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秋田県横手市 雄物川郷土資料館①蝦夷の末期古墳・蝦夷塚古墳群 雄勝城 沼の柵

2023年09月10日 15時13分39秒 | 秋田県

横手市雄物川郷土資料館。横手市雄物川町沼館字高畑。

2023年6月2日(金)。

横手市の道の駅「十文字」で、横手焼きそばを食べてから、リーフレットで知った雄物川郷土資料館へ向かった。2022年初夏の北海道江別市の北海道式古墳見学以来、興味をもった蝦夷の末期古墳である蝦夷塚(えぞづか)古墳群の出土品を展示しているからである。

雄物川郷土資料館は、2005年の合併前は旧雄物川町の資料館であったが、現在は横手市内の資料館施設の中心施設に位置づけられ、県指定の玉類をはじめ、歴史・考古・美術・民俗・自然の各分野にわたって展示を行っている。入館料100円。民家苑の木戸五郎兵衛村が隣接する。

考古学から見た古代蝦夷 工藤雅樹 1994

古代蝦夷については,アイヌ説と非アイヌ説の対立があることはよく知られている。戦後の考古学研究の成果は,東北北部でも弥生時代にすでに稲作が行なわれていたことを証明し,近年の発掘調査によって奈良,平安時代の東北北部の集落が基本的には稲作農耕をふまえたものであることも確実とされるに至っている。このようにして蝦夷日本人説は一層の根拠を得たと考える人もいる。

しかし蝦夷非アイヌ説の問題点のひとつは,考古学的にも東北北部と北海道の文化には縄文時代以来共通性があったし,7世紀以前の東北北部はむしろ続縄文文化の圏内にあったと考えられ,アイヌ語地名が東北にも多く存在することなど,蝦夷アイヌ説が根拠とすることのなかにも,否定しえない事実があることである。

もうひとつの問題点は,蝦夷非アイヌ説が稲作農耕を行なわない,あるいは重点を置かない文化劣った文化と見なす考えを内包していることである。この点を考え直し,古代蝦夷の文化の縄文文化を継承している側面を正当に評価する必要がある。

従来の蝦夷非アイヌ説は地理的には畿内に,時間的には稲作農耕の光源で東北の文化を見た説,蝦夷アイヌ説は地理的には北海道に,時間的には縄文文化に光源を置いて蝦夷の実体を照射した説,と整理しなおすことができる。しかし二つの異なる光源でそれぞれに浮かびあがるものは,どちらも東北の文化の実体の一側面にほかならない。

北海道縄文人が続縄文文化,擦文文化を経過して歴史的に成立したのが アイヌ民族とその文化であると見るならば,これは東日本から北日本にかけての典型的縄文文化の担い手の子孫のたどった道のひとつということになり,早くから稲作文化を受容し,大和勢力の政治的,文化的影響を受けた,もうひとつの典型的縄文文化の担い手の子孫のたどった道と並列させることができる。古代蝦夷は両者の中間的な存在で,最後に日本民族の仲間に入った人々の日本民族化する以前の呼称とも,北海道のアイヌ民族を形成することになる人々と途中までは共通の道をたどった人々とも表現できる。

このように考えると,現段階では蝦夷がアイヌであるか日本人なのかという議論そのものが,意味をなさないといっても過言ではないのである。

横手市の古墳時代遺跡群 島田祐悦(横手市教育委員会)

① これまで秋田県では古墳時代の様相が不明で、続縄文文化圏の範疇とされてきた。しかし、一本杉遺跡の発掘調査成果から、これまで断片的であった古墳文化圏が形成されていたことが明らかになった。

② 古墳時代前期から中期前半の、古墳文化の遺跡の発掘調査事例がなく、表採資料で日本海側の宮崎遺跡では器台・甕が、隣接する井岡遺跡では子持勾玉が出土している。山形県庄内地方の事例からも秋田県沿岸部まで古墳文化の影響下に入っていた可能性が高い。

続縄文文化の遺跡は、後北C1 式期の下田遺跡、後北C・D2 式期の続縄文土器が出土した寒川Ⅰ遺跡と川端山Ⅲ遺跡があるだけで、これらは弥生時代後期から古墳時代前半の範疇である。

古墳時代中期後半(5世紀後半)から、突如として古墳文化の遺跡が急増する。日本海側では男鹿半島まで一気に北上する。西目潟周辺の宮崎遺跡と男鹿半島八郎潟周辺の小谷地遺跡・潟上市乱橋遺跡・北野遺跡が存在するが、面的な広がりでなく点的なものである。

