知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

100分 de名著「日蓮の手紙」 by 植木雅俊氏

2022年08月23日 17時09分29秒 | 寺・仏教
私は日本の仏教があまり好きではありません。
一応、曹洞宗のお寺にお墓はありますが。

なんていうかな・・・釈迦の教え(原始仏教)が世界に広まる過程で、
いろんな地元宗教を飲み込んでいき、
ずいぶん姿を変えてしまっていると感じるんです。

例えば、修行で痩せたイメージのある釈迦です。
修行しても覚りの役には立たないと釈迦は覚り、
厳しい修行を捨てたと聞いています。

でも、日本の曹洞宗(道元)などは、今でも必要以上に厳しい修行を課しています。

釈迦の教えでは「男女平等」でした。
しかし「男尊女卑」思想のあるバラモン教の影響で、
いつの間にか日本仏教でも「男尊女卑」が当たり前になっていました。

そんな流れに異を唱えたのが鎌倉時代に生きた日蓮です。
異を唱えれば、抵抗勢力が発生します。
彼は時の政府(鎌倉幕府)寄りの宗派から迫害を受けたり、
えん罪を突きつけられたり・・・。

おかげで伊豆に左遷されるは、
死刑で向かったはずの佐渡に流されるは・・・
波瀾万丈の生涯だったようです。

さてこの番組は、日蓮の残した著書ではなく、
彼が門徒や弟子やその奥さんに書いた手紙を紹介する内容です。

するとどうでしょう。

説教臭い要素は一切感じられず、
ときに顧問弁護士だったり、
時にカウンセラーだったり、
相手を思いやる気持ちにあふれた手紙の数々なんです。

武士の時代にあって、
「女人も男子と同じ、イヤそれを越えてエライ」
なんて発言すれば、闇討ちに遭いそうですよね(実際合ってます)。

悪いことばかり降りかかる女性に向けては・・・
彼女は夫を早くして失い、長男も失い、三男も失い、
慰める言葉が見つからない境遇です。

彼女に日蓮は、
「◯◯さんの方が不幸だから大丈夫」
とかで慰めることはしません。

その時代に起こった蒙古襲来。
戦うために九州に出向く夫と、
すがりつく妻。
世の中にはいろんな悲しみがあります。
そちらに目を向けてはいかがですか?

という離れ業のカウンセリングをしたのです。

とにかく、希有な思想家だと思いました。
すごいのは、どんなことがあっても、どれだけ迫害されても、
それを一生貫いたこと。

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「神の発見」(五木寛之 vs 森一弘 対談集)

2018年11月01日 19時11分12秒 | 寺・仏教
 ときどき、五木寛之氏の著書をふと思い出して読みたくなります。
 彼の文章は、私の琴線にビシビシ響いてくるのです。

 なぜなんだろう?

 私にとって、五木氏は“人生のダークサイドの語り部”といったところ。
 学校で習う歴史は表舞台で活躍した人たちですが、その裏に虐げられてきた人たちが常に存在しました。
 昔から私は、自分と同じ庶民・平民・民衆が何を信じてどのように生きてきたのかに、非常に興味を持ちました。
 大学生時代は民俗研究部に所属し「信仰」を担当していました。

 五木氏は大衆文学作家ですが、仏教にも造詣が深く、また民間信仰にもまなざしを向けています。
 ときどき垣間見える裏日本史に心惹かれます。

 この本は、そんな五木寛之氏と神学者の森一弘氏の対談集です。
 「神」なので「神道 vs キリスト教」のつもりで読み始めたのですが、内容は「仏教 vs キリスト教」でした。
 いや、“versus”という感じでもなく、その究極は同じところへ収束していくような、不思議な印象さえありました。

 若かりし頃の私は、キリスト教にも興味があり、教会の日曜礼拝に参加したこともあります。
 そこでは皆朗らかに賛美歌を歌っていました。
 「!?」
 悩みの塊だった二十歳の私には、何の悩みもないとでも言いたそうな彼らの表情を不思議な思いで見つめました。
 そして「自分の悩みをすべて神に託して楽になるんておかしい」と感じ、キリスト教に興味を失いました。
 洗礼を受ける前の森氏も教会へ行ったときに「信者たちの明るく取り澄まして、すべての問題に解答を見つけているような態度に、強い反発を覚えた」と言っていますが、まさに同じ体験です。

 お二人の対話の中で、仏教とキリスト教の相同性が浮かび上がってきました。
 それは「悪人正機説」(“善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや”)。
 浄土真宗を開いた親鸞の言葉ですが、キリスト教の原点も同じらしい。
 五木氏は「親鸞思想のある部分が、キリスト教徒重なり合うことに驚く」とコメントしています。

 そして森氏と五木氏の口からふと漏れた言葉が、この対談の核心部分かと;
 「キリスト教は、五木さんのおっしゃる“他力”以外のなにものでもないように思えます」
 「大いなるものに身をゆだねる、ということですね」

 読み終わってみて、私のキリスト教像が少し変わりました。
 どう変わったかと聞かれても、答えにくいのですが。
 また、宗教は布教が進んで広がると、原典から翻訳を経へて内容が少しずつ変化していく運命にあるようですね。

・私(五木氏)は自分で勝手にブッディストだと思っている。
 ブッダと一般に呼ばれる釈迦に深く共感し、その思想と生き方に帰依してきた。
 しかし奇妙なことに、いつも読んで感動するのは聖書である。親鸞の言行を記録した『歎異抄』を読んでも、ああ、このくだりは聖書の中のあの部分と重なるな、と感じたりするのだから困ったものだ。


 五木氏は聖書と歎異抄の相同性について何回も言及しています。

・明治にはじまる西洋・欧米文明の到来(文明開化)により私たちの生活様式は一変した。漱石はその変化を「西洋の猿真似」と呼んだ。彼の言わんとしているところが私には、何となくわからないでもない。

 西洋のうわべだけ借りてきて「日本も先進国の仲間入り」気取りであることに批判的立場なのは、河合隼雄氏もそうですね。

・「洋魂」とはなにか。
 それがキリスト教的文化であることは、すでに誰でも知っていることだ。
 市場原理といい、自由競争といい、その経済システムを土台で支えるのは「見えざる神の御手」に対する深い信頼である。
 ・・・・・・
 すなわち西洋・欧米の近代文明とは、基本的にキリスト教文化であり、それが洋魂と呼ばれるべきものだろう。


 では洋魂と対になる和魂とは何でしょう。
 日本は明治維新で和魂を否定し、洋魂を積極的に取り入れました。
 しかし戦争で負けたことにより、洋魂も否定することになりました。
 では何を魂のよりどころにすればよいのか?
 五木氏は「無魂洋裁」と表現します。
 しかしよりどころのない魂は疾走し転覆する運命にある、それが現在の日本であると指摘しています。

・フランシスコ・ザビエルの来日、伝道からおよそ450年、私たち日本人は、容易に洋魂を取り入れようとはしなかった。
 弾圧と殉教の歴史を経て、19:58現在、日本におけるキリスト教者の数は、国民の1%強であるという。


 日本人も“キリスト教的なもの”をたくさん取り入れてきました。
 私自身もバッハやヘンデルの楽曲が好きでよく聴きますし。
 しかし前述のように私はクリスチャンではありません。
 日本のキリスト教徒の少なさは、よく韓国と比較されますね。

・“イエス”はファーストネーム・名前で、“キリスト”がサーネーム・姓と多くの日本人は勘違いしている。
 “イエス”は固有名詞で人の名前、“キリスト”というのはイエスに付けられた称号で、神から贈られてきたメシア、救い主という意味。
 だから、イエス・キリストというのは「救い主として送られてきたイエス」ということになる。


 なるほど、なるほど。

・釈迦という、釈迦族といわれる人々のなかにプリンスがいた。
 29歳の時、彼は現実生活に飽き足らず出家してある直観的な理解を得て悟りを開いた。真実を悟った人という意味で「ブッダ」と呼ばれる。
 だからブッダは彼の他にもたくさんいる。彼はその中で、釈迦仏陀、ゴータマ・ブッダといわれ、その人が釈迦如来とされて、今は偉大な仏になっている。
 

 これは“釈迦”“ブッダ”にも共通する誤解ですね。

・『旧約聖書』は、キリストの出現に向かい、キリストの出現において完結するというのが、キリスト教の教えである。キリストの出現以後が『新約聖書』の世界。
 実は、『旧約聖書』はキリスト教だけでなく、ユダヤ教もイスラム教も聖典としている。
 ただし、ユダヤ教はキリストをメシアとして認めない。
 キリストは予言者の一人で、神の働きはマホメットで完結する、というのがイスラム教である。


 『旧約聖書』はキリスト教だけではなく、ユダヤ教とイスラム教の経典でもあることを以前知って驚いたことがあります。根っこは一緒なのですね。
 しかしその後袂を分かち、対立するようになったのは皮肉としか言いようがありません。

キリストが生きた時代のユダヤ人社会は“男尊女卑”だった。
 当時のローマ、ギリシャ社会のメンタリティーの影響であり、教会は誕生当時から男尊女卑、男性優位だった。
 その頃の指導者の一人パウロが書いた書簡が残っている(『新約聖書』「テモテへの第一の手紙」);
 「女性は静かに全き従順を学ぶべきです。女性が教えたり、男の上に立ったりするのを私は許しません。むしろ静かにしているべきです。」


 かつての“男尊女卑”を、時代の変遷とともに変えてきたのがキリスト教、旧態依然に残ったのがイスラム教ということでしょうか。

キリストの教えによる救いは、個人の修行ではなく、キリストに出会い、キリストに包まれることにあった。
 ユダヤ教の伝統の中にも、修行という概念はない。
 キリスト教の歴史の中で、修行者たちが現れて、岩穴に籠もって修行を始めるのは、3-4世紀になってから


 これは意外でした。
 「聖職者は厳しい修行を自らに課して到達するもの」というイメージは、後から作られたもののようです。

・キリストはユダヤ人である。
 キリストを十字架に張りつけた人たちと、キリストは同胞だった。ユダヤ教の中の、新しい体制改革というか、いろんな形での革新運動の様なことを言い出したために、迫害された。
 キリストは人間である。
 キリスト教は、キリストを、苦しむことも、悲しむことも、喜ぶこともできた、真(まこと)の人として捉えている。


 キリストは神であり崇高な存在である、というイメージがありますが、キリスト教の中では人間というとらえ方なのですね。

キリストは“神の子”である。
 “神の子”という表現には、いろいろな意味がある。『旧約聖書』のなかでは、神の子という場合は、神から選ばれたという意味が強く、王たちが神のこといわれていた時代もある。
 『新約聖書』になると、キリストが神の本質を持つ神である、という意味が出てくるが、キリストの生き方や役割を表す場合もある。
 生き方そのものが、人に対する優しさや慈しみに満ちていれば、それは神の姿だろう、あるいは、神の命を受けて生きているはずだ、という使い方がある。
 のちに教義が確立して行くに従って、神の子というものが、神の本質を持つ存在という意味にアクセントがうつっていく。
 “神の子”には、神の世界、神の光を伝え生きる「証し人」という意味もある。
 「あなたがたも、神の子となる」とは、キリストの愛というものに自分たちがすがり、それを信ずることによって、私たちも神の国の住人になれるだろう、と考えられる。


 キリストは人間ではありながら、神のような生き方を実践した人、ということでしょうか。

・四つの福音書の出だしは皆違う
「マルコの福音書」・・・キリストをいきなり荒れ野に登場させている。
「ヨハネの福音書」・・・はじめに御言葉があったと、キリストを言葉として紹介する
「マタイの福音書」・・・キリストの系図をまず語り、そのあとに残酷なヘロデの支配する時代に生まれて、そのために赤ちゃんたちが殺されて、母親たちは嘆き悲しんだというエピソードが語られる、
「ルカの福音書」・・・キリストの誕生によって、人々の間に喜びが広がっていく様子を語る。
 ただし、キリストが救い主であることを伝えようとする点においては同じである。


 知りませんでした。

 人々が、神とか仏とかひっくるめて、宗教というものにふっと心を惹かれたりするのは、世界に悲しみが充満しているときである。そういうものがこの世に全くなければ、神様も仏様もありえない。

 現代の悲しみに、宗教は対応できているでしょうか。

・キリスト教の中心になるのが、十字架と復活である。
 この中心となるものを、本当に身をもって体験しているのは、当時、社会の底辺で差別されて呻いていた女性たちである。
 キリストが十字架に磔られた時、のちの指導者になる男たち、ペトロなど弟子たちはみんな逃げてしまい、ユダヤ人を怖がって怯え隠れている。逆に社会的に人間的に痛めつけられていた女性たちは離れずに十字架の元にとどまり、復活を真っ先に体験した。
 男たちはのちに教会のリーダーになっていくが、彼らは人々の前に立つ前に、こういう女性たちのところへ行ってキリストのことを学ばなければならなかったのではないか。弟子たちは、彼女たちとキリストとの出会いを詳しく聞いて、キリストを深く理解できるようになったのではないか。
 この世の底辺に生きている人たちを支えたキリストの中に、真の光があると思う。

 人間イエスは、人々の、とくに世の中の底辺で苦しむ人たちの悲しみ、苦しみに寄り添いながら、愛の教えを説き、当時のユダヤ教社会の宗教的指導者と真っ向から対立し、ついには十字架に磔られて死んでいった。
 守旧派にとっては、イエスは自分たちの痛いところをズバズバついてくる憎らしい若造だった。その人物が死んですべてが終わったと思ったら、今度は死者の中から復活した。そして弟子たちを一つにまとめて、やがてそれがキリスト教という世界に広がる教団となっていく。


