「日本語の歴史」(山口仲美著)
2006年、岩波新書
学生時代、古文や漢文は苦手でした(^^;)。
ただ、その頃から漠然とした疑問を持っていました。
「自分が読んでわかる日本語っていつの時代までさかのぼれるんだろう?」
それから早30年以上経過してしまいました。
最近新書版のこの本を見つけ、五十の手習い(?)として読んでみました。
日本語の歴史を俯瞰するにはちょうどよい分量と思われます。
文字を持たない日本人が「漢字」を導入したために発生したメリットとデメリットの解説にはじまり、それが時代にもまれ紆余曲折を経て現代の「漢字かな交じり文」にたどり着いた長〜い旅路。
もちろん、大学で「日本語学」を研究するには、より膨大な資料を読む必要があるのでしょうが、一般人にはこれで十分です。
高校の古文で習う文法は、平安時代の文章のルールだそうです。「係り結び」の変遷を、その時代が要求する文章(貴族は柔らかい文章を好み、武士は力強い文章を好む)を背景に説明しており、なるほどなあと納得させられました。
意外に感じたのが「話し言葉と書き言葉の一致・不一致」という問題提起。
日本語の歴史は「話し言葉と書き言葉のせめぎ合い」だった・・・。
ふだんは意識しないこの視点が新鮮に感じられました。
文字を持たなかった日本人が導入したのは中国由来の漢字であった。
便利な反面、ジレンマも抱えることになった。
その後、簡略化を目的に、漢字の一部を取り省略しようとしたカタカナ、漢字そのものを簡略化したひらがなが誕生した。
紆余曲折を経て、現在の「漢字仮名交じり文」が完成した。
そして最初の疑問に対する答えは・・・江戸時代以降かなあとなんとなく思っていた私ですが、なんと平安時代末期の漢字カタカナ交じり文で書かれた『今昔物語集』のようです。
<備忘録>
□ 日本語には擬音語・擬態語が豊かに存在するが、英語にはあまりない。
□ 日本語の歴史は「話し言葉と書き言葉のせめぎ合い」
【奈良時代】他国の文字である漢字と巡り会い、日本語を必死になって漢字で書き表そうとした。万葉仮名を発明して日本語の表記の土台を築いた。
【平安時代】漢字を手なずけ、とにもかくにも日本語を話すように書き表すことができるようになり、言語芸術の花が開いた。
【鎌倉・室町時代】ふたたび書き言葉は話し言葉から離れはじめ、平安時代の話し言葉の文法は姿を変えていく。
【江戸時代】現代語に連なる話し言葉が形成された。
【明治時代】話し言葉と書き言葉は、絶望的に離れてしまった。人々は、書く言葉を話す言葉に近づけようと戦い、とにもかくにも両者の一致を完成させる。
※ 漢字は紀元前1500年頃に中国で発生した。
□ 日本語のルーツ
北方からという説と南方からという説が大きく対立している。落ち着くところは、南方系のオーストロネシア語の系統を下地に、北方系のある対語の系統が流れ込んで融合し、日本語の基盤が形作られていった。
□ 万葉集の時代、女性は本名を知られてはならなかった
女性の名前はおろそかに男性に知られてはならない。自分の名前を知られた途端に、相手の支配下に置かれることになる。だから昔の女性達は、身を許してもよいと思える男性にしか、自分の実名を打ち明けなかった。
万葉集では、女性が自分の名を言えば、求婚を承諾したことになる下りがある。
□ ハングルとは?
李朝第四代国王世宗(せじょん)の時代に学者により考案され、1446年に「訓民正音」(くんみんせいおん)として公布された朝鮮固有の文字。アルファベットのような表音文字でありながら、漢字の原理を取り入れ、母音字と子音字を組み合わせて音節単位に各文字。
□ 『古事記』の序文に見る「借り物の漢字ではうまく日本語を書き表せないもどかしさ」
日本語と中国語は語順が違う。
日本語には多くの助詞・助動詞があり、それが実質的な意味を持つ単語に膠(にかわ)で接着したようにくっついて文法的な役割を示している(膠着語)。中国語には日本語の助詞・助動詞に該当するものがとても少ない。文法的な役割は実質的な意味を持つ単語の順序で表す(孤立語)。
このように系統の異なる文字を借りてしまったために、日本人は日本語を書き表すのに相当な苦労を払わなければならなかった。
『古事記』の序文より;
この『古事記』は、表意文字としての感じに、音だけを借りた漢字を混ぜて書くことにする。また、事柄によっては表意文字としての漢字を連ねて書く。
□ 混乱の根源は「漢字一字に対して複数の読みを与えてしまったこと」につきる(奈良時代)。
(例)「山」という漢字を「サン」という中国音とともに受け入れる。次に「山」を意味するやまとことばを当てはめて「やま」とも読む。
韓国も中国から漢字を取り入れたが、漢字とその発音を受け入れただけ。
日本語の表記が、世界でも稀なほど複雑なのは、一つの漢字に複数の読み方をするような受け入れ方をしたところから生じてしまった。だから、日本最古の歴史書『古事記』は、漢字を辿ると意味はわかるけれど、声に出して読もうとすると読めない。現在でも、日本人が時々経験する「漢字が読めない」という不思議な現象は、漢字という文字を受け入れたときに遡る。
□ 万葉仮名(奈良時代)
漢字の表意性をそぎ落として音としてだけ使う方法。
おそろしく効率の悪い表記法だが、次の平安時代には日本固有の文字「ひらがな」「カタカナ」を生み出す源流となった。
□ 奈良時代には現代の私たちが発音しないような清音や濁音がたくさんあった。
現在は清音44音、濁音18音。
平安時代は清音61音、濁音27音もあった(万葉仮名で使い分けられていることから推測)。
奈良時代には母音が8つあった(八母音説・・・ほかにも六母音説、五母音説もある)。
現代で使う拗音(きゃ、きゅ、きょ、ぎゃ、ぎゅ、ぎょ、等)は奈良・平安時代にはなかった。
※ 五十音図は平安時代につくられた(奈良時代にはまだ存在しなかった)。仏典を学んでいる平安時代のお坊さんが音韻の知識を整理するためにつくった。
□ 平安時代の日本語は漢文中心だった(奈良〜平安時代)
日本語の文章を書き始めたのは大化の改新(645年)以後のこと。
日本語の文章として古くて有名な法隆寺金堂薬師仏の「光背銘」は「漢式和文」(漢文様式で書いた日本語の文章)で書かれている。
漢式和文で「日記」を書いていた平安貴族は、中国人も読める「漢文」も書いていた。エリートしかかけない「漢文」が、当時の最もステイタスの高い文章であり、上手い漢詩や漢文が作れることが男性貴族の重要な能力の一つだった。
