知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

谷川俊太郎氏、逝く

2024年11月30日 07時18分55秒 | 日本の美
詩人の谷川俊太郎氏が亡くなりました。
ふだん「詩」に縁がない私もその名前を知っているほど有名です。

昔々、テレビのCMで流れた詩に感動し、記憶に刻まれたのでした。
それは「ここ」という作品です。

どっかに行こうと私が言う
どこ行こうかとあなたが言う
ここもいいなと私が言う
ここでもいいねとあなたが言う
言ってるうちに日が暮れて
ここがどこかになっていく

最後のフレーズ「ここがどこかになっていく」を耳にすると、
イメージの世界が広がり・空気感が変わることを実感しました。

言葉の力ってすごい!
詩の力ってすごい!

のちに、スヌーピーシリーズの翻訳を手がけたことも知りました。
その後の活躍はご存知の通り。

ご苦労さまでした。
合掌。
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名刀「膝丸」

2022年08月24日 10時54分26秒 | 日本の美
近年は“刀剣ブーム”なんだそうな。
意外にもそのコアなファン達は、男性ではなく女性達。
アニメやゲームをきっかけにファンになり、
全国の名刀を見歩いているとのこと。

そんな平和な時代になったのですね。

刀についてあまり真面目に考えたことがなかったので、
録画してあった番組を見てみました。

名品の来歴「幻の刀“膝丸”が語る1000年」(NHK-BS 2021.11.23再放送)
DVDも販売されています)

まず興味深かったのは、鎌倉時代以前と以後では刀の形が違うこと。
初めて知りました。

その理由は「戦いの形」。
馬上戦か、地上戦かにより、刀の長さや形が異なるのです。

馬上戦では馬に刀が当たると刺激になり暴れてしまうので、
後方に反った形を中央でぶら下げる感じ。
刀を腰につけることを「太刀をはく」と呼んだそうです。
この付け方では刃は下向きです。
相手との距離が近くないので、長さは長め。

そして地上戦が中心になった江戸時代になると、
刀は直線に近くなり腰から帯にかけてぶら下げるようになりました。
刃は上向きです。
刀身は直線的になり、長さは70cm程度。
江戸時代は戦いのない平和な時代だったので、
「刃文」は波打ち、華やかさが追求されるようになりました。

そして“膝丸”です。
膝丸は馬上戦の時代に属するので、刃渡り87cm、
弓なりに反った形が美しく見えます。

約1000年前、10世紀に“膝丸”は造られました。
源平合戦がはじまる前の時代です。

造らせたのは源満仲という、関西にいた源氏の祖先となる豪族。
他にも名刀をいくつも造らせたという伝説が残っています。
刀工の名前は残っていません。
刀の持ち手部分に銘があり「◯忠」と読めますが、詳細は分からないようです。

それをひっさげて朝廷(天皇)の言うことを聞かない豪族達を滅多斬りにし、
朝廷の信頼を得て地位を固めていきました。

膝丸は満仲の子息である頼光が受け継ぎ、
その後も源氏が受け継ぎ、義経も頼朝も使いました。
画面の資料で確認できた源氏名は、
 満仲→ 頼光→ 頼基→ 頼義→ 義家→ 為義→ ・・・義経→ 頼朝

しかし地上戦が中心となる時代が到来し、表舞台から姿を消し、
その後は嫁入り道具の一つとして使われたりしていました。

さて、膝丸の正式な名前は“薄緑”というそうです。
膝丸というニックネームの由来は、
頭から振り下ろしたら膝まで達した、という伝説からとか。

昔の刀の切れ味を表現する名称として、
「二つ胴」「三つ胴」という表現があったことを思い出しました。

処刑された罪人を使って、新しい刀の切れ味を試したのです。
死体を3つ重ねて、一番下まで切れれば「三つ胴」、
二つ切れれば「二つ胴」というわけです。

なんだか、すごい話になってきました。

人を殺傷する刀剣も、
時代を経て今は観賞用になりました。

膝丸を造らせた源満仲は、
膝丸をブンブン振り回して力尽くで周囲をねじ伏せていったのです。
つまり“究極のパワハラ”です。

刀剣女子達は、その辺のことをどう考えているのでしょうか、
一度聞いてみたいですね。

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「京都・庭の物語〜千年のことがはぐくんだ空間美」(NHK-BS)

2018年06月21日 17時14分00秒 | 日本の美
NHK BSプレミアム 2015.2.23放送

<番組紹介>
 素朴な石が美しい枯山水、水うちされた茶室の露地、紅葉に彩られた寺の庭…。日本庭園で過ごす静かなひとときを求めて、多くの人々が古都・京都を訪れている。正月の朝にふさわしい、美しい京都の庭の世界をじっくりと紹介し、その奥深い世界を探訪する。
 日本庭園は、岩や木々、池などが、一見無造作に配置されているように見える。しかし、いかにも自然に見えるその姿は、実は庭の作り手たちによる緻密な計算が生み出した人工美である。自然石を仏や山河に見立て、池と木々の巧みな配置で小さな空間に立体感を持たせる。こうした法則や計算の上に作られた日本庭園には、自然を敬う日本人の美意識・文化・宗教が溶け込んでいる。
 今回は、京都の代表的な庭園を次々と探訪。金閣寺、龍安寺、天龍寺、醍醐寺など、人気のスポットを観光客のいない贅沢な映像で、たっぷりと堪能していただく。
 そして歴代の天皇や武士などの権力者たち、茶人や庭師など、千年にわたって庭を作り出してきた様々な人物にもスポットをあて、庭ができるまでの人間ドラマを描く。


私が視聴したのは再放送で、初回放送は2006.1.1のようです。

京都に住む貴族は、現代のように気軽にあちこちへ旅行する機会はなかったのでしょう。
自然の美しさを身近な庭に凝縮して楽しむこと見いだしました。
それ以降、各時代・各個人の美意識が象徴化された様々な庭々が生み出され、現在も残っています。

番組の中で紹介された庭は、

1.足利義満が作庭した金閣寺庭園は海に浮かぶ日本をイメージして鏡湖池に葦原島を浮かべました。
2.夢窓国師が作庭した天龍寺「曹源池庭園」は石組みにこだわり満載で「鯉魚石」(鯉が滝を昇って竜になる伝説を象徴)が配されています。
3.作者不明の竜安寺石庭は仏教の禅文化の影響を受けた枯山水の代表作で、海に浮かぶ島々にも見えますし、見る者の視点により様々に変化します。
4.大徳寺の大仙院の庭園も枯山水で、川の始まりから都へ、あるいは海へ続く壮大な流れがイメージされています。
5.豊臣秀吉が作庭した醍醐寺「三宝院庭園」は、彼の“石”に対するこだわりが随所に発揮されています。天皇を招待するために作庭しましたが、その願いが叶わぬうちに彼は生涯を閉じました。
6.千利休が作庭した裏千家の“露地”は山里をイメージした鄙びた雰囲気。
7.一乗寺・詩仙堂の庭園では、海と波と島をイメージ。江戸時代の作庭で、“両手ばさみ”が発明され、さつきが刈り込まれているのが特徴です。

