知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「日本語の歴史」(山口仲美著)

2017年04月26日 06時57分25秒 | 日本人論
日本語の歴史」(山口仲美著) 
 2006年、岩波新書

 学生時代、古文や漢文は苦手でした(^^;)。
 ただ、その頃から漠然とした疑問を持っていました。

 「自分が読んでわかる日本語っていつの時代までさかのぼれるんだろう?」

 それから早30年以上経過してしまいました。
 最近新書版のこの本を見つけ、五十の手習い(?)として読んでみました。

 日本語の歴史を俯瞰するにはちょうどよい分量と思われます。
 文字を持たない日本人が「漢字」を導入したために発生したメリットとデメリットの解説にはじまり、それが時代にもまれ紆余曲折を経て現代の「漢字かな交じり文」にたどり着いた長〜い旅路。
 もちろん、大学で「日本語学」を研究するには、より膨大な資料を読む必要があるのでしょうが、一般人にはこれで十分です。

 高校の古文で習う文法は、平安時代の文章のルールだそうです。「係り結び」の変遷を、その時代が要求する文章(貴族は柔らかい文章を好み、武士は力強い文章を好む)を背景に説明しており、なるほどなあと納得させられました。

 意外に感じたのが「話し言葉と書き言葉の一致・不一致」という問題提起。
 日本語の歴史は「話し言葉と書き言葉のせめぎ合い」だった・・・。
 ふだんは意識しないこの視点が新鮮に感じられました。

 文字を持たなかった日本人が導入したのは中国由来の漢字であった。
 便利な反面、ジレンマも抱えることになった。
 その後、簡略化を目的に、漢字の一部を取り省略しようとしたカタカナ、漢字そのものを簡略化したひらがなが誕生した。
 紆余曲折を経て、現在の「漢字仮名交じり文」が完成した。


 そして最初の疑問に対する答えは・・・江戸時代以降かなあとなんとなく思っていた私ですが、なんと平安時代末期の漢字カタカナ交じり文で書かれた『今昔物語集』のようです。


<備忘録>

□ 日本語には擬音語・擬態語が豊かに存在するが、英語にはあまりない。

□ 日本語の歴史は「話し言葉と書き言葉のせめぎ合い」
【奈良時代】他国の文字である漢字と巡り会い、日本語を必死になって漢字で書き表そうとした。万葉仮名を発明して日本語の表記の土台を築いた。
【平安時代】漢字を手なずけ、とにもかくにも日本語を話すように書き表すことができるようになり、言語芸術の花が開いた。
【鎌倉・室町時代】ふたたび書き言葉は話し言葉から離れはじめ、平安時代の話し言葉の文法は姿を変えていく。
【江戸時代】現代語に連なる話し言葉が形成された。
【明治時代】話し言葉と書き言葉は、絶望的に離れてしまった。人々は、書く言葉を話す言葉に近づけようと戦い、とにもかくにも両者の一致を完成させる。
※ 漢字は紀元前1500年頃に中国で発生した。

□ 日本語のルーツ
 北方からという説と南方からという説が大きく対立している。落ち着くところは、南方系のオーストロネシア語の系統を下地に、北方系のある対語の系統が流れ込んで融合し、日本語の基盤が形作られていった。

□ 万葉集の時代、女性は本名を知られてはならなかった
 女性の名前はおろそかに男性に知られてはならない。自分の名前を知られた途端に、相手の支配下に置かれることになる。だから昔の女性達は、身を許してもよいと思える男性にしか、自分の実名を打ち明けなかった。
 万葉集では、女性が自分の名を言えば、求婚を承諾したことになる下りがある。

□ ハングルとは?
 李朝第四代国王世宗(せじょん)の時代に学者により考案され、1446年に「訓民正音」(くんみんせいおん)として公布された朝鮮固有の文字。アルファベットのような表音文字でありながら、漢字の原理を取り入れ、母音字と子音字を組み合わせて音節単位に各文字。

□ 『古事記』の序文に見る「借り物の漢字ではうまく日本語を書き表せないもどかしさ」
 日本語と中国語は語順が違う。
 日本語には多くの助詞・助動詞があり、それが実質的な意味を持つ単語に膠(にかわ)で接着したようにくっついて文法的な役割を示している(膠着語)。中国語には日本語の助詞・助動詞に該当するものがとても少ない。文法的な役割は実質的な意味を持つ単語の順序で表す(孤立語)。
 このように系統の異なる文字を借りてしまったために、日本人は日本語を書き表すのに相当な苦労を払わなければならなかった。
 『古事記』の序文より;

 この『古事記』は、表意文字としての感じに、音だけを借りた漢字を混ぜて書くことにする。また、事柄によっては表意文字としての漢字を連ねて書く。

□ 混乱の根源は「漢字一字に対して複数の読みを与えてしまったこと」につきる(奈良時代)。
(例)「山」という漢字を「サン」という中国音とともに受け入れる。次に「山」を意味するやまとことばを当てはめて「やま」とも読む。
 韓国も中国から漢字を取り入れたが、漢字とその発音を受け入れただけ。
 日本語の表記が、世界でも稀なほど複雑なのは、一つの漢字に複数の読み方をするような受け入れ方をしたところから生じてしまった。だから、日本最古の歴史書『古事記』は、漢字を辿ると意味はわかるけれど、声に出して読もうとすると読めない。現在でも、日本人が時々経験する「漢字が読めない」という不思議な現象は、漢字という文字を受け入れたときに遡る。

□ 万葉仮名(奈良時代)
 漢字の表意性をそぎ落として音としてだけ使う方法。
 おそろしく効率の悪い表記法だが、次の平安時代には日本固有の文字「ひらがな」「カタカナ」を生み出す源流となった。

□ 奈良時代には現代の私たちが発音しないような清音や濁音がたくさんあった。
 現在は清音44音、濁音18音。
 平安時代は清音61音、濁音27音もあった(万葉仮名で使い分けられていることから推測)。
 奈良時代には母音が8つあった(八母音説・・・ほかにも六母音説、五母音説もある)。
 現代で使う拗音(きゃ、きゅ、きょ、ぎゃ、ぎゅ、ぎょ、等)は奈良・平安時代にはなかった。
※ 五十音図は平安時代につくられた(奈良時代にはまだ存在しなかった)。仏典を学んでいる平安時代のお坊さんが音韻の知識を整理するためにつくった。

□ 平安時代の日本語は漢文中心だった(奈良〜平安時代)
 日本語の文章を書き始めたのは大化の改新(645年)以後のこと。
 日本語の文章として古くて有名な法隆寺金堂薬師仏の「光背銘」は「漢式和文」(漢文様式で書いた日本語の文章)で書かれている。
 漢式和文で「日記」を書いていた平安貴族は、中国人も読める「漢文」も書いていた。エリートしかかけない「漢文」が、当時の最もステイタスの高い文章であり、上手い漢詩や漢文が作れることが男性貴族の重要な能力の一つだった。
 公式の文章・当時の歴史書『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『文徳実録』『三代実録』などの国史はすべて漢文で書かれていた。『和名抄』(わみょうしょう)『医心方』などの学術書もすべて漢文で書かれており、漢文による権威付けがなされていた。

※ 「天皇」という言葉は、東野治之氏によると、持統朝(687年)以降に使われ出した。それ以前は「大王」(おおきみ)と呼ばれていた。

□ 漢文の“訓読”という裏技/翻訳方法を発明(奈良〜平安時代)
 日本人は漢文を理解するのに訓読をした。高校の漢文の授業は漢文の訓読練習である(私たちが高校で学んだ「古典文法」は平安時代の言葉の決まり)。「返り点」に従って漢文の字面を下に行ったり上に戻ったりしながら、中国語の語順を日本語の語順に変えて読む作業であり、行間には日本語にのみ存在する助詞や助動詞や活用語尾が小さく書いてある。
 これは漢字に日本語の読みを当てはめて受け入れたために可能になった、巧妙な翻訳方法である。
 英語を翻訳するときに、こんなことはしない。英語文は英語文で存在し、その翻訳である日本語文はきちんと別に日本語文で存在する。
 なのに漢文の訓読では、原文の漢文に符号を書き込み、助詞・助動詞などを書き込んで翻訳完了。新たに日本語の文章を書き起こしたりしない。
 奈良時代以前から、日本人はそうしたやり方で漢文を理解してきたが、訓読を漢文の行間に書き込むようになったのは平安時代になってからである。

□ カタカナの発生(平安時代)
 漢文読解法をより簡略化する工夫の一つが「カタカナ」である。
 万葉仮名の字形の一部分を書いて済ませることを考え出した。「伊」という万葉仮名なら最初の人編の「イ」だけで済ませてもわかるのではないか、「礼」という万葉仮名なら最後の部分の「レ」だけで済ませてもいいのではないか。
 こうして万葉仮名の一部分をとって「カタカナ」が発生した。部分を取った不完全な文字だから「カタカナ」と名づけた。「カタカナ」の「カタ」は不完全な、十分でないという意味の言葉である。
 もともと1音を表すのに複数の万葉仮名があったので、カタカナも1音に対してたくさんの文字ができてしまったが、次第にある音に対してはこの文字というように固定化してゆきやがて1音に対して一つのカタカナが対応するようになっていった。
 傾向として、カタカナは万葉仮名の最初の画をとるか末画をとるかのどちらかである。
(例)「ッ」は「川」から、「シ」は「之」から。「ソ」は「曽」から、「ン」は符号「V」から。

□ 漢字カタカナ交じり文の誕生(平安時代)
 漢文訓読の場から漢字カタカナ交じり文は生まれた。
 平安中期にも書かれているが、平安時代末期には一つの文章様式となって『今昔物語集』のような説話集を生み出す。返り点がなく、カタカナの地位が高くなってきているので、我々現代人も「読める」文章である。
 鎌倉・室町時代になるとカタカナの部分がほとんど漢字と同じ大きさになり、さらにカタカナの部分がひらがなにあらためられ、現在の漢字かな交じり文に流れ込むことになる。

□ 「宣命体」(奈良時代)
 奈良時代に栄えた文章様式で、実質的な意味の語を大字で、助詞・助動詞や活用語尾を小さく右寄せに書く。
 天皇の命令をのべ知らせるための文章がこの様式で書かれているので「宣命体」と呼ばれる。祭りの儀式に唱えて祝福する「祝詞」、神前仏前で読む文章もこの様式で書かれている。
 人前で読みあっゲル必要のある文章なので、日本語の語順で書くことを原則としているので、漢字カタカナ交じり文の源流とは見なせない。
 宣命体は平安時代には限られた場合にしか使われなくなった。

□ ひらがなの誕生(平安時代)
 万葉仮名の字形を少し崩して草体化すると、労力が少し省ける。これを草仮名と呼び、草仮名をさらに崩して別の文字と認識できるようにしたのがひらがなである。
 ひらがなもカタカナと同じく、古くは1音に対して複数の文字が存在したが、次第に整理されていき、現在のように1音に対して一つのひらがなに決まったのは、カタカナと同じく明治33年(1900年)の小学校令による。
 ひらがなは10世紀前半には文字としての体系を整え、和歌を中心とする文学の花を咲かせた。
 ひらがなとカタカナは文字体系を支える思想が異なっている;
 カタカナは、文字というものは一点一画を重ねてできるものだと捉えているから万葉仮名の部分を取る。
 ひらがなは、文字というものを連続体と捉えているから、全体を書き崩すけれど部分をとったりはしない。
 同じ文字に対して、異なる側面から捉えたために、カタカナとひらがなという二種類の文字の系統が出来上がった。
(例)
・「加」という万葉仮名の最初の二画をとったのがカタカナの「カ」、「加」という万葉仮名全体を崩したのがひらがなの「か」
・万葉仮名の「己」の二画をとったのがカタカナの「コ」、全体を崩したのがひらがなの「こ」。
・「奴」の最後の二画をとったのがカタカナの「ヌ」、全体を崩したのが「ぬ」
※ 「へ」のひらがなだけは「部」の全体を崩さずに「阝」の部分のみをとって崩したので、カタカナとほとんど同じ字形になってしまいました。

□ ひらがな文と文学(平安時代)
 ひらがな文は決してひらがなだけで書かれている文章ではない。
 ひらがなをもった平安時代の人は、まず、それまで口で語り伝えられてきた歌にまつわる物語を文字化するという試みを行なった。その結晶が『伊勢物語』である。話し言葉を中心にする柔らかい口調は、漢文や漢式和文や漢字カタカナ交じり文では表現することが困難である。その他に『竹取物語』『宇津保物語』『落窪物語』などが書かれ、またひらがな文の日記として『蜻蛉日記』が書かれ、清少納言は『枕草子』を書いて随筆文学の道を開いた。
 韻文である和歌も、平安時代にはひらがな文で記され、繊細な文学的感性と表げんっぎじゅつを磨き上げた。和歌で使う言葉は、日常の話し言葉よりも伝統的で雅やかな香りを漂わせている。また、散文と違って、掛詞・縁語・本歌取りなどの独特の技法がある。そうした和歌で使う言葉と技法を散文のひらがな文に取り入れて物語を書いたらどうなるのか・・・『源氏物語』の誕生である。
 『源氏物語』は散文のルールの中に、和歌で用いる言葉と技法を取り込んで、長編の男と女の物語を作り上げた。物語の中で、登場する男と女の感情が高まってゆくと、彼らに和歌を歌い上げさせる。『源氏物語』の文章が、話し言葉だけで書かれたひらがな文よりも格段に優美な趣を供えているのは、和歌の言葉と手法を取り込んで語られているからである。

□ ひらがな文 vs 漢字カタカナ交じり文(平安時代)
1.読みにくい。
2.漢語を取り込みにくい。
3.論理的に物事を述べていくのには不向き
これらに対して、漢字カタカナ交じり文は、
1.読みやすい。
2.抽象的な表現がしやすい。
3.論理的な漢文の発想を持っている。
等の特徴を有するため、最も効率的な文章として漢字カタカナ交じり文がひらがな文を抑えて日本語の文章の代表になっていった。

□ 「係り結び」(平安〜鎌倉/室町時代)
 「係助詞-連体形/已然形」で結ぶことによる強調表現/疑問表現/反語表現。
 平安時代に出来上がった文章の決まりであるが、鎌倉・室町時代には慣用句化するとともに姿を消していく。とくに「なむ-連体形」はやわらかい口調に限って出現する強調表現なので、強さやたくましさを求める武士の時代には不向きであり、衰えていく。

<強調表現>
なむ-連体形
 念を押しつつ語る強調表現。事実だけを直截的に述べる文に対して、「なむ」が入ると、聞き手を意識し、聞き手の目を見つめ、念を押し、同意を求めて穏やかに語る口調を持った文になる。
ぞ-連体形
 指し示しによる強調表現。
 「ぞ」の下で説明される動作や状態が起きるのは、「ぞ」の上に示された点においてなのだという、指し示しによる強調表現。
 鎌倉時代になると、ただ強い口調を生み出すための慣用表現的なものを変わっていく。
こそ-已然形
 取り立てることによる強調表現。「こそ」は、その上に述べられた事柄を強く取り立てて強調する。
 鎌倉時代になると「こそ候え」という一種の慣用句的な言い回しになってしまう傾向があり、平安時代の生々しい雰囲気が薄れていく。
 しかし、「已然形」で結ぶパターンが幸いし、ほかの係り結びより長生きした。鎌倉・室町時代には連体形が終止形と同じような機能を持ち始めたため、終止形が連体形に吸収合併されていく形で係り結びも消えていった。
 現代語では終止形と連体形が同じ形をしている。
(例)「する」・・・現代人は文を終わりにするときの形として「する」を使う。「勉強する」のように。これが終止形。名詞に続けるときも「勉強するとき」という形をとる。これは連体形。あれ?同じだ。
 平安時代までは「する」という形は連体形で、終止形は「す」だった。
 つまり、もとは連体形であった形が終止形にもなってしまった。すると、係り助詞-連体形で結ぶという緊張感のある呼応関係は意味をなさなくなってしまい、係り結びの存在意義が希薄となり、室町時代末期には姿を消した。

<疑問表現・反語表現>
 奈良時代は「か-連体形」の方が「や-連体形」よりも優勢であったが、平安時代になると逆転する。
か-連体形
(疑問表現)文の1点を疑問の対象にする。
(反語表現)つねに「いかで」「など」等の疑問詞と一緒に用いられる「か-連体形」の方が「や-連体形」よりも誤記が強い。
や-連体形
(疑問表現)文全体の内容を疑問の対象にする。

 係り結びそのものは現在まったく残っていないが、その痕跡なら指摘できる。「こそ」は結びの已然形こそないが現在でも文中に使われ、取り立てて強調する意味を持つ。他の係り結びの痕跡は、すべて日常会話からは失われている。

□ 助詞が係助詞を駆逐した(鎌倉・室町時代)
 係助詞は、主語であるとか、目的語であるとかという、文の構造上の訳ありを明確にしない文中でこそ活躍できるもの。ところが、主語であることを明示する「が」が入ってくると、係り助詞は入り込みにくくなる。
 鎌倉時代に入ると主語を示す「が」が発達し、文の構造を助詞で明示するようになっていった。
 係り結びが消失したということは、日本語がゆるく開いていた構造から、しっかりと格助詞で論理関係を明示していく構造に変わったことを意味する。情緒的な文から、論理的な文へ変化していったのである。その背景には、日本人が情緒的な思考から脱皮し、論理的思考をとるようになったことが窺われる。

□ 近代語は江戸時代に始まる
 宝暦年間(1751-1764)には江戸語が共通語的な位置を占め、近代語の基盤を造った。
 江戸時代になると話し言葉をできるだけ忠実に写した文学作品が出てくる。
 「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」はもともとは違う音だったが、室町時代の終わり頃、つまり16世紀の終わり頃に近くなってきた。
 江戸時代の元禄頃になると、「じ(ʒi)」と「ぢ(di)」「ず(zu)」と「づ(du)」が統合されて、現在と同じ発音「dʒi」と「dzu」の2音になった。
 現在ではこの2音に「じ」と「ず」の文字を与えつつ「ぢ」と「づ」の文字も残した。そして「現代仮名遣い」でこんなルールを作った。まず、ふつうには「じ」や「ず」の文字を当てる。ただし、つぎの①と②の場合には、例外的に「ぢ」や「づ」を使う。
①「ち」や「つ」に続く場合には「ぢ」と「づ」を使う。
(例)「ちぢむ」「つづく」
②複合語になる前に「ち」や「つ」で始まっている語に関しては「ぢ」「づ」を使う。
(例)「はなぢ」「みかづき」

□ 清音の統合:61→ 44音
奈良時代:61
平安時代:47 ・・・「いろは歌」のできた10世紀中頃
平安時代末期:46 ・・・「を」と「お」の音を統合
鎌倉時代末期:44 ・・・「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」を統合
それ以降、700年間の間、変化していない。

□ 濁音の統合:27→ 18音
奈良時代:27→ 20音
江戸時代:18音

□ 上方語 vs 江戸語
 伝統を培ってきた上方の人から見ると、関東弁の「べい」(行くべい、帰るべい等)は田舎者丸出しで聞くに堪えず、「関東べい」と上方女は江戸の人間を馬鹿にしていた。原因や理由を表す「から」(さうだから、かうだから)も気に入らない(上方では「さかい」)。

□ 連声(れんじょう)
 撥音[n][m]や促音[t]の次に来るア行・ヤ行・ワ行音が、ナ行音やマ行音やタ行音に変化する現象。発音のしやすさを求めて起こる、江戸語にみられる一種の訛りである。平安時代から室町時代までしばしば診られ、江戸時代以降は特定の語の読みグセとして残り現代語に至る。
(例)因縁→ 「いんえん」ではなく「いんねん」、輪廻→ 「りんえ」ではなく「りんね」、陰陽師を「おんようじ」ではなく「おんみょうじ」

□ 人称代名詞の変遷
アナタ)江戸時代後期に出現。現在は対等かやや目下の相手に用いるが、当時は敬意が高かった。町人が武士に話しかけるときも「あなた」だった。
オマエ)江戸時代前期に出現。まだ「あなた」の語が現れていないので「おまえ」が最も敬意のある呼び方だった。けれども江戸後期になると、敬意の度合いが笠利、対等もしくは下の者に対して用いるようになる。
 敬意の度合いが下がってくると「さま」や「さん」をつけて敬意の度合いを上げる(例:おまえさん)。ちょうど現在、敬意の下がった「あなた」に「さま」をつけて「あなたさま」として客を呼ぶときの言葉にするのと同じ。
オメー)「おまえ」ほどではないが敬意のこもった言葉だった。決して目下に用いる言葉ではなかった。
キサマ)もともと「貴様」と書いて、手紙などで使った敬意ある書き言葉だった。江戸時代後期になると、同等あるいはそれ以下の者に対して使われるようになる。さらに「キサマ」の語の下落は止まらず、明治時代中頃には相手を罵倒する時に使うののしり言葉になってしまった。敬語は使っているうちに次第に敬意の度合いが低くなる傾向があるが、「キサマ」の価値の下落は目立つ。

