知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

最近購入した日本の古いモノ

2011年05月09日 06時33分44秒 | 民俗学
 ネットオークションにはいろんなモノが出品されています。
「こんなモノ誰が買うんだ?」というような品を私が買ってしまいました。

1.麻製野良着

 これは世界遺産に指定されている白川郷の旧家が放出したモノだそうです。昔の麻の生地を見てみたいというのが購入のきっかけ。田畑のドロがしみ込んだ日本農家の遺産です。編み目は粗い感じですね。

2.十手

 こちらは骨董収集家のおじいさんが放出したモノ。実物を手に取るとずっしり重い「鉄の警棒」です。これで頭を殴られたら・・・というような武器。時代劇で振り回しているけど、あんな風に手軽には扱えないのではないでしょうか。

3.百万遍数珠

 まさかこんなモノが出品されるとは・・・ふつうは郷土館や民俗博物館に展示されている貴重な道具。
 これは民間信仰行事で使われる長~い数珠(写真のモノは6m以上)。前述の白川郷からの依頼品で、明治時代に造られ実際に使われていたそうです。長い数珠を大勢の人が円を描くように並んで座って手に持ち、念仏を称えながら移動させていく行事で、みんなで合わせて百万遍(百万回)念仏を称えることによりいろんな願をかけてきた、その祈りがこもっている数珠です。

 思い起こせば、私が初めて「百万遍」という言葉に出会ったのは四半世紀前の学生時代でした。当時所属していた「民俗研究部」というサークルの勉強会で見聞きしました。
 実物を見たことはありませんでしたが、現在はYoutubeで閲覧可能ですね。便利な時代になったものです。

<ネット上で見つけた解説文>
 念仏を百万回唱える行法である「百万遍」のならわしは全国にみられますが、阿弥陀の名号(みょうごう)を唱えて数珠を繰(く)る方法は京都市・知恩寺の善阿(ぜんな)からといわれています。
 知恩寺八世の善阿は疫病が流行した元弘年間(1331-34)に後醍醐天皇の命を受け、7日間にわたり百万遍念仏の修法を行いました。そして、後醍醐天皇から流行り病を鎮めた功績として「百万遍」の寺号を賜りました。以後、知恩寺では念仏を唱えながら大念珠(数珠)を繰る行事が定例化したと伝えられます。
 また、大勢の人々が1080珠(たま)といわれる大数珠を繰り、各々が一珠繰るごとに念仏を唱え、その総計をもって百万遍念仏を唱えたとみなす方法が民間に広まっていきました。
 数珠の珠数は、手にかけて用いる普通の数珠の場合は108(除夜の鐘と同じ)が一般的で、これに10をかけた1080が基本的な百万遍数珠の珠数とされます。しかし、必ずしも1080という数になっているとは限りません。


 先日、BSで「法然上人絵伝」の謎解き番組を見ました。竹馬で遊んでいる子どもがいたり、ペットとしてのイヌを抱いている人がいたり、新たな発見があり驚きました。
 この法然の「恩を知る」ために造られたのが知恩寺であり、時代が下ってその八代目の住職が始めたのが百万遍であり、それが民間に広がっていったのですね。たまたまですが、不思議な繋がりを感じました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

消えゆく海女さん

2010年12月18日 06時50分53秒 | 民俗学
2010年12月18日の毎日新聞記事より;

「海女:高齢化進み激減 10年後消滅の懸念も」

 漁に出ている現役の海女は32年前に比べて全国で約7000人減り、18道県で2160人になっていることが17日、三重県鳥羽市の「海の博物館」の調査で分かった。8都県では海女がゼロになった。同博物館の石原義剛館長は「海女の高齢化が進行し、10年後には海女が消滅する可能性が高い」と懸念している。
 水産庁が1978年に実施した調査では、26都道県で9134人の海女が確認されていたが、4分の1以下に激減した。
 今年4月から、水産庁が前回調査した30都道府県と山形県を対象に、漁連などへのアンケートや現地調査を実施した。海女の人数が最も多かったのは三重で973人。次いで石川197人▽千葉158人▽静岡139人▽山口127人--の各県の順。静岡は前回1059人だったが、大きく減少した。
 前回調査で現役海女がいたが、今回0人になったのは、新潟=前回140人▽高知=同122人▽東京=同114人▽愛知=同64人▽宮崎=同35人▽富山=同30人▽神奈川=同17人▽茨城=同3人=の8都県に上った。
 激減の要因について石原館長は「藻場が荒れ、海女漁の対象となるアワビやサザエなどの資源の減少が大きな影響を与えている」などと分析している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「日本人の心と建築の歴史」

