Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

人民中国の残像/蓋州 第6回

2022-07-18 12:45:36 | 旅行

2005年の記録

 

 

蓋州の露天商で、最も顔なじみになったのが写真の孟さん(仮名)、朝の星光街の朝市で何度か写真を撮らせてもらった。その後、夕方の鼓楼の近くでも再会して、より親しくなった。

 

 

いつも星光街の朝市は大にぎわいだった。色とりどり、ハッキリ言って不揃いな野菜が地べたにならべられている。買い手が選別して、量り売りで買うのがふつう。時には、その後に値切るので、それなりに時間が掛かる。当時は、パック入りで値付けされている野菜を見ることはなかった。

 

 

中国の市場では、乾物が目立つ。孟さんも自転車で移動する乾物商だったが、映画スターを思わせる端正な顔立ちと着こなしが目を引く。

 

 

蓋州に隣接する営口は、海に面しているので、海鮮も豊富だ。地べたにバラまかれた魚に日本人は引くかもしれないが、このようなものなのである。

 

 

お立ち台でマイクを使って啖呵売をしているのは、中国版寅さんである。早口でまくし立てるので、僕には、まったく聞き取れないが、人だかりになるほど客が集まる。ここまでは、どこも一緒だが、飛ぶように売れるか、口上を聞くだけで帰るかは、露天商の実力次第なのか。

 

 

朝市には、マントウ(饅頭・ 中国式蒸しパン)や油条(中国式揚げパン)、豆浆(豆乳)を売る店がならぶ。

 

 

果物を籠に入れて自転車で売りに来る人もいれば、トラックの荷台にドーンもある。たいていは、味見してから量り売りで買う。もちろん、客が念入りに選別する。

 

 

昼時の蓋州站は、のんびりとした時間が流れる。車内で食べるための果物を売る露店、到着する客を待つ輪タクがならぶ。

 

 

休日の午後、鼓楼の近くを散策すると、露天商の男たちが、寛いでいる。朝の短時間決戦と違って、心に余裕があるのか?

 

 

中国で街を散策していると、驚くほど果物が豊富で安いことに驚く。そして、みんな果物をよく食べる。既述したように列車に乗るときは、大量の果物、菓子を買い込み、乗車から下車まで食べ続ける。また、ちょっとした会議では、テーブルの上に果物がならべられ、タバコや茶と同様、会議中に口にする。

 

 

【回想録】

いよいよ蓋州での製作にもゴールが見えてきた。国さん(仮名)と郭さん(仮名)は、瀋陽に帰りたくて、帰りたくてしょうがない。国さんは、「内モンゴルの現場から帰宅した翌日に蓋州に来ている。孫の顔が見たい!」。郭さんは、「2、3日のつもりで来たので、夏服しかなく、寒くて凍え死にそうだ!」と口々に帰りたいと伝えてくる。「製作完了まで」と突っぱねていた僕だが、あまりに彼らが切望してくるので、「塗装前まで」と譲歩してしまった。気温低下による不具合(乾燥前に塗装表面が結露、凍結する)の心配があったが、塗装と言っても下塗り、何とかなると考えたのだ。それを聴いた彼らは、俄然やる気を発揮してくれた。検査用のシャフトが必要になると、工場中を探して材料を見つけてきた。(材料を新たに注文すると入荷まで、待つことになる)

 

塗装前までの工程を完了した夜、彼らとささやかな送別会をした。送別といっても、1週間もすれば、僕も瀋陽に帰るのだ。それでも、送別会は、異常に盛りあがった。酔っぱらった郭さんは、「タバコを一緒に吸ってくれ」と、タバコを吸わない僕にせがみ(結局1本、ふかした)、あげくの果てには、キスまでしてくる始末である。送別会の翌日早朝、トラックに便乗して彼らは、瀋陽に帰ることにしていたので、しばらくのお別れだ。

 

翌朝、いつも通り僕が、8時すぎに工場の門をくぐると、国さんと郭さんがいる。

「トラックに便乗しなかったのか?」と訊ねると、国さん曰く、「昨晩、宿舎に帰ったあと、郭さんと話したんだ。瀋陽に帰りたい気持ちはあるが、『Zhenを1人残して帰っていいのか?』 それって、『中国男児として、恥ずかしくないのか?』 ってね。みんなで帰ることにしたよ。あと数日だもの」 

最初、僕は、国さんが何を言っているのか良くわからなかったが、意味を理解した時、涙を抑えることができなくなり、朝っぱらから泣いてしまった。

 

