知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「神社は警告する~古代から伝わる津波のメッセージ」

2015年01月19日 08時28分26秒 | 震災
講談社、2012年発行
著者:高世仁、吉田和史、熊谷航

著者達は、東日本大震災の津波被害取材の際、破壊し尽くされた中にぽつんと神社が無事に残っている風景を何度も目にし、その姿に神々しさを感じると共に疑問を抱き調査を始めました。

すると、海岸沿いでも歴史の古い神社ほど津波被害を受けていないこと、それどころか被害を受けた地域と受けない地域の境界に神社があることに気づきました。
著者達が粘り腰でしつこく(?)調査した結果、そこに浮かび上がってきたのは1000年以上前の「貞観(じょうがん)津波」(869年、溺死者1000人)の影。
古い神社の代名詞とも言える「式内社」が制定された「延喜式」が公布されたのは貞観津波の60年後(905年)のことでした。
つまり、式内社は貞観津波を生き抜いた、あるいは津波被害を受けない場所へ移転した神社だったのです。
1000年もの間、神社が津波被害を警告してきた歴史書に載らない史実に驚かされました。

豊かな恵みを与えてくれる自然、しかし時に災害を巻き起こし脅威となる自然・・・この自然を「神」として崇めてきた日本人。
その象徴が神社です。
この本の結論は125ページにあるこの文言;
神社は、自然の猛威と人々の運命を“記憶”として宿すランドマークだったのだ
・・・私は、現代史におけるアメリカの席巻を自省・検証したオリバー・ストーン監督がつぶやいた「歴史とは記憶である」というコメントを思い出しました。

ところがどうでしょう。
現代日本人は、「自然は人間の力でコントロールできる」と過信し、神社が作る結界を破り海岸沿いに住み始め、傲慢にも原子力発電所という化け物までも作ってしまいました。
アメリカのGE社が設計した「ハリケーン対策はしたけど地震津波は想定していない」原発を鵜呑みにして設置しました。冷却水の取水効率の関係から、土台になる岩盤をなんと34(20+14)mも削っている(「黎明ー福島原子力発電所建設記録」の19分30秒と24分20秒の映像)のですよ!
もし、削っていなかったら原発事故は起こらなかったはず・・・こう考えると悔やみきれません。
まだまだあります。
日本政府は原発の安全神話を謳い、貞観津波レベルの災害再来のリスクを指摘されながらも無視し続け、結局東日本大震災で墓穴を掘ることになりました。
一度「絶対安全です」と宣言すると、その後リスクが判明しても改良工事がしにくくなる悪循環。
「改良工事をしたということは、安全宣言がウソだったことになる」というカラクリです。
一度決めたことを変更できない、日本のお役人の悪しき習慣が根底にあるのでしょう。

知れば知るほど「想定外」ではなく「人災」の要素が明らかになる事実に、情けなくなりました。

私にとってこの本の収穫は、神社の民俗学的側面を垣間見せてもらったこと。
村社レベルの地域の神社の成り立ちと変遷、それから現代社会における神社の位置づけを知るきっかけになりました。
神社好きの私の目から鱗が落ちた素晴らしいレポートです。


<メモ>
 自分自身のための備忘録。

■ 神社の起源は詳細不詳
 村社レベルの神社の起源を調べる際に大きな問題になったのは、その詳細を記した文献がほとんど存在しないことだった。
 調べがついた範囲で言えることは、江戸時代の時点で来歴がわからないくらい古い神社が残っていて、来歴の記載があるような比較的新しい神社は津波で流されてしまった、ということ。
 では、来歴不詳の神社はいったい、いつ頃から存在するのだろうか。
 多くの神社が流された福島県南相馬市鹿島区の丘陵地にある祠・薬師堂は、平安時代の大同年間(806~810)に起源があることが相馬藩の文献『奥相志』に記載されている。なんと千年以上も前である。古くから引き継がれてきた地域の“名もなき祠”は、長い年月の中で幾多の天災を経験して、その立地場所、存在意義を確立してきたのではないだろうか。

■ 津(つのみつ)神社(福島県相馬市原釜地区)
 津波が押し寄せてくる際、住民の中には神社に避難した人もいた。神社が津波から安全な場所であることを、避難した人は知っていたのか?
 「津神社は、津波の神様」という言葉を耳にした。
 相馬市の立谷市長の弁;
「明治初めの生まれであるひいばあちゃんに『津波が来る、津神社まで来る、あそこまで逃げれば助かるんだ』という言い伝えを聞いて育った。今回、原釜地区の多くの人たちが、その言い伝えにしたがって津神社に逃げたと聞いた。」
「ご先祖が過去の津波の記憶にもとづいて、そういうモニュメントを残してくれていた。それは『津波に気をつけろ』という、警告でもあった。『津』と書いて『つのみつ』と読むのは、津が満つる、すなわち、ここまで津波が満ちたという意味なのだろう。」