2010年09月19日 03時11分40秒 | 民俗学
上田 篤 著、鹿島出版会(2005年発行)

 久しぶりに知的好奇心をくすぐられる本に出会い、楽しいひとときを過ごすことができました。思索する喜びを教えてくれる良書だと思います。

 日本の建築を「生活」「祈り」の場という視点から歴史的に紐解いていく様は、ミステリー文学に似てスリリングでさえあります。学術論文ではないので、真偽の受け止め方は読者次第ですが・・・。

 印象に残った箇所;

 ほんの50年前まで、農家の家は竈のある土間と畳のある高床式の併存する住居が普通でした。
 当たり前のことで疑問を持つことさえありませんでしたが、なぜこの造りなのかと聞かれても説明できませんね(笑)。
 著者はこの造りを「縄文時代の生活空間」と「弥生時代の生活空間」が合体したものと説きます。

 狩猟採集が生業(なりわい)である縄文時代の食物保存法は火を使った煮込みであり、竪穴式住居では火を絶やさぬよう外からの風雨を避ける大きな屋根が特徴でした。そして「火」は信仰対象でもありました。

 一方、弥生時代には農耕が始まり、イネモミを保存する為に有利な高床式倉庫を造り、時代が下るとそこにも人が住むようにもなりました。高床式倉庫は神社の本殿の元でもあり、これも信仰の対象でした。

 しばらくの間は竪穴式住居(土間)と高床式住居の併存状態が続きましたが、やがて一つの住居にまとまる時が到来し近代の住居の形に落ち着いた、と推論しています。

 なるほど。

 その他にも、舟を操る天照大神一族が日本を支配することにより舟の材料である巨木信仰が始まり、日本建築の随所にその影が色濃く残っていることを論証しています。
 例えば、お寺の五重塔は仏教本場のインドや中国ではほとんど残っておらず、日本にのみ残されてきた背景には、心柱となる巨木信仰が根底にある、等々。

 目からウロコがぽろぽろ落ちました。
 やはり日本は「木」を大切にしてきた民族なんだなあ、と頷きながら読み終えました。

☆ 著者のデータ:
1930(昭和5)年大阪市生まれ。建築学者、建築家。建設省技官を経て、京都大学。大阪大学・京都精華大学の教授をつとめる。著作多数。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アインシュタインの眼 ー宮大工ー

2010年03月04日 19時59分49秒 | 民俗学
~番組解説より~
「“木の生命力を活かす”宮大工の仕上げの技、カンナがけに迫る。細胞より薄い5ミクロンのカンナくずはどう生まれるのか。カンナがけした木は本当に水をはじくのかを解明。
カンナ仕上げでツヤツヤとした輝きを放つ白木造り。宮大工はなぜカンナ仕上げにこだわるのか。その一つは、宮大工がカンナがけした木材は水をはじくため、腐食しにくいという説。顕微鏡カメラを駆使してガラスのように滑らかな表面を徹底調査。また、細胞より薄い5ミクロンという極薄のカンナくずを生み出す宮大工のカンナがけの技をハイスピードカメラで解明。“木そのものの生命力を活(い)かす”、宮大工のこだわりに迫る。」

 ゲストとして登場したのは宮大工の小川三夫さん。法隆寺昭和の大修復にかかわった西岡常一さんの唯一の弟子です。
 西岡常一さんに関する塩野米松氏の著作を以前読んだことがありましたので、雰囲気はわかりました。
 西岡さんの残した印象的な言葉は「樹齢1000年の木は建築材として1000年もつ」「修復のとき、大木・巨木が必要だったが近隣にはそのような樹木はすでに無かった。吉野から運んでくることになった。今後は外国から探してくることになるだろう」というもの。

 さて、今回は宮大工のカンナの技を現代の映像技術で解析する内容です。
 宮大工がカンナを掛けると削りカスが絹織物のように美しい・・・「削り花」と呼ぶそうです。
 目から鱗が落ちる瞬間が何回もありました。

■ カンナを掛けただけの木の方が、上塗りした木より長持ちする。
 プロがカンナを掛けると木の表面の細胞をつぶすことがなく、乾いて引き締まった木(孔が閉じたもの)を用いると水をはじくため、劣化が最小限で済む。

・・・これには驚きました。私の建てた家の柱は合材なので、3年ごとにニスを塗らないとみすぼらしい外観になってしまいます。皆そうだと思っていたら、「ホンモノ」はまったくの逆なんですね。
 プロの板前さんがマグロを包丁で切ると細胞がつぶれないので味が逃げ出さず、しばらく時間が経っても味が落ちないのと似ています。

■ カンナ掛けの最適角度は37.5度。
 これより浅くても深くても表面がざらついてしまう。最適角度でプロが掛けると表面が鏡面のようになり顔が映る!
 外国でもカンナはあるが押すタイプばかり。引いて掛けるのは日本式のみ。

・・・これも科学的に実験したわけではないのでしょうが、経験則として培った匠の技ですね。

■ 木の種類により建築材としての寿命が異なる。
 マツは500年、スギは800年、ヒノキは・・・現在のところ1300年以上(法隆寺の年齢)。

・・・昔の宮大工はどうしてこれを知っていたのだろう。

同時に「法隆寺」というNHK-BS番組を見ました。
前編・後編とも各2時間弱の圧倒的な内容。
法隆寺は聖徳太子の時代(7世紀)に建造された世界最古の木造建造物です。
中でも五重塔は30m以上ありますが、これが1300年前に建てられ、かつ現存するのは奇跡としか云いようがありません。

こちらにも小川さんが出演していました。
そこでも驚きの匠の技が公開されていました。

■ 法隆寺の芯柱は周囲に固定されていない。
 地震のときに建物とは逆に揺れて緩衝し、被害が最小限となるよう設計されている。

■ 法隆寺に使用されている釘は鉄の純度が高く錆びない。
 現在釘を作るときは鋳型に流し込む方法ですが、昔の釘(『和釘』と呼ぶそうです)は刀鍛冶がハンマーで叩いて鍛え上げた入魂の作品です。昭和の修復の際、同じ釘が造れなくて困り果て、結局古い和釘を再度溶かして過多な当時に叩いてもらい再利用したそうです。

■ 山の木は生育の方位のまま使え。
 古代工人の言い伝え。南側を向いて育った木を北向きに設置すると歪みが生じて長持ちしないということ。

■ 宮大工は300年先を見て仕事をする。
 将来修理が入ったときに「平成の宮大工の仕事はお粗末だなあ」と笑われないよう、過去から伝わった技を磨いて残すのが使命、それが宮大工の心意気。

・・・日本人ってすごい!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小林ハルと小泉八雲ー『明治・歌の文明開化』を見て

2010年02月04日 08時30分30秒 | 民俗学
NHKで「ドキュメント日本のうた100年…5」と題して放送された番組です。

録画しておいて、何気なく後で眺めていたら・・・惹かれる内容が2つ。

■ 小泉八雲は民俗学者だった。
 『怪談』で有名な小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は外国人の視点で失われゆく日本の伝統・習慣を記録してくださいました(感謝!)。昔話だけではなく、民謡やわらべ唄も採集して記録していたのでした。
 江戸時代が終わり、外国文化が入ってくる前の素朴な日本の地方文化の貴重な記録です。
 手に入る情報はないかと探しました。
 すると、番組にも登場した子孫の小泉 凡 氏の「民俗学者・小泉八雲」という本を見つけました。
 入手して購読したら、また記したいと思います。

■ 最後の『瞽女』(ゴゼ)である小林ハルさんの映像がでてきた。
 『瞽女』と云う言葉をご存じの方は、今はどれくらいいらっしゃるでしょうか。
 その昔、視力を失った女性の仕事として成り立っていた民間芸能です。
 地方を行脚して歌を唄うなりわいです。
 余興・娯楽が少なかった時代は、大変人気があり歓迎される存在だったそうです。
 主に北陸地方で活動していました。

 師匠に弟子入りし、修行を重ね、独立します。
 師匠の存在は絶対で、厳しい戒律に統制されています。
 独立するときの儀式では振り袖を着る習わし(ただし、ダンナさんはいません)。
 「神に嫁入りする」という意味だそうです。

 映像の小林ハルさんは既に引退して、老人ホームでひっそりと暮らしていました。
 その壮絶な人生は本にまとめられ、何冊か出版されています。

 手元に「瞽女 盲目の旅芸人」という安達 浩 氏による写真集があります。
 新潟の農村を行脚する瞽女さん達が写し出されています。
 瞽女さんは3人ひと組で行動します。全て女性です。
 目の見える先導さん、その腰に手をかけて盲目の2人がつづきます。
 旅支度で笠をかぶった3人の小さな影がたんぼ道を行くその姿は、昔話の一場面のよう。
 お地蔵さんにも見えてきます。

 私の母の実家は新潟県の山村なので、小さい頃遊びに行った風景と似ていて懐かしい。
 背の高い木造家屋(冬は雪がたくさん積もるので二階から出入りする)と田んぼのあぜ道に木が植えられているのが特徴です。
 今は失われつつある日本の風景です。

■ 盲目の職業婦人としての「イタコ」
 「視力を失った女性の職業」というと、青森県のイタコを思い出さずにはいられません。
 イタコも弟子入りして修行して独立する「職業」です。
 メディアで伝えられているような「霊能者」ではありません。
 私は学生時代、青森県に住んでいましたのでイタコさんを何度か見たことがあります。
 一つは久渡寺の「オシラ講」、
 一つは恐山の大祭。
 津軽弁で、独特の節回しで経文を唱える姿と周囲の人達が一体となって醸し出す濃厚で独特の雰囲気は、別世界にトリップしたかと勘違いするほどのカルチャー・ショックを受けました。
 日本文化の奥深さを垣間見た瞬間でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「日本の放浪芸」ー小沢昭一さんと探索した日々ー

2009年06月07日 07時36分55秒 | 民俗学
市川捷護(いちかわ かつもり)著、平凡社新書、2000年発行。

本書の著者は小沢昭一さんと共に消えゆく日本の放浪芸を採集・記録したレコード会社の方です。
「日本の放浪芸」シリーズはその後CD化されボックスセットになって発売されており、私も所有して時々聴いています。
大学研究者の学術的調査では味気ない報告書になり一般人が読むには敷居が高いのですが、俳優とレコード会社がタッグを組んで制作したレコードは聴くものの心をキャッチする魅力を備えています。

俳優の小沢昭一さんはちょっと変わったヒト。
俳優(芸能表現者)である一方で、その芸のルーツを探る仕事を精力的にしているひねりのある人物です。
もう15年以上前になりますが、ふと見ていた「NHKテレビ大学講座」に講師として登場し驚かされました。
その時の内容は、この本にも通じる放浪芸の一つテキ屋さんの「バナナのたたき売り」でした。

放浪芸とは何か・・・一言でいえば「日本各地域を歩き回って芸を披露してお金をもらう生業」でしょうか。
テレビやラジオ、映画などのメディアの発達していない昭和初期までは、お祭りの時の見せ物小屋やチンドン屋、紙芝居などが庶民の娯楽として大きな位置を占めていました。

大道芸人もこの範疇に入りますし、他にも宗教に絡んだ芸能とか、いろんな業種があったようです。
「辻説法」(道ばたで仏教をわかりやすく説教する)なんて歴史の教科書に出てくるものと思い込んでいましたが、消えたのはそう昔ではなさそうです。
・・・あ、瀬戸内寂静さんは今でも「辻説法」をしているか・・・。

私も幼少時期、地元の雷電神社(関東地方は雷が多いのであちこちにある)のお祭りの見せ物小屋を楽しみに観に行ったものです。確かその時の出し物は「蛇女」だったかなあ・・・子どもくらいの背丈しかないおばさんがダミ声でおどろおどろしく解説して客を呼び込みます。そのトークは人間の「怖いもの見たさ」という感情をチクチク刺激する絶妙のテクニック満載。蛇女がどんなだったかは忘れてしまいましたが、おばさんの姿とダミ声はインパクトが強烈で今でも脳裏に焼きつています。この本の中に蛇女そのものより呼び込みおばさんの方がギャラが高かったと書いてありました。なるほど!

古典芸能・文化財として残されている「能」「狂言」「歌舞伎」などはこの放浪芸の中から時の権力により拾い上げられ保護され、洗練されてきたもの、とのことです。

現在の「漫才」のルーツも放浪芸にあったことがわかります。
何かのお祝い事に神の代理人としてお祈りをする芸人集団が、その合間にくだけた小話で笑いを取るようになり、その「トーク」部分が独立・発展してきたのが漫才であると。

昭和中期以降、日本の放浪芸は先細りとなり、現在はほぼ消滅しました。
小沢さんのCDを聴くと情報過多の現代日本にはない素朴な芸の鄙びた感触が懐かしく、また新鮮に感じます。
おそらく、日本人の琴線に響く情感がそこに備わっており、私より年齢を重ねた方々には郷愁を誘うことでしょう。
日本以外のアジア、とくにインドではまだ放浪芸人たちが闊歩して活躍している風景も描かれています。
日常生活の中では楽しみが少なく放浪芸・大道芸に見入るインドの人達と、情報過多で何を信じてよいのか価値観も揺らぐ日本人とどちらが幸せなのか・・・。

「放浪芸人は『神の代理人』として畏怖される存在であったと共に『芸で金を稼ぐ』と蔑まされてきた歴史がある」との記載に、教科書には載らない日本の裏の歴史を支えてきた名も無き人々の影を見たような気がしました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする