1993年、新潮社発行。
帯のキャッチコピー:第七回新潮学芸賞受賞。坂東玉三郎と親交を結び、書画骨董を愛し、京都・亀岡の庵で暮らす、ちょっと変わったアメリカ人の日本美見聞録。
随分前に「外国人による日本人論」関係本を集めていた頃に購入した本なので、既に発行後20年が経過しています。
部屋のインテリアと化していましたが、最近、著者の映像をTV番組で何回か拝見し、そろそろ読むタイミングかな、と感じて手にした次第です。
日本は明治維新以降、自身の歴史を封印・否定し、欧米列強に追いつき追い越せとばかりに全ての分野で闇雲に輸入してきた悲しい歴史があります。
身近に日本の伝統を体験する環境が乏しくなりました。
私が民俗学に興味を抱く理由も「自分が何者なのか知りたい」「自分の祖先がどんな人達だったのか、どんな生活をしていたのか知りたい」という素朴な欲求、あるいは足が地に着いていない現代日本文化への危機感の表れなのかもしれません。
外国人による日本論は視点・切り口が斬新でわかりやすい傾向があります。
また、意外な外国との違いが浮かび上がり、興味深い。
これは、日本文化を見るまなざしが、私の世代では外国人とそれほど変わらないことを意味しているのかもしれませんね。
アレックス・カー氏は日本文化に魅せられた一人。
オックスフォード大学ほかで東洋文化を学んだ才人です。
四国の秘境、祖谷にわらぶき屋根の居を構え、京都の亀岡の神社境内に住む変人でもあります。
日本人の私も知らない日本をずっと見つめてきました。
その視点がまことに面白い。
日本文化には言葉に残る「思想」は育たなかったけれど、書画やお茶に浸透していてそれらを広く知ると見えてくる、と彼は云います。
しかしそれらは日本人自身に見捨てられ、どんどん海外へ流出している。
彼は現代の日本(といっても20年前ですが)を憂いています。
自然と調和した日本文化のよいところが、電線とコンクリートとパチンコ屋で汚染されている。
京都の遺産も観光化した部分は残すものの、公家文化や仏教文化の深淵は感じられない。
確かに、私は京都へ旅行してもいわゆる“観光地”へは行かなくなりました。
最近は神社ばかり。それも観光ガイドには載らない小さな神社が中心です。
著者の京都・奈良・大阪案内の項目もあります。
皆、一ひねりある場所。
いつかこの本を片手に関西巡りをしてみたくなりました。
著者はたおやかな公家文化の流れを愛して「美しき日本の残像」と捉えているようです。
私は公家文化や仏教文化の影響以前の「日本の幻影」を求めていることにあらためて気づかされました。
<メモ>
目にとまった印象的なフレーズ集。
■ 最近、「日本学」は世界的なブームになり、多くの学生が日本を訪れてきますが、彼らは京都の庭園を眺めて、それが日本の自然だと思っています。かわいそうなことです。日本の自然派もっと不思議なもので、幻想的で、まさしく「神」がただよう聖域でした。
■ 祖谷で初めて民家に入ったときにはショックを受けました。家の中は真っ暗。長年囲炉裏を使っているため、床も柱も壁も真っ黒になり、天井がないので合掌造りの屋根は暗闇の中にかすんで見えませんでした。まるで洞窟の中に潜り込んだようでした。
■ 中国のお寺は安っぽい修理のため、建物と彫刻はオリジナルとは全く別物になってしまっています。けばけばしい色彩とグロテスクな構図は伝統的な中国彫刻の清心を完全に否定したぐらい変なものですけれども、残念ながら今は観光客はそれしか見られないため、その変なものをを中国文化だと思ってしまいます。
■ 祖谷の人々とのふれあいの中で感じられたことは、そこに住む人々は大人も子どもも優しくて素直であるということでした。何百年もの間、祖谷が秘境として世間から離れていたためだと思いましたが、付き合いが深まるにつれ、一つ気がついたことがありました。山の人と平野の人との違いです。山の人は心の優しい人が多いのです。山の人は水田の灌漑をどうするかとか、農業のために必要な集団社会の中での人間関係の難しさに煩わされることがないため、生活は例え貧しかろうとも心はゆったりとしています。