ほかにもいくつもありましたが・・・忘れました。

私が実際に行ったことがある場所は、

1(中学の修学旅行)
2(高校の修学旅行)
3(いつか不明?)
4(社会人になり出張の合間に)
5(同上)

あらら、なんだかんだでけっこう訪問済みですね。

私は海より山の方が好きなので、一番印象に残ったのは千利休プロデュースの露地でしょうか。
露に濡れた石畳をつらつら歩いて行くと、木々に囲まれた涼しげな風景が広がり、その先に茅葺きの茶室が待っている・・・いいですねえ。
この茶室に座り、木々が風にそよぐ音や小鳥の鳴き声を聞くことを想像するだけで、心が癒やされます。
海をイメージした庭を見ていても、今ひとつピンときませんでした。

詩仙堂のところで「紅葉は夕日をイメージしている」と紹介され、なるほどと思いました。
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日曜美術館「東京の原風景〜夭折の絵師・井上安治が描いた明治」

2018年05月13日 15時22分56秒 | 日本の美
日曜美術館「東京の原風景~夭折(ようせつ)の絵師・井上安治が描いた明治」
2018.5.13放送

<番組紹介>
 明治の東京の姿をリアルに描き出した、知られざる明治東京名所絵のシリーズがある。現在の東京風景との比較しながら、井上安治が描いた「東京の原風景」に思いをはせる。
 描いたのは、26歳で夭折(ようせつ)した絵師、井上安治。
 “光線画”で名高い小林清親に弟子入りし、江戸伝来の浮世絵とは全く異なる新時代の風景版画、134点のシリーズを生み出した。番組では井上安治の明治東京名所絵を現在の風景との比較や明治の文豪の思い出の文章をまじえながら紹介し「東京の原風景」に思いを馳(は)せる。


 安治の絵を見ると「はて、これは小林清親?」と思うほど似ています。
 それもそのはず、安治は清親の弟子。

 江戸時代を代表する表現方法である浮世絵は、現実をそのまま描くのではなくデフォルメしてインパクトのある構図となっているのが特徴です。
 江戸時代と明治時代の間に生きた清親は、デフォルメをやめ、変貌していく東京に江戸の要素を残しつつ、かつ人物や動きを入れた手法をとりました。また、光と影を効果的に使い、「光線画」として人気を博しました。

 その弟子である安治は明治の人。
 清親の陰に隠れてずっと無名のままでしたが、江戸学者で漫画家の杉浦日向子氏が発掘して取り上げ、一躍有名になりました。

 2人の絵を見比べてみると、清親が好んだ「動き」が安治にはなく、ただあるがままにその場面を切り取っており、奇をてらったところがありません。
 夜の風景を多く描き、一抹のわびしさが漂うのも特徴です。
 まあ、「淡白」「そっけない」ともいえますが、当時の記録という意味で、資料として価値がありそう。
 番組内では、新橋駅や上野駅を現在のものと見比べたりしてましたね。









<参考>
・2018年5月13日 / 旅の紹介 「第67回 井上安治 浅草〜日本橋・文明開化を感じる旅
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「京都御所~秘められた千年の美~」(NHKスペシャル)

2018年04月22日 17時03分10秒 | 日本の美
NHKスペシャル「京都御所~秘められた千年の美~」(2015.1.1放送)

 私は京都へ出張へ行くと、京都ブライトンホテルに泊まります。
 このホテル、とにかく朝食が美味しいのです(確か西日本ホテルランキング第1位)。
 そして京都御所まで徒歩5分という立地。
 宿泊の際には、朝食前の御所散歩が日課になります。

 私にとっての京都御所は、大きな木がたくさんあることが魅力。
 巨樹好きも私にはたまりません。

 とくに、御所内に鎮座する「宗像神社」にはフクロウが営巣するケヤキの巨木と、奥にあるご神木(樹齢600〜800年、ただし塀の向こうで近づけません)が見所です。
 宗像神社境内にある摂社・末社も屋根が檜皮葺なので日本人DNAが反応します。

 さて、録画してあったNHKの「京都御所」という番組を見てみました。
 私の興味とは方向が異なり、御所内部を撮影した貴重な映像です。
 秋の紅葉が見事で、優雅な王朝時代を彷彿とさせました。

 三種の神器(の分身)を収めていた部屋も映されるとは想定外(いいのかなあ)。
 三種の神器は歴代天皇さえも直視することはなかったそうです。
 現在、これらは東京の皇居に移されています。
 天皇即位の儀の際には、玉座の両側に用意される映像もありました。

 三種の神器の本物は、八尺瓊勾玉以外は皇居以外の場所にあります。
 草薙の剣は名古屋の熱田神宮に、八咫鏡は伊勢神宮。



<内容>
 京都の中心にある広大で神聖な空間、京都御所。平安時代の華麗な文化が厳格に守り継がれ、建物から調度品一つ一つに至るまで、伝統工芸の粋が集められている。一方、御所は平安貴族の王朝絵巻はもとより、信長、秀吉の戦後時代から幕末維新の動乱まで、千年の長きにわたり日本の歴史の檜舞台でもあった。今回NHK京都放送局では、非公開の京都御所の内部を、高精細4Kカメラで通年取材する許可を得た。
 代々の帝が即位の時に座った玉座「高御座(たかみくら)」は、麒麟や鳳凰が描かれた台座に螺鈿(らでん)の椅子、その上に金銀をちりばめた6mの覆いがかかる巨大な美術品だ。帝の“応接室”と呼ばれる一間は、当時大陸から運ばれた群青(ぐんじょう)や金など貴重な絵の具をふんだんに使った極彩色の障壁画に囲まれ、輝きを放っている。そして、源氏物語や枕草子の舞台ともなった御殿・清涼殿は、帝が暮らした時代の様式を大事に守り伝えている。
 今回は御所の美しい姿を保ち、後世に伝える、匠たちの技も取材。奥山で採取した樹齢100年の檜の皮で、屋根の優美な曲線を作る技術や、御所・離宮にだけ伝わる壁塗りの技法などを記録した。京都に残された、最後の聖域、京都御所。その全容を明らかにする。

(ディレクターのつぶやき)
 「日頃見ることができないものを見て、立ち入ることのできない場所に行く」という素朴な好奇心から、今回の番組の取材はスタートしました。
 年間5千万人以上の観光客が世界中から訪れる大観光都市京都の中心にある不可侵な空間、京都御所。広大な敷地の中にはほとんど人の気配がなく、重々しい障壁画に囲まれた薄暗い御殿の中は他の場所にはない独特の空気が流れています。無人の中咲き誇る千年前の歴史を秘めた桜や一木一草まで極上の献上品で作られた庭。
 言葉では言い尽くせない御所独特の空気感を表現するために、今回導入したのが高精細4Kカメラです。まだまだノウハウが確立されていないため、一日の撮影で数テラバイトに及ぶ素材をどう管理するか、被写体に対しどのレンズを選びどういうライティングをするかなど日々試行錯誤の連続でしたが、なんとか無事放送にこぎつけることができました。
 今回の番組が21世紀初頭の京都御所の姿を後の世に伝える記録となってくれれば、制作者としてこれに勝る喜びはありません。
 最後になりましたが、1年間の長期取材におつきあいいただいた宮内庁京都事務所の皆様に厚く御礼申し上げます。