⑤ それに対して、内陸の横手盆地では盆地中央部の横手市域内に古墳時代の遺跡が密集している

⑥ その立地は河川沿いの微高地に展開している。雄物川中下流域では古墳文化の遺跡が未確認であることにより、古墳文化の流入は西目潟や子吉川河口域から石沢川を経由して横手盆地へ流入したことも考えられる。この道は古代の雄勝城と関わりがあると想定される。

⑦ しかし、これら古墳文化は長続きせず、5世紀末葉から 6世紀前葉までには秋田県内では古墳時代の古墳文化の遺跡が確認されなくなる。

⑧ 古墳時代後期(6世紀前半~7世紀前半)の田久保下遺跡(横手市)では、続縄文文化の土坑墓が継続的に構築されるが、それに副葬された遺物は古墳文化のものが主体である。

⑨ 飛鳥時代から奈良時代(7世紀後半から8世紀)にかけて、古墳文化とほぼ同一の地域で、竪穴建物で構成される集落が展開するようになることから、故地としての場所は認識されていたと思われる。

蝦夷塚古墳群。

奈良期~平安期の群集墳。横手盆地南西部,雄物(おもの)川右岸の沖積平野中に立地する。小字名を遺跡名とするが,大字名は造山(つくりやま)で「秋田県の考古学」では「造山古墳群」とする。未発掘調査。江戸初期開田により勾玉が出土。その後も耕作等により,玉類・刀子などを発見。採集された遺物は勾玉・管玉・切子玉・玻璃丸玉・玻璃小玉・茄子玉・刀子・土師器等があり,京都国立博物館と雄物川町が所有する。

古墳は円墳らしく,地元民の話ではかつて遺跡所在地は高台で盛山が多数散布したという。規模の大きな群集墳であった可能性が大きい。遺跡の位置・時期・性格などから,雄勝(おがち)城などにかかわりが深いものと見られる。三上礼子「秋田県における古墳遺跡について」(秋田考古学34・35合併号,昭和53年)。

熊田亮介(秋田大学名誉教授)「被葬者は朝廷に従った蝦夷であると考えられます。」

報告⑦蝦夷塚古墳群(えぞづかこふんぐん)「あきた 埋文」2020年5月6日 

<調査地:横手市 調査主体:雄勝城・駅家研究会

 蝦夷塚古墳群は、昭和59・60(1984・85)年と平成14(2002)年に3度発掘調査が行われ、8世紀代の円形周溝をもつ古墳が計17基検出されています。昨年10月、雄勝城・駅家研究会(おがちじょう・うまやけんきゅうかい)では雄勝城の所在地特定を目指し、4度目の調査を行いました。研究会は同年4月発足の民間団体で、『続日本紀』天平宝字3(759)年9月条に、“陸奥国桃生城(ものうじょう)と出羽国雄勝城を造営する”として国史上に登場するも未発見である「雄勝城」や官衙(かんが)(役所)、寺院などの関連する遺跡を特定するとともに、横手盆地に置かれた城柵などが古代の地域社会に及ぼした影響を究明していくことを目的としています。

 雄勝城探査のための調査を造山(つくりやま)地区にある蝦夷塚古墳群に絞り込んだ理由は次の3点です。

 ❶横手盆地内における雄勝城が造られた8世紀代の集落は横手市内、特に造山地区に集中すること。❷城柵での出土例がある丸瓦・平瓦や円面硯(えんめんけん)が造山地区から発見されていること。❸材木塀跡(ざいもくべいあと)が蝦夷塚古墳群から長さ100.4mにわたり検出されていたことです。材木塀は、雄勝城と同時期に造営された桃生城外郭(がいかく)でも確認されており、城柵の外郭をなす重要な区画施設となります。

雄勝城(おがちじょう/おかちのき)は、出羽国雄勝郡(現在の秋田県雄物川流域地方)にあった古代城柵藤原朝狩が天平宝字3年(759年)に築造したとされる。

現在の雄勝郡域内に、雄勝城と同時代の遺構は見つかっておらず、その造営地は現在も不明である。記紀から推定されている雄勝城の造営地は、「雄物川流域沿岸地で、出羽柵と多賀城の経路上にあり、かつ出羽柵より2驛手前の距離の土地」である。現時点で発見されている城柵遺跡でこの条件に一致するものは払田柵跡のみである。

現在、横手市雄物川町での発掘調査が進められており、払田柵から出土したものと同等のものが出土している。今後、これらの雄勝村周辺遺跡の発掘調査が進むにつれ、古代雄勝城造営地が徐々に明らかにされていくものと期待されている。