公式の文章・当時の歴史書『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『文徳実録』『三代実録』などの国史はすべて漢文で書かれていた。『和名抄』(わみょうしょう)『医心方』などの学術書もすべて漢文で書かれており、漢文による権威付けがなされていた。
※ 「天皇」という言葉は、東野治之氏によると、持統朝(687年)以降に使われ出した。それ以前は「大王」(おおきみ)と呼ばれていた。
□ 漢文の“訓読”という裏技/翻訳方法を発明(奈良〜平安時代)
日本人は漢文を理解するのに訓読をした。高校の漢文の授業は漢文の訓読練習である(私たちが高校で学んだ「古典文法」は平安時代の言葉の決まり)。「返り点」に従って漢文の字面を下に行ったり上に戻ったりしながら、中国語の語順を日本語の語順に変えて読む作業であり、行間には日本語にのみ存在する助詞や助動詞や活用語尾が小さく書いてある。
これは漢字に日本語の読みを当てはめて受け入れたために可能になった、巧妙な翻訳方法である。
英語を翻訳するときに、こんなことはしない。英語文は英語文で存在し、その翻訳である日本語文はきちんと別に日本語文で存在する。
なのに漢文の訓読では、原文の漢文に符号を書き込み、助詞・助動詞などを書き込んで翻訳完了。新たに日本語の文章を書き起こしたりしない。
奈良時代以前から、日本人はそうしたやり方で漢文を理解してきたが、訓読を漢文の行間に書き込むようになったのは平安時代になってからである。
□ カタカナの発生(平安時代)
漢文読解法をより簡略化する工夫の一つが「カタカナ」である。
万葉仮名の字形の一部分を書いて済ませることを考え出した。「伊」という万葉仮名なら最初の人編の「イ」だけで済ませてもわかるのではないか、「礼」という万葉仮名なら最後の部分の「レ」だけで済ませてもいいのではないか。
こうして万葉仮名の一部分をとって「カタカナ」が発生した。部分を取った不完全な文字だから「カタカナ」と名づけた。「カタカナ」の「カタ」は不完全な、十分でないという意味の言葉である。
もともと1音を表すのに複数の万葉仮名があったので、カタカナも1音に対してたくさんの文字ができてしまったが、次第にある音に対してはこの文字というように固定化してゆきやがて1音に対して一つのカタカナが対応するようになっていった。
傾向として、カタカナは万葉仮名の最初の画をとるか末画をとるかのどちらかである。
(例)「ッ」は「川」から、「シ」は「之」から。「ソ」は「曽」から、「ン」は符号「V」から。
□ 漢字カタカナ交じり文の誕生(平安時代)
漢文訓読の場から漢字カタカナ交じり文は生まれた。
平安中期にも書かれているが、平安時代末期には一つの文章様式となって『今昔物語集』のような説話集を生み出す。返り点がなく、カタカナの地位が高くなってきているので、我々現代人も「読める」文章である。
鎌倉・室町時代になるとカタカナの部分がほとんど漢字と同じ大きさになり、さらにカタカナの部分がひらがなにあらためられ、現在の漢字かな交じり文に流れ込むことになる。
□ 「宣命体」(奈良時代)
奈良時代に栄えた文章様式で、実質的な意味の語を大字で、助詞・助動詞や活用語尾を小さく右寄せに書く。
天皇の命令をのべ知らせるための文章がこの様式で書かれているので「宣命体」と呼ばれる。祭りの儀式に唱えて祝福する「祝詞」、神前仏前で読む文章もこの様式で書かれている。
人前で読みあっゲル必要のある文章なので、日本語の語順で書くことを原則としているので、漢字カタカナ交じり文の源流とは見なせない。
宣命体は平安時代には限られた場合にしか使われなくなった。
□ ひらがなの誕生(平安時代)
万葉仮名の字形を少し崩して草体化すると、労力が少し省ける。これを草仮名と呼び、草仮名をさらに崩して別の文字と認識できるようにしたのがひらがなである。
ひらがなもカタカナと同じく、古くは1音に対して複数の文字が存在したが、次第に整理されていき、現在のように1音に対して一つのひらがなに決まったのは、カタカナと同じく明治33年(1900年)の小学校令による。
ひらがなは10世紀前半には文字としての体系を整え、和歌を中心とする文学の花を咲かせた。
ひらがなとカタカナは文字体系を支える思想が異なっている;
カタカナは、文字というものは一点一画を重ねてできるものだと捉えているから万葉仮名の部分を取る。
ひらがなは、文字というものを連続体と捉えているから、全体を書き崩すけれど部分をとったりはしない。
同じ文字に対して、異なる側面から捉えたために、カタカナとひらがなという二種類の文字の系統が出来上がった。
(例)
・「加」という万葉仮名の最初の二画をとったのがカタカナの「カ」、「加」という万葉仮名全体を崩したのがひらがなの「か」
・万葉仮名の「己」の二画をとったのがカタカナの「コ」、全体を崩したのがひらがなの「こ」。
・「奴」の最後の二画をとったのがカタカナの「ヌ」、全体を崩したのが「ぬ」
※ 「へ」のひらがなだけは「部」の全体を崩さずに「阝」の部分のみをとって崩したので、カタカナとほとんど同じ字形になってしまいました。
□ ひらがな文と文学(平安時代)
ひらがな文は決してひらがなだけで書かれている文章ではない。
ひらがなをもった平安時代の人は、まず、それまで口で語り伝えられてきた歌にまつわる物語を文字化するという試みを行なった。その結晶が『伊勢物語』である。話し言葉を中心にする柔らかい口調は、漢文や漢式和文や漢字カタカナ交じり文では表現することが困難である。その他に『竹取物語』『宇津保物語』『落窪物語』などが書かれ、またひらがな文の日記として『蜻蛉日記』が書かれ、清少納言は『枕草子』を書いて随筆文学の道を開いた。
韻文である和歌も、平安時代にはひらがな文で記され、繊細な文学的感性と表げんっぎじゅつを磨き上げた。和歌で使う言葉は、日常の話し言葉よりも伝統的で雅やかな香りを漂わせている。また、散文と違って、掛詞・縁語・本歌取りなどの独特の技法がある。そうした和歌で使う言葉と技法を散文のひらがな文に取り入れて物語を書いたらどうなるのか・・・『源氏物語』の誕生である。
『源氏物語』は散文のルールの中に、和歌で用いる言葉と技法を取り込んで、長編の男と女の物語を作り上げた。物語の中で、登場する男と女の感情が高まってゆくと、彼らに和歌を歌い上げさせる。『源氏物語』の文章が、話し言葉だけで書かれたひらがな文よりも格段に優美な趣を供えているのは、和歌の言葉と手法を取り込んで語られているからである。
□ ひらがな文 vs 漢字カタカナ交じり文(平安時代)
1.読みにくい。
2.漢語を取り込みにくい。
3.論理的に物事を述べていくのには不向き
これらに対して、漢字カタカナ交じり文は、
