2001年の記録
僕が初めて上海に行ったのが20世紀末。人民中国の残像は、2008年の北京オリンピック前までの写真を順不同、順次ご紹介していきたいと思っている。僕のカメラライフのデジタル転換は比較的遅く、大半の写真は、銀塩カメラで撮影したものになる。
2001年からしばらくは、漕宝路の安ホテルを常宿にしていた。地下鉄1号線で、上海火車站(鉄道駅)まで1本で行けるなど便も良かったが、1番の理由は、取引先の総経理(社長)の自宅があったことだ。
僕が上海に行く3年前まで、兄が上海に住んでいたので、上海のことを断片的に聞いていた。実際に自分の目で確かめると、ほんとうのこともあったし、首を傾げることもあった。
「上海の治安は悪い、女子供を連れて行けるところではない」と兄は言って、姉や姪が上海に行くことはなかったが、僕が見た上海は、そんなに治安の悪い街ではなかった。そのことを指摘すると、兄曰く、「『我々が、こんなことじゃ外資は来ないよ』と抗議したので、中国政府は、全国から公安(警察官)を集め、上海の治安を回復したのだ。今、治安がいいのは、我々のお陰だよ。」
兄の説明も、あながち嘘ではないと思う。以前の中国は、外国の目を意識する国だったので、外国人に対する犯罪は厳罰だった。誤って外国人をクルマやバイクで撥ねれば、死刑とも言われていた。また、国家的事業として開港した直後の上海浦東国際空港は綺麗で、空港から市内へと続く道路の中央分離帯は、何キロも続く長大な花壇そのものだったのを覚えている。
上海市内では、自転車から電動バイクへと転換が始まった頃だが、まだまだ山のような荷物を運ぶ自転車が、ふつうに走り回っていた。
子供たちは、おどけてポーズを取ってくれた。
珠江(Pearl River)S-201(国営明光兵器廠1972年製)は、千代田光学(現・コニカミノルタ)ミノルタSR-2のコピーモデルである。オリジナルはファインダー固定式であるが、本機はニコンFシリーズを模し、ファインダー交換式となっている。
上海火車站前の中古カメラ屋で買ったものだが、しばしば、巻き上げ不良になるのだが、持参すれば即座にオヤジさんが修理してくれるので、それはそれで良かった。(もちろん無料)
【メモ】
約1年前に2019年4月以降の記録投稿を開始して、やっと“今”に追いついたことを機に2000~2008年北京オリンピックまでの約10年間の記録を「人民中国の残像」というタイトルで、順不同で順次アップしていく。(なお、2009年以降は、mixi日記にて公開済)
写真を整理していて気がついたが、デジタル連写と違って、銀塩時代は、1枚1枚に想いを込めてシャッターを切っている。経済的な制約もあり、今とはコマ数も違えう。
旅は続く