Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/横浜

2021-09-18 09:28:53 | 旅行

2021年の記録

 

山手イタリア山庭園にある横浜の西洋館のジオラマ。

 

 

横浜市の石川町まで、約1時間半。8月最後の土曜日の朝、早めにワラビスタンを出発して、2~3時間散策、帰宅してから遅い昼食。横浜には何度も行っているが、山手の洋館巡りをするのは初めてのことだ。

 

 

外交官の家は、1910年(明治43年)に明治政府の外交官・内田定槌氏の邸宅として、アメリカ人建築家J.M.ガーディナーの設計により東京都渋谷区南平台に建てられた塔屋付き木造2階建の西洋館である。1997年(平成9年)に内田定槌の孫の宮入久子から横浜市に寄贈され、山手イタリア山庭園に移築復元され、国の重要文化財に指定それた。

 

 

ブラフ18番館は、大正末期の関東大震災後に山手町45番地に建てられたオーストラリアの貿易商バウデン氏の住宅。戦後は天主公教横浜地区(現カトリック横浜司教区)の所有となり、カトリック山手教会の司祭館として1991年(平成3年)まで使用されていた。同年に横浜市が部材の寄贈を受け、山手イタリア山庭園内に移築復元した。

 

 

山手イタリア山庭園を出たところで、周辺の風景に溶け込んだお洒落なレンガ造りの特徴的な一般住宅を見つけた。

 

 

山手カトリック教会は、禁教令の緩和直後、横浜居留地(現在の山下町)にパリ外国宣教会が創建した横浜天主堂が、1906年(明治39年)現在地に移転した。関東大震災で倒壊後1933年(昭和8年)に再建された。尖塔アーチの窓に背の高い鐘塔を持った、典型的なゴシック様式の教会建築で、日本一美しい聖堂とも呼ばれている。

 

 

山手公園の入り口に横浜山手テニス発祥記念館がある。山手公園&テニス発祥120周年を記念して建設された建物で、ぱっと見洋館風の建物だが、歴史的な価値があるという訳ではない。それでも建築後31年、時とともに味がでてくるかもしれない。竣工したときから歴史的建造物などないのだから。

 

 

山手68番館は、公園の最奥部にある。1934年(昭和9年)に、外国人向け賃貸住宅として山手68番地に建てられた平屋建ての洋館で、1986年(昭和61年)に現在地へ移築され、山手公園管理事務所として、また横浜市営のテニスコート利用者のためのレストハウスとして活用されている現役である。

 

 

ベーリック・ホールは、イギリス人貿易商バートラム・ロバート・ベリックの邸宅として、1930年(昭和5年)に建設それた。山手地区に現存する、戦前からある住宅としては最大規模の地上2階・地下1階建で、地下は鉄筋コンクリート構造、地上部分は木造建築である。スパニッシュ様式で、クリーム色の壁やオレンジ色のスパニッシュ瓦、アーチ型の玄関ポーチ、クワットレフォイル(英語版)と呼ばれる窓の様式などに特徴が現れている。

ベリック没後にカトリック・マリア会に寄贈され、同会の運営するセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用され「ベーリック・ホール」と命名それた。

2000年(平成12年)に同校が閉校となったのちは横浜市が敷地を取得し、建物も市に寄贈され一般公開されるとともに結婚式場として貸し出しも行われている。

 

 

スイス人貿易商フリッツ・エリスマンの邸宅として、1926年(昭和元年)に山手127番地(現在地より南東に400mほどの位置)に建設された地上2階・地下1階建の木造建築である。1982年(昭和57年)に解体され部材を横浜市が買い取り、1990年(平成2年)に元町公園内に移築・復元した。

 

 

山手234番館は、関東大震災後に外国人向けの集合住宅(3LDKの同一形式4戸からなる)として、1927年(昭和2年)に竣工している。地上2階建木造建築で寄棟造の屋根はセメント瓦で葺かれた。

1980年(昭和55年)ごろまで外国人向けアパートメントとして使用されていた。1997年(平成9年)に保全改修工事が行われ、1999年(平成11年)には横浜市認定歴史的建造物に選定された。

 

 

横浜山手聖公会は、外壁は大谷石を使ったノルマン様式の聖堂として1931年(昭和6年)竣工。1945年(昭和20年)横浜大空襲により内部を焼失、1947年(昭和22年)聖堂再建、1993年(平成5年) 聖堂修復、2005年(平成17年)1月4日 放火と思われる火災により内部を全焼、11月に修復完成と波乱の歴史を持つ。

 

 

山手資料館は、横浜市諏訪町の牧場経営者が、1909年(明治42年)に建設した邸宅で、当初は和風住宅に洋館が連結した和洋折衷の大邸宅であった。洋館部分を旧牧場地に移築し、さらに1977年(昭和52年)に現在地に再移築され、民間の資料館として利用されている。

 

 

山手十番館は、1967年(昭和42年)明治100年を記念して建てられた異国情緒を感じる建物である。いわゆる歴史的建築物ではないが、すでに半世紀以上の歳月を経ている。1階はカフェ、2階はフレンチレストランとして使われている。

 

 

横浜市イギリス館は、1937年に鉄筋コンクリート構造地上2階・地下1階建のイギリス総領事公邸として竣工した。

 

 

アメリカ人の両替商ラフィンが、結婚する長男のために1926年(大正15年)に建てた山手111番館は、地上2階・地下1階建で、地上部分は木造、地下は鉄筋コンクリート構造。スタッコ仕上げの外壁と赤い瓦で、スパニッシュスタイルでまとめられている。

 

 

【メモ】

8月31日、アメリカ軍のアフガニスタン撤退が完了。アフガニスタンでは、タリバン政権下のカオスが始まった。

 

明らかになったことは、「西側の価値観(≒民主主義)は、すべての国で人々を幸せにするとは限らない」 ということ。20年間、数えきれない人命が失われ、250兆円もの巨費を投じてもアフガニスタンの人は、これっぽっちも幸せになれなかった。アメリカ(連合国)による統治で、民主主義が根付いた日本は、希有な存在だったのかもしれない。

 

そもそも、日本で見聞きする報道の大半は、日本を含めた西側報道機関の目を通したもの。報道は事実を伝えるが、1つの報道では真実を伝えられない。西側の価値観で、無意識の取捨選択がなされている。アフガニスタンの真実に触れたければ、アルジャジーラ(カタールに本社を置くイスラーム視点の衛星TV局)を視聴する程度の努力は必要だ。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/蓼科 第2回

2021-09-09 21:38:50 | 旅行

2021年の記録

 

東山魁夷の緑響くには及ばないが、美しい光景だと思う。

 

 

息子夫婦が買った土地を見たくて、8月に夜行日帰りで信州に行った。時節柄、息子夫婦には会えない。深夜、下野市の自宅を出発、上信越道佐久平SAで仮眠したあと、蓼科高原の観光スポットに寄った時の記録。

 

 

信州に出掛ける日の下野市の夕焼け、新しい構図を模索するも至らず。

 

 

メルヘン街道の小海町千代里の誰もいない駐車スペースからの眺め。佐久平SAで爆睡してしまい、すでに夜は明け、日は昇っている。

 

 

御射鹿池(みしゃかいけ)は、長野県茅野市豊平にあるため池で、日本画家・東山魁夷の1972年(昭和47年)の作品『緑響く』のモチーフとして有名になった。

流れ込む冷たい水を留め、温めることによって農業用水として使用するため1933年(昭和8年)完成のため池である。なお、魚などは酸性が強いため生息できない。

周辺は八ヶ岳中信高原国定公園に指定されており、2010年(平成22年)、農林水産省のため池百選に選定された。

コロナ禍のためか観光客は少なく、静かに池を眺めることができた。

 

 

蓼科大滝は、滝の湯川に架かる水量豊かな滝で、落差こそ小さいが、大きく深い滝壷を持つ。駐車スペースから滝までの遊歩道の周りには苔の緑が鮮やかな原生林が広がり、もののけ姫の世界に迷い込んだようで、僕は滝よりも苔むす原生林に魅力を感じた。

 

 

【メモ】

8月5日 東京都の新規感染者数が5000人を突破した。しかし、僕を含めて危機感が薄い。

オリパラのお祭り騒ぎの最中だからだろうか?

政府が声高に自粛を求めてもスルーされるばかりだ。“禁酒令”を発令するよりも、効果的なことは、政府の医療崩壊宣言じゃないだろうか?

僕は医師が入院すべき、治療すべきと判断した患者を医療機関側の事情で、医療を提供できなくなったことを“医療崩壊”と言うのではないだろうか。

今の日本、コロナに限らず、事故や病気で医療を必要としている時にタイムリーな医療提供を受けることができるだろうか?