1.読みやすい。
2.抽象的な表現がしやすい。
3.論理的な漢文の発想を持っている。
等の特徴を有するため、最も効率的な文章として漢字カタカナ交じり文がひらがな文を抑えて日本語の文章の代表になっていった。
□ 「係り結び」(平安〜鎌倉/室町時代)
「係助詞-連体形/已然形」で結ぶことによる強調表現/疑問表現/反語表現。
平安時代に出来上がった文章の決まりであるが、鎌倉・室町時代には慣用句化するとともに姿を消していく。とくに「なむ-連体形」はやわらかい口調に限って出現する強調表現なので、強さやたくましさを求める武士の時代には不向きであり、衰えていく。
<強調表現>
【なむ-連体形】
念を押しつつ語る強調表現。事実だけを直截的に述べる文に対して、「なむ」が入ると、聞き手を意識し、聞き手の目を見つめ、念を押し、同意を求めて穏やかに語る口調を持った文になる。
【ぞ-連体形】
指し示しによる強調表現。
「ぞ」の下で説明される動作や状態が起きるのは、「ぞ」の上に示された点においてなのだという、指し示しによる強調表現。
鎌倉時代になると、ただ強い口調を生み出すための慣用表現的なものを変わっていく。
【こそ-已然形】
取り立てることによる強調表現。「こそ」は、その上に述べられた事柄を強く取り立てて強調する。
鎌倉時代になると「こそ候え」という一種の慣用句的な言い回しになってしまう傾向があり、平安時代の生々しい雰囲気が薄れていく。
しかし、「已然形」で結ぶパターンが幸いし、ほかの係り結びより長生きした。鎌倉・室町時代には連体形が終止形と同じような機能を持ち始めたため、終止形が連体形に吸収合併されていく形で係り結びも消えていった。
現代語では終止形と連体形が同じ形をしている。
(例)「する」・・・現代人は文を終わりにするときの形として「する」を使う。「勉強する」のように。これが終止形。名詞に続けるときも「勉強するとき」という形をとる。これは連体形。あれ?同じだ。
平安時代までは「する」という形は連体形で、終止形は「す」だった。
つまり、もとは連体形であった形が終止形にもなってしまった。すると、係り助詞-連体形で結ぶという緊張感のある呼応関係は意味をなさなくなってしまい、係り結びの存在意義が希薄となり、室町時代末期には姿を消した。
<疑問表現・反語表現>
奈良時代は「か-連体形」の方が「や-連体形」よりも優勢であったが、平安時代になると逆転する。
【か-連体形】
(疑問表現)文の1点を疑問の対象にする。
(反語表現)つねに「いかで」「など」等の疑問詞と一緒に用いられる「か-連体形」の方が「や-連体形」よりも誤記が強い。
【や-連体形】
(疑問表現)文全体の内容を疑問の対象にする。
係り結びそのものは現在まったく残っていないが、その痕跡なら指摘できる。「こそ」は結びの已然形こそないが現在でも文中に使われ、取り立てて強調する意味を持つ。他の係り結びの痕跡は、すべて日常会話からは失われている。
□ 助詞が係助詞を駆逐した(鎌倉・室町時代)
係助詞は、主語であるとか、目的語であるとかという、文の構造上の訳ありを明確にしない文中でこそ活躍できるもの。ところが、主語であることを明示する「が」が入ってくると、係り助詞は入り込みにくくなる。
鎌倉時代に入ると主語を示す「が」が発達し、文の構造を助詞で明示するようになっていった。
係り結びが消失したということは、日本語がゆるく開いていた構造から、しっかりと格助詞で論理関係を明示していく構造に変わったことを意味する。情緒的な文から、論理的な文へ変化していったのである。その背景には、日本人が情緒的な思考から脱皮し、論理的思考をとるようになったことが窺われる。
□ 近代語は江戸時代に始まる
宝暦年間(1751-1764)には江戸語が共通語的な位置を占め、近代語の基盤を造った。
江戸時代になると話し言葉をできるだけ忠実に写した文学作品が出てくる。
「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」はもともとは違う音だったが、室町時代の終わり頃、つまり16世紀の終わり頃に近くなってきた。
江戸時代の元禄頃になると、「じ(ʒi)」と「ぢ(di)」「ず(zu)」と「づ(du)」が統合されて、現在と同じ発音「dʒi」と「dzu」の2音になった。
現在ではこの2音に「じ」と「ず」の文字を与えつつ「ぢ」と「づ」の文字も残した。そして「現代仮名遣い」でこんなルールを作った。まず、ふつうには「じ」や「ず」の文字を当てる。ただし、つぎの①と②の場合には、例外的に「ぢ」や「づ」を使う。
①「ち」や「つ」に続く場合には「ぢ」と「づ」を使う。
(例)「ちぢむ」「つづく」
②複合語になる前に「ち」や「つ」で始まっている語に関しては「ぢ」「づ」を使う。
(例)「はなぢ」「みかづき」
□ 清音の統合:61→ 44音
奈良時代:61
平安時代:47 ・・・「いろは歌」のできた10世紀中頃
平安時代末期:46 ・・・「を」と「お」の音を統合
鎌倉時代末期:44 ・・・「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」を統合
それ以降、700年間の間、変化していない。
□ 濁音の統合:27→ 18音
奈良時代:27→ 20音
江戸時代:18音
□ 上方語 vs 江戸語
伝統を培ってきた上方の人から見ると、関東弁の「べい」(行くべい、帰るべい等)は田舎者丸出しで聞くに堪えず、「関東べい」と上方女は江戸の人間を馬鹿にしていた。原因や理由を表す「から」(さうだから、かうだから)も気に入らない(上方では「さかい」)。
□ 連声(れんじょう)
撥音[n][m]や促音[t]の次に来るア行・ヤ行・ワ行音が、ナ行音やマ行音やタ行音に変化する現象。発音のしやすさを求めて起こる、江戸語にみられる一種の訛りである。平安時代から室町時代までしばしば診られ、江戸時代以降は特定の語の読みグセとして残り現代語に至る。
(例)因縁→ 「いんえん」ではなく「いんねん」、輪廻→ 「りんえ」ではなく「りんね」、陰陽師を「おんようじ」ではなく「おんみょうじ」
□ 人称代名詞の変遷
(アナタ)江戸時代後期に出現。現在は対等かやや目下の相手に用いるが、当時は敬意が高かった。町人が武士に話しかけるときも「あなた」だった。
(オマエ)江戸時代前期に出現。まだ「あなた」の語が現れていないので「おまえ」が最も敬意のある呼び方だった。けれども江戸後期になると、敬意の度合いが笠利、対等もしくは下の者に対して用いるようになる。