 この部分、すごくわかりやすく、かつ今まで知らなかったキリスト教の本質を教えてくれる文章です。

 当時のユダヤ教社会には「神は罪人を嫌われる。罪人と交わるものは穢れる。」というメンタリティが支配していた。そんな中で、イエスはつらい人生を歩んでいる人たちを、見て見ぬふりをつることができなかった。
 例えば穢れていると見なされていた、収税人マタイに声をかけ、彼らと会食をしたり、律法学者たちが見守っている中で、絶対に侵してはならないと思われていた、安息日の掟を破り、あえて病人を癒やしたりした。
 イエスが十字架に磔にされたのは、硬直した「神」という概念にこだわり、人間への温かなまなざしを失ってしまっていた指導者たちを、真正面から糾弾したからである。


 この部分を読んで、親鸞の悪人正機説を思い出しました。
 共通する考えがあると思います。
 このような世の中が続く限り、キリスト教ほか、宗教が必要とされるのでしょう。

・なぜカトリックの聖職者・神父は独身なのか?
・・・物欲・性欲・支配欲。これは人間が生きていくために必要な欲求である。そのために、また罪深い人間は、迷い、執着し、争ってしまう。独身制は、そうした欲望を断ち切ってすべてを神にゆだね、人生をキリストのように生きることを、基本的に理想としているから。
 一方、プロテスタントの牧師は結婚を認められている。

 日本の仏教でも、昔は皆、お坊さんは独身だった。
 俗世間を離れ、剃髪して仏門に入るとき不犯(ふぼん)の誓いをする。一生女性と交わらないというもので、妻帯しない掟になっていた。
 しかし多くの場合、それは形骸化されていった。
 親鸞は、その現状を嘆き、守れない掟に縛られて罪の意識を抱きながら生きるよりは、その形骸化された掟を乗り越えて、新しい出家のあり方を問うた。自ら恵信尼を妻西、新しい宗教者の生活を行った。


 う〜ん、でも日本では「自らの心身を厳しい修行の中に置く聖人」でなければ民衆からの尊敬は得られない、というイメージがありますね。

・「霊魂の暗夜」と「回心」
 (森氏が)修道生活に飛び込み、祈りを中心とした生活を送っても神は現れず、こころは無味乾燥という時期があった。カルメル修道士たちはそれを「霊魂の暗夜」と呼ぶ。
 仏教における、白隠禅師も罹ったという「禅病」というものがそれに相当すると思われる。頭で考えすぎて、強度の自律神経失調症に陥り、重病になってしまう。
 こころが神の方に向く瞬間が劇的に訪れることがある。カトリックではこれを「回心」と呼ぶ。神からそれて他のところに行っていたこころを、ぐるっと回すことによって、神と出会うという意味である。
 その瞬間は、それまで自分の力に頼っていた生き方から、神にゆだねて生きる生き方への転換である。
 (五木氏)それを「他力の風が吹いた」と表現している。それは「大いなるものに身をゆだねる」という考え方である。


・「原罪」について
 アダムとイブはエデンの園の禁断のリンゴを食べてしまった。
 これを「命令に背いた」ではなく「警告を無視した」と解釈すべきである。
 神は「善悪を知る木の実」に手を出すと危ない、と警告したのである。
 「善悪を知る木の実」とは、倫理道徳の善悪ではなく、自分の欲望や欲求を中心に、ものごとの善し悪しを決めてしまう“エゴイズムの実”、自分に幸せをもたらしてくれるものを善とし、そうでないものを悪とする態度に味をしめてしまうこと。
 「なんでも自分中心に物事を考えると不幸になる」という警告を無視したということ。


・キリスト教の“”救いとは? 
 キリストの手をしっかりつかむことと、キリストの心を生きること。
 (森氏が)信じている神様は、天国の門の前に出て、来る人来る人に頭を下げて、「こんなひどい世界と苦しい人生を与えてしまって申し訳なかった」と謝っている神様。
 遠藤周作は“裁く神”から“ゆるす神”へと書いた。ゆるすのでもまだ足りない、謝る神。


・キリスト教の「天国」とは?
 本質的には「神との愛の交わりの世界」、聖書的には「苦しみや悲しみや死のない世界」。
 歴史的に見れば、その背後には、ローマの弾圧があり,迫害に耐えている信者に励ましを与えようという気持ちが働いていたと思われる。
 『旧約聖書』には“楽園思想”がある。アダムとイブが置かれた最初の状態も、幸せな楽園だった。エデンの園に置かれた人間の役割は、園を守り耕すことであった。世界を混乱させ、働くことが苦労となるのは、人間の欲望と罪のせいである、というメッセージが聖書にある。
 キリストが出てくると、そういう楽園思想は背後に退き、「愛」という言葉が大きな意味を持つようになった。
 キリストは、死んだらどこへ行くか、という問いについて明確なメッセージを与えていない。キリストは、死後の世界について、愛を生きた者が永遠のいのちに与るとか、神と一緒にいる状態、という風に言っている(キリスト教には“輪廻”の考え方はない)。
 教会の絵にある煉獄は,教義の中から生み出されたもので、キリストの直接のメッセージではない。
 天国のイメージそのものは、初期のユダヤ教の時代から、変遷してきている。
 キリスト教がギリシャ哲学と結びついたときに、人間というのは、霊と魂、肉体と精神、そういう存在であるという人間観が一般化した。そこで天国とは、肉体の束縛から解かれた純粋霊(精神)が神と交わる世界というイメージができ、それが天国の説明となった。


 日本人の“死んだら天国へ行く”というイメージはどこから来ているのでしょう。
 肉体が朽ちて精神が浮遊し、その心地よい居場所、というイメージは、原始キリスト教にはなく、肉体と精神を分離したギリシャ哲学の影響があるのですね。
 仏教で“天国”に相当する言葉は“浄土”でしょうか。
 「ご冥福をお祈りします」という言葉は、“冥土”という暗い世界に落ちていく人に幸あれと送り出す意味になってしまいます。
 いろんな要素が入り交じって、現在我々が使っている「天国」がありそうですね。

 現在、宗教の魅力が衰えているのは、浄土思想・天国思想が衰微したからだと五木氏が指摘しています。
 しかし近年、日本であれば自然災害、中東では宗教・民族紛争でこの世の中に希望が見いだせないことがたくさん起きています。
 そろそろ宗教の出番でしょうか。

・悪人正機における五逆の罪
 悪人正機説には「但し、五逆を除く」という文言がある。五逆とは、
① 母を殺すこと、
② 父を殺すこと、
③ 聖者を殺すこと、
④ 仏の体を傷つけること、
⑤ 教団の和合一致を破壊し分裂させること、
 これらを犯した者を指し、その人たちは救われない。つまり悪人正機説は無差別救済ではなく、選択救済ということになる。
 除かれた人は、どこへ行くかというと、浄土の端っこの方の辺地に置かれて、そこで、かなり長い時間を過ごした後、ほんものの浄土へ行くことになる。


 “悪人”とはイコール犯罪者という意味ではなく、“煩悩に翻弄される我ら”という広い意味です。
 しかしその中でも選別がされていたことを初めて知りました。

・仏教における“愛”
 渇愛といって、何かに対する執着とか、こだわった偏愛という風に捉える。
 かなずしも肯定的には使われてはいない。この世のもろもろの事物への執着がそこオアら生じて、人の心を苦しめると考える。


・仏教における“慈悲”
 インドでいう慈悲は、慈と悲という別々のモノ;
(慈)マイトリーとかマイトレーアという言葉:ヒューマニズム、フレンドシップが近い。
(非)カルナーという言葉:思わず知らず漏れ出ずる、ため息のような、うめき声のような感情。


・聖書(ヘブライ語)における3つの“愛”
 ヘブライ語の愛は、目の前の人との関わり方にアクセントを置いて使い分けていた;
「ヘン」1回限りの関わり
「ヘセド」(=誠実)持続した関わり、相手と人生をともにしていくという、信頼感に基づいた関わり方。
「セダケー」誓いに基づく関わり方。
※ 聖書ははじめヘブライ語で書かれ、その後ギリシャ語で書かれ、その後アラビア語にも訳された。その過程で“愛”の持つ意味も微妙に変化していった。


・聖書(ギリシャ語)における“愛”
 聖書がギリシャ・ローマ世界に入っていったときに、ある意味で質的な変化を起こした。
 一方、当時のギリシャ世界では“愛”=「エロス」だった。エロスは自分を満たしてくれるモノ、自分を幸せにしてくれるモノを獲得したい・自分のモノにしたいという欲求である(今の日本で使う官能的な意味の「エロス」とは異なる)。真・善・美などの崇高なモノにあこがれて、自らを燃え上がらせ、高めていく原動力としてエロスを捉えていた。
 キリスト信者たちは、キリストが説いた“愛”を、エロスという言葉で表現すると、キリストのメッセージが誤解されると判断し、当時のギリシャではほとんど使われていなかった「アガペー」という言葉を使い始めた。
 「アガペー」は自分の幸せよりも、相手の幸せを求めて働きかけていく心の動き。
 エロスとアガペーは両極に位置する概念である。
 エロスの本質は、自分の幸せを求め、相手を自分のモノにしようとする所有欲であり、
 アガペーの本質は、自分を殺して相手を活かそうとする自己放棄である。
 「神は愛」というときには、自ら誓いを立ててまで、人間に関わり、人間を救おうとする神の姿を示すことになる。


 仏教における慈悲、キリスト教における愛。
 原点をたどると、現在我々がイメージしている内容と微妙に異なっていること、歴史的変遷の影響を受けながら変化してきていることに気づかされました。

 私は単純に「自分の幸せよりも相手の幸せを願う気持ちが愛」と思っています。
 大学生の時にサークルの先輩から教わりました。
「自分の幸せを達成したいのは恋、他人の幸せを願うのが愛、恋が愛になったときに結婚を考える」と。

・悪人正機は仏教とキリスト教共通の思想
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」とは、健康な人はちょっとくらい調子悪くても後回しでいいんだ、罪人(一番深い痛みを抱えて迷っている人)を最初に救うんだという思考。
 聖書の「ルカの福音書」にも「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私がきたのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」とある。


 悪人とは、犯罪を犯した人ではなく、煩悩に苦しめられる民、つまり私でありあなたである。

・官能的エロスに対する仏教とキリスト教のスタンスの違い。
 仏教はもともと根のところでバラモン的な、インド的なものとつながっているところがあるから、エロティシズムなどもけっこう含んでいる。
 キリスト教は、周囲のメソポタミヤ地方やギリシャ世界などの自由奔放な性というか、モラルの崩壊に対抗して、それのアンチテーゼとして教義をまとめていった経緯があるので、どうしてもエロティシズムと対極的なところにいたがる。


 エロスは人間が生きる上で必要なことですから、無条件に排除するとジレンマが生じます。
 世界の各宗教がこれをどう捉えてきたのか、興味があります。

・ヤンセニズム
 現代のキリスト教がかしこまりすぎているという印象を与えるのは、17世紀のオランダの神学者ヤンセンの影響が強い。ヤンセンはルネッサンスやその後の人文主義に対抗して、聖なる神を強調して厳しく生きることを説いた。このヤンセニズムがフランスで大きな影響力を持ち、それを受けた司祭たちが明治の頃に日本にやってきて伝道活動をしたものだから、日本のカトリック教会はみな品行方正で立派な人たちの集いみたいになってしまった。


 確かにこの雰囲気はあります。
 日本でクリスチャンというと「良家の子女」というイメージですね。

・聖書には多種多様な神の顔がある。
神はその視点により変幻自在、多様な側面を有している。人間は、人生において、いろいろな神の顔と出会う。
「光」
「愛」・・・こころのあり方に視点
「親」・・・人間を創造したという視点
「絶対と永遠」・・・この世界の存在と違う存在という視点
「“聖なる”存在」・・・汚れた、欲望に満ちたこの世界という視点


・旧約聖書には「神々」という表記がある
 つまり最初から一神教ではなかった。
 はじめはイスラエルの民の氏神様のような存在だった。列強により常に虐げられ、奴隷のような生活を強いられていた。イスラエルの民を守り、励まし、列強の国に災いをもたらす親神。
 当時のメソポタミアの土着の宗教や、他の国々の宗教の影響の元にあった民族神であった。それが少しずつ洗練され、さらに進んでイスラエルの民だけでなく、世界中の民をあまねく導き、支配する唯一絶対の神に発展していった。


 なるほど。

・マザー・テレサの愛
 カトリックでは、他の宗教に頭を下げるのは罪、葬儀さえも出席してはいけないという排他的な時代が長くあった。
 しかしマザー・テレサは生前、ヒンドゥー教の人が亡くなるときは、ヒンドゥー教のお経を唱えてあげて送っている。
 その根源にあるものは、人間の命は限りなく尊いという、キリスト教の教えであった。それを失うと、狭量なドグマ(教義・教条)に縛られた、原理主義に陥ってしまう。


・ヨーロッパの大航海時代の布教方法には3つの基準があった。
1.その国に権威者がいてその統治のもとに秩序がある→ その権威者のところへ行って許しを求めて宣教活動を行う。
2.識字能力も秩序もない地域→宣教師たちと兵士たちが一体となって、地域全体を強引にキリスト教へと導いて育てる
3.識字能力はあるけど権威者がいない地域→ 同上
 日本は1。
 中南米は2。中南米の人々が信じる宗教は、キリスト教にとって異教であり、悪魔の宗教である。だから破壊してもいいという乱暴な理屈を持って宣教活動を展開した。