※ 「京都御所 至高の美の守り人」(2018年放送)は題名は少し異なりますが、同じ内容のようですね。
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日曜美術館「シーボルト 幻の日本博物館」

2018年04月10日 06時08分10秒 | 日本の美
日曜美術館「シーボルト 幻の日本博物館」(2016.7.24:Eテレ)

 幕末の日本(長崎の出島)にオランダ商館員として来日して「鳴滝塾」を開き、西洋医学を日本に伝えた医師・・・シーボルトに関する私の知識はこれだけでした。
 ただ、日本の物産を自国に持ち帰る収集家であったことも耳にしていました。花のスケッチは有名ですね。

(初来日時)

(再来日時)


 シーボルトは、27歳の時に初めて来日しました。有名な「シーボルト事件」で国外追放になるものの、それから30年後に国の外交担当として再来日します。その際に収集した日本の物産・工芸品をドイツで展示していたのでした。ただ、その最中に無理がたたって命を落としたため、それらの品々はお蔵入りし、長らく眠ることになりました。
 近年、それが再評価され、日本の国立博物館などが調査に乗り出し、今回の番組作成につながったようです。

 幕末から明治にかけての日本は、西洋に追いつけ追い越せとしのぎを削って西洋文明・文化を輸入した時代です。その際に、日本古来の伝統は「古くて価値のないもの」として捨て去ってしまいました。現代に生きる我々がそれを知ろうとしても、残っていないのです。
 ところがシーボルトがそれを国外に保管しておいてくれました。
 シーボルトの「日本博物館」は、幕末の日本文化のショーケースです
 それらに触れることにより、当時の日本人の生活をしのぶことができます。







 シーボルトの収集品は高価な美術品ではなく、庶民目線の工芸品が多いようです。
 また、学術的なものもあり、その中の地図が物議を醸し出した一因かもしれません。

 シーボルトは日本の庶民信仰を「パンテオン」(様々なローマ神を奉る万神殿)と表現しました。万物に神の存在を感じる日本の宗教心を、ギリシャやローマのような多神教と共通すると読み取ったのです。
 すばらしい観察眼です。

 特に私が惹かれたのは、日本人絵師(川原慶賀)に描かせた人物画。
 「男伊達」(下図中央)なんて、我々のイメージの源泉ではないでしょうか。



 ふつう、当たり前のことは記録に残りにくいのですが、見聞きすることがすべて新鮮だったシーボルトは、日本人の生活や姿を残しておきたいと描かせたのですね。

 シーボルトさん、ありがとう。


<内容>
 ドイツの古城に、大量の日本の美術品や民俗資料が未調査のまま埋もれていた。収集したのは、幕末の日本から地図を持ち出した事件で知られるシーボルト。彼は、世界初の日本博物館を作ろうとしていたのだ。その内容は今までなぞに包まれ、幻とされてきたが、国立歴史民俗博物館などがその全貌を初めて再現した。西欧のジャポニスムより早く、初めて日本を紹介しようとしたシーボルト。彼は日本のどのような魅力を伝えたかったのか?


<参考>
■「出島絵師」川原慶賀による《人の一生》の制作」(野藤妙 宮崎克則 西南学院大学国際文化学部)
■「長崎絵師 川原慶賀
■「シーボルト・コレクションにおける川原慶賀の動植物画と風俗画」(野藤 妙)
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日本語の響きに癒やされる?

2018年01月05日 06時26分47秒 | 日本の美
 今年も新春2時間スペシャル「世界が驚いたニッポン! 2018」を見ました。

 今回はYouTubeに投稿された日本についての動画の人気ランキングでした。
 その中で「?」「!」と感じたこと。

□ セミを捕る・育てる
 ほとんどの国の人が「気持ち悪い」「信じられない」という反応であることに驚きました。
 「セミを捕る」という、日本人の少年にとっては当たり前のことが、諸外国では当たり前ではないようです。
 「セミって昆虫でしょう、ゴキブリと同じじゃないですか」という視点なんですね。
 一番驚いたのがタイ人のコメント;
 「タイでは、セミを捕って、油で揚げて食べます。日本人は捕まえるだけ。食べないのに捕まえるなんて意味がわかりません」
 ・・・場内騒然!

□ 日本語は癒やし効果あり?
 韓国人が作ってアップした動画。若い女性がメークのテクニックを披露するのですが、片言の日本語で延々と30分もメークを続けるのです。
 日本人が見ると「この動画のどこがいいんだろう、なぜ人気が出るのだろう?」という反応。
 韓国人の解説では「日本語の響きは優しく、癒やし効果がある。ゆっくり話す日本語を聞いているだけでいい気持ちになる」のだそうです。
 ・・・日本人には気づきにくいけど、そうなんですね(^^)。


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「若冲〜天才絵師の謎に迫る」

2017年08月11日 16時18分01秒 | 日本の美
若冲〜天才絵師の謎に迫る
2016.4.27放映、NHKスペシャル



<内容紹介>
 80年以上、行方が分からず美術の世界で“幻”とされてきた絵が見つかった。鳳凰と孔雀を描いた双幅画。江戸時代「神の手を持つ男」と呼ばれた天才絵師・伊藤若冲(1716‐1800)の真筆だと鑑定され、修復作業が進められている。奇しくも今年は、若冲生誕300年の年。江戸美術の傑作と言われ、生命の躍動を描いた「動植綵絵」、そして世界的コレクターの秘蔵作など、世界屈指の作品群が次々と公開される。NHKでは発見された絵や、全国の若冲の傑作に秘められた謎と魅力を徹底究明。最新の分析で浮かび上がる天才絵師の神技に迫る。さらに特別な許可を得て、200年間公開されてこなかった“天井画”、劣化を避けるために立ち入り禁止となった“黄金の間”など、秘蔵中の秘蔵の作品を高精細カメラで撮影。超細密な筆致と生命のエネルギーあふれる色彩が織りなす若冲の世界を伝える。


近年、メディアを賑わせる伊藤若冲。
200年以上前の江戸時代に生きた謎の絵師。
流派に属さず、独学で我流、自由奔放・奇想天外なテクニックを用いて描ききった作品の数々。
現代でも通じる細密性と彩色を兼ね備えています。

しかも下書きをせず、直した形跡も見当たらず、超人的な集中力と云わざるを得ません。
感覚が鋭敏で、ふつうの人間よりいろんなものが見えてしまう・・・宮沢賢治を思い出します。

天才にありがちだですが、やはり当時は評価されなかったようです。
残した言葉は一つ:
「千載具眼の徒を竢つ」(せんさいぐがんのとをまつ)
・・・ 私の絵は遅くとも千年後には理解されるだろう、という意味らしい。
<群鶏図>