それに比べて今の日本人の「頭の固さ」は対照的です。長い幕府政治、明治から昭和初期にかけて続いた軍国主義、そして現代の教育のシステムによって作られたものだと思われます。平安、かまくらまでの文献を読むと、昔の日本人はもっと自然な考え方を持ち、もっとオープンな心を持っていたような印象を受けるのです。鎌倉時代以後、とくに江戸時代に入ってからは少しずつロボットへと変心してしまったようですが、ロボット精神をまぬがれた地域が二ヶ所だけあったと思います。一つは大都会の中の「下町」ですが、もう一つは祖谷のようなへんぴな山奥です。祖谷の人々と付き合ったとき、平安調の祖谷弁だけではなく、昔の日本人の感性に触れた気がしたのは、そのためだと思います。
■ 色々工夫しているうちに、照明の戦略上大事なことの一つが「下からの照明」であることを学びました。今の私たちの生活はほとんど上からの照明が多いのですが、昔の家はたいてい囲炉裏の火の光、ロウソク、行燈など下からの照明ばかりでした。古い家に行燈を置いて使うと一気に部屋は美しくなります。
■ 日本の民家は東南アジアの家と似たところがたくさんあります。高床、合掌造りなどがそうですが、一番面白いのは“Empty Room”(空の部屋)精神なのです。中国、韓国、チベットなどはまた大変に違います。貧しい人でも部屋に家具、テーブル、椅子などを置いていますし、中国の場合には家具の置き方自体が一つの素晴らしい芸術に発達しました。
■ 草屋根の家は人工的なものではなくて、苔とか椎茸のように土から自然に生えたものに見えます。その安心感は古代に遡って深く人類の心の中に秘められてきたものだと思います。残念なことに、日本人は二十世紀の文化的ショックで過去の文化と自然環境については全く盲目になり、かやぶき屋根はおろか、木材家屋そのもの、しょして日本の木、山、石、海岸を全部ポイッと歴史のゴミ箱に捨てたのです。
■ 日本の三万の河川のうち、ダムのないのは三つだけだと云われています。何千キロもある海岸の三十パーセント以上はコンクリートブロックになってしまい、国の補助金により全国の雑木林は伐採され、その後は杉が列をなして陣立てよろしく並んでいます。
そして電線、先進国の中で都市と町で電線を地下に埋めていないのは日本だけであって、日本の町の独特のごみごみした雰囲気はそのせいです。
■ 歌舞伎は日本のオペラに当たるものでしょうが、歌舞伎は総括的な演劇であり、オペラの場合のような声と音楽の要素だけではなく、バレエの踊りと芝居の演技もあります。
■ 観客の観劇の表し方について。現代の西洋演劇と音楽の場合、観客は丁寧に最後まで待って、そして大きな拍手をする。第一楽章と第二楽章との間に客席はシーンとしていて、そこで拍手をしたり音を立てるのは大変恥ずかしいマナー違反になります。しかし歌舞伎の場合に芝居の見せ場に観客が屋号を呼んだり、その場で即感激を示す。そのかわり、長い芝居が終わった後、観客は別に喝采をしないで、そのままさっと帰ってしまいます。「瞬間」に集中するのは日本文化の特徴であると思います。
■ 日本の伝統音楽は非常に簡素なものでした。中国やインドのように楽器と音楽の構成は複雑に発達しませんでした。曲も簡素なもので、リズムだけに洗練された日本特有のものがありました。そのため、邦楽は完全に西洋音楽に征伐されてしまいました。一方、中国とインドの伝統音楽は硬いものでしたから、西洋音楽に対しての抵抗は今でも強く、自国の音楽はまだ比較的元気です。
■ 歌舞伎を見ると主従の関係、あるいは恋人同士の愛情をテーマにしたものはよくありますが、「友情」というものはほとんど見られません。昔も今も日本で本当の意味の「友人」を造るのは非常に難しいことだと思います。日本人は心の中のものを自由に話さないため、いつまでもどこかで不信の気持ちが残り本当の友人を作ることが難しいのかもしれません。日本に「友情」の文化の根が浅いと云うことは歌舞伎を見て閃きました。
■ 平安時代の公家、藤原家は今も続いています。平安の終わり頃に分家が増えたため、それぞれの分家は住んでいた京都の住所から名前をとり「二条家」「冷泉家」「今出川家」などの名の下に分かれました。その後、天下は鎌倉武士に奪われ公家の収入はなくなりました。そのため公家は、歌と書などの先生を勤めることにより収入を確保することになり、かつ、各家はその職業を保持する手段として「流儀」を創り出しました。