 政治と宗教がタイアップすると、悲劇が生まれます。

・教皇ヨハネ・パウロ二世の謝罪
「中南米やアフリカへの植民地主義と結びついた宣教活動」「十字軍」「異端審問」「高位の聖職者たちの腐敗堕落」「自然科学への弾圧(例:ガリレオ・ガリレイの宗教裁判)」「ナチのユダヤ人弾圧に対して沈黙していたキリスト教会の態度」


 ポーランド出身の教皇は、ヴァチカン内部の調整より、世界平和を目指した賢人、という評価。

・ロシアがキリスト教を選んだ理由
 ロシアは起源1千年頃に、国としてキリスト教を採用した。彼らはギリシャ正教のキリスト教の教義よりも何よりも、あの荘厳なミサの美しさに魅せられてこれを選ぶことにした、と書いてある。


 宗教の教義よりも文化を取り入れたような印象。

・ゴスペルソング誕生秘話
 身体能力が発達していて、3分間お説教を聞いていられない人たちは、そのうちに貧乏揺すりしたり、必ずと言っていいほど体を動かしたりするので、説教者が彼らのリズムに合わせて、言葉にメリハリを付け、そしてメロディーを付け、そこからゴスペルソングが発生した。
※ 黒人教会のゴスペルソングはプロテスタント。


 文化の習合により宗教が受け入れられていく現象。

・九州に古い寺がない理由。
 江戸時代にキリスト教が禁止されて隠れキリシタンが発生したように、「一向宗禁制」で真宗を法律で禁止した。一向宗は「弥陀一仏」のみ信じる一神教的性格を持っていた(仏教学者の金子大栄は真宗を選択的一神教と呼んでいる)。殿様はその次になるので徹底的に弾圧され、獄門、拷問、さらし首などが行われ、そういう中で「隠れ念仏」といわれる隠れ真宗が生じた。南九州一帯の一向宗は、地下に隠れてその信仰を三百何十年守ってきた。真宗の寺はすべてつぶされたので、九州には古い寺がなかなかない。明治時代になり信仰の自由が回復し、地下に潜っていた一向宗の信徒が一斉に地上に上がってきた。

 
 そのときの政治になじまない宗教は弾圧される歴史的真実。

・キリスト教の始まりは女性の宗教。
 ローマ時代の女性たちは、男性の所有物であった。日々の生活は男性中心の中で抑圧され、女性たちは人間としての尊厳を見いだすことができなかった。そういう暗い時代の中で、自分たちのつらい、悲しい気持ちを託せるのはキリスト教しかなかった。
 キリスト教をしっかり受け止めた人々は、ほとんどが底辺でつらい生活を強いられていた人々だった。キリストは彼らに生きる希望を説いた。
 教会の原点は、必死になってキリスト教を求め続けた女たちの信仰である。


・蓮如が説いた“現世往生”(げんせおうじょう)
 蓮如が生きた時代は、地獄のような貧しい生活、飢饉とか、凶作とか、間引きとか、生き地獄の時代たった。浄土信仰ははじめのころ、“死んだら浄土へ行く”という教えだった。でも蓮如は、死んだら浄土へ迎えられるという約束がすでにされているということは、自分が今地獄に生きながらも、希望を持って生きることなんだからと、現世往生を説いた。
 蓮如は「死んだら」というだけじゃなく、死んだら行くところは、もうすでに約束されているんだから、あなたたちは、いま地獄の中にいるけれども、生きる希望があると説いた。


・仏教における女性
 高野山では「七生五衆」として、女性は罪深いと女人禁制だった。
 真宗が一番積極的に「女人往生」を説いたので、隠れ念仏の場合も信仰を支えたのは婦人層が中心であった。男たちの地獄よりも婦人たちの地獄はもっと深かった。真宗は女性も同じように往生できると説いた。


 おしなべて宗教は女性差別の傾向があります。
 男女平等を歌った宗教というのはあるのかな?
 一度調べてみたいですね。

・宗教に走る動機は、物質的飢えからこころの飢え(精神の枯渇感)へ変化してきている。
 昔のような物質的飢えというものがない今の時代に、神仏を信仰するとはどういうことか。
 今の日本社会では、物質的飢えにかわってこころの飢えが人々を深く傷つけている。
 オウム真理教などの新しい宗教がつぎつぎと日本社会に吹き出してくるのはなぜか。それまでの新しい宗教では、入信の動機が「貧しさ」「病」「人間関係のトラブル」と比較的具体的であったが、新・新宗教ではそれらが見えない。
 新聞記者が取材した結果、隠れた動機は「社会の中での人間の孤立」ではないかと指摘した。
 彼らは“得体の知れない孤独”に蝕まれていた。
 オウムの信者たちの多くは、経済的にも恵まれ、学歴にも恵まれている。一人一人はみな良い子で、親に心配をかけるようなこともしない。けれど、よくよく聞いてみると、彼らの過程の中に、親子の間で、人間としての心の深いぶつかり合いが欠けていた。
 つまり彼らのこころの内側には深い孤独感、孤立感があったが、それを互いにぶつけ合うことがなかった。オウムとの出会いを通して、孤独や孤立感を満たしてくれる何かを感じた。


 「貧しい国では人はパンのために死ぬ、富める国では人は孤独のために死ぬ」とは、マザーテレサの言葉です。
 何もかもお見通しだったのですね。

・孤独を解消することが信仰ではない。
 孤独を癒やす、仲間との連携を求めるという理由だけでは宗教でなくてもいい、社会運動でもいいはず。
 信仰について、親鸞は「阿弥陀如来という仏と、自分との一対一の向かい合いなのだ」と繰り返し言っている。個人が大きな連帯の和に属して孤独を解消することが信仰ではない。
 そういう意味では、新しい宗教団体は疑似共同体を作っているだけで、神と向き合う、信仰の核になるものが見えてこない、育っていない。
 神と自分、仏と自分という形を追求しているのではなく,単に集団を作ってその一員になりアイデンティティーを回復しているだけのように思える。


・近代社会を批判したフランスの研究書『宗教の復讐』
 合理主義に目覚めた近代社会は、宗教は教養のない人々の迷信のようなこととして軽視し、宗教の営みを政治の中枢から追い出した。
 しかし宗教を否定し排除した近代社会・近代国家は、経済的に人間を満たしても、人間を幸福にすることはできなかった。人々は近代社会の限界を知って、いま宗教を積極的に求めるようになった。
 現代人は、宗教団体に帰属することによって、落ち着きや安心感を求めようとしている。


・真宗は「仏との一対一の契約」
 親鸞の言う信仰とは、阿弥陀如来と自分との関係、いわば「仏との契約」ということ。信仰とは仏との一対一の関係である。
 だから親鸞自身は、父や母の供養のためとか、先祖供養のためとかに一度も祈ったことがない。
 「我は弟子一人も持たず」とも言った。
 彼は一生、集団や組織から離れて著述などに専念した人であり、教団としての新宗教団な成立しなかった。
 その後に蓮如という人物が出てきて組織を作っていった。
※ 仏陀は、仏教のおおもとで、サンガという僧が集団で学び修行する設備、僧房というか、僧院のようなものを作る。日本では祇園精舎などともいう。そして教団を造り、その組織を乱した罪は一番重いと叱っている。
 仏教が韓国を経て日本へ入ってくると、チベット仏教とも、中国仏教とも、韓国仏教とも違ってくる。親鸞に至っては、ブッダと相当違う、まさに日本仏教になる。そういう意味で、日本の仏教は正統的な仏教ではない。ないけれども、日本に仏教が根付いたのは、そのためだと思われる(ライセンス生産のようなもの)。


 日本仏教の特殊性を初めて知りました。
 親鸞は純粋だった、純粋すぎたのですね。

・神仏との関係が、実際に一対一の関係だったら、ブッダもキリストも、砂漠を永遠に流浪する聖者のような形でした生きられなかっただろう。

・教皇(ローマ法王)はキリストの弟子のペトロの後継者であり、彼のお墓の上に作られたのがヴァチカンである。
 教皇はキリストから天国の鍵を預かっている。
 ヴァチカンはキリストの弟子のペトロのお墓の上にできた国である。
 紀元64年、ネロ皇帝に迫害されて殉教したペトロの亡骸をヴァチカンの丘に埋葬したことがはじまりで、四世紀にペトロのお墓の上にサン・ピエトロ寺院が建てられた。中世の頃はローマ法王領、1929年にヴァチカンとイタリアの間にラテラノ条約が締結されてヴァチカン市国となった。


・韓国にキリスト教が広まった理由
 日本人はキリスト教文化に熱狂(クリスマスやバレンタインデー)するにもかかわらず、クリスチャンの数が韓国と比べるととても少ない。
 韓国のクリスチャンは朝鮮戦争以後、非常に増えた。
 韓国にキリスト教が入ってから二百年強、その原点は信徒が始めた活動であり、日本のように宣教師による宣教活動により教会が育ったのではない。
 韓国では、都市化が進んで、多くの人々が地方から都会に集まってきた時期にキリスト教がどっと増えたという事情がある。故郷を離れた人々が、心の支えを求めてキリスト教に入信した。
 日本のカトリックは明治時代に入ってきたパリ・ミッション系のヤンセニズムの影響を受けており、真面目・品行方正という性質がある。日本の社会に生きている一般の信者たちが、自分たちの心で信仰を育てるということが、全然されないままに来てしまった。
 逆に韓国の教会の指導者たちは、韓国の教会の問題の一つは、正確な教えを如何に浸透させるかにあると考えている。
 韓国のクリスチャンの人たちで家柄の良い家の子は、全部と言っていいくらい、アメリカに行きミッションスクールを出ており、“洋魂化”することに何の抵抗もない。
 しかし日本人は何千年続く天皇制に対する思い入れがあるので、“洋魂化”に抵抗がある。


 私も以前から「韓国ではキリスト教徒がたくさんいる」ことを不思議に思ってきました。
 この説明、頷けます。
 日本人は八百万の自然崇拝が基本ですが、それを習合しながら布教した仏教は根付き、それを否定して強引に布教しようとしたキリスト教と明暗を分けたのですね。
 欧米では自然は仲良くするものではなく、対峙するものと考えられているようですから。

・宗教の広がりは文化の習合
 ギリシャ・ローマ文化の中で育ったカトリック教会には、合理性と秩序を大切にするメンタリティが流れている。でも人間というのは合理の柱の中で支えられて生きているわけではなく、もっとどろどろしたもの。ローマを中心とした教会の基準を、全世界の教会のグローバル・スタンダードにしてはいけない。
 アフリカの教会では、人々はのびのびと、踊りまくるようなミサをしている。アメリカの黒人社会のキリスト教ではゴスペルのような音楽とダンスの影響が大きい。
 日本で仏教が広まったのは神仏習合をいう手段を選択したからであり、欧米系のインテリからは土俗的な信仰だと徹底的にやっつけられるが、習合しない文化というものは存在しない。


・アメリカ大統領就任式はキリスト教の儀式である。
 最初に賛美歌が歌われて、最後に「イン・ゴッド・ウィ・トラスト」(我らは、神を信ずる)という。
 バイブルの上に手を置いて宣誓する。
 アメリカの民主主義は、神の保障のもとに成り立っている民主主義であり、紙幣にまで「イン・ゴッド・ウィ・トラスト」と印刷されている。アメリカの司法も、行政も、全部、神に対して誓うことから始まる。
 日本人は戦後、アメリカ文化を学んだつもりでいて、実はアメリカ文化というものが、神という大地の、根のところから伸びて咲いた花であると言うことを全く考えずに、茎から上をちょん切って自分のものにしようとしてきたことがよくわかる。
 アメリカという国は、過去の歴史を共有しない人々が作った共同体である。共有する過去の歴史とか、伝統、文化がなくて、神を中心にまとまった国である。しかもその神は、同じキリスト教でも、当時の保守的なカトリック教会、英国国教会に反発して新大陸にやってきたプロテスタント教会が理解する神である。
 神の名でひとつにまとまったものだから、どんなときにも神の名を使わざるを得ない。一方、ヨーロッパ諸国は、歴史の体験から政教分離を学び、神の名で政治を行い人々に働きかけていくことの恐ろしさを肌で学んできている。ところが、アメリカにはそれがない。神の名で諸外国に軍隊を送ってしまう怖さがある。
 イスラム教徒のジハードをテロリストと呼ぶ彼らアメリカ人のこころの中に、同じように、これはキリストの名によるジハードだ、聖なる戦いだ、自由と民主主義を回復するんだ、抑圧から人々を肺胞するんだ、という気持ちがある。


 この点、アメリカ文化・アメリカ人を理解するときに大切な視点だと思います。

・本人が、こころから自分の信仰を大切にしていなければ、他人の信仰を尊重することはできない。

 他人の信仰を尊重できない現在の世界情勢、問題は自分の中にあるのでしょう。

・古代の諸帝国から圧迫されたイスラエル民族は「自分たちは決して見捨てられてはいない、神だけが私たちに声をかけてくれる」というかけがえのない経験を書き残したものが聖書である。

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仏教界の内輪もめ 〜高野山 vs 八事山〜

2018年05月22日 06時05分20秒 | 寺・仏教
 仏教の僧侶は、衆生に対して有難い説教を賜る存在ですが、自分たちを律することはできないのでしょうか?
 このようなニュースを耳にする度に悲しくなり、また仏教に対する信頼感も薄れていきます。