すべて羽模様の異なる鶏を線を使わずに描いています。発色の鮮やかさや微妙な濃淡は、重ね塗りの回数や裏塗りという技法を用いています。








インパクトのある「群鶏図」や「樹花鳥獣図屏風」が有名ですが、私が一番印象に残ったのは最後に出てきた蓮池図(大阪府西福寺)でした。



若冲さん、ご安心ください。
300年も経たずに理解され始めていますよ。
日本にとどまらず、海外でも研究されて評価急上昇中。


<追記>
もう一つ、若冲関連の録画番組がありました。

■ ザ・ドキュメンタリー「いのちの不思議を見つめた絵師 若冲は生きている」
2016.12.22:BS朝日
 江戸時代中期、京都で生まれた天才絵師・伊藤若冲。今年は生誕300年の年に当たり、日本中が若冲ブームに沸いています。
 若冲が生涯かけて描き続けたのは鳥、動物、虫、魚、草花など。若冲はそれらを精密にそして色鮮やかな筆致で描写しました。
 なぜ若冲は「いのち」をみつめてきたのか?
 若冲の絵の魅力と生涯をわかりやすく、解き明かします。
 また番組では数々の貴重な若冲の作品を紹介します。
 特に今まで公開されていなかった作品「鸚鵡牡丹図」の撮影に成功しました。また四国の寺に眠る「幻の燕」もテレビで初めて紹介します。




 この番組では、若冲の絵の特徴・技術を「裏彩色」(うらざいしき)と「裏肌紙」(うらはだがみ)と説明していました。
 また、前の番組で「下書きが見当たらない」理由として、下絵を絹地の下に置いて好かして上塗りしていたことを推測していました。

 代表作「動植綵絵」に私は何となく違和感を覚えます。
 個々の動植物は生き生きしているのですが・・・あることに気づきました。
 自然風景の中での動植物ではなく、上手く配置された絵なのですね。
 あくまでも「配置」で「構図」ではありません。

 若冲の伝記小説「遊戯神通 伊藤若冲」を書いた河治 和香さんや、生物学者の福岡伸一さんも登場しました。
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ETV特集「日本の文化財を守れ~アトキンソン社長の大改革~」

2017年05月09日 07時59分13秒 | 日本の美
ETV特集「日本の文化財を守れ~アトキンソン社長の大改革~
(2017年4月29日:NHK)

小西美術工藝社という老舗の職人集団があります。その始まりは、江戸時代の日光東照宮創建時代。
神社仏閣の補修を専門とし、有名な観光名所も数多く手がけています。
そして現在の社長は、イギリス人のアトキンソン氏。

何年か前にも、彼とその会社を紹介する番組を見ました。
確か住吉大社のウルシが1年で劣化してしまい、その原因を追及したら、品質のよい日本製ではなく、やや落ちるけど安い外国製を使用したからと判明。
そんなトラブルを乗り越え、傾いた経営を再建したのがアトキンソン氏。

日本は文化財の補修・保存に国費(=税金)が投入されており「修学旅行生のためにコストをかけて保存している」という感覚があると彼は云います。
しかし、超高齢化社会が進む中、文化財保存に予算をまわす雰囲気は萎みがち。
彼は発想の転換を促します。

「文化財保存にコストがかかる、ではなく、文化財保存に投資すると考えるべきだ」

外国人観光者を見る目も客観的です。
「彼らは暇でお金がある。見学して疲弊する観光地ではなく、もっとゆっくり滞在を楽しめる場所にしなければダメだ。」
「日本の拝観料は平均600円、諸外国では1800円。拝観料を低く抑えることで社会的貢献をしていると思い込むのは間違った考えだ。修繕費も捻出できず、結局は文化財を破壊していることになることを自覚すべきだ。」

<詳細>
 今、日本各地の歴史的建造物が、老朽化しながらも予算や職人の不足により修繕が進まない事態が進んでいる。その中で救世主として期待されているのが、デービッド・アトキンソン氏。外資系金融会社の幹部だったが、7年前、老舗の文化財修復会社の社長に就任。職人たちと衝突しながらも、斬新な発想と実行力で、日光東照宮や春日大社など名だたる文化財の修復を進めてきた。日本の文化財の可能性を信じるアトキンソン氏の改革とは。
 番組内容外資系金融会社の幹部だったイギリス人が老朽化の危機にひんする日本の文化財を救おうとしている。職人たちとの対立を越え、日光東照宮や春日大社をよみがえらせた改革とは
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日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」

2017年04月26日 06時24分19秒 | 日本の美
 2016年にNHKで放送

 マッカーサーや故・ダイアナ妃が愛した版画家として有名な吉田博。
 川瀬巴水、小林清親、井堂雅夫とともに、私のお気に入りの版画家です。

 木版画とは思えない精緻なタッチ、しかし木版画としての構図のまとまりの完璧さは言うに及ばず。
 なによりもそこに広がる“日本の叙情”の虜になってしまいました。

 件名の番組で、彼の生涯を知りました。
 山に取り付かれた画家と言ってもおかしくない。
 若かりし頃の山の絵には凄みさえ感じます。

 以前から吉田博の版画の雰囲気はどこかで見たことがあるなあ・・・と気になっていたのですが、最近やっとわかりました。
 mont-bellというアウトドア・ブランドのイメージに使用されていたのですね。

 山の作品もいいのですが、遺作となった「農家」もたまりません。

















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「文明開化の光と影〜小林清親“東京名所図”〜」

2016年12月09日 07時12分33秒 | 日本の美
 小林清親(きよちか)は明治時代に活躍した版画家です。
 代表作は「東京名所図」。
 川瀬巴水と共に私のお気に入りの版画家であり、40cm×53cmの大きな版画集も所有しています。
 それまでの色鮮やかな風光明媚な風景版画とは一線を画し、色彩を抑えて影を有効活用している印象がありました。
 まさに「文明開化」を感じさせる作風は、当時人気を博したそうです。

 以前録画しておいたNHKの日曜美術館「文明開化の光と影〜小林清親“東京名所図”〜」を視聴しました。
 私が感じていたように「光と影」が彼の作品のキーワードのようです。
 刻々と変化する夕焼けの微妙な表情を表現し、
 街に灯りはじめたガス灯でできる人の影を描く。
 ヘンリー・スミス氏は「水彩画を版画にした功績は大きい」と高く評価していました。
 番組で紹介された清親の写生帳、出版してくれないかなあ。