■ 宮城県内の津波伝承(「仙台平野の歴史津波ー巨大津波が仙台平野を襲う」より)
 宮城県内には、どうやら慶長津波(1611年10月28日午前10時過ぎ)の言い伝えが残る神社が広域にわたって分布している。さらに、いずれの言い伝えも、読みようによっては神社が津波の最終到達点に建てられていたようにも解釈できる。
 著者(飯沼勇義氏)の言葉;
「宮城県内の七ヶ浜町というところに非常に多くの津波伝説が残されているんです。そこにある神社はことごとく助かっています。神社がある場所は、津波の避難場所にもなりました。鼻節(はなぶし)神社には千年以上前の津波伝説が残されています。」

■ 神社は安全な場所に建てられた。
 今村文彦教授(東北大学、地震工学)の弁;
「おそらく日本は、東日本大震災のような震災を繰り返し経験してきた。復興する際に、例えば、海岸から離れた津波にも安全、また、地滑りなどに対して山の方でも安全、そういう場所を選んで神社を建立したと考えられる。」

■ 神様は、最初にいい場所をとっちゃうわけなんですよね。
 岡田荘司教授(國學院大學、古代/中世神道、神社の歴史的研究)弁;
「古代、人々は定住する際、まず地盤のしっかりとしたところを聖なる場所に選び、そこに神様を祀ってきた。そのため、時代が下って大地震が起こると、城下町のように埋め立てをした地盤の弱い場所に建てられた民家はたくさん壊れたが、強い岩盤に建てられた神社だけは壊れずにすんだ。といわけで、昔から神社は災害に強かった。」

■ 神社の場所~神と人の世界の境界線
 古代において、神の住む世界と人の住む世界とは明確に区別されていた。山は神々の領域とされ、人々は磐座といった巨石や泉などで神様を迎えた。それらは多くの場合、山の麓のような場所で、そこで人々は春や秋にお祭りを営み、特別なときにお参りをしていた。そして、時代が下ってその場所が定着していくと、神社が建てられるようになっていった。
 しかし、中近世以降、神社は集落の中にも建てられるようになった。
 古代の神々は、人々に恵みや利益をもたらす存在であるのと同時に、祟りや災いをもたらす畏怖の存在であった。ところが、近世になると、大黒様や貧乏神の対比のように、神様の性質は二元化されるようになった。結果として庶民は御利益をもたらすよい神様だけを拝むようになり、集落の中に神様を招き入れるようになった。
 つまり、時代が下ると共に、神社の立地が山の麓から平地へと変わっていった。

■ 神社の形態の歴史・変遷
 太古には、神は祭りのたびに呼ぶもので、神が依りつく「依代(よりしろ)」は木や岩などだった。木の場合は「神木」「神籬(ひもろぎ)」、岩の場合は「磐座(いわくら)」「磐境(いわさか)」と呼ばれ、祭りの時には祭壇を設けて神様をお迎えし、終わると神様をお送りした。祭壇は祭りのたびに撤去されていたが、のちに常設の建物になり、神体は社の中に収まるコンパクトなものになっていく。神社はこうしてできていったのである。

■ 神社本庁とは?
 神社はそもそも、律令制度の下で国家的に維持され、その後、権門としての自立性を持った中世、世俗権力の支配下に入り寺社奉行に管轄された近世を経て、明治時代にいわゆる国家神道して再編された。戦後になると、GHQの「神道指令」で神社の国家管理が禁止され、神社は国家と切り離されて一宗教の扱いを受けるようになる。神社本庁はこうした背景の下、1946年に設立された包括宗教法人である。