敬意の度合いが下がってくると「さま」や「さん」をつけて敬意の度合いを上げる(例:おまえさん)。ちょうど現在、敬意の下がった「あなた」に「さま」をつけて「あなたさま」として客を呼ぶときの言葉にするのと同じ。
(オメー)「おまえ」ほどではないが敬意のこもった言葉だった。決して目下に用いる言葉ではなかった。
(キサマ)もともと「貴様」と書いて、手紙などで使った敬意ある書き言葉だった。江戸時代後期になると、同等あるいはそれ以下の者に対して使われるようになる。さらに「キサマ」の語の下落は止まらず、明治時代中頃には相手を罵倒する時に使うののしり言葉になってしまった。敬語は使っているうちに次第に敬意の度合いが低くなる傾向があるが、「キサマ」の価値の下落は目立つ。
(ワタクシ)鎌倉・室町時代に出現し、江戸時代に地位が確定した、最も敬うべき人の前で使う一人称代名詞は現在と同じく「わたくし」。
(ワタシ、ワシ)江戸時代に出現。「ワタクシ」→ 「ワタシ」→ 「ワシ」が生まれた。「ワシ」は江戸時代前期では若い女性が使うこともあった(相手への敬いの気持ちがこもっていた)が、江戸後期になると主に男性が用いるようになり現在に至る。
(オレ)鎌倉・室町時代に出現し、江戸時代に頻用されるようになる。江戸時代前期では現在と違ってとても使用範囲が広く、女性も使っていた。江戸時代後期になると女性が「オレ」を使うことはなくなり、男性専用語になるとともに敬意もなくなり現在に至る。
(ボク)江戸時代末期に出現。漢文にある「僕」の語を「ボク」と音読みしたことが始まりで、漢文訓読出身の言葉であり「学者言葉」として知られていた。現在のように話し言葉として日常会話で「ボク」が活躍するのは明治時代以後である。
□ 武士特有の人称代名詞
・相手を指すとき:なんぢ、貴殿(きでん)、貴公、そのもと、その方、そち
・自分を指すとき:それがし、みども、身、われ、拙者
明治時代になるとみっぶんせいどの廃止に伴い一挙に失われる。
□ 東京語には二つある
・武士や知識人が使っていた山の手言葉の系統
・「ベランメー」口調と言われるような下町言葉の系統
山の手言葉が標準語(後に共通語)に採用された。
□ 前島密による言文一致運動(明治時代)
幕末に存在していた文章は漢文と漢字かな交じり文だった。
明治政府は公用文を漢字カナ交じり文で書くことにした(例:五箇条のご誓文)。それまでの最も権威ある文体であった漢文や漢式和文からの切り替えは大きな出来事である。
明治時代になり言文一致の試みが行われたが挫折することが多かった。その理由として、
1.人々の意識が江戸時代の身分制度からなかなか抜け出せずにいた。
2.言文一体の文章がなかなかうまくいかない。話すように書くと言うことは、日本語の場合、読み手との関わり合い方が問題になり、西洋語の場合よりもややこしい。
□ 明治時代の文学界における言文一致運動
・二葉亭四迷の『浮雲』(明治20年)・・・坪内逍遙のアドバイスにより三遊亭円朝の落語を取り入れ「だ」調を採用。
・二葉亭四迷はツルゲーネフの『あひびき』(明治21年)を漢文直訳調ではなく言文一致体で翻訳した。
・山田美妙の『武蔵野』(明治20年)・・・足利時代に舞台をとった歴史小説。地の文は「だ」調による言文一致体。微妙はこのあと、「です」調の言文一致体に変更している。微妙が友達に漏らした言葉:地の文で「であった」「ある」などと動詞の言い切りにすると、文章として読んだときに、ひどく「ぶっきらぼう」で「いかにもぞんざいに聞こえるのが困る」、かといって「ました」「でした」「でございました」というと、「ぞんざいには聞こえないが、だらしがなく長くなる」。
□ 明治時代の文学界における言文一致体の抵抗勢力
・幸田露伴の『風流仏』(明治22年)・・・才覚流の雅俗折衷体を用いた。
・森鴎外の『舞姫』(明治23年)・・・典雅な雅文体を用いて文語文を復活させた。「べし」「たる」などの文語的な言い回しを基調にしつつ、「をとめ」「まみ」「おもて」「うれひ」「やどせる」などの優美な和語を駆使した華麗な文体で書かれている。
鴎外の登場により、二葉亭四迷は筆を折り、微妙は飽きられ、言文一致体は再び暗礁に乗り上げた。
□ 尾崎紅葉の「である」体〜言文一致体の復権
『二人女房』(明治24年)で「である」調を使用しはじめ、『多情多恨』で完成させた。
紅葉の「である」調は、広津柳浪に継承され、さらに山田美妙、小杉天外、田山花袋、島崎藤村、泉鏡花などに影響を与えた。
言文一致体の一番の悩みは、地の文の記述に客観性が確保できない点だった。日本語のように、常に相手を意識して話す話し言葉を書き言葉に採用する時のネックだった。それが「である」体の出現により打破できた。
このあと、言文一致体は正岡子規や高浜虚子、自然主義作家達により熱烈に支持されていく。紅葉の試みは言文一致体にとっての決定打だった。
□ 大正10年(1921年)、新聞もとうとう言文一致体になったが、公用文は・・・
大正10年には「東京日日新聞」「読売新聞」、翌11年(1922年)には「朝日新聞」がようやく言文一致に踏み切った。
しかし公用文が言文一致体を採用したのは、なんと昭和20年(1945年)。
□ 個性の出せる言文一致体
現在、私たちは言文一致運動の成果を満喫している。
主観的に断言したいときは「だ」を使い、語りかけたい時は「です」「ます」を使い、客観的に述べたいときは「である」を使う。
ヨーロッパではルネッサンス以後に言文一致運動が起き、話し言葉と書き言葉を一致させる努力をしてきた。日本は明治になって出会った西洋文明が気づかせてくれたので、4-500年遅れで体験したことになる。
□ 多すぎる語彙
日本語には三系統の言い方がある;
1.和語:日本民族が元々使っていた
2.漢語:中国から輸入し江戸時代まで影響を受け続けた
3.外来語:西洋から室町時代末期から入り始めた
(4.和製漢語:明治時代に西洋文明を取り入れるために日本人が翻訳語として作り出した)
(例)「宿屋/旅館/ホテル」「口づけ/接吻/キス」
□ まとめ
・日本語の歴史は、平安時代にさまざまの文章を試み、その中で最も優れている漢字かな交じり文を明治時代に採用し、現在に至る。
・漢字を借り入れたことにより、日本語は豊かになると同時に煩雑さも背負い込んだ。漢字一字に多くの読みを与えすぎたため、かなりの知識人でも漢字が読めないという事態が起こっている。訓読みも意味の近い日本語を当てたため何種類もの訓読みができてしまった。
・鎌倉・室町時代から、主語がどれであるか、目的語がどれであるかをきちんと明示するげんっごに変化してきている。接続詞も使って、文と文とをしっかりと論理的につないで文章を書いている。