ワタクシ)鎌倉・室町時代に出現し、江戸時代に地位が確定した、最も敬うべき人の前で使う一人称代名詞は現在と同じく「わたくし」。
ワタシ、ワシ)江戸時代に出現。「ワタクシ」→ 「ワタシ」→ 「ワシ」が生まれた。「ワシ」は江戸時代前期では若い女性が使うこともあった(相手への敬いの気持ちがこもっていた)が、江戸後期になると主に男性が用いるようになり現在に至る。
オレ)鎌倉・室町時代に出現し、江戸時代に頻用されるようになる。江戸時代前期では現在と違ってとても使用範囲が広く、女性も使っていた。江戸時代後期になると女性が「オレ」を使うことはなくなり、男性専用語になるとともに敬意もなくなり現在に至る。
ボク)江戸時代末期に出現。漢文にある「僕」の語を「ボク」と音読みしたことが始まりで、漢文訓読出身の言葉であり「学者言葉」として知られていた。現在のように話し言葉として日常会話で「ボク」が活躍するのは明治時代以後である。

□ 武士特有の人称代名詞
・相手を指すとき:なんぢ、貴殿(きでん)、貴公、そのもと、その方、そち
・自分を指すとき:それがし、みども、身、われ、拙者
 明治時代になるとみっぶんせいどの廃止に伴い一挙に失われる。

□ 東京語には二つある
・武士や知識人が使っていた山の手言葉の系統
・「ベランメー」口調と言われるような下町言葉の系統
 山の手言葉が標準語(後に共通語)に採用された。

□ 前島密による言文一致運動(明治時代)
 幕末に存在していた文章は漢文と漢字かな交じり文だった。
 明治政府は公用文を漢字カナ交じり文で書くことにした(例:五箇条のご誓文)。それまでの最も権威ある文体であった漢文や漢式和文からの切り替えは大きな出来事である。
 明治時代になり言文一致の試みが行われたが挫折することが多かった。その理由として、
1.人々の意識が江戸時代の身分制度からなかなか抜け出せずにいた。
2.言文一体の文章がなかなかうまくいかない。話すように書くと言うことは、日本語の場合、読み手との関わり合い方が問題になり、西洋語の場合よりもややこしい。

□ 明治時代の文学界における言文一致運動
・二葉亭四迷の『浮雲』(明治20年)・・・坪内逍遙のアドバイスにより三遊亭円朝の落語を取り入れ「だ」調を採用。
・二葉亭四迷はツルゲーネフの『あひびき』(明治21年)を漢文直訳調ではなく言文一致体で翻訳した。
・山田美妙の『武蔵野』(明治20年)・・・足利時代に舞台をとった歴史小説。地の文は「だ」調による言文一致体。微妙はこのあと、「です」調の言文一致体に変更している。微妙が友達に漏らした言葉:地の文で「であった」「ある」などと動詞の言い切りにすると、文章として読んだときに、ひどく「ぶっきらぼう」で「いかにもぞんざいに聞こえるのが困る」、かといって「ました」「でした」「でございました」というと、「ぞんざいには聞こえないが、だらしがなく長くなる」。

□ 明治時代の文学界における言文一致体の抵抗勢力
・幸田露伴の『風流仏』(明治22年)・・・才覚流の雅俗折衷体を用いた。
・森鴎外の『舞姫』(明治23年)・・・典雅な雅文体を用いて文語文を復活させた。「べし」「たる」などの文語的な言い回しを基調にしつつ、「をとめ」「まみ」「おもて」「うれひ」「やどせる」などの優美な和語を駆使した華麗な文体で書かれている。
 鴎外の登場により、二葉亭四迷は筆を折り、微妙は飽きられ、言文一致体は再び暗礁に乗り上げた。

□ 尾崎紅葉の「である」体〜言文一致体の復権
 『二人女房』(明治24年)で「である」調を使用しはじめ、『多情多恨』で完成させた。
 紅葉の「である」調は、広津柳浪に継承され、さらに山田美妙、小杉天外、田山花袋、島崎藤村、泉鏡花などに影響を与えた。
 言文一致体の一番の悩みは、地の文の記述に客観性が確保できない点だった。日本語のように、常に相手を意識して話す話し言葉を書き言葉に採用する時のネックだった。それが「である」体の出現により打破できた。
 このあと、言文一致体は正岡子規や高浜虚子、自然主義作家達により熱烈に支持されていく。紅葉の試みは言文一致体にとっての決定打だった。

□ 大正10年(1921年)、新聞もとうとう言文一致体になったが、公用文は・・・
 大正10年には「東京日日新聞」「読売新聞」、翌11年(1922年)には「朝日新聞」がようやく言文一致に踏み切った。
 しかし公用文が言文一致体を採用したのは、なんと昭和20年(1945年)。

□ 個性の出せる言文一致体
 現在、私たちは言文一致運動の成果を満喫している。
 主観的に断言したいときは「だ」を使い、語りかけたい時は「です」「ます」を使い、客観的に述べたいときは「である」を使う。
 ヨーロッパではルネッサンス以後に言文一致運動が起き、話し言葉と書き言葉を一致させる努力をしてきた。日本は明治になって出会った西洋文明が気づかせてくれたので、4-500年遅れで体験したことになる。

□ 多すぎる語彙
 日本語には三系統の言い方がある;
1.和語:日本民族が元々使っていた
2.漢語:中国から輸入し江戸時代まで影響を受け続けた
3.外来語:西洋から室町時代末期から入り始めた
(4.和製漢語:明治時代に西洋文明を取り入れるために日本人が翻訳語として作り出した)
(例)「宿屋/旅館/ホテル」「口づけ/接吻/キス」

□ まとめ
・日本語の歴史は、平安時代にさまざまの文章を試み、その中で最も優れている漢字かな交じり文を明治時代に採用し、現在に至る。
・漢字を借り入れたことにより、日本語は豊かになると同時に煩雑さも背負い込んだ。漢字一字に多くの読みを与えすぎたため、かなりの知識人でも漢字が読めないという事態が起こっている。訓読みも意味の近い日本語を当てたため何種類もの訓読みができてしまった。
・鎌倉・室町時代から、主語がどれであるか、目的語がどれであるかをきちんと明示するげんっごに変化してきている。接続詞も使って、文と文とをしっかりと論理的につないで文章を書いている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「幕末・明治の日本は外国人にどう見られていたか」

2015年08月16日 05時58分20秒 | 日本人論
 ニッポン再発見倶楽部 著、三笠書房 発行

 日本人にとって当たり前のことは、敢えて書き残さないもの。当時の常識はどんなものだったのか。
 むしろ、日本を客観的視点で観察した記録は、外国人の書き残したものの方がよくわかることがあります。
 この本は、江戸時代末期(幕末)~明治時代に日本を訪れた外国人達が書き残した文章から、分野別に抜粋した内容です。
 私が好きな人物・・・ハインリッヒ・シュリーマンをはじめとして、エドワード・S・モース、イザベラ・バード、ブルーノ・タウト、ラフカディオ・ハーン、エドウィン・フォン・ベルツの名前もありました。
 欧米と日本の文化の違いや、同じ日本でも現代と当時の文化の意外な違いがわかり、興味深く読みました。
 育児文化は150年前も今もあまり変わらないのですねえ。
 医学に関しては分析的な西洋医学からみると、経験的・帰納的東洋医学は「遅れた医術」に見えたようです。しかし現在、漢方薬ブームで世界中からの需要があり生薬価格が高騰している状況を考えると、どちらが正しいとは決めつけられないと思います。