■ <名古屋・興正寺>高野山側と前住職側が和解 住職の座訴訟
2018/5/21 毎日新聞
◇ 裁判外で 双方が訴訟取り下げで合意
 高野山真言宗の別格本山・八事山興正寺(やごとさんこうしょうじ、名古屋市昭和区)を巡る問題で、高野山側は21日、高野山側と前住職側が裁判外で和解し、双方が住職の座に関する訴訟を取り下げることで合意したと明らかにした。高野山側は、前住職が土地売却益の一部約70億円を不正に流出させたとして、名古屋地検に出した告訴状も取り下げる。
 名古屋地検特捜部は昨年9月、背任容疑で寺を捜索するなど捜査していたが、立件は困難となる見通し。
 興正寺の梅村正昭・前住職は在任中の2012年7月、寺の土地約6万6000平方メートルについて、隣接する中京大学を運営する学校法人に約138億円で売却した。高野山側は無断で売却したなどとして前住職を罷免し、新たに住職を派遣したが、前住職は寺にとどまっていた。
 15年、前住職は住職の地位確認などを求め、高野山側も寺の明け渡しを求めて、双方が提訴した。名古屋地裁は25日に判決を言い渡す予定だった。
 21日に名古屋市内で記者会見した高野山真言宗宗務総長で興正寺特任住職の添田隆昭氏によると、二つの訴訟が結審した後の5月初旬、前住職側から「これ以上、檀(だん)信徒に迷惑を掛け、裁判を長引かせるのは本意でない。寺から退去する」と申し出があり、話し合いの結果、双方が全ての訴えを取り下げることで合意した。合意の場に弁護士の立ち会いはなかったという。
 前住職は21日に興正寺を退去した。「いろいろと迷惑を掛けた」と話していたという。実質的にも「寺の主」となった添田氏は「裁判継続によるイメージダウンを一刻も早く解消したかった。今後も特任住職として信頼回復に努めていく」と話した。訴訟や告訴状の取り下げは今後、弁護士と相談して進める。
 一方、前住職側の弁護士は「前住職と現住職が僧侶として話し合った結果だと受け止めている」と話した。【野村阿悠子】

◇ 八事山興正寺
 江戸時代の1686年に開かれ、弘法大師空海が開基の金剛峯寺(和歌山県高野町)を総本山とする高野山真言宗の別格本山。尾張徳川家の祈願所とされ、大衆信仰の寺としても栄えた。1808年建立の五重塔は国の重要文化財に指定されている。

◇ 八事山興正寺を巡る経過

2006年 3月 梅村正昭氏が興正寺の住職に就任
  12年 7月 梅村住職が寺の土地約6万6000平方メートルを約138億円で中京大学に売却
  13年12月 梅村住職が寺を宗派から離脱させると表明
  14年 1月 高野山側が梅村住職を罷免
      4月 高野山側から派遣された添田隆昭氏が興正寺の特任住職に
  15年 2月 梅村氏が住職の地位確認と罷免処分無効を求め高野山側を提訴
      5月 高野山側が寺の明け渡しを求め梅村氏を提訴
  16年 9月 高野山側が梅村氏に対する告訴状を名古屋地検に提出
  17年 9月 名古屋地検特捜部が背任容疑で寺を捜索
  18年 5月 高野山側と梅村氏が和解

◇ 告訴を取り下げ、土地売却益を巡る疑惑の解明は困難に
 高野山側が告訴を取り下げ処罰を求めないことで、使途が不明瞭と指摘されていた土地売却益を巡る疑惑の解明は難しくなった。
 高野山側は前住職が売却益から、関連のある東京都内のコンサルタント会社に無担保で約28億円を貸し付け、さらに約12億円を業務委託料として支出していたと主張した。前住職は寺名義で出資した英国法人に対し、投資運用による資金調達のためとして約25億円を送金したが、実際に調達できたのは約10億円とも指摘していた。
 高野山側は2016年9月、背任と業務上横領の容疑で告訴状を出し、名古屋地検特捜部は昨年9月、背任容疑で寺を捜索して前住職らから任意で事情を聴いていた。地検幹部は「告訴が取り下げられても直ちに捜査できなくなるわけではないが、被害者である興正寺の協力が得られなくなれば、立件は難しい」と話す。
 添田特任住職は「告訴は取り下げるが、今後の捜査については地検と協議する」としながらも、「前住職は寺を退去したことで社会的制裁を受けた」と話し、不明瞭な金の流れの追及を続けるかどうかは明言しなかった。


 疑惑をもたれている前住職は辞職(退去)することで罪を不問にするというやり方は、政治家と同じですね。
 これが“日本的”解決法なのでしょう。
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仏教伝来のインパクト

2017年05月04日 06時42分06秒 | 寺・仏教
 2年前に録画してあった番組をGWに見ました。

■ BS歴史館 シリーズ 日本のインパクト(2) 仏教伝来~古代ニッポンの文明開化!?~
出演 : 籔内佐斗司 、馬場基 、熊谷公男
司会 : 渡辺真理
語り(語り手) : 古屋和雄

6世紀半ば、日本に朝鮮半島から仏教が伝来。その衝撃は、すさまじいものだった。それまでの「神は見えないもの」という日本人の常識を覆して、キラキラと輝く仏像が出現したのである。このときの仏像の鋳造技術や寺院の建築技術は、「古代ニッポンの文明開化」とも言うべきインパクトを与えた。さらに、21世紀の新発見から日本最初の本格的寺院・飛鳥寺建立の驚くべき真相が明らかになった。日本仏教の知られざる原点を探る。


 今は無きこの番組、好きでした。
 テーマ曲も私のお気に入りのナットキングコール「Too Young」ですし。
 一つの史実について、関連各方面の専門家がそれぞれの視点から意見を述べてディスカッションするのです。
 ただの解説番組とは異なる展開がスリリング。

 それまで日本民族は神道(自然崇拝)を信仰してきました。
 天皇は八百万の神と民をつなげる祭祀者でした。

 そこに突然、キンキラキンの仏像を崇拝する外国宗教の導入を迫られたら・・・大変な騒ぎになりますよねえ。

 一般に、蘇我氏は導入派、物部氏は反対派とされていますが、物事はそう単純ではなく、当時の政治情勢も絡んでいたようで、仏教導入はメインではなくサブという位置づけで説明されていました。
 
 蘇我氏は渡来人を集めて勢力を伸ばした氏族です。
 蘇我氏は6世紀に「飛鳥寺」を建立しました。日本最古の寺。
 近年、韓国の王興寺の発掘調査により、飛鳥寺との類似性が明らかになりました。飛鳥寺には韓国(当時の百済)の技術がふんだんに使われており、日本独自の建築とは言い難い、という事実も新鮮でした。
 朝鮮半島の国々と日本は、昔から争ったり仲良くしたりを繰り返していたのですね。

 エンディングに籔内氏が発した「日本から仏教を取り除いたら、何も残りませんよ・・・」というコメントが頭から離れません。

<参考>
□ 「仏教伝来〜古代の文明開化」(ブログ)
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岡倉天心の「Asia is one」という思想

2016年12月08日 17時04分43秒 | 寺・仏教
 NHK-BS放映の、英雄たちの選択「神と仏の明治維新 若き官僚 岡倉天心の挑戦」という番組を見ました。

解説
明治初年に巻き起こった仏教排斥の嵐。暴動化した市民が寺院を襲い、仏像を破壊した。それは、新政府の思惑をはるかにこえ、大混乱に発展した。「廃仏稀釈」(はいぶつきしゃく)である。それに危機感を抱いた若き岡倉天心は決意する。新しい時代の混乱の中で、日本の伝統的なものを破壊することは、日本人の心の否定につながるのではないか?日本人の心を守らねば…。17歳で、文部官僚となった天心の挑戦に迫る。




 明治政府は江戸幕府の庇護を受けて発展した仏教と寺を否定すべく「神仏分離令」を公布し、日本古来の宗教である神道を元に民衆の精神を束ねようと目論みました。
 しかし、政府の思惑を上回る形で「廃仏毀釈運動」が起こり席巻しました。
 仏像は破壊され、木造の仏を焼いて風呂を沸かしてはいるという罰当たりな行動もあったそうです。
 民衆はお寺に対して非難めいたまなざしで見ていたのですね。

 東京大学を卒業したての岡倉天心(※)は、外国人の雇われ教授だったフェノロサの奈良調査に通訳として同行し、破壊し尽くされた仏像の悲惨な姿を目にします。
※ 岡倉天心は17歳で東京大学を卒業した秀才だったそうです。

 さらに、この機に乗じて、日本の仏教系美術品の海外流出が止まりませんでした。
 「これでは日本の伝統的美術品がなくなってしまう」
 と危機感を抱いた天心は早速行動に移し、関西地域の古美術品の調査と管理を任されます。
 さらに、東京美術院(現・東京芸術大学)の創設に参加し、初代校長に就任しました。

 しかし時代は文明開化の波が押し寄せ、西洋文明礼賛の勢いに日本の伝統は押し流されてしまいがち。
 東京美術院にも西洋画学科が創設され、失意の天心は美術院を去ることになりました。

 下野した天心は逆境をものともせず、ボストン美術館の仕事を依頼されたり、茨城県の五浦に日本画の創作場をもうけて、横山大観などと行動を共にしました。
 
 その後、インドへ美術調査目的で訪問し、奈良で見た仏教美術の源流がここにあることを実感しました。
 インドや中国の美術が流れ着き集積し昇華したのが日本美術であることに気づいたのでした。

 「日本美術は西洋美術に劣ることはない。アジア美術の結晶が日本美術なのだ。」
 という考えに至り、後に著した「茶の本」に「Asia in one」と記したのでした。

 素晴らしい。

 現在の日本人の中にも、西洋信仰が根強く残っています。
 この番組を視聴して、日本の立ち位置をどこに設定すべきなのか、あらためて考えさせられました。

 髪の毛を染め、西洋の真似をして「文明国」面をするのか?
 それともアジアを代表して西洋に臨むのか?
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NHK 100分de名著 道元「正法眼蔵」

2016年12月05日 08時23分26秒 | 寺・仏教
 2016年11月に放映された番組を録画してまとめて視聴しました。
 誤解を恐れずに、私が理解したことを記してみます。



 道元以前の仏教では、「仏性」は「人間が誰しも生まれながらに持ち合わせているもの」で「それを体現することが修行である」とされてきました。
 しかし道元は、「この世の全てが仏性である」「それを認めれば悟りに至る」と説きました。

 な〜んだ、簡単、簡単・・・というわけにはいきません。

 座禅することだけが“修行”ではなく、生活全部が“修行”になるのです。
 食べることも掃除することも寝ることも。
 つまり、常に“修行”としての緊張感を持って生活することになります。

 道元の教えの要は「心身脱落」であり、その意味するところは「身も心も捨て去ることが悟りの境地である」ということ。
 ものごとを色眼鏡で見ないで、あるがままに見て認める・受け入れること。

 これは、古今東西の心理学者も同じようなことを言ってますね。
 ただ、現状を認めるだけでは、進歩が無くなってしまいます。

 人間は現状に満足せず、向上心を持って行動して発展してきました。
 ですから、道元の「心身脱落」を含めて、宗教は頑張っている人間のサプリメント、程度に考えた方がよいと思います。
 「こんな休憩の仕方があるよ」というアドバイス。

 解説者のひろちさやさんも「心身解脱は日常生活の中ではちょっとだけ考えればいいのです。それに浸ってしまうと死んでいるのと同じすから」と番組の最後につぶやいていたのを、私は見逃しませんでした(^^;)。


100分de名著「道元『正法眼蔵』」(しょうぼうげんぞう)
 日本に禅の思想を確立した一人といわれる、鎌倉時代初期の禅僧・道元(1200~1253)。彼は曹洞宗の宗祖であり、主著「正法眼蔵」は、坐禅のマニュアルや心得として今も多くの人に読み継がれています。ですが、この「正法眼蔵」は単なる「坐禅の書」ではありません。日本の思想家・和辻哲郎やアップルの創始者・スティーブ・ジョブズに影響を与えるなど、一宗派を超えて後世に大きな影響を与え続けています。いわば「人間や世界の本質を問い続ける哲学書」として読み解けるのが「正法眼蔵」なのです。そこで「100分de名著」では、「正法眼蔵」に新しい光を当てなおし、現代に通じるメッセージを読み解きたいと思います。
 道元は、京都の貴族の名門に生まれたが、幼くして両親を失いました。世の無常を感じ取った道元は、十四歳にして比叡山に入り出家。しかし一つの疑問に逢着します。仏教では「人間はもともと仏性を持ち、そのままで仏である」と説かれているのに、なぜわざわざ修行して悟りを求めなければならないのか? 比叡山では解決を得られなかった道元は、山を下り禅の本場である宋に渡りました。そこでも迷い続けた道元でしたが、最後に出会った如浄禅師の下で参禅中に頓悟。「仏性をもっているのになぜ修行せねばならないのか」という自身の発問の仕方自体がおかしかったことに気づきます。その問いは実はあべこべであり、真実は「われわれは仏だからこそ修行ができる」だった……そう悟ったのです。
 自らが悟りを後世に伝えるためにライフワークとして書き残した「正法眼蔵」を読み解くキーワードは「身心脱落」。「悟り」は求めて得られるものではありません。「悟り」を求めている自己を消滅させることで「真理の世界」の中に溶け込むこと…それこそが「身心脱落」なのです。一言でいえば「あらゆる自我意識を捨ててしまうことで、病や老い、死などの現象をあるがまま、そのままに受け容れる境地だ」と仏教思想家のひろさちやさんはいいます。そこには、強い自我意識に縛られ競争心を煽られて、骨身を削られるようなストレスにさらされ続ける現代人が学び取るべき指針がちりばめられています。
 厳しい競争社会の中で、気がつけば身も心も何かに追われ生き方を見失いがちな現代。人間や世界の本質に対する深い洞察がこめられた「正法眼蔵」の言葉から、不安や迷いの多い現代を生き抜くための知恵を学んでいきます。

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「迷える者の禅修行」(ネルケ無方 著)

2014年09月29日 06時07分14秒 | 寺・仏教
副題:ドイツ人住職が見た日本仏教
新潮新書、2011年発行。

私はアラフィフのおじさんです。
一般的な日本人が仏教と接する機会は、お墓参りくらいでしょうか。

でも、仏教には興味があります。
1000年以上前に日本に伝わり根を下ろした宗教。
時代により変化しますが、「衆生救済」を謳って信仰が広まったと社会科の授業で教わりましたね。

2011年の東日本大震災の際、日本人は精神的危機状況を迎えました。
その時、仏教は役に立ったのだろうか?