 

【Just Now】

日本で新規コロナ感染者が急増、第7波。今のところ、日本政府に行動制限の方針はない。強制力はなくとも指針があれば、それに従順に従うのが日本国民だ。良くも、悪くも、個人で、行動を決めなくてはならない。自由に旅行、会食を繰り返す人がいる反面、自粛する人もいる。それは、ひとそれぞれで良いのだが、「誰かとの旅行や会食をどうするのか?」ということである。ひとり旅は、個人の判断で決めれば良いが、予定していた旅行、あるいは会食は、相手があってのことだ。ひとそれぞれの判断基準が見えない、「断る方も断られる方も負担になる」 と言っても、こればっかりは、ありのままで接するしかないのだろう。

 

僕が気にしていることは、コロナの後遺症の情報が乏しいことだ。

「感染しても軽症、治療薬もある」といった類の“with コロナ”ではなく、コロナの後遺症を何年も抱えることの恐怖だ。コロナそのものは軽症だったが、その後も息切れ、倦怠感が継続しているといった話をチラホラ耳にする。人生の折り返し地点を通過している僕でさえ恐怖に感じるのだから若い世代のことを考えると空恐ろしい。

 

 

旅は続く


人民中国の残像/蓋州 第5回

2022-07-10 12:32:33 | 旅行

2005年の記録

北京オリンピック(2008年)以前の中国の記録を順不同でご紹介する「人民中国の残像」シリーズ。いずれもフィルムカメラで、1枚1枚丁寧にシャッターをきっている。

 

 

僕は、比較的時間に余裕のある昼休みは、火車站方面に散歩に、時間のない時は、駐在していた工場内をウロウロして、昼休みに寛いでいる現場労働者を撮影した。街でも工場内でも挨拶して、撮影許可を取って撮影している。いわゆる隠し撮りはしていないので、プロカメラマンの友人には、「作品ではなく記念写真」と揶揄されるが、それで良いと思っている。カメラに向かって、緊張していたり、作り笑いをしていたりしても、それもリアルな2005年の中国人民である。

声を掛けると、躊躇されることも多い。「没関係吧、你很師!(いいじゃない、ハンサムだよ!)」といった感じで声を掛けると、7~8割の人は応じてくれる。(2005年のこと、さすがにSNSにアップする許可は取っていない)

 

 

蓋州の僕が駐在していた下請工場も元々は国営企業だった。改革開放を機に現在のオーナーが買収、民営化していたが、国営企業の空気を色濃く残していた。

かつての日本の製造業もそうだったが、基本的に一貫生産指向で、小規模ながらも鋳造、鍛造、熱処理、製缶溶接、機械加工、組立、塗装工場があった。本業の石炭ボイラの運炭設備製造は、ほぼ開店休業状態、下請部品の賃加工で経営を維持していた。それでも、北京オリンピック前の好景気で、フル操業だった。

 

 

職場で、昼休みにトランプや囲碁に興じるのは、中国の一般的な光景で、工場内のあちこちで、プレーヤーとギャラリーを見ることができた。囲碁の碁盤は、合板にマジックで線を引いたものだし、碁石はワッシャーや鉄片で代用している。まだまだ中国の労働者が貧しかったことが窺える。

現場労働者の賃金は、日給20元(当時のレートで240円ほど)ほどだったと思う。生産管理のホワイトカラーの30代担当者が、日給30元、月給1万円にも満たない。彼の奥さんは、小学校教員だったが、彼よりちょっと多く貰っているとかで、彼は頭があがらないと笑って話してくれた。

 

 

僕が仲良くなった30代の労働者は、工場内では底辺の賃金で働いていたのだと思う。本業は防火服を着て作業する過酷な職場で働いていたが、休日にトラックへの積み込みなど、彼でもできる仕事があれば、出勤して日銭を稼いでいた。彼は自分と家族の名前くらいしか書けない人だったが、妻と息子を養うためによく働いていた。その彼でさえ、中古のガラケーを所持していた。相当にムリしたのだろうが、人目に触れる携帯電話を持つのは、面子のためだろうか。

 

 

 

 

【回想録】

だんだんと納期が迫り、日々決めたポイントに到達するまでは、退勤させない強権を発動した。その日は、17時なっても、作業が終わらず、目途は22時頃。僕のデスクのある事務棟は、18時閉鎖されるので、一旦、ホテルに戻って、夕食を摂った。僕は、退勤する時から21時すぎに再び工場に行くと決めていた。