<解説>
 文明開化で急激な変貌を遂げる東京を、光と影を駆使した独特の詩情あふれる姿で描き、“光線画”と呼ばれた、小林清親(1847-1915)の風景版画、『東京名所図』。明治9年から14年まで5年間で全93景描かれ、「明治初年の東京をうかがい知る無上の資料」と言われる。『東京名所図』が当時圧倒的な人気を呼んだのは、西洋画のようにリアルな光景が、夕陽や月光や雪などが醸し出す風情とともに描き出されていたからである。蒸気機関車や西洋建築の新橋駅、人力車など、文明開化を象徴する時代の最先端の風物を描いても、江戸伝来の同時代の風景版画とは決定的に違う新しさがあった。
清親は、この新たな風景版画をどのようにして描くことができたのか。近年着目されてきたのが、清親が残した9冊の「写生帖」である。東京のあちこちを歩いて、さまざまな季節、さまざまな時間の風景を水彩スケッチで描き、水彩画そのままの版画を作ろうと試みた。
ことしは、清親没後100年。番組では、『東京名所図』に描き込まれた風物を通して、文明開化の世相を明らかにし、「写生帖」などから、清親の創作の秘密に迫る。
















































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「風景の抒情詩人 広重の“東海道五十三次”」

2016年07月18日 11時36分51秒 | 日本の美
2016.6.5 NHK日曜美術館で放映

 誰もが知る“東海道五十三次”の紹介番組を視聴しました。

 思い起こせば、私と五十三次との出会いは、「国際文通週間」の切手絵柄としてでした。
 当時小学生だった私にもそこはかとない日本情緒を感じた記憶があります。
 もっとも、人気は価値に比例して、蒲原>箱根>日本橋、という相場でしたが(^^;)。

 まず、各版画は摺りを20回前後経て完成することを知り、その繊細さに脱帽しました。
 美しいグラデーションの秘密です。

 ベストセラー&ロングセラーの第一の要素は「旅人目線」。
 版画を買った人があたかも自分で旅をしているような、うれしい錯覚を起こすカラクリが仕込まれています。
 作者の思い入れの強い版画には、旅人がすれ違う姿があると解説者がコメントしていました。

 風景描写が有名な中で、「人物描写」に焦点を当てた解説に興味が沸きました。

 人物を描かせたら“北斎漫画”の葛飾北斎の右に出るものはいない、と思い込んでいた私。
 しかし東海道五十三次をよくよく見てみると、広重の描写もなかなかのものです。
 人物の所作や表情から、その場の会話さえ聞こえてきそう。
 上方の「鳥羽絵」の影響を受けたちょっとデフォルメしたぎこちない動きが絵に膨らみを持たせているとの解説でした。

 以上、私には新鮮な発見がいくつもありました。
 この版画は、江戸時代の風景を残してくれただけでなく、当時の風俗や人情までもが詰め込まれたタイムカプセルなのですね。
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川瀬巴水木版画集

2015年10月01日 20時34分35秒 | 日本の美
 欲しかった木版画集をとうとう手に入れました。
 作者は川瀬巴水で、明治~昭和期に活躍した版画作家です。
 数年前に「なんでも鑑定団」に登場し、日本の郷愁をピシピシ感じさせる作品群に私はノックアウトされました。
 江戸時代の北斎や広重の魅力と昭和期のイラストレーション、双方の魅力を微妙にブレンドした印象ですね。
 
 展覧会のカタログはいくつか手元にあるのですが、私がねらっていたこの木版画集は30cm×43cmの大判。
 昭和54年(1979年)発売当時の定価は54000円、しかし人気&希少価値で程度のよい中古は20万円します。
 時々ネットオークションに出品され入札するものの、10万円を越えるとあきらめてきましたが、今回は10万円を割る価格で落札できました。
 まあ、本物の版画は1枚数十万円しますので、それを考えると安いかのもしれません(笑)。

 一部を紹介します;










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「平成の名香合~香道 五百年の父子相伝~」

2015年08月15日 16時17分03秒 | 日本の美
 2009年制作の番組を再放送で視聴しました。
 
<解説>
わずか数ミリの香木を熱すると“日常では出会えない不思議な香り”が漂う。感性を研ぎ澄まし、それに身をゆだねるのが香道。室町時代から五百年にわたり香道を受け継ぐ志野流では、奥義が「父子相伝」で継承されてきた。2009年2月、究極の催しとされる「名香合」が、80年ぶりに開かれた。「六十一種名香」と呼ばれる最高級の香木を味わうもので、ごく限られた秘録と口伝によって継承されてきた。番組では、香木が生み出す、豊な世界を紹介する。


 名香木の走りは正倉院に保存されていた「蘭奢待(らんじゃたい)」。それほどの歴史があるのです。
 香は“齅ぐ”ではなく“聞く”と表現し、その香りは「五味」に分類されるそうです。

 香道では香木の香質を味覚にたとえて、辛(シン)・甘(カン)・酸(サン)・鹹(カン・しおからい)・苦(ク)の5種類に分類する。これを「五味」という。

 番組の中では、
 :香辛料(チョウジ、コショウ、トウガラシなど)の辛さ
 :ハチミツの甘さ
 :ウメボシなどの酸っぱさ
 :海藻を火にくべたときの磯の香り
 :柑橘類の皮を火にくべたときの苦味
 と紹介していました。
 実はこれ、漢方の生薬の味の表現法と同じなのです。まことに興味深い。

 また、名香合に招待された人々の肩書きに驚きました。
 尾張徳川家当主・徳川義崇氏、冷泉家当主夫人・冷泉貴実子氏、慈照寺(銀閣寺)住職・有馬頼底氏、近衛家次期当主・近衛忠大氏。
 彼らが二つの香を聞き、それを言葉で表現するとともに優劣をつけるという高度の遊び。
 当然、教養がないとできない貴族的遊びです。
 一般の日本人には馴染みのない「香道」の奥深い世界を垣間見たような気がしました。

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「美しき日本の残像」(アレックス・カー著)

2014年07月20日 06時12分14秒 | 日本の美
1993年、新潮社発行。
帯のキャッチコピー:第七回新潮学芸賞受賞。坂東玉三郎と親交を結び、書画骨董を愛し、京都・亀岡の庵で暮らす、ちょっと変わったアメリカ人の日本美見聞録。



随分前に「外国人による日本人論」関係本を集めていた頃に購入した本なので、既に発行後20年が経過しています。
部屋のインテリアと化していましたが、最近、著者の映像をTV番組で何回か拝見し、そろそろ読むタイミングかな、と感じて手にした次第です。

日本は明治維新以降、自身の歴史を封印・否定し、欧米列強に追いつき追い越せとばかりに全ての分野で闇雲に輸入してきた悲しい歴史があります。
身近に日本の伝統を体験する環境が乏しくなりました。
私が民俗学に興味を抱く理由も「自分が何者なのか知りたい」「自分の祖先がどんな人達だったのか、どんな生活をしていたのか知りたい」という素朴な欲求、あるいは足が地に着いていない現代日本文化への危機感の表れなのかもしれません。

外国人による日本論は視点・切り口が斬新でわかりやすい傾向があります。
また、意外な外国との違いが浮かび上がり、興味深い。
これは、日本文化を見るまなざしが、私の世代では外国人とそれほど変わらないことを意味しているのかもしれませんね。

アレックス・カー氏は日本文化に魅せられた一人。
オックスフォード大学ほかで東洋文化を学んだ才人です。
四国の秘境、祖谷にわらぶき屋根の居を構え、京都の亀岡の神社境内に住む変人でもあります。
日本人の私も知らない日本をずっと見つめてきました。
その視点がまことに面白い。

日本文化には言葉に残る「思想」は育たなかったけれど、書画やお茶に浸透していてそれらを広く知ると見えてくる、と彼は云います。
しかしそれらは日本人自身に見捨てられ、どんどん海外へ流出している。
彼は現代の日本(といっても20年前ですが)を憂いています。
自然と調和した日本文化のよいところが、電線とコンクリートとパチンコ屋で汚染されている。
京都の遺産も観光化した部分は残すものの、公家文化や仏教文化の深淵は感じられない。

確かに、私は京都へ旅行してもいわゆる“観光地”へは行かなくなりました。
最近は神社ばかり。それも観光ガイドには載らない小さな神社が中心です。

著者の京都・奈良・大阪案内の項目もあります。
皆、一ひねりある場所。
いつかこの本を片手に関西巡りをしてみたくなりました。

著者はたおやかな公家文化の流れを愛して「美しき日本の残像」と捉えているようです。
私は公家文化や仏教文化の影響以前の「日本の幻影」を求めていることにあらためて気づかされました。


メモ
 目にとまった印象的なフレーズ集。

■ 最近、「日本学」は世界的なブームになり、多くの学生が日本を訪れてきますが、彼らは京都の庭園を眺めて、それが日本の自然だと思っています。かわいそうなことです。日本の自然派もっと不思議なもので、幻想的で、まさしく「神」がただよう聖域でした。

■ 祖谷で初めて民家に入ったときにはショックを受けました。家の中は真っ暗。長年囲炉裏を使っているため、床も柱も壁も真っ黒になり、天井がないので合掌造りの屋根は暗闇の中にかすんで見えませんでした。まるで洞窟の中に潜り込んだようでした。

■ 中国のお寺は安っぽい修理のため、建物と彫刻はオリジナルとは全く別物になってしまっています。けばけばしい色彩とグロテスクな構図は伝統的な中国彫刻の清心を完全に否定したぐらい変なものですけれども、残念ながら今は観光客はそれしか見られないため、その変なものをを中国文化だと思ってしまいます。

■ 祖谷の人々とのふれあいの中で感じられたことは、そこに住む人々は大人も子どもも優しくて素直であるということでした。何百年もの間、祖谷が秘境として世間から離れていたためだと思いましたが、付き合いが深まるにつれ、一つ気がついたことがありました。山の人と平野の人との違いです。山の人は心の優しい人が多いのです。山の人は水田の灌漑をどうするかとか、農業のために必要な集団社会の中での人間関係の難しさに煩わされることがないため、生活は例え貧しかろうとも心はゆったりとしています。
 それに比べて今の日本人の「頭の固さ」は対照的です。長い幕府政治、明治から昭和初期にかけて続いた軍国主義、そして現代の教育のシステムによって作られたものだと思われます。平安、かまくらまでの文献を読むと、昔の日本人はもっと自然な考え方を持ち、もっとオープンな心を持っていたような印象を受けるのです。鎌倉時代以後、とくに江戸時代に入ってからは少しずつロボットへと変心してしまったようですが、ロボット精神をまぬがれた地域が二ヶ所だけあったと思います。一つは大都会の中の「下町」ですが、もう一つは祖谷のようなへんぴな山奥です。祖谷の人々と付き合ったとき、平安調の祖谷弁だけではなく、昔の日本人の感性に触れた気がしたのは、そのためだと思います。

■ 色々工夫しているうちに、照明の戦略上大事なことの一つが「下からの照明」であることを学びました。今の私たちの生活はほとんど上からの照明が多いのですが、昔の家はたいてい囲炉裏の火の光、ロウソク、行燈など下からの照明ばかりでした。古い家に行燈を置いて使うと一気に部屋は美しくなります。

■ 日本の民家は東南アジアの家と似たところがたくさんあります。高床、合掌造りなどがそうですが、一番面白いのは“Empty Room”(空の部屋)精神なのです。中国、韓国、チベットなどはまた大変に違います。貧しい人でも部屋に家具、テーブル、椅子などを置いていますし、中国の場合には家具の置き方自体が一つの素晴らしい芸術に発達しました。

■ 草屋根の家は人工的なものではなくて、苔とか椎茸のように土から自然に生えたものに見えます。その安心感は古代に遡って深く人類の心の中に秘められてきたものだと思います。残念なことに、日本人は二十世紀の文化的ショックで過去の文化と自然環境については全く盲目になり、かやぶき屋根はおろか、木材家屋そのもの、しょして日本の木、山、石、海岸を全部ポイッと歴史のゴミ箱に捨てたのです。

■ 日本の三万の河川のうち、ダムのないのは三つだけだと云われています。何千キロもある海岸の三十パーセント以上はコンクリートブロックになってしまい、国の補助金により全国の雑木林は伐採され、その後は杉が列をなして陣立てよろしく並んでいます。
 そして電線、先進国の中で都市と町で電線を地下に埋めていないのは日本だけであって、日本の町の独特のごみごみした雰囲気はそのせいです。

■ 歌舞伎は日本のオペラに当たるものでしょうが、歌舞伎は総括的な演劇であり、オペラの場合のような声と音楽の要素だけではなく、バレエの踊りと芝居の演技もあります。

■ 観客の観劇の表し方について。現代の西洋演劇と音楽の場合、観客は丁寧に最後まで待って、そして大きな拍手をする。第一楽章と第二楽章との間に客席はシーンとしていて、そこで拍手をしたり音を立てるのは大変恥ずかしいマナー違反になります。しかし歌舞伎の場合に芝居の見せ場に観客が屋号を呼んだり、その場で即感激を示す。そのかわり、長い芝居が終わった後、観客は別に喝采をしないで、そのままさっと帰ってしまいます。「瞬間」に集中するのは日本文化の特徴であると思います。

■ 日本の伝統音楽は非常に簡素なものでした。中国やインドのように楽器と音楽の構成は複雑に発達しませんでした。曲も簡素なもので、リズムだけに洗練された日本特有のものがありました。そのため、邦楽は完全に西洋音楽に征伐されてしまいました。一方、中国とインドの伝統音楽は硬いものでしたから、西洋音楽に対しての抵抗は今でも強く、自国の音楽はまだ比較的元気です。

■ 歌舞伎を見ると主従の関係、あるいは恋人同士の愛情をテーマにしたものはよくありますが、「友情」というものはほとんど見られません。昔も今も日本で本当の意味の「友人」を造るのは非常に難しいことだと思います。日本人は心の中のものを自由に話さないため、いつまでもどこかで不信の気持ちが残り本当の友人を作ることが難しいのかもしれません。日本に「友情」の文化の根が浅いと云うことは歌舞伎を見て閃きました。