50歳を過ぎた私は、時々無力感に襲われます。
日々そう変わりのない生活を送ることに疲れを感じることがあります。
そんな精神状態に、仏教は役に立つのだろうか?

仏教者の書いた本は敷居が高く、建前の教義を読んでもピンときません。
そこでこの本に興味を持ちました。
ドイツ人が座禅・禅宗に興味を持ち、日本で修行することに憧れ、とうとう来日してその門を叩く。
そこで見た日本仏教の現状・・・。
客観性があり、現代日本人にはむしろ馴染みやすいのではないかと期待しました。

実際に読んでみて、頷ける箇所多数。
著者の純粋さが心地よい。

日本仏教は「葬式仏教」という名のサービス業に成り下がり、市民もそれ以上のことは望んでいない(「葬式」は元々はバラモン教由来の儀式だそうです)。
純粋な仏教の教えは死者のためではなく生者の為のものであり、修行の目的は「生きて仏になること」。
本来の仏教教義に基づく修行を行っている寺院もあるが、それはごく一部である事実。

そんな著者は自給自足で修行生活を送る「安泰寺」に自然に引き寄せられていきます。
彼にとっては理想の寺院。
そこで自分を見つめ、事情があって一旦は下山し放浪生活に流れ、縁あって安泰寺に戻り住職を任されるという波瀾万丈の半生。

その著者が発する言葉には説得力があります。

「座禅」という言葉には私も惹かれます。
心を無にして悟りを得る修行法、と理解してきましたが、著者は「何かを求めて行うものではない」と諭します。
「座禅はただ座ること、それ以上でもそれ以下でもない」と。
これは曹洞宗開祖、道元禅師の言葉「只管打坐」をわかりやすく説明した文言です。

それから、「今生きていることが全て」。
仏教は自分自身が仏として生きること、生きて仏状態になることを目的に修行することであり、死後に仏になることではない、と。

この部分を読んでいて相田みつを氏の「いま、ここ」という詩を思い出しました。
考えてみれば、相田みつを氏は曹洞宗寺院に通い、教えを受けた武井老師の言葉を一般の人にわかりやすく伝えるための詩を作ったのでしたね。

修行方法に関して、欧米(ドイツ)と日本の考え方の比較が面白かった。
日本の修行はどうしても「根性論」が入ってきて「因習」がはびこりますが、著者の考え方はあくまで合理的です。

さて、今や安泰寺住職として有名になった著者。
その西洋的なフィルターを通した修行法は「純粋な仏教」を求める人達にブームを呼びそうな気配を感じました。

ただ、一つ気になったのは、著者の修行は自己完結しており「衆生救済」という視点が乏しいこと。
やはり仏教に日本人の精神的危機を「救う」ことを求めるのは無理なのかな・・・。

仏教の修行という日本文化の奥深くを覗いた著者による、日本人と欧米人の文化・考え方の違いへの考察も興味深く読みました。
「欧米人は常にファイトモードで居眠りなんてしない、いやできない」
「欧米人は家族より親友、親子より夫婦を大切にする」
などなど。

メモ
 自分自身のための備忘録。

「前書き」より抜粋
・仏教とは「仏の教え」です。それは単に「仏(釈尊や阿弥陀さん)から教わる」だけではなく、「仏(覚者)になるための道しるべ」、そして「仏としての生き方そのもの」でもあるということ。誰が「仏になる」のかというと、他でもなく今ここに生きている私たちでなければなりません。自分自身が仏として生きることが昔から仏教の眼目でした。
 「今ここ、この自分が仏にならなければ」という仏教の原点が、今の日本ではあまり理解されていないのではないか、という気がしています。

・日本の今の「仏教」はそもそも理論的に整理された教えというより一つの風習に過ぎないのかもしれません。その風習の中には、たとえば仏教と全く縁の無い祖先崇拝の影響も非常に強くあります。
 日本では、あの世にいまします「仏さん」を拝み、その功徳が自分に降り注がれたり、「仏さん」に守られたり、現世利益に与ったりするのを期待することが仏教と思われていることが多いようですが、そういった考えは、本来の仏教とは根本的に違います。釈尊も含め、仏教でいう「仏」は本来、生身の人間です。
 ところが、今の日本で「仏さん」というとき、寺院のお堂にある須弥壇の上に安置されている仏像を指しているか、あるいは死人を指しています。
 これはナンセンスです。「死んだら仏」というような教えは、仏教のどこにも見当たりません。

・死後の世界がどうなるかということは、もともと仏教のテーマではありません。当然、葬式も仏教の行事ではなく、バラモン教の行事とされていました。葬式は修行ではなく世俗の仕事であり、修行者はそれに携わってはいけないのです。釈尊も自分の葬式はバラモン教に任せるように言い残しました。
 ところが今の日本では、その非仏教的なもの=葬式仏教が仏教の主流になってしまっています。このことが、ドイツから来たわたしには悲しくてなりません。
 仏教は私たちの生き方です。死人を相手に商売することではありません。修行とはこの生き方の実践です。プロのお坊さんになるための修行(職業訓練)ではありません。
 そして仏とは「あの世」の遠い存在ではなく、私たち自身の生活目標でなければなりません。仏に向かって日々を歩むことこそ修行であり、仏の道です。そうでなくては「仏教」といえません。

日本では仏教が見つからない
 日本のお坊さんは、もはや一般の人に仏教を広める「聖職」にあらず、単にお寺の管理人兼葬式法要を執り行うサービス業に成り下がってしまっています。日本の若者が既成仏教に救いを求めていないのも、不思議でも何でも無く、当然のことです。それは、若い日本人が自分の生き方に悩み苦しんでいないからではなく、お坊さんが悩み苦しみを越えた生き方を提唱していないからです。

日本のお寺の現状
 日本のお寺のほとんどは、檀家制度によって、徳川時代以来一定の檀家を持っています。寺を経済的に支えているのが、その菩提寺に属している檀家です。第二次世界大戦後、個人の宗教が保証された今でも、檀家が菩提寺を離れることはまれであり、寺と檀家の間の関係が、サービス産業とその得意先になっています。

仏教式の葬儀は「得度式」の略式
 「死して出家する」というわけです。今や何かと批判されることの多い「戒名」ですが、元はといえば出家者に付ける名前のことを指すのです。

叢林で切磋琢磨する
 禅では修行するコミュニティーを「叢林」といいます。「叢(くさむら)」というのがポイントで、人工的な「植林」であってはいけません。さまざまな木々が自然に共生している雑木林。人に例えると、それぞれ違った持ち味や特性を有している者同士、そこに「摩擦」が生じるのは当然のこと。摩擦により互いの「エゴの角」が和らぎ、「自分が、自分が」という自己中心的な考えを減じさせます。四字熟語でいう「切磋琢磨」はまさにこの意味です。

「警策」の読み方
 曹洞宗では「きょうさく」、臨済宗では「けいさく」と読みます。
 警策とは座禅中に「喝!」と肩や背中を打つあの棒のことで、その歴史は意外と浅く、江戸時代になってから登場したと言われています。

ドイツ人が日本で禅の修行をする意味
 日本人の修行僧は、「自分のために修行している」私に感心していましたが、私はむしろ、自分のためではなく、お寺のため、檀家さんのため、師匠である父親のために修行をし、自分を投げ出している彼らの姿勢に感心せざるを得ませんでした。

三仏忌
・降誕会(4/8)・・・お釈迦様の誕生日
・成道会(12/8)・・・お釈迦様が悟りを開かれた日
・涅槃会(2/15)・・・お釈迦様が入滅された日

日本の「和」の精神は欧米人には理解できない
 欧米人は協調性が泣く、組織における自分の役割よりも「俺は俺」というアイデンティティが強く、とにかく自立志向です。日本人が相手のみになって考えようとするとき、私を含めた欧米人は物事を「客観的」に考えようとします。ただ、その「客観」はこちらの主観的な思い込みに過ぎないということもしばしばです。自分たちの「正義」を振りかざし、イラクに攻め込んだアメリカの例を挙げるまでもありません。
 逆に日本的な「義理人情」は欧米人に受け入れられません。人間関係がきわめてドライで「気を利かす」という概念もなければ、「以心伝心」といった四字熟語を知るすべもありません。

欧米人にとって「働く」ことは「神から与えられた罰」に過ぎない
 仕事それ自体に価値はなく、それは神から与えられた罰に過ぎず、ドイツ人のみならず多くの欧米人は、休むときにだけ、あの「楽園」へ戻ることが許されると考えているのです。休日を英語で「holiday(聖なる日)」と呼ぶのもそのためです。

居眠りに憧れるドイツ人
 『Inemuri』という本がドイツで話題になったことがあります。
「日本人を見習いなさい。つまらない授業や会議の時間を活用して、睡眠をとって体も頭もリフレッシュ。と同時に、日本の“イネムリ”は社会秩序に対するささやかな反逆でもある」
 といった具合に、ぐっすり眠れないというドイツ人のために“イネムリ”の御利益が説かれています。ドイツ人は“イネムリ”をしたくてもできません。欧米人は常に「ファイトモード」でいるからです。

家族に対する考え方、日本人 vs 欧米人
 欧米人は日本人ほど血縁を大事だとは考えていません。家族より親友を大事だと考えている人もたくさんいます。なぜなら、家族は自分で選んだわけではないから。一方で親友は、自分の意思で選んだ者です。
 欧米人はまた、親子関係より夫婦関係を大事にします。血縁がないからこそ、大事にするのです。子どもの教育主眼は、いち早く子どもを自立させることです。和製英語に「スキンシップ」という言葉がありますが、ヨーロッパにはそれに相当する言葉は見当たりません。

大人になるということ
 私個人としては、母親を幼い頃に亡くしたので、日本型の教育方針に憧れています。子どもを無理に自立させるのではなく、自立しようという気になるまで、親の肌のぬくもりを感じさせるべきだと思います。
 私自身は、35歳の時に初めて子どもの親になるまで、「大人」の本当の意味が全くわかりませんでした。実際に子どもを持たなければ、親の気持ちが理解できません。子どもこそ大人を大人にしてくれるのです。
 自分が「親」になれば、はじめて自分以外の存在に対して強い責任感をもてる人もいるでしょう。そうすれば「親」は「子」という鏡の中で、自分を見つけることもあるでしょう。本当の教育とは、親が一方的に子どもを大人にしていくことではなく、親も子も一緒に大人に育つことだと思います。

仏教でいう大人(だいにん)
 仏教では「大人」という言葉を「だいにん」と読み、お経によく登場する仏法の実践者「菩薩」を意味します。
 道元禅師は「大人」を「典座教訓」の中で「喜心・老心・大心」という三つの言葉で表しています。
 「今ここ、この自分として、生かされてよかった」という喜びの心、我が子を慈しむ親の老心、そして全ての川の水を余すことなく受け入れている海ほど広い大心です。
 この三つの心を備えた大人、つまり菩薩(自分を忘れ、一切衆生の救済を先とする人)こそが「親」ではないのでしょうか。その意味で、過程というのは「菩薩の修行道場」と云えます。
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「アルキヘンロズカン」(しま たけひと著)

2014年07月04日 15時28分36秒 | 寺・仏教
双葉社、2012年発行。

カタカナではわかりにくい・・・ふつうに書けば「歩き遍路図鑑」となります。
まあ、四国遍路(八十八カ所巡り)を題材にしたマンガですね。

いわゆる「私小説」という分野がありますが、このマンガも多分に著者の思い入れがこもった「私的マンガ」という雰囲気。
売れないマンガを書き続けることに疑問を持ち、一念発起して四国遍路に向かい何かをつかんで帰ってくる、というありがちなストーリーです。
絵も二流かなあ。

先日、NHKの「クローズアップ現代」で「四国遍路に向かう若者が増えている」という内容を放映していました。
「フ~ン、そうなんだ、確かに“自分探しの旅”目的で外国を放浪するより安全かもしれないなあ」
と興味を持ち、しかしamazonで検索すると中年対象の書籍ばかり・・・。
比較的若者を扱っているらしいこのマンガを購入するに至りました。

そこそこ楽しめました。

何かを抱えて遍路に向かう人たちがいる。
彼らを“お接待”する地元の人たちがいる(もちろん嫌う人もいる)。
彼らを相手に商売する人たちもいる。

そんな人間模様や駆け引きがこと細かく記されています。
良い人も悪い人も出てきて、ストーリーに膨らみを持たせています。

旅先で出会った僧侶の言葉が印象に残りました;
「あなたは今の人生を後悔しているようだが、別の人生を選んでも必ず後悔する」
なるほど、一理あるかもしれない。

約1ヶ月半歩き通し、“結願”(八十八カ所を巡りきること)すると、憑き物が落ちたような穏やかに顔になるらしい。
世の中のあれこれを受け入れ、悪い人もまあ許せるような、おおらかな気持ちになるそうです。

この効用は如何に?
空海さんの御利益?