天平5年(733年)12月26日 - 出羽柵を秋田村高清水岡に移設し、雄勝に郡を置いて民衆を移住させた。

天平9年(737年)正月陸奥按察使兼鎮守将軍の任にあった大野東人は、多賀柵から出羽柵への直通連絡路を開通させるために、その経路にある男勝村の征討許可を朝廷に申請し、男勝村の蝦夷を帰順させて奥羽連絡通路を開通した。

天平宝字3年(759年)雄勝城の造営が行われた。所轄郡司、軍毅、鎮所の兵士、馬子ら8,180人が春から秋にかけて作業にあたったので、これらの者は淳仁天皇より税の免除が認められた。また、雄勝に驛が置かれた(雄勝驛のほか、玉野、避翼、平矛、横河、助河、嶺基にも驛が新設された)。

天平宝字3年(759年)9月27日 - 坂東八国(下野国、常陸国、上野国、武蔵国、相模国、下総国、上総国、安房国)と越前国、能登国、越中国、越後国の4国の浮浪人2,000人が雄勝柵戸とされた。また、相模、上総、下総、常陸、上野、武蔵、下野の7国が送った軍士器を雄勝桃生の2城に貯蔵した。

天平宝字4年(760年)1月4日 - 孝謙天皇により雄勝城造営を指揮した按察使鎮守将軍正五位下の藤原朝狩が従四位下に叙せられた。このほか、陸奥介鎮守副将軍従五位上の百済足人、出羽守従五位下小野竹良、出羽介正六位上百済王三忠が1階級進級となった。

天平宝字4年(760年)3月10日没落した官人の奴233人と婢277人の計510人を雄勝城に配して解放し良民とした。

天平神護元年(767年)11月8日 - 雄勝城下の俘囚400人余が、防衛にあたることを約束し内属を願ったためこれを許した。

 

沼の柵 横手市公式サイト

沼の柵は後三年合戦(1083~1087年)の激戦地で、当初清原家衡は沼の柵にたてこもり、源義家の加勢を得た清衡軍を迎え撃ちました。四方を水で囲まれた水城と呼ばれた沼の柵は冬まで持ちこたえ、連合軍は、寒さと飢えで多くの兵を失い戦線を維持できなくなり、陸奥へ撤退していきました。

現在、沼柵の位置は、一般的には本丸の土塁や堀の一部などの城郭の跡が残っている蔵光院付近と言われていますが、考古学的には実証されていません。蔵光院以外の推定地は、兵部ヶ沢地区(清原光方の官職が兵部大輔)、造山地区(奈良時代の遺跡が集中し、瓦、円面硯、風字硯が出土)、千刈田・高畑地区(989年銘文の八稜鏡が出土)で、いずれも沼館地域内です。可能性として、角間川街道を挟んで蔵光院地域と千刈田・高畑地区の両方に柵が広がっていたのかもしれません。

沼柵の最有力候補・沼舘城跡 横手市公式サイト

市役所雄物川庁舎から北へ約2㎞の距離にある沼館地区沼柵が沼館地区にあったことは間違いないと思われますが、それがどの場所にあったのか、現在まで特定はできていません。沼舘城跡がその候補地として、今まで沼柵と考えられてきました。沼舘城跡は標高45m。雄物川の流れによって形成された河岸段丘上に立地しています。

当時の公家の日記である「康富記」には、沼柵の戦いの様子が記録されています。「清衡、太守に参り、此の歎きを訴え申すの間、自ら数千騎を率いて家衡が城沼柵に発向す。送ること数月、大雪に遇い、官軍、闘いの利失い、飢寒に及ぶ。軍兵多く寒死し、飢死す。或いは切りて馬肉を食い、或いは太守、人を懐いて温を得せしめ蘇生せしむ」とあり、清原家衡が源義家を退けた戦いであることがわかります。

また、「後三年合戦絵詞」には、清原武衡と家衡が沼柵で会談している場面が描かれており、陣営が沼柵から金沢柵へ移動したことが確認されます。現在まで、沼舘城跡内での発掘調査は行われていませんが、木戸五郎兵衛神社近くの千刈田遺跡では、永延3年(989)の銘がある和鏡が出土しています。残念ながら現在行方不明ですが、発見されれば国宝級と考えられています。10世紀末頃から11世紀のものと思われる鏡の所有者は、清原氏と関連ある人物の可能性が高いでしょう。

秋田県湯沢市 稲庭うどん 佐藤養助総本店



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