島根県松江市。
有名な宍道湖の夕日を両手に受け止めている息子の写真を撮ろうと試行錯誤していたら、地元の写真愛好家の方が通りかかって「こうやって撮るんだよ」「ファインダーに映ってるから写真に撮って参考にして」と教えてくれました。
一生の思い出に残る日の入りです。
新型コロナ新規感染者数爆増中で、昨日州政府の発表があり、緩めかけられていたロックダウンのルールがまた引き締められてしまい、戸惑いと怒りの声が上がっているようです。
個人的には怒っても仕方がないと思いますが、残念な気持ちはどうしようもないです。
去年の3月にロックダウンに入ってから、自宅にこもりきりになりました。
やるべきことや普通にできていたことができなくなり、そしてロックダウンは短期間では終了しないとわかって、ごそごそと古い箱を開けてみたり片付けしてみたりもしました。
その中で手に取ったのは、ずっと覚えていたけれどじっくりと開けて読むことがなかった、大昔に祖父からもらった手紙です。
初孫であったわたしの兄は子どもの頃亡くなりましたので、わたしが孫の中では最年長でした。
祖父母とは遠く離れて住んでいたのでなかなか会う機会はありませんでしたが、祖父は会えば必ずいろいろな話をしてくれたり文房具をくれたりしました。俳句をたくさん作り、作品集も出版しました。西部劇が大好きで外国の音楽を好んでいましたが、外国嫌いの祖母に小言をたくさん言われていました。時々サイフォンでコーヒーを淹れて飲むのが幸せそうでした。わたしから見ると穏やかでユーモアのある人でしたが、母にとってはそうではなかったようで、なんだか信じられないような話をたくさん聞かされました。人間にまったく興味のなかった父とは違い、とてもかわいがってくれたし、仕事が休みの日には一緒に自転車に乗って近場へ行ってくれたりしました。子どもの目から見た祖父の印象はいつもいつもニコニコしていて、大人たちの言う祖父像とはまったくかけ離れていました。祖父はまだ高齢になる前にガンで亡くなり、おそらくもっと年下のいとこたちはわたしのような交流はできなかったと思います。
ある年、たぶんわたしが小学校4年生くらいだった時、学校の宿題で「家族に戦争体験を聞いて作文を書く」というのが出ました。父方の祖父母はすでに亡く、戦争体験を聞けるのはこの祖父だけだったので、手紙を書いて戦争体験を書いてくれるように頼みました。今となっては理由はわかりませんが、祖父は右手が震えて字がよく書けなくなっていましたが、時間をかけて書いて送ってきてくれました。
B4サイズのレポート用紙にぎっしりと小さな字で書いてあった10ページの戦争体験記。
当時のわたしがどのように宿題の作文をまとめたのかまったく記憶にないのですが、この手紙は大事に持っていました。そして、カナダに移住する時にもってきました。
手紙の存在はいつも記憶にありましたが、あらためて開けて読むことなく時間が過ぎました。
わたしと作業療法士さんとのリハビリの一環で、何か作業をしましょうということになり、わたしはこの手紙をタイプして活字にしようと思い立ちました。なにしろ震える手で書かれているうえに、旧仮名遣いで、全部の文字がちゃんと解読できるわけではないので、じっくりと時間をかけて取り組むことにしました。
(ここで、小学生だった私はいったいどうやって解読したんだろうな?と思いましたが全然覚えてません(笑))
祖父は若いころから仕事でトラックの運転をしていたので、輸送要員として旧満州に送られたという話から始まり、かの地はどうだったこうだったの話が続きました。内容的には、今の世の中では公にするのはちょっとはばかられるような(今は何か言うとどこかが間違ってることになりがちです)そういう話もありますが、子どもの頃にこれを読んでわたしが何か悪影響を受けたとかいうことはなく、その後、祖父が亡くなってからですが、まだ今のように開放されていなかった中国に興味を持ち、何度もバックパッカーとして一人旅を敢行しているくらいなので問題はないです。(わたしが中国に行った時もし祖父が生きていたら大変驚いたとは思いますが!) この手紙以外にも祖父から当時の中国の話はよく聞いていましたので、ここまで読んで特に驚きはなかったです。
ところが、読み進めるにつれてだんだんと緊張感が高まってきて、もう終わった話であるし、祖父は生きて日本に帰ったのだから大丈夫なのだけれど、手に汗握ってしまいました。
本当によく生き残れたなぁ・・・。
もちろん戦争なのですから、輸送要員とはいえ戦闘に巻き込まれるのは当たり前なのでしょう。
最前線に行けば避けられないでしょう。
でも、あの穏やかに微笑んでいた祖父が激闘のなかで死を覚悟する状況に何度も遭い、くぐりぬけ、生き抜いていたとは。
祖父は一生懸命に生きた、そしてこの手記は生き続けて語りかけている。
大昔に何度か読んだはずの手記ですが、内容はほとんど忘れていて、しばらく立ち上がれないほど衝撃を受けました。
何日もかかってようやくすべてをタイプして、手書きのものもスキャンして保存しました。
まだ誰にも見せてはいないけれど、これで受け取ったものをちゃんと残す準備はできてホッとしました。
祖父は晩年は特に失意の中、体調もすぐれず、さまざまな後悔を残したそうですが、わたしのなかではいつまでも笑顔のままの、やさしく話をしてくれた祖父です。
幼いころには寝る前に昔話をしてくれましたが、語るたびに違う筋になっていたこともあって、語り手というか、作者としてセンスがあったと思います。特に『かちかち山』の話はとてもとても恐ろしくて眠れなくなったほどでした。今となって思えば、寝かしつけようとしていたのかなんだか意図が不明なのですが。聞き手の反応がおもしろくて楽しかったのでしょう。
祖父は何か大きな仕事をして名を遺したというわけではない、ごく普通の人。
でも、遺した俳句は人に読まれ、数多い日々を共に過ごさなくてもわたしに数えきれないほどの影響をのこし、そしてそれがまたわたしの子どもたちにもつながっていく。
いつか高野山の授戒でお話を聞いたとき、自分の先祖を何代さかのぼって全員集合したら野球場がいっぱいになる、その想像もつかないような人数の人たちがつないできてくれて今の自分があるという内容で、あらためて考えると圧倒されたことがあります。
(数字に弱いのではっきりと覚えていないんですが、10代さかのぼると合計約2,000人、20代さかのぼると合計約200万人とかいう話を聞いたことがあります)
わたしが何をつないでいけるのかわからないけど、何気ないことが思いもかけない展開でつながっていくことがあるかもしれません。
この世に取るに足りない人生なんてない。
人と人とのつながりって不思議でおもしろい。
時間を大切にして日々過ごしていきたいなと思います。
大変な情勢下ですが、お祖父様始め戦争体験をされた方は我々以上の辛い境遇にあったと思います。そしてそれは戦争が終わっても...
その血が流れているのですから、前向きに力強く行き(生き)ましょうね~
生意気書きました。ご容赦を~
ZUYAさん、ありがとうございます。生意気なんてとんでもない。メッセージありがたいですよ~。
その血が流れている、とはまさにその通りですね。そして、亡くなった人に思いをはせるのは供養になると信じてます。
少しずつ前に進めてるなと思えるようになっていい兆しです♪