■ 平安時代の公家、藤原家は今も続いています。平安の終わり頃に分家が増えたため、それぞれの分家は住んでいた京都の住所から名前をとり「二条家」「冷泉家」「今出川家」などの名の下に分かれました。その後、天下は鎌倉武士に奪われ公家の収入はなくなりました。そのため公家は、歌と書などの先生を勤めることにより収入を確保することになり、かつ、各家はその職業を保持する手段として「流儀」を創り出しました。
 平安以来、江戸時代に入ってから公家文化が京都で再び大きく栄えました。冷泉家は定家流の歌道と書道、持明院家は皇室占有の書流、飛鳥井家は和歌、鷲尾家は神楽、というふうにそれぞれのファミリーは専門的に芸術を教えて、京都に計り知れない影響を与えました。

■ アート・ディーラーは美術館の館長さんより美術品の価値がよくわかっていると思います。館長さん達は美術品を買うときに公のお金を使います。一方、アート・ディーラーたちは自分の財布からお金を出して買います。

■ 「中国」という名前でもわかるように、中国人は中国が地球の中心であることを確信しています。一方日本は常に外国から文化を取り入れ受け継いできたので、日本人の心の底には自分の国に対する不安が耐えずつきまとっているのではないでしょうか。

■ 極端に言えば、日本は思想のない国です。日本では文化のエッセンスは言葉として本に書かれてはいませんが、目に見えないところに日本の「思想」がやはりあったのです。天童芸術に流れたのです。だから、日本には申し、講師、朱熹はいませんでしたが、定家、世阿弥、離宮などがいました彼らは日本の真の哲学者だったと思います。

■ 日本の教育システムは平凡な人間を造るのが目的です。日本人は「つまならさ」こそが人生だと思っています。もちろん、それは日本社会の大きな弱点だということは言うまでもありません。
 一方、米国の教育システムは「創造力を見せろ」「ユニークな人間になれ」という要求が絶えずあるので、なんでも創造的で面白くなければならないと思うようになってしまいます。「人生を面白く」というアメリカ教育の要求はひょっとしたら残酷なものかもしれません。大腿の人の生活はつまらないものですから、失望するに決まっています。一方、日本人はつまらなさに不満を感じないように教育されていますので、きっと幸せかもしれません。

■ 漢字は中国で発明されたものです。古代エジプトや中南米のマヤ文化にも象形文字がありました。その中で中国だけがそれを川楝子、抽象的に形を整えて「漢字」を作り出しました。漢字の魅力があまりにも強くて、中国のまわりの国はみな影響を受けざるを得ませんでした。韓国、ベトナム、日本などはそれぞれ中国の文化に対して抵抗したけれども、漢字に屈服させられたと云えます。

■ 「関西七番巡り」
1.六波羅蜜寺
 東山松原あたりの細い裏通りにある小さなお寺です。平清盛ゆかりの寺院で、奥に入ると「清盛像」が安置されています。清盛像は実に哀れな表情をしており、座って経本を読んでいます。哀しみの中に込められた激しさ、リアリズム、線の美しさ、修羅場の恐ろしさ、鎌倉彫刻の全部がこの一つの彫刻に圧縮されていると思えます。
2.表具屋の日下さんの店(六波羅蜜寺のすぐ近く)
3.あぶり餅屋
 今宮神社の横には二軒の古いあぶり餅屋が向かい合っています。少し不便な場所で雰囲気が寂れているので観光客はあまり来ません。
 あぶり餅とは、串に餅を刺して、甘い味噌だれを付けて、炭で軽く焼いたものです。がたがたの古い家の中に入って、畳の部屋に座って、ゆっくりと甘い餅を食べます。
4.円通寺
 宝ヶ池の上の山道にあって、お庭は最高の「借景」庭園です。狭い廊下を歩いて入りますと、急に景色は広がっていきます。縁側の前の庭に苔の絨毯が敷かれ、その中に横状の平ったい石が施されています。苔と石を見るために目線が低くなっていますが、お庭の奥の垣根が目線を遮断します。目を上げると、垣根の後ろに竹林が見えてきます。さらに目線を上げると、日本の杉の木の間にまるで杉の額に入った絵のように遠い比叡山が見えます。内庭と外の景色が見事に調和しています。
 この十数年間、度々円通寺に行きましたが、静かな縁側に座って、宙に浮いている気持ちになって、何時間もじっくりとあの景色を見るのが最高の楽しみでした。
5.釜ヶ崎
 大阪の真ん中、通天閣の近くの地域で、日雇いの労働者、世捨て人、ヤクザ、酔っ払いなど、社会に見捨てられた人達の里です。そこにある「日本一安い芝居小屋」に入ってみます。入場料は二百円。白化粧の下町芸人たちは歌を歌ったり、踊ったりしていますが、客はタバコやビールのビンを舞台に持っていって役者に差し出します。芝居が終わったら、役者達は道に出て客を見送ってくれます。
 大阪と京都の違いは、元気な文化と病気に患わされている文化の違いだと思います。大阪は江戸町民の文化が比較的元気に生きていますが、誰もそれを意識していません。
6.西宮-夙川-芦屋のドライブ
 釜ヶ崎とは正反対の世界で、最後に芦屋の一番上の奥池という所に到着します。もともと泥のため池でしたが、最近高級住宅地として開発されました。古い松の木がたくさん残っていて、それを許可なしできることができません。この自然との調和、山の自然の美しさ、海の見晴らし、豊かな住まい、これこそは関西ならではのものです。
7.奈良の般若寺
 奈良の周辺のお寺は人の魂に深い影響を与えます。京都の禅の「アート」、大阪の人間らしさ、芦屋の生活、そうしたものと別の次元にあります。宗教です。浸透の「神の世」、仏教の「浄土」をなんとなく近く感じます。
 奈良の北山にある浄瑠璃寺は境内の浄土の池が緑の中に光って、左右に薬師塔、九品(くほん)の阿弥陀堂が曼荼羅のように並んでおり、精神が浄化されて浄土を味わった気持ちになります。
 法華寺、室生寺、長谷寺など、それぞれに奈良の「神秘」が漂っています。
 奈良公園から4キロくらい西にある般若寺は日本の数少ない知恵(文殊菩薩)の寺院です。中国風の門の軒先はすっと空に反り上がり、エレガントな入口です。庭はジャングルのように見える、人の背丈ほどのコスモスに覆われています。寺の中に美しい文殊菩薩が獅子の上に乗ってコスモスのジャングルを見下ろしています。
 僕は東京では知恵の神様と出会ったことがありません。文殊菩薩はやはり奈良のような時間の流れのスローな場所を好むと思います。だから、経済や文化の中心が関東に移ったとき、観音、阿弥陀、弁天なども皆一緒に上京しましたが、文殊三は着いていきませんでした。