2006年、岩波新書
学生時代、古文や漢文は苦手でした(^^;)。
ただ、その頃から漠然とした疑問を持っていました。
「自分が読んでわかる日本語っていつの時代までさかのぼれるんだろう?」
それから早30年以上経過してしまいました。
最近新書版のこの本を見つけ、五十の手習い(?)として読んでみました。
日本語の歴史を俯瞰するにはちょうどよい分量と思われます。
文字を持たない日本人が「漢字」を導入したために発生したメリットとデメリットの解説にはじまり、それが時代にもまれ紆余曲折を経て現代の「漢字かな交じり文」にたどり着いた長〜い旅路。
もちろん、大学で「日本語学」を研究するには、より膨大な資料を読む必要があるのでしょうが、一般人にはこれで十分です。
高校の古文で習う文法は、平安時代の文章のルールだそうです。「係り結び」の変遷を、その時代が要求する文章(貴族は柔らかい文章を好み、武士は力強い文章を好む)を背景に説明しており、なるほどなあと納得させられました。
意外に感じたのが「話し言葉と書き言葉の一致・不一致」という問題提起。
日本語の歴史は「話し言葉と書き言葉のせめぎ合い」だった・・・。
ふだんは意識しないこの視点が新鮮に感じられました。
文字を持たなかった日本人が導入したのは中国由来の漢字であった。
便利な反面、ジレンマも抱えることになった。
その後、簡略化を目的に、漢字の一部を取り省略しようとしたカタカナ、漢字そのものを簡略化したひらがなが誕生した。
紆余曲折を経て、現在の「漢字仮名交じり文」が完成した。
そして最初の疑問に対する答えは・・・江戸時代以降かなあとなんとなく思っていた私ですが、なんと平安時代末期の漢字カタカナ交じり文で書かれた『今昔物語集』のようです。
<備忘録>
□ 日本語には擬音語・擬態語が豊かに存在するが、英語にはあまりない。
□ 日本語の歴史は「話し言葉と書き言葉のせめぎ合い」
【奈良時代】他国の文字である漢字と巡り会い、日本語を必死になって漢字で書き表そうとした。万葉仮名を発明して日本語の表記の土台を築いた。
【平安時代】漢字を手なずけ、とにもかくにも日本語を話すように書き表すことができるようになり、言語芸術の花が開いた。
【鎌倉・室町時代】ふたたび書き言葉は話し言葉から離れはじめ、平安時代の話し言葉の文法は姿を変えていく。
【江戸時代】現代語に連なる話し言葉が形成された。
【明治時代】話し言葉と書き言葉は、絶望的に離れてしまった。人々は、書く言葉を話す言葉に近づけようと戦い、とにもかくにも両者の一致を完成させる。
※ 漢字は紀元前1500年頃に中国で発生した。
□ 日本語のルーツ
北方からという説と南方からという説が大きく対立している。落ち着くところは、南方系のオーストロネシア語の系統を下地に、北方系のある対語の系統が流れ込んで融合し、日本語の基盤が形作られていった。
□ 万葉集の時代、女性は本名を知られてはならなかった
女性の名前はおろそかに男性に知られてはならない。自分の名前を知られた途端に、相手の支配下に置かれることになる。だから昔の女性達は、身を許してもよいと思える男性にしか、自分の実名を打ち明けなかった。
万葉集では、女性が自分の名を言えば、求婚を承諾したことになる下りがある。
□ ハングルとは?
李朝第四代国王世宗(せじょん)の時代に学者により考案され、1446年に「訓民正音」(くんみんせいおん)として公布された朝鮮固有の文字。アルファベットのような表音文字でありながら、漢字の原理を取り入れ、母音字と子音字を組み合わせて音節単位に各文字。
□ 『古事記』の序文に見る「借り物の漢字ではうまく日本語を書き表せないもどかしさ」
日本語と中国語は語順が違う。
日本語には多くの助詞・助動詞があり、それが実質的な意味を持つ単語に膠(にかわ)で接着したようにくっついて文法的な役割を示している(膠着語)。中国語には日本語の助詞・助動詞に該当するものがとても少ない。文法的な役割は実質的な意味を持つ単語の順序で表す(孤立語)。
このように系統の異なる文字を借りてしまったために、日本人は日本語を書き表すのに相当な苦労を払わなければならなかった。
『古事記』の序文より;
この『古事記』は、表意文字としての感じに、音だけを借りた漢字を混ぜて書くことにする。また、事柄によっては表意文字としての漢字を連ねて書く。
□ 混乱の根源は「漢字一字に対して複数の読みを与えてしまったこと」につきる(奈良時代)。
(例)「山」という漢字を「サン」という中国音とともに受け入れる。次に「山」を意味するやまとことばを当てはめて「やま」とも読む。
韓国も中国から漢字を取り入れたが、漢字とその発音を受け入れただけ。
日本語の表記が、世界でも稀なほど複雑なのは、一つの漢字に複数の読み方をするような受け入れ方をしたところから生じてしまった。だから、日本最古の歴史書『古事記』は、漢字を辿ると意味はわかるけれど、声に出して読もうとすると読めない。現在でも、日本人が時々経験する「漢字が読めない」という不思議な現象は、漢字という文字を受け入れたときに遡る。
□ 万葉仮名(奈良時代)
漢字の表意性をそぎ落として音としてだけ使う方法。
おそろしく効率の悪い表記法だが、次の平安時代には日本固有の文字「ひらがな」「カタカナ」を生み出す源流となった。
□ 奈良時代には現代の私たちが発音しないような清音や濁音がたくさんあった。
現在は清音44音、濁音18音。
平安時代は清音61音、濁音27音もあった(万葉仮名で使い分けられていることから推測)。
奈良時代には母音が8つあった(八母音説・・・ほかにも六母音説、五母音説もある)。
現代で使う拗音(きゃ、きゅ、きょ、ぎゃ、ぎゅ、ぎょ、等)は奈良・平安時代にはなかった。
※ 五十音図は平安時代につくられた(奈良時代にはまだ存在しなかった)。仏典を学んでいる平安時代のお坊さんが音韻の知識を整理するためにつくった。
□ 平安時代の日本語は漢文中心だった(奈良〜平安時代)
日本語の文章を書き始めたのは大化の改新(645年)以後のこと。
日本語の文章として古くて有名な法隆寺金堂薬師仏の「光背銘」は「漢式和文」(漢文様式で書いた日本語の文章)で書かれている。
漢式和文で「日記」を書いていた平安貴族は、中国人も読める「漢文」も書いていた。エリートしかかけない「漢文」が、当時の最もステイタスの高い文章であり、上手い漢詩や漢文が作れることが男性貴族の重要な能力の一つだった。