■ 延喜式とは?
 延喜5年(905年)、醍醐天皇の命により編纂が始められた律令の施行細則で延長5年(927年)に一応の完成をみた。律令制においては法体系が、律・令・格・式に格付けされ、律と令が国家の原則法であり、格と式がその補充法として規則の細則を定めた。
 『延喜式神名(じんみょう)帳』(延喜式 巻九/十)には、調停から官社として認識された神社が、国郡別に一覧表となっており、ここに載った神社は「式内社」(しきないしゃ)と呼ばれる。
 式内社は3132座、2861社あり、これらは少なくとも千年以上の歴史ある神社と言うことができる。なお、「座」というのは祭神の数を示す単位で、神社の数より多いのは、ひとつの神社に二座、三座と合祀されている場合があるからだ。
※ 時代が下って明治時代、全国の神社を国家のコントロール下に置くため社格制度(官社・府県社・郷社・村社・無格社)が作られた。ただし、現在は“式内社”や明治時代に使われた“官社”などのランク付けはなくなっている。
※ 江戸中期に「式内社意識が高揚し」「盛大である社は式内社であると自称し、甚だしきは縁起を作り社名までも変えた神社がある」ようだと指摘する研究書もあり、式内社の由来追跡を困難にする要因になっている。

■ 式内社と津波被害
 福島、宮城、岩手の式内社は“陸奥国百座”といわれ、百社あった(福島県に34社、宮城県に50社、岩手県に16社)。このうち、津波によって全壊/半壊したのは三社だけだった。
 神社本庁の弁;
「貞観津波が起きたのが869年、延喜式がまとめられたのが927年なので、貞観津波が神社の立地に影響したのではないか。」

■ 東日本大震災は貞観津波の再来
 都司嘉宣(つじ よしのぶ)氏(東京大学地震研究所准教授)の弁;
「二つの津波(貞観津波と東日本大震災)の間には、慶長三陸地震津波(慶長16/1611年)、明治三陸大津波(明治29/1896年)など、大きな津波が幾度かあったしかし、多賀城下に達した津波は一つもない。それゆえ、東日本大震災の津波は千年に一度の規模と言われるのである。」
 地図で見ると、二つの津波で海水が到達したライン、すなわち今回の津波浸水域と貞観津波の推定浸水域がほぼ重なることが判明している。少なくとも宮城県においては、文献調査だけでなく、地質学調査においても、今回の津波は貞観津波の再来であり、「千年に一度」の巨大津波だったことが判明した。

■ 神社は“移動”する
 調べてきて印象的だったのは、神社はさまざまな事情によって社名から鎮座する場所まで変わっていくことである。合祀・分祀あるいは遷祠によって神が別の場所に移動していくことが繰り返されてきた。

■ “災害地名”は“小字”に残る
 太宰幸子氏(宮城県地名研究会会長)の言葉;
「旧地名の“小字(こあざ)”から、過去にその土地がどんな場所だったかがわかる。地名の読み解きでは発音が重要で、文字によって判断してはいけない。」
「地名は貴族などの一部の人しか文字が読めなかった時代に、発音を通して自分たちの土地で何があったのかを仲間や子孫に伝えるためのメッセージだった。」
「災害だけではなく小字はその土地の歴史を伝えている。何丁目何番地では何も伝わらない。」
 災害地名でも美しい文字・漢字が当てられることが多いが、それには奈良時代の和銅6年(713年)に発せられた『諸国郡郷名著好字令』という法令が関係している。この法令により、全国の地名を漢字二文字で表記することが決められ、漢字を当てる際にはできるだけ印象のよい文字を用いることになった。これらの印象のよい文字は“佳字”“好字”と呼ばれ、災害地名のような印象の悪い地名にこれらの文字が当てられて、美しい名前に変えられていった。
 しかし、こうした災害地名は近年、姿を消しつつある。
 昭和37年(1962年)、の住居表示法の実施により、地名が“○丁目○番地”と改められていったことや、昭和・平成を通じて繰り返されてきた市町村合併に伴って、災害地名を表す小字自体が亡くなりつつあるのである。

■ 福島第一原発の設置土台の岩盤を34mも削って津波にさらした理由
 敷地を低くした一番の理由は、アメリカ仕様の原発をそのまま日本に持ち込む“ターンキー契約(turnkey contact)”という方式にあった。“ターンキー”とは、工事を発注したら、完成したときにキーを受け取り、そのキーを回せば(turn)すぐに稼働できる状態で引き渡してくれる、いわば“お任せ”一括契約。
 福島第一原発が採用したGE設計の<マークⅠ>型原子炉は、冷却水を高い位置にまで引き上げることを想定していない。敷地を低くしたのは、<マークⅠ>の仕様に合わせたためだった。さらに、非常用電源のディーゼル発電機を、海側のタービン建屋の地下に設置することも、GEの設計図通りに施工された。GEの<マークⅠ>は、基本的に地震や津波への対策を重視していない。むしろハリケーンなどへの対策として、非常用電源は破壊されにくい地下に置く設計にしていたのである。
 原子炉の冷却ができなくなったのは、津波で建屋地下が水浸しになり非常用電源が動かなかったためだった。
 こうして、地震や津波を想定していないアメリカ仕様を設計変更せずに“お任せ”発注したことが今回の大事故につながったと見られるのである。
 日本は、原発を導入するにあたって、日本列島の特殊性、とりわけ地震・津波が起きやすい現実をあまりに軽視していた。