宗教的な探求はさておき。

著者はあとがきに「遍路を“病院”に例える人がいる」と記していますが、たしかにその要素はあると思います。
何と言っても遍路の基本は「歩き続ける」こと。
1ヶ月以上歩き続けると、人の体はとても健康になります。
当初は息が切れ、足が痛くて悲惨ですが、後半は体が慣れてきてしっかり歩を進める映像がクローズアップ現代でも観察できました。

「健康な肉体には健康な精神が宿る」

遍路とは、現代人が忘れてしまいがちなこの言葉を体感することに他ならないのではないか、と。
人間は、生きていくために汗をかいて労働し、お腹が空いて食べ、疲れて眠るという時代が長く続きました。
しかし現代社会では、汗をかかず(冷や汗はかく?)、食欲もあったりなかったり、不眠症がクローズアップされるほど熟睡することが難しくなってきています。
この視点からすると、遍路は健康な体を取り戻すためのリハビリテーションと捉えることも可能です。

そういえば先日の「ためしてガッテン!」でも、気分が落ち込むときはとにかく体を動かせば効果がある、と力説していましたね。
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趣味Do楽 「籔内佐斗司流 ほとけの履歴書 ~仏像のなぞを解きほぐす~」

2014年06月22日 16時24分00秒 | 寺・仏教
2014年4-5月に放映されたNHK-Eテレの番組です。
録画しておいたものを、まとめて一気に視聴しました。

<紹介文>
 日本には、大仏から十一面観音までさまざまな姿の仏像があります。仏陀から生まれた仏教なのに、なぜこのように多用な仏像があるのでしょうか? 
 仏像ファンならだれでも抱くこの疑問にお答えします。代表的な仏像について、その履歴に迫り、豊富な写真、籔内佐斗司先生と篠原ともえさんの軽妙なやりとりでわかりやすく紹介します。
 仏教がインドで生まれた当時、ペルシア由来のゾロアスター教、インドの民族宗教であるヒンドゥー教などさまざまな宗教が混淆していました。それらの神々が仏教に取り込まれて六道という構造を成していきました。こうしたなか1~2世紀頃、ガンダーラでヘレニズム美術の影響下で仏像は生まれました。さらにシルクロードを経て、中国に渡り、日本に来歴するまでに進化変容していったのです。
 本書では日本に存在する多用な仏像の履歴に迫り、なぜそのような像が生まれてきたのか豊富な写真・図解でわかりやすく解説します。籔内流仏像拝観術の第3弾、どうぞ心してご覧ください。



第1回 仏教はグローバル   ~仏像からみるユーラシア古代世界~
第2回 仏界と六道輪廻    ~天部の神々~
第3回 籔内流 阿修羅のすべて
第4回 鬼を考える      ~中国の鬼(キ)と日本のオニ~
第5回 “ほとけの世界”を学ぶ ~仏教伝来と法隆寺~
第6回 多面多臂(ためんたひ)のほとけさま ~密教って何?~
第7回 日本で進化した木のほとけ ~にっぽん木彫仏1500年の歴史~
第8回 “荘厳(しょうごん)”が語る仏教世界 ~光の世界のほとけさま~
第9回 籔内流 仏像検定(総集編)


仏像を俯瞰して理解するにはとてもよい内容だと思いました。
個々の仏像を探求することにより、仏教の歴史的成り立ちや仏師の系譜にまで言及しています。

・仏には階級・序列があり、歴史の中で仏教が取り込んできた宗教の神々が形を変えて存在している。初期のバラモン教由来神は高位であるが、敵対したヒンドゥー教ゾロアスター教の神々は位が低く設定されていること。

・阿修羅の二面性~戦う顔と穏やかな顔は、その役割により使い分けられたこと。

・中国の鬼は六道輪廻界の「餓鬼」に生きる邪気から来ているが、日本に渡ってから独自の発展を遂げ、調伏して明かりを灯す役割を担うに至るという改心した軟らかいイメージが重なり、日本の鬼になったこと。

・多面多臂(ためんたひ)の仏像は密教の呪術的要素が反映され、その大元はヒンドゥー教の自在に変化(へんげ)する神々に由来すること。

・唐から渡ってきた鑑真一木造りの仏像を日本に伝え、榧(カヤ)を用いた木彫が一世を風靡した。その後、大量生産の必要に迫られ、定朝(じょうちょう)によるヒノキを用いた寄木造りが主流になっていったこと。

等々。

しかし、ひとつ残念なことがあります。
生徒役である篠原ともえの仏像ガールを気取った過剰なリアクションに辟易しました(次回は他の人に替えて欲しい)。
彼女がハイテンションでがなり立てていた頃を知っている私としては、猫なで声で丁寧語を使う慎ましい女性を演じても白けるだけ。うっとうしい。


<参考>
・2011.1.3放送 日テレ「たけしの教科書に載らない日本人の謎!仏教と怨霊と天皇…なぜホトケ様を拝むのか
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「恐山」(南直哉著)

2014年06月17日 10時22分31秒 | 寺・仏教
新潮新書、2012年発行。

いきなりパワースポットで有名な恐山の本の登場。
といっても、観光の本ではありません。
著者は永平寺で19年間修行し、その後恐山菩提寺の院代(住職代理)という経歴を持ちます。
ま、院代となったのは、偶然(?)恐山山主の娘と結婚したからだそうですが。
僧侶として内側から見つめた「恐山」とその周辺事情を記した書物ということになります。



恐山というとイタコの口寄せ、と言うイメージがありますね。
イタコは民間のシャーマン(霊媒師)で、著者の属する仏教界とは直接の関係ありません。

実は私、今から遡ること30年前の二十歳の時、恐山に行ったことがあります。
当時、大学の「民俗研究部」というマイナーなサークルに所属しており、その仲間で大祭が行われている恐山へ二十歳を迎える夏に向かったのでした。
硫黄臭が立ちこめる荒涼とした土地に到着すると、そこは別世界。
ひときわ人だかりのある一帯があり、そこにはイタコの出店が並んでいました。
祭文を唱える独特のイタコの口調が聞こえる中、シクシク泣く声も混じり、非日常的な異様な空間を感じたことを記憶しています。

そんな私には、恐山を紹介する第一章は、とくに目新しい情報はありませんでした。
第二章以降には著者の経歴と思索遍歴が記されており、興味深く読みました。
著者の印象は“頭でっかちの理論派僧侶”といったところでしょうか。

「死」は生き残った者がいて初めて成立する概念であること、
「死」を受け入れるには時間と器が必要なこと、
「死」を受容する器として仏教や恐山が存在すること、
等々、彼の説が述べられ、一部納得させられました。

しかし「受容」という意味では、仏教より恐山の方が優れているのではないかと私は感じています。
著者も薄々そのことに気づいているようで、恐山に来る人たちを前にして、それまで学んできた仏教教義・禅の知識が役に立たなかったことを告白しています。
「受容」は「カウンセリング」と言い換えることも可能です。
古来、日本には至る所に「カウンセラー」としてのシャーマンが存在してきました。
その一つが、恐山を活動の場にしているイタコさんなのでしょう。

読後感は、永平寺で20年近く修行してもこんなものなのかな、とちょっと肩すかしを食らった気分。

メモ
 自分自身のための備忘録。

恐山に来る人たちには仏教教義は通用しない。
 私が恐山で身にしみて感じたこと、それは実際、これまで蓄えてきた仏教や禅の知識がほとんど通用しない領域だった。それなりに苦心して制作した理屈が、まるで無効な相手だった。
 入山当初の正直な感想は「怖かった」というものであった。霊や超常現象を経験したわけではない。何かここにはわけのわからないものがある。それを求めて多くの人がやってくる。しかしそrはこれまで培った知識や経験では、とてもじゃないが捌けるものではない。そんな、わけのわからないものと対峙するときに生じる怖さである。
 恐山を「あんなところは日本の土俗信仰に仏教の皮をかぶせたものに過ぎない」となめていたわけではない。今まで考えてきた枠組みの中には、恐山の濃厚なリアリティを収納する器がないことを、早々に痛感させられた。「ただの教義理論や修行経験が通じる次元ではない。一から考え直さないとダメだ」と途方に暮れた。
 恐山の信仰というのは、集まってくる人々が作っているもので、上から教義や原理を押しつけてできたものではないことを決して忘れてはいけない。
 恐山がパワースポットとして人気を博しているが、これは既存の宗教がすくい取れなかった不安や感情が今を生きる人々に根深く存在することを意味している。

イタコと恐山
 もとは青森を中心とする北東北地方で霊媒をする女性のことを指す。「口寄せ」と呼ばれる降霊術を行い、死者の魂を呼ぶといわれる。
 しかしこれは起源がはっきりしない。目の不自由な女性の生業として始まったのだろうといわれているが、定かではない。
 現在のイタコの平均年齢は80歳を超え、後継者は少ない。40歳代の若いイタコは2人しかいない(弟子はいるがすぐにドロップアウトしてしまうらしい)。
 世間で誤解していることがある。「恐山のイタコ」は存在しない。
 つまり、恐山がイタコを管理しているわけでも、イタコが恐山に所属しているわけでもない。両者の間に一切の契約関係はない。
 イタコは個人業者である。本来は自宅に人を招いて行う者である。
 それが、北東北地方の神社仏閣で大きな祭礼や法要があると、そこに人が多く集まるので、「出張営業」に来ているのである。縁日の出店みたいな者である。
 恐山では、夏の7/20~24にかけて、大祭と呼ばれる地蔵会(じぞうえ)がある。子爵用中心の行事で、全国から参拝や観光客が多く集まる。イタコが一年で一番多く集まるのもこの時期である。大祭の時は、イタコの所に最低3時間待ちの行列ができる。

死後の世界は「あるのか、ないのか」
 仏教の公式見解は「答えない」ことであり、それを「無記」と呼ぶ。
 なぜ答えないのか。
 それは「ある」と答えても、「ない」と答えても、いずれにせよ論理的な矛盾が生じて、世界の体系が閉じてしまうから。
 仏教において、この類の話は大して重要ではない。
 それよりも、人間が生きていると、うれしくて結構なことよりも、切なくてつらくて苦しいことの方が多い。それについてどう考えるか、この方がよほど大事だとするのが、仏教である。
 必ずしも簡単とは言えない人生を、最後まで勇気を持っていき切るにはどうするか。それこそが仏教の一番大事なテーマであって、死んだ後のことは、死ねばわかるだろう、ぐらいに考えればよい。

魂とは何か?
 それは人が生きる意味と価値のことである。
 魂という者は、一にかかって人との園で育てる者。他者との関係の中で育むものでしかない。
 人間は「あなたが何もできなくても、何の価値がなくても、そこにあなたが今いてくれるだけでうれしい」と誰かに受け止めてもらわない限りは、自分という存在が生きる意味や価値、つまり魂を知ることは、絶対にできない。それは自分一人の力では見つけることができないものである。

「取引」でこじれる親子関係
 登校拒否、校内暴力、引き込み裏、リストカット、拒食症・過食症、パニック障害などの相談を受けてきた。
 そんな苦しみを抱いている人達の話を何度も聞いていると、十のうち八、九割は、親子関係に何らかの歪みがあることに気づいた。残りの一、二割は、小学生か中学生の時に経験した猛烈ないじめだった。
 親子関係の歪みとして、共通するのは親子関係の基本が「取引」でできているということ。
・パターンA:母親が愛情という名の圧倒的な支配力で、特に息子を囲い込む。
 「あなたのことはお母さんが一番よくわかっているの。お母さんの言うとおりにやればいいのよ」と、母親が先回りしてみんなやってしまうので、息子は楽。それに甘えたままでいるうちに手遅れになり、思春期になってようやく自分の足腰で多糖としても立てない。当然、焦る。そして荒れてくる。荒れることさえできないと引きこもる。
 こうした家庭の父親は、判で押したように同じタイプで、存在感が枯れ葉のごとく薄い。子どもに父親のことを聞くと、決まって「あの人」と言う。
・パターンB:家庭内で独裁者のごとく振る舞う父親と、奴隷のように従う母という構図。
 父親が子どもの人生の行き先を全て決めてしまう。そんな父親は、子どもが自分の敷いたレールから降りることを絶対に許さない。母親はただ心配して、そのまわりをウロウロするだけ。
 この二つのパターンの底にあるのは「取引」である。
 「お父さん、お母さんの言うことを聞くならば愛してあげましょう」という取引の関係。しかもそれは親本人には自覚がない。子どものためを思って、よかれと思ってやっているので始末に悪い。

人は死んだらどこへ行く
 ある老僧に仕えていた修行僧時代に、老僧から
 「おまえは人が死んだらどこへ行くか知っているか。」
 と聞かれた。
 「知りません。」
 と答えると、
 「人が死ぬとな、その人が愛したもののところに行くんだ」
 「人を愛したなら、その愛した者のところへ行く。仕事を愛したんだったら、その仕事の中に入っていく。だから、人は思い出そうと意識しなくても、死んだ人のことを思い出すだろう。入っていくからだ。」
 さらに、
 「愛することを知らない人間は気の毒だ。死んでも行く場所がない。」

