を誤れば、北海道はソ連領になっていたかもしれません(戦後も返してはくれないでしょう)。
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カラーでみる太平洋戦争(2015.8.15:NHKスペシャル)

2016年08月06日 15時41分10秒 | 戦争
番組紹介
1941年12月8日の開戦から4年にわたって続いた太平洋戦争。
その間、各地の戦場での記録映像をはじめ、国内の動きを伝えるニュース、庶民が撮影した銃後の暮らしなど、膨大な映像が残されているが、その大半はモノクロである。戦後70年にあたり、NHKでは、4年間にわたる「戦争の時代」を記録した映像を国内外から収集。徹底した時代考証を行った上で、最新のデジタル技術を駆使して、映像のカラー化に挑んだ。フルカラーでよみがえった映像には、雪のアリューシャン列島での行軍から、熱帯の島々での激戦、戦時下の日常や庶民の表情、そして、終戦の日の鮮やかな青空、次の時代に向かってたくましく動き出した人々の姿など、この4年間の日本人の歩みが刻まれている。
番組は当時の人々の日記や手記に残された言葉を織り込みながら、カラー映像で太平洋戦争の4年間を振り返る。昨秋放送して大きな反響を呼んだNHKスペシャル「カラーでよみがえる東京」に続く“試み”である。


今年も8月がやってきました。
71年前に日本が敗戦した月。私にとっては戦争を考える月。
昨年録画しておいた番組を1年遅れで見てみました。

白黒映像は自分と違う世界の物語のように感じますが、
カラー映像は「遠い昔じゃない、つい先日のこと」と迫ってきます。

戦争に関する情報提供や教育を避ける傾向のある日本では、50歳を過ぎた私の世代でも知識が不十分です。
この番組を見て、今まで知らなかったことがいくつも出てきました。

たとえば、アリューシャン列島のアッツ島での戦闘
雪と氷の世界の中、食料補充が不十分で疲弊していく兵士たち、ついにはアメリカ軍との戦闘の末、全滅します。

ガダルカナル島は「餓死島」をもじって「ガ島」と呼ばれ、玉砕して撤退したことを国内ニュースでは「転進」という言葉でごまかします。

神風特攻隊は、戦艦武蔵の沈んだフィリピンのレイテ島で始まりました。
ボロボロの機体に往路の燃料と爆弾のみを積み込み、敵戦艦に体当たりする戦法。
国のため、天皇のためと洗脳された20歳前後の若者たちが命を落としていきます。
現在ISが使用する「自爆テロ」作戦とどこが違うのでしょうか?

1945年にアメリカはサイパン島を奪取し、日本はB-29の攻撃範囲に入り、本土空襲が始まりました。
はじめは攻撃対象が軍事施設だけだったのが、徐々に無差別爆撃に変化していきます。
この戦争犯罪は、勝ち組であるアメリカ故に今でも検証されていません。
唯一、オリバー・ストーンが映像で投げかけているのみ(オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史)。

1945年7月にポツダム宣言が発表され、日本に無条件降伏を呼びかけました。
しかし、日本の中枢は受諾を躊躇しました。
その結果、8月6日午前8時15分に広島に原爆が投下され、その年だけで14万人が死亡しました。

8月9日には長崎に違う種類の原爆が落とされ、7万人が死亡しました。
そして8月15日、ポツダム宣言を受け入れて日本は降伏し、終戦を迎えました。

ソ連が参戦したのは長崎に原爆が落とされたのと同じ8月9日であることを初めて知りました。
しかしソ連は8月15日を過ぎても攻撃をやめず、シベリア抑留が始まります。
そう、ソ連はずるい国です。
今後つき合っていく際に、覚えておかねばなりません。

□ 「NHKスペシャル カラーでみる太平洋戦争」(Youtube)
□ 「NHKスペシャル カラーでみる太平洋戦争 〜3年8か月・日本人の記録〜」(amazonで販売しているDVD)
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