■ 地震に強い“鎮守の杜”
 地震・津波除けの神として知られるのが“鹿島の神”だ。茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮には、地震を起こすと信じられていた地中のナマズを押さえつける要石(かなめいし)が祀られている。日本各地に鹿島神社や要石神社が分布している。
 『千年震災』(都司嘉宣(つじ よしのぶ)著)によると、安政の東海地震の際、被災地の中にぽっかりと地震被害の軽微なところがみつかるという。研究者が現地に行ってみると、そこには鹿島の神が祀られている。地震工学の調査によると、そのような場所の地盤は砂礫層で、局地的に地震に強いことが判明している。

■ 地滑り災害に強い“鎮守の杜”
 原田憲一氏(京都造形芸術大学教授、地質科学)の弁;
「山形県の地滑り地帯の神社を調査すると、ほとんどの場合、神殿前に杉の巨木が立っていた。杉が巨木にまで育つことができるということは、地滑り地帯でありながら、神社の建つ場所は滑らなかったという証拠、つまり安全な聖地である。」
 ではなぜ、わざわざ地滑り地帯という危ないところに神社はあるのか。
 原田氏によれば、地滑り地帯は植物が豊富で多様な生命力を有している。「地滑り地のコメはうまい」とも言われる。そのため人々が豊かな土地を求めて、あえて地滑り地帯に住みつくことがあるという。
 地滑り地帯の中にわずかながら残された、地盤のしっかりしたところに置かれた神社は、地滑りが起きたら、人々がすぐに避難する安全地帯でもあった。
 災害の多い日本列島では、どこに行っても何らかの自然災害と隣り合わせである。津波に限らず、神社は“ギリギリ”のところで人々の暮らしを支えてきたのだ。
 地滑り地帯のわずかな安全地に神社があることを、神道に詳しい鎌田東二氏(京都大学教授)は、「災害地帯の中にあって、災害を大地の創造力として取り込んでゆく生活の知恵であり、その知恵の伝承の集積所が神社であった」と解釈する。
 古代から、古い祭場には磐座と呼ばれる巨石や巨木があり、神が降臨する依代として崇められてきた。巨石、巨木の近くは地盤がしっかりしている上、地下水が豊富に湧き出る泉や井戸がある。その周辺は聖地として伐採などが禁止されるから、生物多様性に富む豊かな森が形成される。
 災害が起こればすぐに人々は神社に避難し、しばらくそこで生活することによって、もう一度自分たちの生活の営みを再興していったのではないか。
 神社が“鎮守の杜”と呼ばれる意味を改めて考えさせられる。

■ 神道はアニミズム
 アニミズムという言葉には“未開”で“低級”という印象がつきまとうが、そこから私たちは自然との本来的な付き合い方を深く学ぶことができる。神道とは“宗教”というより、この列島の人々が育んできた生活の知恵であり倫理なのではないかと思うようになった。
 “自然との共存”という、遙か昔から引き継がれてきた先人達の知恵は、私たちの心の深いところに今もしっかりと息づいているはずである。それなのに私たちは、近代化の中で、自然を征服することが可能であると考えるようになった。その考え方の行き着いた先が原発なのではないか。
 歴史的悲劇となった原発事故が、天災ではなく人災だったことは明白である。


<参考文献>
・本邦小祠の研究(岩崎敏夫著)
・仙台平野の歴史津波ー巨大津波が仙台平野を襲う(飯沼勇義著、宝文堂、1995年)
・三陸海岸大津波(吉村昭著、文春文庫)
・歌枕『末の松山』と海底考古学(論文タイトル)(河野幸夫:東北学院大学教授、環境土木工学者)
・津波遡上限界ラインには神社仏閣がある(講演タイトル)(吉田成志:福島県いわき地方振興局県税課課長)
・災害・崩壊地名 地名にこめた祖からの伝言(太宰幸子:宮城県地名研究会会長)
・千年震災(都司嘉宣(つじ よしのぶ)著、東京大学地震研究所准教授、ダイヤモンド社)
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