平安以来、江戸時代に入ってから公家文化が京都で再び大きく栄えました。冷泉家は定家流の歌道と書道、持明院家は皇室占有の書流、飛鳥井家は和歌、鷲尾家は神楽、というふうにそれぞれのファミリーは専門的に芸術を教えて、京都に計り知れない影響を与えました。
■ アート・ディーラーは美術館の館長さんより美術品の価値がよくわかっていると思います。館長さん達は美術品を買うときに公のお金を使います。一方、アート・ディーラーたちは自分の財布からお金を出して買います。
■ 「中国」という名前でもわかるように、中国人は中国が地球の中心であることを確信しています。一方日本は常に外国から文化を取り入れ受け継いできたので、日本人の心の底には自分の国に対する不安が耐えずつきまとっているのではないでしょうか。
■ 極端に言えば、日本は思想のない国です。日本では文化のエッセンスは言葉として本に書かれてはいませんが、目に見えないところに日本の「思想」がやはりあったのです。天童芸術に流れたのです。だから、日本には申し、講師、朱熹はいませんでしたが、定家、世阿弥、離宮などがいました彼らは日本の真の哲学者だったと思います。
■ 日本の教育システムは平凡な人間を造るのが目的です。日本人は「つまならさ」こそが人生だと思っています。もちろん、それは日本社会の大きな弱点だということは言うまでもありません。
一方、米国の教育システムは「創造力を見せろ」「ユニークな人間になれ」という要求が絶えずあるので、なんでも創造的で面白くなければならないと思うようになってしまいます。「人生を面白く」というアメリカ教育の要求はひょっとしたら残酷なものかもしれません。大腿の人の生活はつまらないものですから、失望するに決まっています。一方、日本人はつまらなさに不満を感じないように教育されていますので、きっと幸せかもしれません。
■ 漢字は中国で発明されたものです。古代エジプトや中南米のマヤ文化にも象形文字がありました。その中で中国だけがそれを川楝子、抽象的に形を整えて「漢字」を作り出しました。漢字の魅力があまりにも強くて、中国のまわりの国はみな影響を受けざるを得ませんでした。韓国、ベトナム、日本などはそれぞれ中国の文化に対して抵抗したけれども、漢字に屈服させられたと云えます。
■ 「関西七番巡り」
1.六波羅蜜寺
東山松原あたりの細い裏通りにある小さなお寺です。平清盛ゆかりの寺院で、奥に入ると「清盛像」が安置されています。清盛像は実に哀れな表情をしており、座って経本を読んでいます。哀しみの中に込められた激しさ、リアリズム、線の美しさ、修羅場の恐ろしさ、鎌倉彫刻の全部がこの一つの彫刻に圧縮されていると思えます。
2.表具屋の日下さんの店(六波羅蜜寺のすぐ近く)
3.あぶり餅屋
今宮神社の横には二軒の古いあぶり餅屋が向かい合っています。少し不便な場所で雰囲気が寂れているので観光客はあまり来ません。
あぶり餅とは、串に餅を刺して、甘い味噌だれを付けて、炭で軽く焼いたものです。がたがたの古い家の中に入って、畳の部屋に座って、ゆっくりと甘い餅を食べます。
4.円通寺
宝ヶ池の上の山道にあって、お庭は最高の「借景」庭園です。狭い廊下を歩いて入りますと、急に景色は広がっていきます。縁側の前の庭に苔の絨毯が敷かれ、その中に横状の平ったい石が施されています。苔と石を見るために目線が低くなっていますが、お庭の奥の垣根が目線を遮断します。目を上げると、垣根の後ろに竹林が見えてきます。さらに目線を上げると、日本の杉の木の間にまるで杉の額に入った絵のように遠い比叡山が見えます。内庭と外の景色が見事に調和しています。
この十数年間、度々円通寺に行きましたが、静かな縁側に座って、宙に浮いている気持ちになって、何時間もじっくりとあの景色を見るのが最高の楽しみでした。
5.釜ヶ崎
大阪の真ん中、通天閣の近くの地域で、日雇いの労働者、世捨て人、ヤクザ、酔っ払いなど、社会に見捨てられた人達の里です。そこにある「日本一安い芝居小屋」に入ってみます。入場料は二百円。白化粧の下町芸人たちは歌を歌ったり、踊ったりしていますが、客はタバコやビールのビンを舞台に持っていって役者に差し出します。芝居が終わったら、役者達は道に出て客を見送ってくれます。
大阪と京都の違いは、元気な文化と病気に患わされている文化の違いだと思います。大阪は江戸町民の文化が比較的元気に生きていますが、誰もそれを意識していません。
