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福島県喜多方市 三津谷集落の煉瓦蔵・若菜正男家

2024年07月16日 12時32分03秒 | 福島県

三津谷集落の煉瓦蔵・若菜正男家。三階蔵・蔵座敷。福島県喜多方市岩月町宮津勝耕作。

2024年5月30日(木)。

小田付の重伝建地区を見学後、北へ向かい、三津谷集落の煉瓦蔵・若菜家を目指した。ナビには入っていないので、近くで尋ねようと思い、道標のある近代化産業遺産「三津谷の登り窯」に着いた。豪壮な登り窯だが、誰もいなかった。ナビや山川出版社「歴史散歩」などを参照して、道を戻り、三津谷集落に入ると、駐車スペースがあり駐車した。若菜家はどこにあるのかと思っていると、トラクターに乗って出かけるところの男性が「何か用か」と声を掛けてきたので、若菜家を見学しに来た、と答えると、自分の家だとトラクターから降りてきた。

よく見ると、家の入口に案内板があった。

中に入り、母屋で200円を支払った。

しおりを渡されて、10分ほど簡単な説明を受けた。煉瓦は昔のままだが、屋根瓦は割れやすいので、名古屋方面の瓦に交換したという。名古屋に瓦工場はないので確認すると、三河高浜の瓦らしい。あとは、自由に見学していいと言って出て行った。

4棟の煉瓦蔵を所有する若菜家は、喜多方三津谷で代々農業を営んでいる。明治時代に三津谷で登り窯が創業され、その窯で使用する薪を若菜家で提供していた。その謝礼としてレンガを譲り受け、現在に残る煉瓦蔵が計画的に建造された。

三津谷の煉瓦蔵群を設計建築したのは、東京で修行をし当時の最先端の技術を学んだ、喜多方市出身の煉瓦師・田中又一で、三津谷の登り窯で焼かれた美しい総煉瓦造りの蔵は、それぞれ細かいデザインが違い、田中又一の設計技術の高さを物語っている。

喜多方にはおよそ100 棟の煉瓦蔵が、登り窯で煉瓦を焼いた樋口市郎と、東京に出て煉瓦積みの修行をつんだ田中又ーの二人三脚により生み出されている。

明治37年に建てられた若喜商店の煉瓦蔵が第一号だといわれており、二階の窓の外側にしつらえられたバルコニ一風の装飾が明治の香りを感じさせる。

三津谷は、全戸がレンガ蔵を持っている集落で、5世帯の農家に7棟の飴色の煉瓦蔵があり異国情緒を漂わせている。

特に国登録有形文化財で産業遺産に選定されている若菜正男家の家財道具蔵、作業蔵、味噌蔵、そして蔵座敷と四棟が中庭を囲む風景は圧巻で、異国情緒を感じさせるアーチ形の入り口や窓は、長崎五島列島のカトリック教会を見ている錯覚におちいる。

三階蔵(大正5年建造)は、当時では珍しい三階構造の蔵で、42,500個もの煉瓦が使用されている。

玄関のポーチとの取り合わせは教会建築のように見えてくる。

アーチ窓縁飾りの石の上部には、家紋と「若」「菜」が刻み込まれている。

蔵座敷(大正6年建造)は、三階蔵に接続して建てられ、喜多方式木骨煉瓦造りというどっしりとした構造をもつ。座敷は、欅を使用し漆塗りを施した贅をつくした意匠になっている。来客時の宿や会合や茶室として使用されていた。

味噌蔵(大正10年建造)の、右入口は、当時、燃料であった炭を貯蔵していた炭蔵として使用していた。左入口は、今も味噌蔵として、自家生産の米を使用し、こうじ、大豆、塩のみで、自家仕込み手作り味噌を作っている。代々この地で農家を営む若菜家では、自然が豊かな風土を源に、現在も米、大豆、ブドウ、菜種を栽培加工販売している。

農作業蔵(明治43年建造)は、当時、主にわらを加工したり、脱穀や精米などの農作業をする蔵として使用していた。蔵では、作業するだけではなく、穀物の貯蔵や干し草などを貯蔵していた。2階には、52畳の座敷があるという。

農作業蔵内部。

農作業蔵から三階蔵方向。

三階蔵から農作業蔵方向

若菜家を出て、北へ歩くと三階蔵と蔵座敷の背面が見えた。

北へさらに進んで、振り返ると教会らしさが増していた。

そこにある民家はラーメン屋になっていた。

 

国道に戻り、道の駅「きたかた」に立ち寄ったが山間部なので、道の駅「湯川」で車中泊することにした。

福島県喜多方市 蔵の里 重伝建・小田付地区



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