公式の文章・当時の歴史書『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『文徳実録』『三代実録』などの国史はすべて漢文で書かれていた。『和名抄』(わみょうしょう)『医心方』などの学術書もすべて漢文で書かれており、漢文による権威付けがなされていた。
※ 「天皇」という言葉は、東野治之氏によると、持統朝(687年)以降に使われ出した。それ以前は「大王」(おおきみ)と呼ばれていた。
□ 漢文の“訓読”という裏技/翻訳方法を発明(奈良〜平安時代)
日本人は漢文を理解するのに訓読をした。高校の漢文の授業は漢文の訓読練習である(私たちが高校で学んだ「古典文法」は平安時代の言葉の決まり)。「返り点」に従って漢文の字面を下に行ったり上に戻ったりしながら、中国語の語順を日本語の語順に変えて読む作業であり、行間には日本語にのみ存在する助詞や助動詞や活用語尾が小さく書いてある。
これは漢字に日本語の読みを当てはめて受け入れたために可能になった、巧妙な翻訳方法である。
英語を翻訳するときに、こんなことはしない。英語文は英語文で存在し、その翻訳である日本語文はきちんと別に日本語文で存在する。
なのに漢文の訓読では、原文の漢文に符号を書き込み、助詞・助動詞などを書き込んで翻訳完了。新たに日本語の文章を書き起こしたりしない。
奈良時代以前から、日本人はそうしたやり方で漢文を理解してきたが、訓読を漢文の行間に書き込むようになったのは平安時代になってからである。
□ カタカナの発生(平安時代)
漢文読解法をより簡略化する工夫の一つが「カタカナ」である。
万葉仮名の字形の一部分を書いて済ませることを考え出した。「伊」という万葉仮名なら最初の人編の「イ」だけで済ませてもわかるのではないか、「礼」という万葉仮名なら最後の部分の「レ」だけで済ませてもいいのではないか。
こうして万葉仮名の一部分をとって「カタカナ」が発生した。部分を取った不完全な文字だから「カタカナ」と名づけた。「カタカナ」の「カタ」は不完全な、十分でないという意味の言葉である。
もともと1音を表すのに複数の万葉仮名があったので、カタカナも1音に対してたくさんの文字ができてしまったが、次第にある音に対してはこの文字というように固定化してゆきやがて1音に対して一つのカタカナが対応するようになっていった。
傾向として、カタカナは万葉仮名の最初の画をとるか末画をとるかのどちらかである。
(例)「ッ」は「川」から、「シ」は「之」から。「ソ」は「曽」から、「ン」は符号「V」から。
□ 漢字カタカナ交じり文の誕生(平安時代)
漢文訓読の場から漢字カタカナ交じり文は生まれた。
平安中期にも書かれているが、平安時代末期には一つの文章様式となって『今昔物語集』のような説話集を生み出す。返り点がなく、カタカナの地位が高くなってきているので、我々現代人も「読める」文章である。
鎌倉・室町時代になるとカタカナの部分がほとんど漢字と同じ大きさになり、さらにカタカナの部分がひらがなにあらためられ、現在の漢字かな交じり文に流れ込むことになる。
□ 「宣命体」(奈良時代)
奈良時代に栄えた文章様式で、実質的な意味の語を大字で、助詞・助動詞や活用語尾を小さく右寄せに書く。
天皇の命令をのべ知らせるための文章がこの様式で書かれているので「宣命体」と呼ばれる。祭りの儀式に唱えて祝福する「祝詞」、神前仏前で読む文章もこの様式で書かれている。
人前で読みあっゲル必要のある文章なので、日本語の語順で書くことを原則としているので、漢字カタカナ交じり文の源流とは見なせない。
宣命体は平安時代には限られた場合にしか使われなくなった。
□ ひらがなの誕生(平安時代)
万葉仮名の字形を少し崩して草体化すると、労力が少し省ける。これを草仮名と呼び、草仮名をさらに崩して別の文字と認識できるようにしたのがひらがなである。
ひらがなもカタカナと同じく、古くは1音に対して複数の文字が存在したが、次第に整理されていき、現在のように1音に対して一つのひらがなに決まったのは、カタカナと同じく明治33年(1900年)の小学校令による。
ひらがなは10世紀前半には文字としての体系を整え、和歌を中心とする文学の花を咲かせた。
ひらがなとカタカナは文字体系を支える思想が異なっている;
カタカナは、文字というものは一点一画を重ねてできるものだと捉えているから万葉仮名の部分を取る。
ひらがなは、文字というものを連続体と捉えているから、全体を書き崩すけれど部分をとったりはしない。
同じ文字に対して、異なる側面から捉えたために、カタカナとひらがなという二種類の文字の系統が出来上がった。
(例)
・「加」という万葉仮名の最初の二画をとったのがカタカナの「カ」、「加」という万葉仮名全体を崩したのがひらがなの「か」
・万葉仮名の「己」の二画をとったのがカタカナの「コ」、全体を崩したのがひらがなの「こ」。
・「奴」の最後の二画をとったのがカタカナの「ヌ」、全体を崩したのが「ぬ」
※ 「へ」のひらがなだけは「部」の全体を崩さずに「阝」の部分のみをとって崩したので、カタカナとほとんど同じ字形になってしまいました。
□ ひらがな文と文学(平安時代)
ひらがな文は決してひらがなだけで書かれている文章ではない。
ひらがなをもった平安時代の人は、まず、それまで口で語り伝えられてきた歌にまつわる物語を文字化するという試みを行なった。その結晶が『伊勢物語』である。話し言葉を中心にする柔らかい口調は、漢文や漢式和文や漢字カタカナ交じり文では表現することが困難である。その他に『竹取物語』『宇津保物語』『落窪物語』などが書かれ、またひらがな文の日記として『蜻蛉日記』が書かれ、清少納言は『枕草子』を書いて随筆文学の道を開いた。
韻文である和歌も、平安時代にはひらがな文で記され、繊細な文学的感性と表げんっぎじゅつを磨き上げた。和歌で使う言葉は、日常の話し言葉よりも伝統的で雅やかな香りを漂わせている。また、散文と違って、掛詞・縁語・本歌取りなどの独特の技法がある。そうした和歌で使う言葉と技法を散文のひらがな文に取り入れて物語を書いたらどうなるのか・・・『源氏物語』の誕生である。
『源氏物語』は散文のルールの中に、和歌で用いる言葉と技法を取り込んで、長編の男と女の物語を作り上げた。物語の中で、登場する男と女の感情が高まってゆくと、彼らに和歌を歌い上げさせる。『源氏物語』の文章が、話し言葉だけで書かれたひらがな文よりも格段に優美な趣を供えているのは、和歌の言葉と手法を取り込んで語られているからである。
□ ひらがな文 vs 漢字カタカナ交じり文(平安時代)
1.読みにくい。
2.漢語を取り込みにくい。
3.論理的に物事を述べていくのには不向き
これらに対して、漢字カタカナ交じり文は、
1.読みやすい。