恐山の由緒と歴史
 大昔、そもそも恐山という場所は湯治場として地元に知られていた。由緒には、慈覚大師・円仁(天台宗三代目座主)によって平安時代の貞観4年(861)に開闢された。十五世紀、地元の争いに巻き込まれ、寺は破却、その後百年近く荒廃していた。それが大永2年(1522)、下総にいた曹洞宗の僧侶が、麓の田名部、現在のむつ市に円通寺を開き、続いて享禄3年(1530)、恐山を再興、菩提寺を建立して以来、曹洞宗が管理するようになった。
 おそらく最初、恐山は神仏の加護や病気平癒などといった現世利益を祈る場所であり、それが現在のように死者供養の礼状として知られるようになったのは、それより後と考えられる。
 恐山というのは、あくまでも器である。それは火口にできた土地である。きれいな湖があって温泉が出る。そこにはこの世とは思えない異様な風景が広がっている。その風景に魅せられて多くの人が集まってきた。それから何か信仰のようなものが芽生えた、と考えるのが自然だろう。
 恐山にある信仰というのは、特定の教義では決して割り切れるものではない。極端に言えば、拝む神仏の種類は何でもいい。実際恐山には、地蔵菩薩もいれば、阿弥陀仏も不動明王も観音も薬師もいる。円空仏まであって、仏像のワンダーランド状態。

※ ふだんの恐山の姿:例年、開山すれば、まず沿岸の各漁港の漁師さん達が大量祈願のお参りに来られる。それが済むと、農作業が一段落した6月当たりから、団体や家族で先祖供養の人たちが続々上山してくる。

著者が出家した理由
 小さい頃から生きるということより「死とは何か」というテーマが問題の中心にあった。それを抱えたまま大学を出て社会人になったが、世俗にとどまったままではその問題をいかんともしがたく、とうとう出家してしまったのである。

仏教における死者の位置づけと恐山の違い
 永平寺の死者供養というのは、オーソドックスな修行体系あるいは教義の体系がまず先にあって、そこに死者供養や先祖供養が持ち込まれている、という構造をしている。つまり、道元禅師の仏法というか正法が軸にあり、死者供養というのはその中の一部分に位置づけられているに過ぎない。
 ところが恐山では違う。
 死者がまずいる。あるいは死者を想う人がまずいる。
 仏教というのは、それを収めるひとつの器に過ぎない。つまり死者の位置づけが、永平寺とは百八十度違うのである。

恐山における「死」の存在
 死者から生者に与えられるもの、それは生者にとって決定的に欠けているもの、生きている限りは手に入れることができないもの、つまり「死」である。
 恐山というのは、死者を媒介にして、生きている人間にその欠落を気づかさせてしまう場所である。
 死は実は使者の側にあるのではない。むしろそれは死者を想う生者の側に張り付いている。
 霊魂や死者に対する激しい興味なり欲望の根本には「自分はどこから来てどこに行くのか」という抜きがたい不安がある。この不安こそがまさに人間の抱える欠落であり、生者に見える死の顔であり、「死者」へのやむにやまれぬ欲望なのである。
 死者の想い出というのは、それが懐かしさを伴うものだろうが、恨みを伴うものだろうが、死者に背負わせるべきもの。生者が背負うものではなく、死者に預かってもらうしかない。
 そして、「死者を思い出すこと」が一番の供養になる。

“宗教”という仕掛け
 人間には拝むものが必要である。
 なぜなら、死や死者に対する懐かしさとおそれが、人間には抜き難くあるから。
 なぜそのような感情が生じるかというと、死というわけのわからない何かが自分の内側にもあるから。それを処理するためには、拝む対象がどうしても必要になってくる。
 死者を拝むためには、死者の輪郭をはっきりさせて、自分との距離を作ってくれるものが必要になってくる。それが宗教の仕掛けである。
 「鎮魂」という行為は、まさに生者と死者の間に距離を作り出すこと。
 恐山という所は、死者に近づくことができる場所ではあるが、さらに深く考えていくと、死者と距離を作るための場所でもある。


<追記>
日本100巡礼「ジュディ・オングが青森県恐山へ死者と向き合う旅
BS日テレ 2013年8月7日放送
ー番組解説ー
今回の巡礼の舞台は、死者の魂が集まる霊場「恐山」
旅人はジュディ・オング。
比叡山・高野山とともに、日本の三大霊場の一つに数えられている「恐山」。
「人は死ねば、お山(恐山)さ行ぐ。」 と、下北の人々はそう言い、この山に深い祈りを捧げてきた。
「この世」にいながら「あの世」に近づける場所と言われている。
霊界と俗界を隔てる三途の川にかかるのは、朱塗りの太鼓橋。
罪人にはここが針の山に見えて、渡ることが出来ないと言われている。
無事に渡り、境内に足を踏み入れると、今度は荒涼とした岩場と硫黄臭が立ち込める。地の池地獄や無間地獄など、あらゆる名前の付いた地獄や賽の河原をめぐり、やがてたどり着く宇曽利山湖の白い砂浜は、まさに極楽浄土を思わせる景観。
仏の慈悲に救いを求めて訪れる人、亡き人の思いに触れたいと願う人が訪れる
この地で、ジュディ・オングは何を思い、何を得たのか…。




この中で、南氏が出演していました。
長身で痩せた風情でトクトクと語ります。
「頭でっかちの理論派僧侶」という私のイメージがぴったりのお方でした。
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「彫刻家・籔内佐斗司流 仏像拝観手引」 by NHK

2012年01月22日 17時44分02秒 | 寺・仏教
 仏像にはあまり興味はないのですが、いつの間にか関連本が手元にたまってしまいました(苦笑)。
 でも読んでも「フ~ン」で終わってしまい、記憶に残りません。そんな折にNHKでこの番組が始まりました。映像で見れば少しはインパクトが違うかな、と期待して視聴しました。

番組紹介文
 空前の仏像ブームです。京都・奈良では今日も、仏像ガールたちが古仏を求めて巡り歩いています。人はなぜ、仏像に魅せられるのでしょうか?
 今回、私たちを仏像のふしぎな世界へ誘ってくれるのは、仏像修復の達人・籔内佐斗司さん。「寄せ木造り」「乾漆造り」などの複雑な古典技法を実演をまじえながらわかりやすく解説します。


第1回 ほとけさまの長い長い旅路
第2回 籔内流 仏像拝観の基本
第3回 仏像の原点 大仏さまめぐり
第4回 漆でできたほとけさま
第5回 一木造りのほとけさま
第6回 寄木造りのほとけさま
第7回 運慶・快慶 慶派仏師の仏像ルネッサンス
第8回 岡倉天心を知っていますか?
第9回 若者が受け継ぐほとけの遺伝子


 よく話題になるけどなかなか覚えられない「印相」や「仏像の種類」の話は「フ~ン」と聞き流しました。仏様が「如来・菩薩・明王・天」とビラミッド型に格付けされていることはたけしの正月番組と同じ説明でしたね。
 それより、仏像の歴史が面白かった・・・材料や様式の変遷など縦のラインに沿った解説に引き込まれました。

 意外な驚きだったのが、藪内先生は東京芸術大学に「仏像修復」の講座を持っているのですね。20前後の若手が仏像相手に悪戦苦闘している姿が妙に新鮮でした。

 素材に関して。
 飛鳥時代の木材(樟:クスノキ)、奈良時代の銅と漆、そして奈良時代後期にまた木材(榧:カヤ)となり、「一木造り」や「寄せ木造り」へと発達していったのでした。
 法隆寺の百済観音像が代表作であるクスノキは香りはよいけど目が荒く細かい加工ができません。鑑真が中国からもたらしたカヤは目が細かくて加工しやすい材質。クスノキ時代は衣紋(着衣のドレープ)が直線的で荒かったものが、カヤの時代には流麗なラインへ発展する様が素人の私にもよくわかりました。

 一時期のみ流行した漆製の仏像の代表は興福寺の阿修羅像。乾漆法と呼び麻布と共に何回も重ね塗りする手法なので、何となくふっくらと仕上がるのが特徴です。
 この興福寺の阿修羅像は仏像人気ランキングの常連としても有名です。ふつうはいかつい姿をしている阿修羅像が、優しい少年のような表情をしているのは例外的だそうです。作成を命じた光明皇后が、無くしたわが子を偲んだためそのような造形になったとも伝えられています。



 はじまりは、布教の手段として、あるいは崇拝の対象・偶像として作成された仏像が、いつしかその時代の文化を纏い、仏師の切磋琢磨により芸術の域まで達していった歴史・・・ちょっと仏像を見る目が変わりそう。

 行ってみたい、見てみたいと思った仏像が二つ。
 一つは奈良の飛鳥寺の「飛鳥大仏」。日本最古の寺である飛鳥寺にこれまた日本最古の大仏が鎮座しているのです。大仏と云っても3m弱ですが。1400年の年月を感じてみたいですね。



 二つ目は東京上野の「上野大仏」。上野公園の中の盛山にあります。江戸時代に建立されたものの、関東大震災や戦災により崩落して顔だけが残っているのです。「もう落ちるものはない」ことから受験合格祈願の御利益があるそうです。



※ 解説の籔内佐斗司さんは奈良のキャラクター「せんとくん」の考案者です。専門家なのでしょうが、あの美的センスはちょっと・・・。

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『ビートたけしの教科書に載らない日本人の謎』~仏教編~

2012年01月03日 06時15分48秒 | 寺・仏教
 毎年お正月に放映される番組だそうです。
 その年末には再放映され、今回わたしは2011年版(第3回)を拝見しました。

<内容>
・なぜこれほど日本に仏様が根付いたのか
・最澄と空海は何をしたのか
・たけし人生初の高野山参り


 この回は、日本の仏教に焦点を当て、小島よしおとカンニング竹山によるコントを交えて、まことにわかりやすく解説しています。
 はっきり云って、大変勉強になりました。
 学校の歴史の授業では建前が邪魔になり、一般民衆にとってどういう意味を持っていたのか今ひとつイメージできない事柄が多いのですが、人間くさい裏事情も知ると興味深く身近に感じることができます。

 特に以下の事項が新鮮でした;

仏の階級
 ピラミッドの頂点に悟りを開いた「如来」、その下に修行中の「菩薩」、その下に番人の「明王」、その下にインドの神々を転用した「天」という序列が存在する。

如来】・・・薬師如来(医療担当)、阿弥陀如来(極楽浄土の案内人)、大日如来(太陽を神格化)、
 ちなみに奈良の大仏は毘虜遮那(びるしゃな)如来、鎌倉の大仏は阿弥陀如来。

菩薩】・・・弥勒菩薩、観世音菩薩(観音様)、地蔵菩薩(お地蔵様)
 ちなみに観音菩薩は女性ではない(男性でも女性でもないらしい)。簡素な如来の姿に比して装飾がされているのは、出家前の釈迦の王侯貴族時代の姿を表している。
 観音様は人気を博し、バリエーションが生まれた。たくさんの人々を救うため、手の数を増やした千手観音、顔を増やした十一面観音、巨大化した高崎観音、等々。
 親切にも出張して救済してくれる菩薩も登場・・・皆さんご存じのお地蔵様のこと。庶民のアイドルとなり細々とした願いも聞き入れてくれる存在となり、身代わり地蔵、とげ抜き地蔵、子育て地蔵などが登場した。

明王】・・・不動明王、他
 明王は密教では大日如来の化身・分身であり、明王が救うのは難解の衆生(なんげのしゅじょう:いくら言っても聞かない人)。明王は激しい煩悩を背後の炎と剣で焼き尽くし、左手の縄で縛ってでも救うという。慈悲の心ではなく怒りで仏教界を守る、いうなれば闇の仕事人。
※ 歌舞伎の市川海老蔵が結婚を報告した成田山新勝寺のご本尊は不動明王でしたね。

】・・・帝釈天、毘沙門天、金剛力士、等
 明王グループと同じく武闘派集団で、「寅さん」で有名な葛飾柴又の帝釈天、戦の神様の毘沙門天、東大寺の金剛力士、地獄の閻魔様も天の一員。

仏教の宗派はなぜたくさんあるのか?
 宗派は、膨大な教典の何を重視するかで分離した派閥のこと。
 ラーメンに例えると、スープ極め派、麺極め派、全体のバランス重視派、と考えるとわかりやすい。

政治に利用されてきた仏教
 仏教は6世紀に日本に伝えられ、当時の中央政府が全国統一の方便として利用された。釈迦を中心とした一神教という性格が、天皇を中心とした日本統一とイメージがピッタリ重なったから。
 仏を祀るから国を守ってほしいという考えのもと、聖武天皇と光明皇后は全国に国分寺、国分尼寺を建立した。その後も長い間、仏教・僧侶は日本の政治の中枢に関わることになった。
 ただし、奈良時代は権力者・上流階級向けの宗教という性格にとどまった。

最澄(天台宗)と空海(真言宗)のインパクト:官から民へ
 この二人は上流階級の宗教であった仏教を民衆に広めようとして人気を博した。最澄は超エリートの役人でもあり、年下の空海は当時ブームであった密教をひっさげて重用されるに至った。二人は同じ遣唐使船に乗り、当初仲が良かったが、その後ちょっとしたトラブル(本の貸し借り?)で袂を分かった。空海はそのカリスマ性から自分がお寺の本尊になってしまった(弘法大師)。