「『終わるまで帰るな!』と指示した僕が、暖かいホテルのベッドで寝転がっている訳にはいかない」と、代わりに来ていた通訳に話した。

通訳曰く、「Zhenさんの真面目な気持ちを中国の労働者は、理解しませんよ。ちゃんと働いているか監視に来たと思うかもしれませんよ。」 

「彼らが、どう思うかじゃない、僕自身の問題」と、僕が話すと、呆れたように「輪タクは、(夜でもバッテリーの消耗を回避するためライトを点灯しない) 危ないから、絶対にタクシー使ってくださいよ。それに歩道は、盗難で蓋のないマンホールがあるので、注意してください。」と念を押された。

 

僕はタバコを3カートン、みかんを一袋買ってタクシーに乗った。

21時半頃、工場に着くと、ちょうど作業が終わったところだった。僕は白髪で大柄な作業長に「辛苦了、非常感謝!(お疲れ様、感謝しているよ!)」声を掛けた。

実は、作業長と僕の関係は良くなかった。「確認してくれ!」と作業長の持って来たピンは、機能はOKかもしれないが、外観品質が、酷いものだった。チラット見ただけで、僕が「ダメ!」と言ったものだから、作業長はスクラップ入れの箱に叩きつけるといったことがあったのだ。

 

作業長は、一瞬驚いたような表情になったが、すぐに満面の笑みで握手を求めてきたので、僕は握手と同時にタバコを差し出して、1カートンは作業長に、もう1カートンは、作業員に分けてやってくれとだけ伝えた。残業の成果を確認するため工場を一周したあと、「辛苦了、明天見!(お疲れ様、また明日)」と声を掛けると、作業長、作業員は、満面の笑顔と敬礼で僕を送ってくれた。

 

そのあと、工場敷地内にある国さん(仮名)と郭さん(仮名)が泊っている宿舎を訪問した。ベッドとトイレ兼シャワーだけの寒々とした部屋で、2人は寒さを凌ぐためすでにベッドに潜り込んでいた。僕の突然の訪問に驚いた2人だが、大歓迎してくれて、持参したみかんを食べながらしばらく話をした。(意外なことに、国さんは、タバコも酒もやらない)

 

宿舎をでると息が真っ白になるほど寒かったが、心は温かかった。足元に気をつけながらホテル方向にしばらく歩いたところで、タクシーが拾えてホテルに戻った。

 

 

【Just Now】

昨日(2022年7月8日)、安倍元総理が暗殺された。僕は安倍シンパでもアンチでもないが、どうにも気が晴れず、モヤモヤ感が拭えない。

日本の数少ない魅力である“安全神話”崩壊のためだろうか。

沢木耕太郎著「テロルの決算」の題材となった社会党委員長(当時)浅沼氏刺殺を想起する人もいるが、あの事件とは、明らかに違うと思う。浅沼氏刺殺犯・山口二矢の動機は、歪んでいるとは言え愛国の志に基づくものだが、安倍元総理暗殺容疑者・山上徹也の動機は、安倍元総理の関係する宗教団体への個人的怨恨によるものだ。山口二矢を美化するつもりはないが、まったく次元の違う動機だ。事件を「民主主義への挑戦」と怒りを露にする政治家もいたが、まったくそんなレベルの話ではない。誤解を恐れずに書くと、どちらかと言えば、「無差別通り魔殺人」に寄った、容疑者以外には理解できない動機だ。もしかすると、僕のモヤモヤ感は、そこに起因するのかもしれない。「何故に殺されたかさえ理解できぬまま殺される恐怖」である。

 

 

旅は続く


人民中国の残像/蓋州 第4回

2022-07-03 13:49:41 | 旅行

2005年の記録

北京オリンピック(2008年)以前の中国の記録を順不同でご紹介する「人民中国の残像」シリーズ。いずれもフィルムカメラで、1枚1枚丁寧にシャッターをきっている。

 

 

僕の住んでいた金都大酒店から工場や火車站(鉄道駅)と逆方向に紅旗大街を街はずれまで行ったところに蓋州鼓楼がある。

 

 

蓋州鼓楼は、明代の洪武時代に建てられたもので、周辺の古城(旧市街)を歩いていると、明代にタイムスリップしたのではないかと錯覚する。明代は1368年から1644年まで、日本だと室町時代から江戸時代前期に該当する。明代に電動輪タクが走っている訳ないので、あくまでも個人的なイメージの話である。

