録画しておいたものを視聴しました;
~番組解説より~
『日本人の忘れもの』(制作:サガテレビ)
<2011年5月31日放送>
戦後60年以上経った。豊かで平和な日本に生きる。一方で、沖縄などかつての戦地には、まだ多くの遺骨が残されたままになっている。戦没者の遺品もその多くが遺族のもとにたどり着かずさまよっているのが現状だ。戦没者の遺骨や遺品の返還をしている佐賀県のNPO法人の活動を通して、戦後日本が忘れてきたものを今一度見つめ直したい。
※ 第20回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
戦争を知らない世代の私には、「沖縄」というと観光地、リゾート地というイメージが先行します。
しかし現在でも沖縄県では戦闘のあった場所を掘ると遺骨が出てくることを知り、番組のはじめから驚かされました。
なんてことでしょう。
番組の主役である塩川氏はボランティアで遺骨発掘を続けてきた方。
彼自身の父親も、彼と一度も対面することもなく戦地に散っていった1人なのでした。
ある時、戦地から妻と子ども宛に出したハガキがアメリカ兵から提供され、それを届けようと前橋の地をさまよう彼の姿、そして遺族に渡して安堵する姿に涙が流れました。
遺品があっても遺族にわたりにくい理由に「国と地方自治体が別々に人名録を管理している」二重構造があるそうです。
それを戦後65年放置してきた日本とはどういう国なのか。
昨年の中国で起きた列車事故の車両を埋めようとして中国政府に批判が集中しましたが、日本人にその資格があるのか、自問自答が必要であると感じました。
<解説の全文>
戦後、日本は目覚ましい経済成長をとげ、“豊かさ”と“平和”を手にした。一方で、沖縄などかつての戦地には、まだ多くの遺骨が残されたままになっている。第20回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『日本人の忘れもの』(制作:サガテレビ)では戦没者の遺骨や遺品の返還をしている佐賀県のNPO法人の活動を通して、戦後日本が忘れてきたものを今一度見つめ直す。
2011年1月、全国から40人が沖縄にやってきた。戦没者の遺骨や遺品を遺族に返す活動をしている佐賀県みやき町のNPO法人「戦没者追悼と平和の会」が毎年呼びかけている「沖縄戦戦没者遺体収容の旅」の参加者。その多くは戦争を知らない若者たち。遺骨を収容するのは那覇市から車で30分、住宅街に程近い雑木林。斜面に設けられた陣地壕と呼ばれる穴からは、次々と戦没者の遺骨が見つかる。そばからは手りゅう弾や小銃弾、砲弾の破片など、かつてここが戦地だったことを物語るものも。この日、43柱の遺骨が見つかった。参加した若者たちはかつて戦地だった沖縄の今と向き合い何を感じたのだろうか。沖縄では今でも年間100柱前後の遺骨が見つかるという。その7割以上はこうしたボランティアの手によるものだ。戦後65年余り経った今でも沖縄を含む海外などの戦地には元日本兵の遺骨114万柱が眠っている。最近はDNA鑑定の技術が進み、遺骨の遺族が判明するケースもあるが、2009年度は収容された遺骨数のわずか1%にも満たないのが現状だ。
塩川正隆さん66歳。旅を主催した戦没者追悼と平和の会の代表理事を務める。塩川さんが遺品などの返還活動を始めたのは34年前。きっかけは、沖縄戦でなくなった父親が所属する部隊がいたという壕の跡を訪れたこと。壕の中には遺骨や遺品が散乱していたという。以来、これまでに100点あまりの遺骨や遺品を遺族の元に届けてきた。今、平和の会の倉庫には約1000点の遺品がある。平和の会はホームページで遺品を公開し、情報提供を求めているが、遺族にたどり着くのは容易なことではない。この中にあった1通のはがき。群馬県前橋市の住所が記され、家族の健康を気遣う内容がつづられている。8年前、国に該当する戦没者や遺族がいないか問い合わせたが、該当者なしとの回答があった。手がかりを求めて前橋市を訪れた塩川さん。当時とは変わってしまった町、個人の力ではそう簡単には見つかるはずもない…。あきらめかけたその時、携帯電話が鳴った。群馬県庁から「遺族判明」の知らせだった。
塩川さんと10年来の付き合いがある那覇市の国吉勇さん72歳。50年以上前から毎日、たった一人で壕に入り戦没者の遺骨収容を続けている。これまでに収容した遺骨は2600柱にのぼる。自宅には遺骨収容の過程で見つかった戦争の資料がところ狭しと並ぶ。こうした資料の一部は沖縄県内の資料館などに寄付してきた。70歳を超えた今、活動は続けながらも、これまで集めた資料を平和学習などに活用してもらうために有償で譲りたいと考えている。
ボランティアの手によって続いてきた遺骨の収容や遺品の返還。遺族や戦友の高齢化にともない今後、返還がますます難しくなることも予想される。“豊かさ”“平和”と引き換えに、私たちが忘れてきたもの…。これまで、サガテレビがニュースで取材してきた塩川さんの活動を中心に戦後65年余り経った今の日本を見つめる。
峰松輝文ディレクターコメント
佐賀県のNPO法人戦没者追悼と平和の会の塩川正隆さんを初めて取材したのは2004年でした。戦没者の遺品を返すため情報提供を呼びかける記者会見でした。「万年筆を返しに千葉に行こう」、「シベリア抑留者に会いに新潟へ…」、「厚生労働省と交渉に」、「年明けは恒例の沖縄ばい」、「群馬に行ってみようか」。この1年間だけでも全国各地を飛び回りました。戦没者のはがきを返すため訪れた先で聞いてみました、「どうして34年間もこの活動を続けているのですか?」答えは「たかが、はがきだけど遺族にとっては宝物なんだ」。取材中、塩川さんはよく「こうした活動ができるのも生きているからこそ」と話します。豊かで平和な日本に生きる私たち、“生きているからこそできること”を再確認したい。