※ 脱線しますが、こんな記事がありました;
1200年ぶり…天台・高野山真言宗トップ対談(2012年1月7日 読売新聞)
 天台宗の半田孝淳(こうじゅん)座主(ざす)(94)と、高野山真言宗総本山・金剛峯寺の松長有慶(ゆうけい)座主(82)による対談が昨年12月25日、京都府と滋賀県にまたがる仏教聖地の一つ、比叡山で行われた。
 両宗の開祖、最澄と空海が晩年、対立したとされることから、両座主が長時間にわたり意見を交わすのは1200年の歴史の中で初めてとなる。
 東日本大震災を体験した日本人の心のあり方を宗教人として示したいという松長座主の提案に、半田座主が応じる形で実現した。日本人はこれからいかに自然や環境と関わっていくべきか。両座主による初めての対談は、被災後の日本人への示唆に満ちたものとなった。


法然(浄土宗)/親鸞(浄土真宗)の特徴:民への普及促進
 法然は「南無阿弥陀仏(阿弥陀様、どうか私を極楽浄土にお導き下さい)と唱えればどんな人間でもあの世では救われる」と説き、民衆の支持をさらに得た。親鸞は自ら妻帯し悪人でも救われると説いた(悪人正機説)。ここで言う「悪人」とは犯罪者という意味ではなく、私たちはみな悪人という認識に基づいて、その認識を持った者こそが救われるという意味。
 注目ポイントは、釈迦ではなく阿弥陀如来ただ一人の神を崇拝したこと、この世ではなくあの世での救済を主眼に置いたこと。
※ 親鸞の云う「悪人」は平民以下の蔑まれてきた民衆を指すという説もあるようです(五木寛之の著書)。

禅宗(栄西の臨済宗/道元の曹洞宗)の特徴:武士への普及
 当時流行していた阿弥陀信仰はいわゆる他力信仰。それに対して禅宗は、自分の心身を鍛え上げることで自らの力で悟ろうという教え(自力信仰)。座禅というストイックな修行によりこの世での救済を説き、新興勢力の武士に支持され広まった。
 武田信玄、上杉謙信、織田信長も禅宗。金閣寺、銀閣寺、龍安寺が建てられ、能や華道、茶道といった文化も禅宗から派生した。

日蓮宗(日蓮)の特徴:現世での救済
 来世で人を救おうという禅宗に対し、日蓮は現世で人を救うべきと説いた。法華経という経典の中にこそ最高の真理があり経典を信じることで救われると説いた。

墓地・檀家制度は江戸時代から
 戦国時代に勢力を持ちつつあった寺の武装解除をしたのが豊臣秀吉。
 後に続いた徳川家康は異なる手法で寺を政治利用した。
 徳川幕府は「寺請制度」を敷いて地域の寺院に戸籍登録を管理させ、人の出入りを把握するとともに隠れキリシタンの取り締まりを行うという一石二鳥の方策をとった。寺にも「確実に信者を得ることができる」というメリットがあった。さら信者を確保するために宗派同士が争う必要もなくなったのであった。
 というわけで、葬式・お墓を寺が扱うようになったのは、実は江戸時代から。


 このように俯瞰すると、仏教はその時代の権力者に利用されて日本に根付いたのですね。その後対象を民衆へ広げていくことにより、現在のように普及した歴史が伺われます。

 やはり、自然に感謝し八百万の神を敬う神社の方が私は好きです。明治時代以降の富国強兵に利用された国家神道はイヤですけど。

 2012年版は1月9日放映予定です。ちょっと楽しみ。
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「仏教のこころ」by 五木寛之

2010年04月16日 21時05分50秒 | 寺・仏教
五木寛之こころの新書シリーズ1。講談社(2005年)。

最近、仏教が気になる私です。

年間3万人の自殺者を出す先進国日本。
日本人にこころの拠り所はないのか?
仏教は悩める人々を救う力となり得ないのか?
「オウム真理教」など奇をてらった徒花のような新興宗教に救いを求めることしかできないのか?

著者の五木寛之さんは作家として有名ですから説明の必要はありませんね。
私は昔から彼の小説が好きでした。
初期の「こがね虫たちの夜」から東欧を題材にした連作や「戒厳令の夜」という映画もお気に入り(アマリア・ロドリゲスの歌が良かった~)。
彼の視線は年表に書かれる歴史ではなく、いつも名も無き人々の営みを見つめています。
そこが魅力的なのです。

近年、宗教に関する本を書き、活動・発言もしています。
「百寺巡礼」は話題になりました。
この本はその流れで書かれたものです。

日本人は古来の神道に仏教が混じり合った節操のない宗教観をもつと批判される一方、万物に神の姿を見る「八百万の神」という概念が根底にあり他の宗教を排斥しない美徳もある、とも云われています。
実際、我々の生活は結婚式は神前で(神道)、お墓はお寺(仏教)、でもクリスマスやバレンタインデーも盛り上がります(キリスト教)。

世界では一神教のキリスト教とイスラム教がいがみ合い、殺戮が行われています。
一神教は他の宗教を認める寛容さを持ち合わせておらず、ときに危険な思想となり得ます。
また人間中心の宗教には「地球を守る」という視点からみると限界があるのではないか。
万物に神が宿るという日本の「アニミズム」という考え方は原始的と評されがちですが、実は先進的な思想となり得るのではないか、と著者は記しています。

21世紀のキーワードは「寛容」と「アニミズム」。
現状では焦臭い時代に再突入しそうな雰囲気を感じるこの世界。
果たして人類は思想・発想の転換ができるのでしょうか?
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「聖徳太子」

2010年03月04日 20時37分19秒 | 寺・仏教
NHK-BSで「法隆寺」という番組を見ました。
法隆寺はその昔聖徳太子が建立したと中学校の歴史で習いました。7世紀でしたっけ。
彼は「日本に仏教を取り入れた賢人」「十七条の憲法制定」と、日本人なら誰でも知っている偉人ですね(昔の1万円札の肖像でもありました)。
番組は前編・後編からなり、各2時間弱の圧倒的内容でした。

~番組紹介から~

<前編>
「世界の至宝・法隆寺の国宝全て紹介する特集番組。前編は昨年行われた科学調査から浮かび上がった世界最古の木造建築の謎を追いながら、飛鳥時代の宝物を中心に紹介する。
法隆寺の国宝をすべて紹介する。前編は、世界最古の木造建築に秘められた謎を追う。寺を創建した聖徳太子の死後、法隆寺は火災で全焼したとされているが、誰がいかにして寺を再建したのかは謎とされてきた。2008年、建物の年代を探るための科学調査が進められ、日本に異国の宗教・仏教が根づいた時の知られざる物語が浮かび上がってきた。至宝、名建築をご覧いただきなら、神秘的な古代史のロマンをたんのうしていただきたい。」

<後編>
「法隆寺の伽藍や宝物はがいかにして造られ、守られてきたのか。後編は技をキーワードに法隆寺が1400年の風雪に耐えた秘密を古式豊かな行事を交えてお伝えしてゆく。
後編では「技」をキーワードに、至宝がいかにして造られ、守られてきたのかを追う。1300年の風雨や地震に耐えて立ち続ける法隆寺の伽藍(がらん)。解体修理したときの秘蔵のフィルムを手がかりに、古代工人が持っていた驚きの技術や職人たちの絶え間ない努力に迫る。さらに、至宝が生み出され、守り伝えられた背景にあった、聖徳太子への篤(あつ)い信仰を、法隆寺に伝わる四季折々の古式豊かな行事を交えて伝える。」

法隆寺修復の際に学術調査が入り、そこから判明した歴史上の新事実を織り交ぜての内容です。

■ 法隆寺は聖徳太子が造った仏教研究所。金堂は「聖徳太子記念館」。
 当時、仏教は伝来したばかりでまだ日本中に広まっておらず、「異国の宗教」と捉えられていました。仏教普及の拠点として当初は立てられたようです。
 しかし完成から半世紀後、法隆寺は火事で焼失してしました。その時既に聖徳太子は没し、一族も政争に敗れて絶えた後でしたが、それでも法隆寺は再建されました。
 誰が何の目的で?
 再建された位置や仏像の配置から推測すると、再建は天智天皇・持統天皇が唐に対抗するために日本国内を統一する必要性を感じ、異国の宗教である『仏教』を利用して聖徳太子を「日本に現れた釈迦の再来」と崇めたようです。
 その証拠に、金堂に祭られている仏は聖徳太子の姿を等身大に写したものです。こんな仏は他に例がありません。

・・・現在はあって当たり前と感じる天皇制が安定したのは、実はこの時代からなのですね。わかりやすく云うと、宗教を政治利用したことになります。それも故人の聖徳太子人気にあやかって「現人神(アラヒトガミ)」に仕立て上げたと捉えることもできます。
 あれ、これって明治維新で国家団結のために天皇を「現人神」とした宗教を起こし、従来の仏教・神道・儒教を否定した明治政府と共通するところがありますねえ。
 違うところは聖徳太子は平和志向、明治維新は戦争志向・・・真逆です。

■ 聖徳太子の仏教者としての宗派は?
 歴史でならいました? 私は覚えていません。
 正解は「法華経」中心です。

■ 法隆寺・聖徳太子はなぜ消えることなく現在も伝えられてきたのか?
 前述の通り、天皇家が太子を利用するために保護してきたからと、女性救済を訴えるお経を取り入れ、徐々に庶民へ信仰が広まっていったから、とされているようです。

■ 仏像の素材としてクスノキは日本固有のもの
 トトロの住み処として有名になった感のあるクスノキ。これを仏像彫刻に用いているのは日本くらいらしい。つまり古(いにしえ)の仏像は素材により生産国が推定可能と云うこと。

■ 年輪で木材が切り出された年代が正確にわかる。
 年輪幅の基礎データがあれば、木材の年輪幅を測定して重ね合わせて一致するパターンを見つければ、正確な年代が推定可能・・・まるで指紋検査のようでした。法隆寺金堂の木材は西暦688年に切り出されたことが判明!

・・・法隆寺の年中行事の一つに先日亡くなった立松和平さんが参加している映像があり、懐かしく拝見しました。
 法隆寺へは中学校の修学旅行で行きましたが、金堂の薄暗い中に仏様がいた雰囲気しか覚えていません。
 また行ってみたいなあ。1300年前の柱に触ってみたい。

 それから、個人的に一万円札は福沢諭吉より聖徳太子の方が好きですね。
 明治維新って、必要に迫られて起きた史実ではあるんだろうけど、それまでの日本の伝統をバッサリ切ってしまった罪は大きいと思います。おかげで日本人は自分たちの国・歴史に自信が持てない情緒不安定な国民になってしまったのですから。
 現在も茶髪の若者(~中年)を見かける度に「日本人でいることに誇りを持てない」潜在意識を感じて悲しい気持ちになります。本人は意識していないでしょうけど。
 それまでの生活に根ざした宗教(神道・仏教・儒教)だけでなく、伝統医学も否定してくれたおかげで、いまだに日本人の体質にあった漢方医学が復権しきれていません。

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「道元という生き方」

2009年04月09日 07時15分43秒 | 寺・仏教
立松和平著、春秋社、2003年発行

道元は今から750年前の僧侶です。
学校の教科書にも載っていますね。
中国の宋に渡り、禅を極めて帰国し曹洞宗を開きました。
先日「禅ーZENー」という映画を観て興味を持ち、手元にあったこの本を読んでみました。

道元は僧侶ですが、その求道の生涯を思うと「思想家」「哲学者」という呼び方が合うような人物です。
歴史上の名を残した僧侶達は宗派を開いて弟子を増やし勢力・権力にしがみついた人物が多い中で、道元は異色とさえ言えます。
究極の求道者、聖人と言ってもいい。
道元の流れをくむ良寛とともに、現代の日本人にも愛される魅力がそこにあるような気がします。

彼の教えは「只管打坐」(シカンタザ)。
ただただ、座禅をするのみ。
座禅をすることにより邪念や欲望が皮がはがれるように落ちて行き、本来の自分だけが残る。
その自分を見つめることにより生と死に思いを馳せることが悟りであると。
親鸞が他力本願なら、道元は自力と評されることもあります。

例えは変かもしれませんが、ヘルマン・ヘッセに「知と愛ーナルシスとゴルトムントー」という小説があります。その中の「知」を具現する主人公の一人と道元が重なりました。

道元の残した短歌があります。

「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり」

シンプルですね。
ノーベル文学賞を受賞した川端康成さんが受賞スピーチ「美しい日本の私」の中で引用して有名になりました。
自然は自然のまま、自分は自分のまま、それを良しとする精神。
欲を捨て、真理を受け止める澄んだ心が大切なのだと教えているのでしょう。

著者の立松和平氏は道元の書物「正法眼蔵」「正法眼蔵随聞記」をいつも身近に置いていると書いています。
無駄をそぎ落とした簡潔な文章の中に深い意味が込められており、自分の年齢相応にその意味がわかってくる、あるいは変わってくるのが魅力とのこと。

書家の相田みつをさんも「正法眼蔵随聞記」の愛読者で、残された彼の映像の中にボロボロになった岩波文庫のこの本を紐解く場面が印象に残っています。
彼の書は曹洞宗の禅寺の武井哲應老師の教えをわかりやすく現代語訳したものだと、講演の中で話しています。
つまりそのエッセンスは道元の教えと言うことになります。
相田さんの書は現代人の心にしみ入ります。
東京国際フォーラムの「相田みつを美術館」には全国からの訪問者が絶えません。
時代を超えて、道元の教えに現代人も癒されている・・・奇跡ですね。

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