 

 

蓋州には、日本にもある店舗型の書店もあるが、地べたに本を並べて売っている露店の本屋もある。中国の識字率(95.1%)は、ユネスコ基準と比較するとかなり怪しい。字面の通り、自分と家族の名前、住所が書ければ、識字にカウントされる。

※識字率ユネスコ基準:日常生活で用いられる簡単で短い文章を理解して読み書きできる

 

 

蓋州のような片田舎にも「ドキッ!」とするようなポスターがある。

 

 

蓋州市内には、数えきれないほどの電動輪タクが走る。4輪のタクシーに乗るために路肩に立つと、瞬く間に4~5台の輪タクに囲まれてしまう。圧倒的な供給過剰、クルマと違って免許もいらない、車両を借りれば、誰でも即日に商売をはじめられるためだろう。市内一律3元。(当時のレート換算36円ほど)

 

 

中国の何処に行ってもウイグル人はいる。彼らは漢族と違って、陽気で人懐こく、撮影に応じてくれると言うより、「撮ってくれ、撮ってくれ」とポーズしてくれる。

 

 

街には露店が溢れている。飲食店も含め小綺麗な店は稀だが、僕が不便に思うことはなかった。中国的脂っこさに馴染めない日本人の健さんと一緒に夕食を摂る店は、金都大酒店前の海鮮火鍋店と決まっていた。

 

 

最低気温が氷点下になり、寒くなってきたが、ホテルの客室は暖かい。スチーム配管の全館暖房が整っているからだ。その熱源は、石炭である。ホテル裏には、ボイラ棟があり、トレーラーで大量の石炭が持ち込まれていた。

 

 

【回想録】

僕が中国の国有企業に駐在した目的は、納期管理である。当時の中国は、3年後の北京オリンピックに繋がる高度経済成長真っ只中。ハッキリ言って、「日本向けの面倒くさい仕事など、やっていられない」 というのが、現場の本音。集団公司トップが決めた合作事業も、その例外ではない。それ故、現場に潜って納期管理をすることが僕のミッションだった。

「日本からの支給部品の入荷が遅れる」といった噂が中国側に流れていた。噂ではなく、事実だったのだが、それを認めてしまうと、生産にブレーキが掛かってしまう。

「我々には、世界の〇〇(合作事業に参加している総合商社)がついている。何も心配することなく、日々の生産を続けてくれ!」

工程進捗会議の席上で、真顔で堂々と僕は言っていた、まるで中国人、日本人じゃできないよな。(笑) 

それでも、遅延が確定する日が来た。「良かったなぁZhen」と声を掛けてくれたのは、中国側連絡員の国さんだった。嫌味ではない。文革世代の国さんの思考回路では、「Zhenのミッションは、納期遵守である。⇒納期遅延となれば、責任を問われる。⇒日本からの支給部品の遅延が、生産遅延の原因である。⇒納期遵守の責任から解放される。」である。中国の国有企業では、通用するロジックだが、日本企業では通用しない。支給部品の納入遅延の影響を工程やり繰りでミニマム化しようと四苦八苦する僕を見た国さんは、「理解できない!」とばかりに首を傾げていた。

 

 

【Just Now】

東電管内の電力需給逼迫、どうにか最悪の事態は避けられそうだ。店舗も照明を一段落とし、家庭では使っていない照明を消している・・・・・。その話を大阪人の先輩に話すと、「大阪人が使っていない所の電気を消すのは、環境より電気代のそろばん勘定だよ。電力需給逼迫になったからって、急に使用量は落ちないんじゃないかな」 関東とは、ちょっと違う感じがする。関東の場合、純粋にブラックアウトを回避したい気持ちもあるが、一種の世間体、同調圧力みたいな空気を感じる。

電力需給逼迫のそもそもの原因は、カーボンニュートラルへの急激な傾斜だ。メインの石炭火力発電は罪みたいな風潮のため、設備更新を凍結したからだ。ゼロコロナ政策と同様、過激、急進な政策には、副作用がある。

酷暑の原因が地球温暖化で、その対策のために電力使用量(二酸化炭素発生量)を抑制しなくてはならないが、エアコンは迷わず使いましょう、というのは、苦渋の施策だ。電力消費量は、照明よりエアコンの方が圧倒的に大きいだろうな。半導体が不足して半導体製造装置が製造できず、半導体不足が解消しないのと、何だか似てきた。ヤレヤレ、である。

 

 

旅は続く