以前とは状況が違う、以前ならば、脳梗塞で倒れても1ヶ月後には、リハビリをはじめていたはずの人が、そのまま帰らぬ人になるかもしれない。背筋が寒くなる現実が目の前に横たわっているのに危機感がない我々は、何者なのだろうか?

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/ふらっと群馬 第2回

2021-09-05 22:15:35 | 旅行

2021年の記録

 

“涼”を感じる渓流の写真は、猛暑の間にアップしたかった。

 

 

桐生川源流林は、県境を越えた群馬県と言っても、裏道の林道を走れば下野市の自宅から1時間半ほど。早朝に出発して、桐生川源流林を軽く撮影して、桐生新町重要伝統的建造物群散策して帰路につけば、昼食の時刻には帰宅できる。

 

 

桐生川は、群馬・栃木県境にある根本山に源を発し南へ流れ、栃木県足利市で渡良瀬川に合流する。源流の根本山南麓周辺に広がる森林は、桐生川源流林として森林浴の森百選および水源の森百選に指定されている。

 

桐生川源流林に行くのは、何年ぶりか? その間に何度も豪雨があり、流れも微妙に変化している。今回は、気軽な撮影なので、ゴム長ぐらいしか持参していない。本格的な撮影の時は、渓流釣り用の胴長を履き、ロープ持参だ。被写領域の掃除をしてから撮影開始、急流で滑るところもあるので安全第一。もちろん、今回のような撮影でも安全第一、九死に一生を得た写友もいる。

 

桐生川源流の魅力は、美しい苔だ。桐生出身の友人の話だと、むかしは、桐生川源流で川のりを採取していたという。きっと苔の生育環境に恵まれているのだろう。

 

 

桐生は、群馬県南東部にある古くから絹織物を産する機業(織物業)都市で、桐生織は京都・西陣の西陣織と並び称された。桐生新町重要伝統的建造物群保存地区には、江戸時代後期から昭和初期までの機業で栄えた当時の建物が保存されている。

以前の弊ブログで紹介した群馬大学工学部同窓記念会館(旧桐生高等染織学校本館・講堂)は、保存地区の北端にある。

 

旧矢野本店と酒、味噌、醤油の醸造蔵と店蔵が、散策の起点となる。

 

 

一の湯は、織物工場の女工さんが使っていた銭湯で、ニョッキと伸びた煙突が、現役の証拠。

 

 

旧株式会社金芳織物工場の鋸屋根工場は、お洒落なベーカリーになっている。

 

 

ゴールは、「蒲焼 六代目 泉新」。味は間違いない、メニューは1点、鰻重セット4,300円。

 

 

上毛電気鉄道西桐生駅は、中央前橋駅を結ぶ上毛線の始発駅である。1928年(昭和3年)開業当時からの駅舎で、マンサード屋根の洋風建築であるが、宿直室は和風の畳部屋、隣の台所は三和土の土間であり全体としては和洋折衷の建物となっている。2005年(平成17年)国の登録有形文化財登録。

 

 

【メモ】

私事で恐縮だが、8月1日、桐生から帰宅した日の夕方に1回目のワクチン接種、その3週間後に2回目のワクチン接種を無事終えた。(ファイザー社製)

1回目は、接種当日夜8時には睡魔に襲われ寝てしまった程度の副反応。2回目も接種当日は似たようなもので、翌日に全身筋肉痛に襲われたものの倦怠感はなく、夜に念のため検温すると37.6℃。3日目の朝には、何もなかったように元気になった。

 

僕自身は、比較的早期にワクチン接種を終えることができて、行政には感謝しているが、ワクチン接種に関して、頭にきていることがある。以前からワクチン接種を希望しながら予約さえできないでいる人が少なからずいることを知っていたので、ワクチン接種を促すCMを苦々しく見ていた。

そのことが可視化された渋谷ワクチン接種会場行列事件(8月27日)後もCMを流し続けているのである。一度決めたことは、情勢の変化と関係なく敢行するお役所仕事は、五輪強行と同じか。不祥事を起こした芸能人を瞬時にCMから消せるのだからできないことではない。血税を有効に使って欲しいのはもちろんだが、接種の予約さえままならない人の苛立ちを想像できないのか! と強く憤っている。

 

 

旅は続く