2.抽象的な表現がしやすい。
3.論理的な漢文の発想を持っている。
等の特徴を有するため、最も効率的な文章として漢字カタカナ交じり文がひらがな文を抑えて日本語の文章の代表になっていった。
□ 「係り結び」(平安〜鎌倉/室町時代)
「係助詞-連体形/已然形」で結ぶことによる強調表現/疑問表現/反語表現。
平安時代に出来上がった文章の決まりであるが、鎌倉・室町時代には慣用句化するとともに姿を消していく。とくに「なむ-連体形」はやわらかい口調に限って出現する強調表現なので、強さやたくましさを求める武士の時代には不向きであり、衰えていく。
<強調表現>
【なむ-連体形】
念を押しつつ語る強調表現。事実だけを直截的に述べる文に対して、「なむ」が入ると、聞き手を意識し、聞き手の目を見つめ、念を押し、同意を求めて穏やかに語る口調を持った文になる。
【ぞ-連体形】
指し示しによる強調表現。
「ぞ」の下で説明される動作や状態が起きるのは、「ぞ」の上に示された点においてなのだという、指し示しによる強調表現。
鎌倉時代になると、ただ強い口調を生み出すための慣用表現的なものを変わっていく。
【こそ-已然形】
取り立てることによる強調表現。「こそ」は、その上に述べられた事柄を強く取り立てて強調する。
鎌倉時代になると「こそ候え」という一種の慣用句的な言い回しになってしまう傾向があり、平安時代の生々しい雰囲気が薄れていく。
しかし、「已然形」で結ぶパターンが幸いし、ほかの係り結びより長生きした。鎌倉・室町時代には連体形が終止形と同じような機能を持ち始めたため、終止形が連体形に吸収合併されていく形で係り結びも消えていった。
現代語では終止形と連体形が同じ形をしている。
(例)「する」・・・現代人は文を終わりにするときの形として「する」を使う。「勉強する」のように。これが終止形。名詞に続けるときも「勉強するとき」という形をとる。これは連体形。あれ?同じだ。
平安時代までは「する」という形は連体形で、終止形は「す」だった。
つまり、もとは連体形であった形が終止形にもなってしまった。すると、係り助詞-連体形で結ぶという緊張感のある呼応関係は意味をなさなくなってしまい、係り結びの存在意義が希薄となり、室町時代末期には姿を消した。
<疑問表現・反語表現>
奈良時代は「か-連体形」の方が「や-連体形」よりも優勢であったが、平安時代になると逆転する。
【か-連体形】
(疑問表現)文の1点を疑問の対象にする。
(反語表現)つねに「いかで」「など」等の疑問詞と一緒に用いられる「か-連体形」の方が「や-連体形」よりも誤記が強い。
【や-連体形】
(疑問表現)文全体の内容を疑問の対象にする。
係り結びそのものは現在まったく残っていないが、その痕跡なら指摘できる。「こそ」は結びの已然形こそないが現在でも文中に使われ、取り立てて強調する意味を持つ。他の係り結びの痕跡は、すべて日常会話からは失われている。
□ 助詞が係助詞を駆逐した(鎌倉・室町時代)
係助詞は、主語であるとか、目的語であるとかという、文の構造上の訳ありを明確にしない文中でこそ活躍できるもの。ところが、主語であることを明示する「が」が入ってくると、係り助詞は入り込みにくくなる。
鎌倉時代に入ると主語を示す「が」が発達し、文の構造を助詞で明示するようになっていった。
係り結びが消失したということは、日本語がゆるく開いていた構造から、しっかりと格助詞で論理関係を明示していく構造に変わったことを意味する。情緒的な文から、論理的な文へ変化していったのである。その背景には、日本人が情緒的な思考から脱皮し、論理的思考をとるようになったことが窺われる。
□ 近代語は江戸時代に始まる
宝暦年間(1751-1764)には江戸語が共通語的な位置を占め、近代語の基盤を造った。
江戸時代になると話し言葉をできるだけ忠実に写した文学作品が出てくる。
「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」はもともとは違う音だったが、室町時代の終わり頃、つまり16世紀の終わり頃に近くなってきた。
江戸時代の元禄頃になると、「じ(ʒi)」と「ぢ(di)」「ず(zu)」と「づ(du)」が統合されて、現在と同じ発音「dʒi」と「dzu」の2音になった。
現在ではこの2音に「じ」と「ず」の文字を与えつつ「ぢ」と「づ」の文字も残した。そして「現代仮名遣い」でこんなルールを作った。まず、ふつうには「じ」や「ず」の文字を当てる。ただし、つぎの①と②の場合には、例外的に「ぢ」や「づ」を使う。
①「ち」や「つ」に続く場合には「ぢ」と「づ」を使う。
(例)「ちぢむ」「つづく」
②複合語になる前に「ち」や「つ」で始まっている語に関しては「ぢ」「づ」を使う。
(例)「はなぢ」「みかづき」
□ 清音の統合:61→ 44音
奈良時代:61
平安時代:47 ・・・「いろは歌」のできた10世紀中頃
平安時代末期:46 ・・・「を」と「お」の音を統合
鎌倉時代末期:44 ・・・「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」を統合
それ以降、700年間の間、変化していない。
□ 濁音の統合:27→ 18音
奈良時代:27→ 20音
江戸時代:18音
□ 上方語 vs 江戸語
伝統を培ってきた上方の人から見ると、関東弁の「べい」(行くべい、帰るべい等)は田舎者丸出しで聞くに堪えず、「関東べい」と上方女は江戸の人間を馬鹿にしていた。原因や理由を表す「から」(さうだから、かうだから)も気に入らない(上方では「さかい」)。
□ 連声(れんじょう)
撥音[n][m]や促音[t]の次に来るア行・ヤ行・ワ行音が、ナ行音やマ行音やタ行音に変化する現象。発音のしやすさを求めて起こる、江戸語にみられる一種の訛りである。平安時代から室町時代までしばしば診られ、江戸時代以降は特定の語の読みグセとして残り現代語に至る。
(例)因縁→ 「いんえん」ではなく「いんねん」、輪廻→ 「りんえ」ではなく「りんね」、陰陽師を「おんようじ」ではなく「おんみょうじ」
□ 人称代名詞の変遷
(アナタ)江戸時代後期に出現。現在は対等かやや目下の相手に用いるが、当時は敬意が高かった。町人が武士に話しかけるときも「あなた」だった。
(オマエ)江戸時代前期に出現。まだ「あなた」の語が現れていないので「おまえ」が最も敬意のある呼び方だった。けれども江戸後期になると、敬意の度合いが笠利、対等もしくは下の者に対して用いるようになる。