■ 続「五番巡り」
 京都の東山の麓に沿って奈良へ向かうと、泉涌寺、東福寺など広大なお寺が山に並んでおり、京都市内の雰囲気と少し違います。
1.伏見稲荷大社
 京都の寺院の砂庭・枯山水は眺める一が決まった芸術作品ですが、伏見稲荷には眺める位置が決まった場所にありません。無数に並ぶ朱色の鳥居は京都の侘び寂びの世界とは完全に離れた次元にあります。もともと朱は道教の色で、何千年前の中国の商時代から神の色として敬われた色です。論語では朱色は「高貴なもの」という意味で使われています。朱は中国から日本の神道に伝わってきました。しかし、朱色は日本の風土に強烈すぎたためか、後の時代に朱のパワーはほとんど忘れられてしまいました。でも伏見稲荷では朱は圧倒的に強く、道教のマジックを醸し出しています。
 伏見稲荷の「塚」の混沌・雑然さは、国家神道の伊勢や行儀のよい京都の文化が生まれる以前の道教、原始神道の世界と遭遇することになります。
2.万福寺
 「禅の異人館」ともいえる寺です。万福寺が生まれたのは1650年頃で、日本と中国の歴史的な転換期でした。満州族の「清朝」に抵抗した「黄檗山」の禅僧は次々日本に渡来してきて、彼らが愛した明の文化を日本に伝えました。初代住職、隠元にはじまり、江戸中期の21代まで住職はほとんど中国人でした。
 もともと禅というのは中国の独特の厳しさと遊びの精神とによって生まれたものです。万福寺の建築は両方のバランスが上手く撮れています。

☆ 僕のとっての日本の「国際的」な場所はどくかインチキ臭いところが多いのです。例えば、長崎の出島ですが、出島は外国人を入れさせない手段に過ぎなかったのです。あるいはグラバー亭にしても、グラバー家の末裔は憲兵隊にいじめられて死んだのは事実です。または、神戸の「異人館」のことを考えても、異人館の外国人町は一大で潰れてしまいました。

3.平等院
 平等院のすばらしさは、寺であって寺でないところにあります。
 一般に、京都の禅寺には厳しさは感じられても遊びは感じられません。平等院は唯一の例外で、平安貴族の気まぐれによってできた完全な「folly」(戯れ)です。平等院を見たときは、何となく軽い気持ちになって鳳凰と一緒に天まで飛んでいこうという開放感があります。
 平安以後は、日本は長い武士の文化が続きましたから「気まぐれ」とか「戯れ」は許されなくなりました。そして今では「金儲け」という武士道より厳しい社会になり、「無用」というものはますます許されなくなりました。
4.東大寺の南大門
 江戸時代中期の復元作ゆえ、柱は寄せ木ですし、建築寸法もオリジナルより三分の二くらいに小さくなっているので、大仏が窮屈に感じます。
 奈良公園の中で唯一完璧な傑作は南大門です。現存の南大門は鎌倉時代に重源承認東大寺を復興した際に中国の掃除代の建築様式を使って建てました。強さと優雅さを見事に調和しています。
 南大門、般若寺、平等院もみな宋の影響を受けたことからわかるように、屋根の反りは元来日本のものではありません。もともとは東南アジアのものでした。

☆ 春日大社は芸術性に少し欠けると思います。春日大社に行くまでの万燈籠の道は情緒がありますが、神社そのものはあまり面白くありません。江戸時代の復元作であるため、どこかアンバランスさを感じます。平安貴族の優雅さがあまり感じられません。

■ 奈良時代は密教の花が咲いた文明でした。芸術、思想、文学などは深く密教の色に染まって、社会の権力者は密教にエネルギーを注いだのです。中世に入ると、密教は浄土宗と禅宗に座を譲りました。天台と真言の信仰が残ったけれども、武士や芸術家はもっぱら禅の思想に頼って文化を築き上げてきました。禅の影響はずっと今日まで尾を引いているので、世界での日本の文化活動を見ますと、前夜茶の湯が非常に目立っています。

■ 遺跡を見ることによって各時代の主流になった思想がわかります。例えば、奈良時代には密教寺院、中世には禅寺、明治時代には汽車の駅が大きなモニュメントとして目立ちます。そして現代はどうなってゆくでしょう。ヨーロッパや東南アジアの田舎を回ると村の中央に必ず教会の塔あるいは寺院のそり屋根が一番高いところに見えます。しかし、日本の田舎では一番高くてたいそうな建物はパチンコ屋になっています。カラフルなパチンコ店は明るい照明を浴び、その「原題の神殿」の駐車場に車が集まっています。

■ 奈良から20分くらい南に走ったところに「崇神天皇陵」と「櫛山古墳」があります。この2つの陵は特別に魅力的です。夏に来ると、周囲の田んぼは緑色に包まれ、陵の丘の木は深く茂り、空気は蝉の声でずきんずきんと脈打っています。あの陵の周りを歩くと神道伝説の「神代」に戻った気分になります。

■ 僕は特に室生寺が好きです。室生寺に行くまでの道路はエキゾチックです。細い山道で谷間に沿って走ると、谷の対岸に15mくらいの高さの仏像が一体岸壁に刻まれているのが見えます。これはいわゆる「磨崖仏」です。室生寺の近くの磨崖仏は弥勒菩薩、つまり未来の仏です。造られたのは鎌倉時代で、中国から渡った彫刻家が彫りました。ひっそりと立っている弥勒菩薩は本当に神秘的で、山肌から未来の神様が現れたようです。
 寺の入口の橋を渡って境内に入ると、よろい坂、金堂、五重塔などがあり、それぞれ奈良らしい傑作です。高い芸術性を持っていると同時に、完全に自然に溶け込んでいるのです。
 室生寺の一番素晴らしいところは「奥の院」です。そこに行くために400段もある険しい階段を上らなければなりません。階段を上ると云うよりも階段を這い上がるという感じです。周りは千年杉とシダの群落です。やっとのことで階段の上の「御影堂」に着くと、地球の果てに来た思いになります。

■ 東洋独特の「文人」という理想は、儒教と道教が一緒になってできたものだと思います。まず儒学がどういうものだったかを考えると、昔の知恵を勉強することがベースでした。本で勉強する、つまり「文」が出発点になっています。そして勉強する目的は「徳」を身につけることでした。
 しかし儒学には一つの欠点があります。儒学の教えは高貴なものですが、道徳心のウェートが大変重すぎるのです。一方、道教にはこれと全く反対の理想がありました。道教の人は自由な生活をして、大自然と一緒に暮らす仙人でした。
 やがて宋時代に鳴ると、儒学の「学者」と道教の「仙人」が溶け込んで、「文人」という理想が生まれました。儒学者の「芸術」と道教の「自然」は東洋独特の考えでした。さまざまな芸術と大自然を取り入れたことによって東洋の文人は人間社会を乗り越えて、宇宙の真理に近づくことができたと思います。

■ 詩仙堂は江戸時代に文人「石川丈山」により作られました。彼は元々武士でしたが、大阪城の攻めの時に軍律に反したため蟄居を命ぜられました。それから数十年地方で先生として勤めましたが、58歳の時に京都に戻って詩仙堂という隠居所を立て、そこに籠もったのです。
 他の京都の名勝は神仏を祀るための神社仏閣、あるいは茶人が遊ぶための茶室になっていますが、詩仙堂だけは「何もしません」のための所です。
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