6.西宮-夙川-芦屋のドライブ
釜ヶ崎とは正反対の世界で、最後に芦屋の一番上の奥池という所に到着します。もともと泥のため池でしたが、最近高級住宅地として開発されました。古い松の木がたくさん残っていて、それを許可なしできることができません。この自然との調和、山の自然の美しさ、海の見晴らし、豊かな住まい、これこそは関西ならではのものです。
7.奈良の般若寺
奈良の周辺のお寺は人の魂に深い影響を与えます。京都の禅の「アート」、大阪の人間らしさ、芦屋の生活、そうしたものと別の次元にあります。宗教です。浸透の「神の世」、仏教の「浄土」をなんとなく近く感じます。
奈良の北山にある浄瑠璃寺は境内の浄土の池が緑の中に光って、左右に薬師塔、九品(くほん)の阿弥陀堂が曼荼羅のように並んでおり、精神が浄化されて浄土を味わった気持ちになります。
法華寺、室生寺、長谷寺など、それぞれに奈良の「神秘」が漂っています。
奈良公園から4キロくらい西にある般若寺は日本の数少ない知恵(文殊菩薩)の寺院です。中国風の門の軒先はすっと空に反り上がり、エレガントな入口です。庭はジャングルのように見える、人の背丈ほどのコスモスに覆われています。寺の中に美しい文殊菩薩が獅子の上に乗ってコスモスのジャングルを見下ろしています。
僕は東京では知恵の神様と出会ったことがありません。文殊菩薩はやはり奈良のような時間の流れのスローな場所を好むと思います。だから、経済や文化の中心が関東に移ったとき、観音、阿弥陀、弁天なども皆一緒に上京しましたが、文殊三は着いていきませんでした。
■ 続「五番巡り」
京都の東山の麓に沿って奈良へ向かうと、泉涌寺、東福寺など広大なお寺が山に並んでおり、京都市内の雰囲気と少し違います。
1.伏見稲荷大社
京都の寺院の砂庭・枯山水は眺める一が決まった芸術作品ですが、伏見稲荷には眺める位置が決まった場所にありません。無数に並ぶ朱色の鳥居は京都の侘び寂びの世界とは完全に離れた次元にあります。もともと朱は道教の色で、何千年前の中国の商時代から神の色として敬われた色です。論語では朱色は「高貴なもの」という意味で使われています。朱は中国から日本の神道に伝わってきました。しかし、朱色は日本の風土に強烈すぎたためか、後の時代に朱のパワーはほとんど忘れられてしまいました。でも伏見稲荷では朱は圧倒的に強く、道教のマジックを醸し出しています。
伏見稲荷の「塚」の混沌・雑然さは、国家神道の伊勢や行儀のよい京都の文化が生まれる以前の道教、原始神道の世界と遭遇することになります。
2.万福寺
「禅の異人館」ともいえる寺です。万福寺が生まれたのは1650年頃で、日本と中国の歴史的な転換期でした。満州族の「清朝」に抵抗した「黄檗山」の禅僧は次々日本に渡来してきて、彼らが愛した明の文化を日本に伝えました。初代住職、隠元にはじまり、江戸中期の21代まで住職はほとんど中国人でした。
もともと禅というのは中国の独特の厳しさと遊びの精神とによって生まれたものです。万福寺の建築は両方のバランスが上手く撮れています。
☆ 僕のとっての日本の「国際的」な場所はどくかインチキ臭いところが多いのです。例えば、長崎の出島ですが、出島は外国人を入れさせない手段に過ぎなかったのです。あるいはグラバー亭にしても、グラバー家の末裔は憲兵隊にいじめられて死んだのは事実です。または、神戸の「異人館」のことを考えても、異人館の外国人町は一大で潰れてしまいました。
3.平等院
平等院のすばらしさは、寺であって寺でないところにあります。
一般に、京都の禅寺には厳しさは感じられても遊びは感じられません。平等院は唯一の例外で、平安貴族の気まぐれによってできた完全な「folly」(戯れ)です。平等院を見たときは、何となく軽い気持ちになって鳳凰と一緒に天まで飛んでいこうという開放感があります。
平安以後は、日本は長い武士の文化が続きましたから「気まぐれ」とか「戯れ」は許されなくなりました。そして今では「金儲け」という武士道より厳しい社会になり、「無用」というものはますます許されなくなりました。
4.東大寺の南大門
江戸時代中期の復元作ゆえ、柱は寄せ木ですし、建築寸法もオリジナルより三分の二くらいに小さくなっているので、大仏が窮屈に感じます。
奈良公園の中で唯一完璧な傑作は南大門です。現存の南大門は鎌倉時代に重源承認東大寺を復興した際に中国の掃除代の建築様式を使って建てました。強さと優雅さを見事に調和しています。
南大門、般若寺、平等院もみな宋の影響を受けたことからわかるように、屋根の反りは元来日本のものではありません。もともとは東南アジアのものでした。
☆ 春日大社は芸術性に少し欠けると思います。春日大社に行くまでの万燈籠の道は情緒がありますが、神社そのものはあまり面白くありません。江戸時代の復元作であるため、どこかアンバランスさを感じます。平安貴族の優雅さがあまり感じられません。
■ 奈良時代は密教の花が咲いた文明でした。芸術、思想、文学などは深く密教の色に染まって、社会の権力者は密教にエネルギーを注いだのです。中世に入ると、密教は浄土宗と禅宗に座を譲りました。天台と真言の信仰が残ったけれども、武士や芸術家はもっぱら禅の思想に頼って文化を築き上げてきました。禅の影響はずっと今日まで尾を引いているので、世界での日本の文化活動を見ますと、前夜茶の湯が非常に目立っています。
■ 遺跡を見ることによって各時代の主流になった思想がわかります。例えば、奈良時代には密教寺院、中世には禅寺、明治時代には汽車の駅が大きなモニュメントとして目立ちます。そして現代はどうなってゆくでしょう。ヨーロッパや東南アジアの田舎を回ると村の中央に必ず教会の塔あるいは寺院のそり屋根が一番高いところに見えます。しかし、日本の田舎では一番高くてたいそうな建物はパチンコ屋になっています。カラフルなパチンコ店は明るい照明を浴び、その「原題の神殿」の駐車場に車が集まっています。
■ 奈良から20分くらい南に走ったところに「崇神天皇陵」と「櫛山古墳」があります。この2つの陵は特別に魅力的です。夏に来ると、周囲の田んぼは緑色に包まれ、陵の丘の木は深く茂り、空気は蝉の声でずきんずきんと脈打っています。あの陵の周りを歩くと神道伝説の「神代」に戻った気分になります。
■ 僕は特に室生寺が好きです。室生寺に行くまでの道路はエキゾチックです。細い山道で谷間に沿って走ると、谷の対岸に15mくらいの高さの仏像が一体岸壁に刻まれているのが見えます。これはいわゆる「磨崖仏」です。室生寺の近くの磨崖仏は弥勒菩薩、つまり未来の仏です。造られたのは鎌倉時代で、中国から渡った彫刻家が彫りました。ひっそりと立っている弥勒菩薩は本当に神秘的で、山肌から未来の神様が現れたようです。
寺の入口の橋を渡って境内に入ると、よろい坂、金堂、五重塔などがあり、それぞれ奈良らしい傑作です。高い芸術性を持っていると同時に、完全に自然に溶け込んでいるのです。
室生寺の一番素晴らしいところは「奥の院」です。そこに行くために400段もある険しい階段を上らなければなりません。階段を上ると云うよりも階段を這い上がるという感じです。周りは千年杉とシダの群落です。やっとのことで階段の上の「御影堂」に着くと、地球の果てに来た思いになります。
■ 東洋独特の「文人」という理想は、儒教と道教が一緒になってできたものだと思います。まず儒学がどういうものだったかを考えると、昔の知恵を勉強することがベースでした。本で勉強する、つまり「文」が出発点になっています。そして勉強する目的は「徳」を身につけることでした。
しかし儒学には一つの欠点があります。儒学の教えは高貴なものですが、道徳心のウェートが大変重すぎるのです。一方、道教にはこれと全く反対の理想がありました。道教の人は自由な生活をして、大自然と一緒に暮らす仙人でした。
やがて宋時代に鳴ると、儒学の「学者」と道教の「仙人」が溶け込んで、「文人」という理想が生まれました。儒学者の「芸術」と道教の「自然」は東洋独特の考えでした。さまざまな芸術と大自然を取り入れたことによって東洋の文人は人間社会を乗り越えて、宇宙の真理に近づくことができたと思います。
■ 詩仙堂は江戸時代に文人「石川丈山」により作られました。彼は元々武士でしたが、大阪城の攻めの時に軍律に反したため蟄居を命ぜられました。それから数十年地方で先生として勤めましたが、58歳の時に京都に戻って詩仙堂という隠居所を立て、そこに籠もったのです。
他の京都の名勝は神仏を祀るための神社仏閣、あるいは茶人が遊ぶための茶室になっていますが、詩仙堂だけは「何もしません」のための所です。