□ 江戸の上下水道
 江戸の地下には「木樋」(もくひ)と呼ばれる配水管が巡らされ、各町に設置された井戸(湧水の井戸ではない)まで水を運んだ。この上水システムにより、江戸の約6割の人々が水道を利用することができた。
 下水はといえば、当時の人々は屎尿をすべて肥料にしていたため、わずかな生活水を流す溝程度のものさえあれば十分だった。屎尿をそのまま放流し、川が汚水で汚れていた西洋諸国とは大違いだ。
 しかし明治維新後、西洋化が進むと汚水が放流されはじめ、飲料水として使用できないどころか、衛生状態はどんどん悪化してしまう。
 ようやくヨーロッパ式の下水道が建設されたのは1884年(明治17)年のこと。日本は水道設備の整備を進め、再び世界有数の水道先進国となった。


□ 江戸時代に花開いた園芸文化
 江戸時代は園芸文化が大きく発展した時代だった。植木鉢が普及し、庭がなくても草花を育てることが可能になったこともあり、将軍家などの上流階級から庶民に至るまで広く園芸が広がり、品種改良熱が高まった。

□ 世界屈指の治安のよさ
 「こんなに泥棒が少ない国は珍しい。その理由は法律が厳格に施行されているためで、泥棒が捕まると命は決して容赦されない。」(フランシスコ・ザビエル)
 江戸時代は泥棒をすると容赦なく死刑にされた。

※ 江戸時代の窃盗罪 
 強盗殺人:市中引き回しのうえ獄門(公開死刑後さらし首)
 追いはぎ:獄門または死罪
 強盗傷害:死罪
 空き巣:むち打ちの後、入れ墨を入れられる


□ 江戸時代の入浴習慣
 上級武士の家には内風呂があり、庶民は銭湯を憩いの場として楽しんだ。風呂の種類も多彩;

戸棚風呂:蒸し風呂の一種
据え風呂:現在のようにお湯に肩までつかる
鉄砲風呂:おけに鉄の筒を入れて下で火を炊く
五右衛門風呂:桶の底に平釜をつけて湯を沸かす

 日本人の風呂好きは、幕末明治に渡来した西洋人達を大いに驚かせた。当時のヨーロッパでは貴族階級であっても風呂に入るのは数ヶ月に一度くらいの頻度であり、庶民の間で風呂に入ることが習慣化したのは第一次世界大戦以降のことだった。


□ 日本人の識字率は当時世界ナンバーワン
 幕末の武士階級の識字率は100%、町人・農民ら庶民層も4割ほど読み書きができ、中でも江戸の子どもの識字率は7~8割と高く、中心街に限れば9割に達した。
 江戸時代の日本では寺子屋が普及していたためである。


□ 時代劇でも採用されない化粧法「お歯黒」
 お歯黒とは、鉄漿(かね)という液体を使い、歯を真っ黒に染める化粧法。鉄漿は小間物屋などで売っているわけではなく、女性が自分の家で手作りする。まず壺に古釘などの鉄を入れ、米屑や水と混ぜて数日間おいて錆びさせる。このとき出てくる汁が鉄漿である。ただし、黒手はなく往昔色をしているので、前段階として「五倍子粉」(ふしこ)を歯に塗らなければならない。五倍子粉とは、五倍子虫(ふしむし)が木の幹や枝に作った瘤上の塊を粉にしたもので、タンニンを多く含み、染色やインク製造などにも用いられる。この五倍子粉を塗ってから、刷毛で何度も鉄漿を塗ることでようやく歯は真っ黒になる。鉄漿は強い刺激臭がするし、皮膚にも悪いから、歯茎や唇につけないよう細心の注意を払う必要がある。
 奈良時代頃から上流婦人の間で行われ、やがて庶民にも普及した。江戸時代以降はお歯黒が気根であることを示したり、決まった贔屓客(=パトロン)がいる芸者のしるしと見なされるようにもなった。
 西洋人には不評で「恐ろしい習慣」(ペリー)とまで言い切っている。
 当時は顔を真っ白に塗りたくる厚化粧がふつうであり、西洋人は「人形のよう」とか「死人のよう」と評した。
 現代の化粧は、自分の自然な表情や魅力を引き出すために行うが、当時の化粧は喜怒哀楽を押し隠すためのものだったのだ。感情を露わにするのは不作法ではしたないことと考えられており、化粧をして表情を読み取られないようにするのが礼儀とされていた。

 
□ 武士のちょんまげはサラリーマンのネクタイ
 ちょんまげは、昔の男性にとっては会社員のネクタイのようなものであり、一人前の成人男性として社会に参加していることの証明だった。年を取って髪の毛が薄くなり、ちょんまげが結いにくくなると、昔の男性は隠居か出家を考えた。
 明治時代になるとちょんまげは姿を消していく。1871(明治4)年、明治政府は「断髪抜刀勝手令」を出した。


□ 名誉・礼節を重んじる国民性は「武士道」由来
 日本人が名誉にこだわるようになった理由は、武家社会で武士道の精神が育まれたからである。新渡戸稲造によると、武士の子は幼児期から名誉を教え込まれ、「人に笑われるぞ」「体面を汚すなよ」「恥ずかしくないのか」という言葉で振る舞いを矯正されていた。
 その究極の行いが切腹であり、名誉を守るため、または傷つけられた名誉を回復させるためにはむず~腹を切って死ぬしかないと考えられていた。古来、腹部には人間の霊魂が宿っていると信じられており、腹を切ることが武士道を貫く方法とされてきたからだ。
「日本人は誇り高く自尊心の強い性格で、侮辱に対して敏感、・・・この鋭敏すぎるほどの道義心が復讐心に結びついて、腹切りという名で知られる異常なまでの自己犠牲をなさしめるのである」(スエンソン)。

★ 切腹の作法
1.切腹刀を左手で取りあげ、刀の下から右手を添えて、目の高さに持ってくる。
2.切腹刀を右手に持ち替えたら、切っ先を左脇腹に突き立て、右腹の方に切り裂く。
3.切腹刀を一旦抜き、刀をみぞおちに突き立て、へその下まで切る。その後、介錯人が一気に首を切り落とす。
※ 江戸時代は腹を切らず、すぐに首を切り落とした。


□ 世界遺産の“和食”の評判は当時悪かった
 少ない食事量も食材も西洋人から見ると不満だったようだ。
 明治以前の日本には、獣肉を食べたり、牛乳を飲んだりする習慣は定着していなかった。実際にはごく稀に鶏やイノシシを食べることもあったが、公然とは食されておらず、滋養を得るための「薬喰い」と称された。その理由は宗教で説明される。神道では肉食は穢れと見なされており、仏教では殺生は禁じられており、肉食はタブー視されていた。
 明治時代に入ると、政府は近代化の一環として国民に肉を食べるよう奨励した。政府は明治天皇に肉を食べてもらい肉食を宣伝し、これをきっかけに都市部では牛鍋を食べるのがブームになった。


□ 食事のマナー
 日本人は7世紀頃から箸を使っている。
 ヨーロッパではフォークやナイフが使われはじめたのは16世紀頃からで、それまでは王侯貴族でさえも手づかみで食事をしていた。


□ 日本における結婚のしきたりの変遷
古代     ・・・ 恋愛結婚:乱婚または雑婚で一人の相手に縛られない自由な結婚形態。
飛鳥・奈良時代 ・・・ 恋愛結婚:男子から媒酌人を通し、女子の父母に申し入れて承諾を得る。
平安時代   ・・・ 恋愛結婚:和歌や文などのやりとりを本人同士で行い、男が女の家に通って共寝する。
鎌倉・室町時代 ・・・ 見合い・恋愛結婚:公家は嫁取り婚、武士は嫁迎え婚を行う。相手はある程度自由あり。
安土・桃山時代 ・・・ 見合い・恋愛結婚:嫁迎え婚が基本となる。式三献やお色直しなどの現代の結婚式の次第が始まる。
江戸時代   ・・・ 見合い結婚:仲人や親が相手を取り決め、結納を交わす。武家では本人に選択の自由はなかった。

 戦国時代の離婚は女性の恥になることではなかった。ところが江戸時代になると、妻は夫の離縁状を取らなければ離婚できない状況になる。女性が唯一離婚を請求できる方法が、尼寺への駆け込みだ。江戸時代に幕府が認めていた「駆け込み寺」は鎌倉の東慶寺と群馬の満徳寺で、この寺で足掛け3年在寺すれば、夫から離縁状を受け取ることができた。
 一夫一婦制はあくまで妻が跡取りを産んだときに適用される決まり事だった。不幸にして跡取りができない場合は「夫は家系を守るために子孫を育てるために女を置くことが公然と認められ、またその妻からも強く勧められる」(グリフィス)ことが多かった。当時の男性にとって、妾を持つことは男の甲斐性だった。


 平安時代の「和歌や文などのやりとり」で恋愛感情を高めていくなんて、ちょっとロマンチック・・・現代人に出来るかなあ。

□ 同性愛事情
 日本には古くから同性愛の風習があった。日本人の同性愛と言えば、仏教寺院での男色が有名で、僧侶が稚児と呼ばれる召使いの少年を相手に色事を行っていた。
 武家社会でも男色は存在し、源義経と弁慶、織田信長と森蘭丸などが同性愛カップルだったと言われている。戦国時代は女性蔑視が強く。男色が賛美される傾向にあったため、男色がごく当たり前のように行われていた。
 来日した外国人はこうした日本の同性愛事情に驚愕した。


□ 子どもに甘い日本人、厳しい西洋人
 ベネディクトは双方の育児様式を比較し「日本人は子どもを徹底的に甘やかせて育てる」「西洋人は子どもに対して躾が厳しく、体罰を与えたり、食事なども大人とは別に与えるなど厳格である」と分析。その具体例として「赤ん坊が泣くと日本人の母親ならすぐ抱いてお乳を与えて泣き止まそうとするが、西洋人は決まった時間にしか乳は与えないで泣いたままで放っておく」ことを挙げた(菊と力)。

□ 遅れた(?)医療レベル
 ツュンベリーは日本の医者の脈の取り方を見て「病人の脈拍を教えようとするときは、まず一方の脈を取り、次いでもう一方の腕を取っており、量脈拍数はまったく同じであることや、一つの心臓から血液が両方へ流れていることを知らない。彼らの脈のはかり方はまた、きわめて長いので15分はかかる」と記している。

 ・・・これは西洋医学的視点での記述であり、東洋医学を理解していないことをさらけ出してしまう文章です。
 東洋医学の「脈診」は三本の指で手首を触れ、そこから体の情報を引き出す高度な技術です。左右両方行います。中国の皇帝のお抱え医は脈を取って病を見極め、見立てが外れると死罪になるという緊張感の中で診療をしていました。当然、時間をかけて慎重に行います。

□ 遊女の立場、西洋と日本の比較
 遊女の多くは16~17歳くらいでデビューする。実働年数は8~9年程度で、25歳まで働けば開放される。
 西洋では売春婦になると、そこから抜けだつことはほとんどできなかった。
 それに対し、日本の遊女は一定年数働けば更生するチャンスが与えられた。
 その理由は、本人が希望して遊女になったのではなく、親の都合でならざるを得なかったというケースが多かったからだ。遊女の出身階層をみると、北国の貧しい農民の娘が大半だった。彼女たちは、わずか6~7歳で両親によって売られ、禿として姉妓に仕え、読み書き三味線などのたしなみを教わりながら育てられた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「満員電車は観光地?」(サンドラ・へフェリン著)

2015年01月31日 15時33分18秒 | 日本人論
KKベストセラーズ、2014年発行
副題:世界が驚く日本の「日常」、外国人から見た日本ってどんな国?

面白そうな題名につられて購入。
漫画家の流水りんこさんと友人のサンドラさん(父はドイツ人/母は日本人)との会話形式で進むマンガで読む(コミックエッセイと呼ぶらしい)クール・ジャパン。



興味深い項目がたくさんありました。
私が面白く読んだのは、

・マスク姿は○○を疑われる ・・・○○には「コレラ」や「チフス」が入る
・太陽を嫌う日本人 ・・・日傘は外国人からすると?~晴れでも雨でも傘を差さないドイツ人
・ドイツ人女性は自分の結婚式でも化粧をしない ・・・ヨーロッパでもイタリアやスペイン、ルーマニア人はするけど
・日本女性は料理上手 ・・・今や欧米の家庭料理は「冷凍食品をチン」がスタンダード
・女性が「モテる」基準 ・・・アジア圏は「カワイイ」、ヨーロッパでは「強くて大人っぽくてセクシー」、ガーナでは「ポッチャリ体型」
・欧米の辞書には「肩こり」「冷え症」「胃もたれ」「むくみ」という単語がない

などなど。

価値感て文化により異なってくるのですねえ。
でも、トリビアとしてたまに耳に挟むと新鮮だけど、このように一冊の本にまとめて最後まで読了するにはエネルギーが要りますね。つまり飽きてしまいます(苦笑)。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BSアーカイブス ハイビジョン特集「小田実 遺(のこ)す言葉」

2013年02月10日 09時11分58秒 | 日本人論
 2012年12月に録画してあったものを視聴しました。

 小田実(まこと)さんと云えば世界中を歩いた貧困旅行記「何でも見てやろう」で1960年代に一躍有名になった作家です。
 バックパッカーの走りであり、その後「自分探しの旅」が若者の間で広まったきっかけを作った人でもあります。
 その経歴は超エリート。東京大学卒業後、フルブライト基金でハーバード大学へ留学しています。
 ベトナム戦争に反対した市民運動「ベ平連」の主催者の1人でもあります。
 著作もたくさんあるのですが、文学賞などとは無縁でした。
 解説の作家、高橋源一郎さんは「市民目線の活動家である小田さんは高みに居座る文壇とは相容れない雰囲気があったのでしょう」とコメントされていました。
 私から見ると「行動する知の巨人」ですね。

 小田さんが世界旅行から帰国した当時、日本は安保闘争という名の学生運動が真っ盛りでした。
 流れとしては合流しそうな小田さんでしたが、距離を置いて見ていました。
 その時頭にあったことは「彼らは日本の自分達のことしか考えていない」だそうです。
 世界を見てきた小田さんにとって、視野の狭い目的に向かっている学生運動に違和感を覚えたのでしょう。

 彼は日本という国の特徴を「平和主義」と呼びます。
 戦後、日本経済は世界トップレベルに達しましたが、他の大国はおしなべて「軍需産業」を核として発展・隆盛を極めたのに対し、日本は軍需産業に手を出していない。このように平和主義を貫いて発展した国は世界を見渡しても希有な存在であり、もっと誇りに思うべきだとコメント。

 しかし、昨今の世界情勢や隣国との微妙な綱引きから、他国と同じ軍需産業依存の方向へ流される要素もあり、それを懸念していました。

<参考>
小田実HP
こちらで番組の動画が閲覧可能です。
 ベ平連の記者会見場面で、作家の開高健氏が小田さんの隣で大人しくちょこんと座っているのが印象的でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キーワードは「だし」と「縁」

2012年02月26日 08時58分30秒 | 日本人論
「 だし」
 日本の食生活の肝(きも)である「だし」。
 古来、日本人の健康を支えてきた調味料です。

 ある動物実験で、ネズミが好む味覚を調査したところ、「砂糖」と「油脂」が一番だったという報告を読んだことがあります。両方とも、カロリーが高く、人ではメタボの原因になる栄養分。
 しかし、この二つに勝るとも劣らない成績を収めたものがありました。
 それが「だし」です。
 昨今、食育がブームになりつつありますが、子どもの食生活も「だし」を中心に組み立てればよい、と先祖が教えてくれているのですね。

 その昔、海水から作られた塩は、不純物としてNaCl以外にもいろいろなミネラル分を含んでいたので、多少多めに摂取しても高血圧にはなりにくかったとされています。精製した食塩が普及してから、高血圧患者が増えたらしい。

 その昔、サトウキビから作られた砂糖は、こちらも不純物が混じっており、高血糖になりにくかったとされています。精製した砂糖が・・・(以下同文)。

 日本人は便利さと引き替えに、健康を損なってきたのですね。

「縁」
 今日もTVニュースで「孤立死」「孤独死」の報道をしていました。
 アパートに住んでいても隣の人が何をしているか、わからない現代日本社会。

 幕末に日本を旅したイザベラ・バードという人を知っていますか?
 イギリスの貴婦人で主に東北地方を歩き、旅行記も残しています;

・「イザベラ・バードの日本紀行
・「日本奥地紀行

 2012年のお正月にNHK-BSで次の番組を放映しました;
ハイビジョン特集 にっぽん 微笑みの国の物語 「時代を江戸に巻き戻せば」

 イザベラ・バードの足跡をたどる内容でした。
 当初、貧相で貧しい身なりの日本人をみて、どちらかというと見下した上から目線の記述が多かったのですが、日本の田舎を自分の足で歩き農民達に接する過程で認識が徐々に変わり「皆貧しいながらも笑顔が絶えず、自然に感謝する生活を送っている。ここは東洋の桃源郷(アルカディア)だ。」とまで書くに至りました。
 その笑顔の根源は、「コミュニティ」(地域社会)、つまり「縁」と結論づけています。

 「だし」と「縁」、日本人が失ってはいけないもの。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

靴を脱ぐ文化・脱がない文化

2011年02月22日 06時55分17秒 | 日本人論
 いくつかのTV番組で「靴を脱ぐこと」について考えさせられました。

 まずは国民的アニメの「サザエさん」。
 忘れものを自宅に取りに来て慌てるサザエさんがブーツの脱ぎ履きで悪戦苦闘するストーリーでした。

 考えてみると、ブーツ発祥の国では朝から晩まで履き続けるのがふつうです。それを草履文化の日本に持ち込むから大変な苦労を強いられることになったのですね(苦笑)。

 もうひとつ、先日見たNHK-BSの「クール・ジャパン」のテーマは「履き物」。
 その中で「家の中で靴を脱ぐこと」のディスカッションを興味深く聞きました。

 欧米では自宅に帰宅後も寝るまでは靴を履いたままで過ごします。
 「なぜ脱がないのか?」との司会者の問いに、
 「靴を履いていることは、人と人との間の仕切りになっている」
 「靴を脱ぐとプライベートな雰囲気になるから」という答え。
 どうやら、靴下を見せることは下着姿をさらすのと同じ感覚があるようなのです。

 フ~ン。

 日本人が屋内の座敷で履き物を脱ぐ習慣は、稲作の始まった弥生時代の習慣の名残とされています。
 これは「日本人の心と建築の歴史」という本に詳述されています(http://blog.goo.ne.jp/cuckoo-cuckoo10/e/f1789bce601a0096807ee8d3afdfc6b5)。
 土間は竪穴式住居の名残。
 座敷の由来は神社の神殿のモデルにもなったイネモミの倉庫と考えられおり、そこは神聖な空間なのです。昔は別棟だった倉庫が歴史の流れの中で家に組み込まれ、近代の農家の住居形態に落ち着いたのでした。
 神聖な空間に足を踏み入れる際に、履き物を脱ぐことはごく自然な振る舞いです。

 日本の”靴を脱ぐ”習慣を経験した外国人が、自国へ帰国後も靴を脱ぐ習慣が続いている、と云っていたことも興味深い。

 さて、欧米の紐靴の底(ソール)は革製が一般的です。
 日本人の感覚ではゴムの方が濡れないし使い勝手がよいと思いがちですが・・・革は湿気を放出しやすく蒸れを防ぐ効果があるのですね。
 いずれにしても、海に囲まれた多湿環境の日本では一日中靴を履きつづける習慣はなじまないと思われます。
 特にゴムソールで放湿できないタイプは汗で足も靴も臭くなってしまいます。汗っかきの私は部活でテニスをしていた若かりし時代、靴のにおいに悩まされました。

 先日、イタリア製の高級靴を初めて購入しました。
 ダンヒルの店舗を眺めているときに、ふと、ある靴が目にとまりました。
 ダークブラウンのその靴は、一見して”手作り”とわかるただならぬ雰囲気を纏っており、魅せられてその場から動けなくなってしまいました。
 ダンヒル社がイタリアのSantoni(サントーニ)というシューズ・ブランドに別注をかけた一品。木製のラスト付きです。基本形はUチップで、シャドウ・ステッチによる装飾あり。ソールの縫い方は・・・あまり見たことない二重の縫い込み・・・聞くと「ブラッドラピド製法」という登山靴系の縫い方とのこと。どおりでエレガントと云うより無骨な印象があるわけです。
 並びの店舗にスコッチグレインという日本のシューズ・ブランドがあるのですが、この靴を見に来たそこの店員さんが「すばらしい」「最高だ」とため息をついたとダンヒルの店員さんが云ってました。