敬意の度合いが下がってくると「さま」や「さん」をつけて敬意の度合いを上げる(例:おまえさん)。ちょうど現在、敬意の下がった「あなた」に「さま」をつけて「あなたさま」として客を呼ぶときの言葉にするのと同じ。
(オメー)「おまえ」ほどではないが敬意のこもった言葉だった。決して目下に用いる言葉ではなかった。
(キサマ)もともと「貴様」と書いて、手紙などで使った敬意ある書き言葉だった。江戸時代後期になると、同等あるいはそれ以下の者に対して使われるようになる。さらに「キサマ」の語の下落は止まらず、明治時代中頃には相手を罵倒する時に使うののしり言葉になってしまった。敬語は使っているうちに次第に敬意の度合いが低くなる傾向があるが、「キサマ」の価値の下落は目立つ。
(ワタクシ)鎌倉・室町時代に出現し、江戸時代に地位が確定した、最も敬うべき人の前で使う一人称代名詞は現在と同じく「わたくし」。
(ワタシ、ワシ)江戸時代に出現。「ワタクシ」→ 「ワタシ」→ 「ワシ」が生まれた。「ワシ」は江戸時代前期では若い女性が使うこともあった(相手への敬いの気持ちがこもっていた)が、江戸後期になると主に男性が用いるようになり現在に至る。
(オレ)鎌倉・室町時代に出現し、江戸時代に頻用されるようになる。江戸時代前期では現在と違ってとても使用範囲が広く、女性も使っていた。江戸時代後期になると女性が「オレ」を使うことはなくなり、男性専用語になるとともに敬意もなくなり現在に至る。
(ボク)江戸時代末期に出現。漢文にある「僕」の語を「ボク」と音読みしたことが始まりで、漢文訓読出身の言葉であり「学者言葉」として知られていた。現在のように話し言葉として日常会話で「ボク」が活躍するのは明治時代以後である。
□ 武士特有の人称代名詞
・相手を指すとき:なんぢ、貴殿(きでん)、貴公、そのもと、その方、そち
・自分を指すとき:それがし、みども、身、われ、拙者
明治時代になるとみっぶんせいどの廃止に伴い一挙に失われる。
□ 東京語には二つある
・武士や知識人が使っていた山の手言葉の系統
・「ベランメー」口調と言われるような下町言葉の系統
山の手言葉が標準語(後に共通語)に採用された。
□ 前島密による言文一致運動(明治時代)
幕末に存在していた文章は漢文と漢字かな交じり文だった。
明治政府は公用文を漢字カナ交じり文で書くことにした(例:五箇条のご誓文)。それまでの最も権威ある文体であった漢文や漢式和文からの切り替えは大きな出来事である。
明治時代になり言文一致の試みが行われたが挫折することが多かった。その理由として、
1.人々の意識が江戸時代の身分制度からなかなか抜け出せずにいた。
2.言文一体の文章がなかなかうまくいかない。話すように書くと言うことは、日本語の場合、読み手との関わり合い方が問題になり、西洋語の場合よりもややこしい。
□ 明治時代の文学界における言文一致運動
・二葉亭四迷の『浮雲』(明治20年)・・・坪内逍遙のアドバイスにより三遊亭円朝の落語を取り入れ「だ」調を採用。
・二葉亭四迷はツルゲーネフの『あひびき』(明治21年)を漢文直訳調ではなく言文一致体で翻訳した。
・山田美妙の『武蔵野』(明治20年)・・・足利時代に舞台をとった歴史小説。地の文は「だ」調による言文一致体。微妙はこのあと、「です」調の言文一致体に変更している。微妙が友達に漏らした言葉:地の文で「であった」「ある」などと動詞の言い切りにすると、文章として読んだときに、ひどく「ぶっきらぼう」で「いかにもぞんざいに聞こえるのが困る」、かといって「ました」「でした」「でございました」というと、「ぞんざいには聞こえないが、だらしがなく長くなる」。
□ 明治時代の文学界における言文一致体の抵抗勢力
・幸田露伴の『風流仏』(明治22年)・・・才覚流の雅俗折衷体を用いた。
・森鴎外の『舞姫』(明治23年)・・・典雅な雅文体を用いて文語文を復活させた。「べし」「たる」などの文語的な言い回しを基調にしつつ、「をとめ」「まみ」「おもて」「うれひ」「やどせる」などの優美な和語を駆使した華麗な文体で書かれている。
鴎外の登場により、二葉亭四迷は筆を折り、微妙は飽きられ、言文一致体は再び暗礁に乗り上げた。
□ 尾崎紅葉の「である」体〜言文一致体の復権
『二人女房』(明治24年)で「である」調を使用しはじめ、『多情多恨』で完成させた。
紅葉の「である」調は、広津柳浪に継承され、さらに山田美妙、小杉天外、田山花袋、島崎藤村、泉鏡花などに影響を与えた。
言文一致体の一番の悩みは、地の文の記述に客観性が確保できない点だった。日本語のように、常に相手を意識して話す話し言葉を書き言葉に採用する時のネックだった。それが「である」体の出現により打破できた。
このあと、言文一致体は正岡子規や高浜虚子、自然主義作家達により熱烈に支持されていく。紅葉の試みは言文一致体にとっての決定打だった。
□ 大正10年(1921年)、新聞もとうとう言文一致体になったが、公用文は・・・
大正10年には「東京日日新聞」「読売新聞」、翌11年(1922年)には「朝日新聞」がようやく言文一致に踏み切った。
しかし公用文が言文一致体を採用したのは、なんと昭和20年(1945年)。
□ 個性の出せる言文一致体
現在、私たちは言文一致運動の成果を満喫している。
主観的に断言したいときは「だ」を使い、語りかけたい時は「です」「ます」を使い、客観的に述べたいときは「である」を使う。
ヨーロッパではルネッサンス以後に言文一致運動が起き、話し言葉と書き言葉を一致させる努力をしてきた。日本は明治になって出会った西洋文明が気づかせてくれたので、4-500年遅れで体験したことになる。
□ 多すぎる語彙
日本語には三系統の言い方がある;
1.和語:日本民族が元々使っていた
2.漢語:中国から輸入し江戸時代まで影響を受け続けた
3.外来語:西洋から室町時代末期から入り始めた
(4.和製漢語:明治時代に西洋文明を取り入れるために日本人が翻訳語として作り出した)
(例)「宿屋/旅館/ホテル」「口づけ/接吻/キス」
□ まとめ
・日本語の歴史は、平安時代にさまざまの文章を試み、その中で最も優れている漢字かな交じり文を明治時代に採用し、現在に至る。
・漢字を借り入れたことにより、日本語は豊かになると同時に煩雑さも背負い込んだ。漢字一字に多くの読みを与えすぎたため、かなりの知識人でも漢字が読めないという事態が起こっている。訓読みも意味の近い日本語を当てたため何種類もの訓読みができてしまった。
・鎌倉・室町時代から、主語がどれであるか、目的語がどれであるかをきちんと明示するげんっごに変化してきている。接続詞も使って、文と文とをしっかりと論理的につないで文章を書いている。