 欧米の靴文化を知るには本格的な手作りの革靴を経験しないとわからない、とよく男性ファッション雑誌に書いてあるので”清水の舞台から飛び降りる覚悟”で思い切って買いました。
 ふだん履いている靴の値段にゼロを一つつけたくらい高かった!
 まだもったいなくてふだん履きしてませんが、試し履きの段階でも足を包み込む感触は確かに別格です。
 いずれ経験談を載せたいと思います。

 余談ですが、しばらく前にこの「クール・ジャパン」という番組で「子どもは別室で寝かせる」ことが話題になりました。
 小児科学・育児学の教科書には「子どもの自立心を育てるため」と記述してあり、私もそれを信じていました。
 ところが、本音の出る座談会では・・・「子どもに夫婦の営みを見せないため」とハッキリ云ってました。
 また、親との同居を拒む欧米人の本音も「親に夫婦の営みを覗かれないため」と、これもハッキリ云ってました。

 な~んだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「小島一郎写真集成」

2010年12月05日 20時49分56秒 | 日本人論


39歳で夭折した津軽の写真家、小島一郎氏の写真集です。
発行はなんと「青森県立美術館」。

津軽の風景をモノクロ写真中心に収めています。
なんといっても暗雲垂れ込めるような空の表現が特徴的で、暗室での現像の際「覆い焼き」という技法を使っているそうです。
自然の厳しさを演出するその表現は、絵画的ですらあります。

もう一つの特徴は、写真の中の人物がほとんど背中を向けていること。
当然、喜怒哀楽の表情は読めません。
しかし、影となった人物は、特定の個人ではなく「その時代にその場所で生きた人々」という普遍性を帯びる効果を醸し出しています。

厳しい雪国で黙々と農作業を続ける人々。
生きることの辛さを物語る背中。

日本の歴史を底辺で支えてきたのは、間違いなくこのような名も無き人たちです。
祖先であり、私であり、あなたであり、未来の子ども達でもあります。

私自身、その昔学生時代を津軽で過ごし、自分のルーツを探すべくもがいていました。
小島氏はその答えを写真で示してくれたような気がします。

私にとっての「原風景」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「土門 拳」

2010年01月03日 07時54分09秒 | 日本人論
寝正月に、録画しておいたNHK-BS『巨匠たちの肖像:写真家・土門拳~仏を睨む目~』を視聴しました。
『日本人論』とはちょっと離れた人物かもしれませんが、その真意は「ありのままの日本を残したい」という精神だと感じましたので、ここに記すことにしました。

土門拳は有名な写真家です。
報道写真に始まり、仏像、ヒロシマ、筑豊炭鉱などインパクトのある写真集を残しています。
実は、正直云って私はあまり興味がありませんでした。土門氏というより「写真」一般に関してですが。

しかし、この番組を見て認識が変わりました。
一枚の写真に注がれる写真家の執念を見せつけられたのです。

土門氏は戦中は報道写真家として国威昂揚を主旨とした雑誌の表紙写真を撮り名を上げたそうです。
戦後、その「やらせ写真」に嫌気がさし、撮る気力が失せた時期がありました。
その時、ある人の薦めで室生寺の写真を撮る機会が訪れました。
彼の転機です。
仏の凛とした美しさに魅せられ、虜になり、そこから有名な「古寺巡礼」の旅が始まったのです。

彼は仏を撮影するときに被写体と「対峙」します。
なぜこの仏がこれほどまでにヒトの心をつかむのか、凝視し続けます。
その時間は半日及ぶこともあったそうです。
そして仏が睨み返す、その瞬間が訪れます。
すなわち、仏がもっとも魅力を放つ角度と距離が決まる瞬間です。

また、彼の写真は隅から隅までピントが合っています。
力をもって迫ってくる勢いの大きな要素ですね。
デジカメで写真を撮る私にも、ピントが全てに合うなんて不思議なことがわかります・・・どうしたらそんな風に撮れるんだろう?

秘密は「絞り」にありました。
写真は絞りによりピントが合う範囲が左右されます。
絞りを開く(ヒトの目でいえば瞳孔が開くこと)とたくさんの光が入り明るい写真になる一方で、ピントが合う範囲が狭くなり、逆に絞りを絞ると暗い写真になるけどピントが合う範囲が広くなるそうです。
土門氏はその絞りを極限の64に絞って撮影に臨みました。
すると隅々までピントが合うが、暗い写真・・・そこでフラッシュの出番です。
そのフラッシュにもこだわりがありました。
「閃光電球」という今は製造されていない、特殊なフラッシュを用いました。
まんべんなく周囲を明るくするのではなく、一方向だけ・ある部分だけ光を照らすタイプだそうです。
フラッシュの距離と位置を塾考して調節することにより、仏の本来の表情・魅力を照らし出す・・・まるで彫刻のようです。

昨今、仏像は「癒し」の対象として語られることが増えましたが、土門氏の写真は「鑑賞者」というより「制作者」に近い視点だと感じました。
クラシック音楽の演奏者にも二つのタイプがいます。
楽曲の素晴らしさを啓蒙するタイプと、音楽を造った作曲者に肉薄するタイプ。
後者の代表の一人はグレン・グールドですね。
演奏会を行わず、スタジオに籠もって鼻歌を歌いながらバッハを演奏する彼のピアノは造る喜びに満ちています。

土門氏は「写真集」にこだわったと伝えられています。
戦意昂揚の「やらせ写真」は時代が変われば消えてしまいます。
それに嫌気がさした反動で、今ここにある日本の真の姿を残る形で収めたかったのでしょう。即ち、原爆に被災したヒロシマの姿であり、消えゆく筑豊炭鉱の姿でありました。
昭和という時代の「日本」が、彼の写真の中にしっかりと残されています。

※ その後、土門氏の写真集を2点、購入しました。

■「土門拳の昭和」全5巻
1.風貌
2.子どもたち
3.日本の風景
4.ドキュメント日本
5.日本の仏像
 すべて力を持って迫ってくる写真集ですが、一番印象に残ったのは第二巻の「子どもたち」です。昭和20~30年代の貧しい時代にもかかわらず、子どもたちの表情は生き生きしています。じゃれ合い、ケンカしながらたくましく育っていく子どもたちの目には夢のある未来が見えているのでしょう。
 翻って、現在の日本はどうでしょうか。
 デパートのゲームコーナーに行くと騒音の中、無表情でヒトを殺し合う戦闘ゲームに熱中する子どもたちを見かけます。そのまなざしはうつろで、背筋がゾッとしたことがあります。
 土門氏も「昭和30年代以降は子どものいる場所と時間が奪われ、天真爛漫な子どもたちがいなくなってしまった」と嘆いています。

■「古寺巡礼」(国際版)全5巻
ネット・オークションで安価で購入しましたが、発売当時は36万円だったとか。
本が届いてビックリしました。
大きい!重い!
1冊3kgくらいあります。写真集というより、家具ですね。
ゆっくりじっくり、眺めたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする