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青森県南部町 盛岡藩南部家のルーツ 国史跡・聖寿寺館跡 聖寿寺館跡案内所①

2023年08月13日 21時58分07秒 | 青森県

史跡聖寿寺館(しょうじゅじたて)跡案内所。青森県南部町小向字正寿寺。

2022年10月4日(火)。

三戸町の道の駅「さんのへ」で起床。車内で朝食を食べていると、北朝鮮からのミサイル飛来を告げるVアラートのサイレンが鳴った。その後、国史跡・聖寿寺館跡を見学するため、まず聖寿寺館跡案内所へ向かい、9時過ぎに着いた。

案内所の建物は、室町・戦国期の主殿をイメージした装いとなっていて、内部の展示室には南部氏の歴史を解説したパネルとともに、聖寿寺館跡から発掘された当時の食器や茶器、武具、食べ物などの一部が展示されている。無料。

南部氏のルーツとも言われる南部町では、1539年(天文8年)、24代目・南部晴政の代に焼け落ちた「中世南部氏の中心的居城の聖寿寺館(本三戸城)」の跡や「南部利康霊屋」、三戸町では聖寿寺館の後に南部宗家の居城となった「三戸城」の跡が残る。 

南部氏は清和源氏の流れに属する甲斐源氏の一族で、源義家の弟新羅三郎義光に始まる。甲斐国に土着したのはその子義清からで、義清とその子清光、清光の多くの子等の三代にわたり勢力を拡大し、ほぼ甲斐一国を支配するようになったといわれる。清光の三男遠光は巨摩郡加賀美荘を所領とし加賀美遠光と称した。遠光の三男光行が南部氏の祖となり、のちに父遠光から甲州巨摩郡南部荘を譲られ、南部三郎光行と称したという。

南部氏がいつ頃、奥州に入部したのかは定かではないが、鎌倉時代の末頃までには入部していたと考えられる。

一族には三戸南部氏や根城南部氏(八戸氏)のほか、九戸氏、新田氏などが名を連ね、時に協力し、時に反発し合い、主導権争いを繰り返した。

室町時代になると三戸南部氏は当時三戸と呼ばれていた現在の南部町の聖寿寺館を中心として糠部を治めた

文献史料により三戸南部氏の事績が確かとなるのは13代守行からで、守行は室町幕府直属の「京都御扶持衆」に任命され、伊達・葛西氏と並んで奥州屈指の格式を誇った。1418年(応永25)には馬百疋、金千両を室町幕府4代将軍義持に献上している。

戦国時代になると20代信時、22代政康、23代安信、24代晴政の頃に勢力を拡大し、奥州北部を掌握するに至る。町内には各所にこの時期の城館が残っており、剣吉城には北氏、上名久井城には東氏が居城し守りを固め、南部氏は青森県のほぼ全域から岩手県の北部、秋田県の鹿角地方を支配下に治めた。しかし、24代晴政の代、1539年(天文8)6月14日、南部氏代々の居城である聖寿寺館を家臣赤沼備中の放火により焼失、典籍・什器も灰燼に帰したと伝わる。城館からは当該期の被熱した陶磁器とともに多量の炭化物が確認されている。

聖寿寺館からは当時の南部氏の権威や都との交流を象徴するような、貴重な金箔土器や高級陶磁器が出土している。金箔土器は東北地方では聖寿寺館跡からしか出土していない。

戦国時代から安土桃山時代にかけて、三戸南部氏は南への領土拡張に伴い聖寿寺館(南部町)から三戸城(三戸町)、さらに福岡城(二戸市)へと移り、最終的には盛岡城(盛岡市)を築いて居城とした。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した三戸南部氏の南部家26代当主・信直は、南部氏中興の祖、盛岡藩の藩祖といわれる。

江戸時代に入ってからも南部町は祖先の重要な土地と認識され、聖寿寺館に隣接する三光寺境内には26代信直夫妻の墓石(町指定文化財)、盛岡藩初代藩主(27代)利直霊屋(県重宝)、そして27代利直四男の利康霊屋(国重要文化財)が建立された。

聖寿寺館跡。

戦国時代、北東北最大の戦国大名としてこの地方に君臨していた三戸南部氏の北東北支配の中心となったのが、南部屋形と称された聖寿寺館である。

 建物跡は南北36m、東西42mと東北最大規模を誇る。城館東側には奥州街道、南には鹿角街道が通り、さらに南側には馬淵川が流れ、水陸ともに交通の要衝であったと考えられている。

 聖寿寺館は天文8年(1539)に炎上したと伝えられ、城跡からは当時の熱を受けた高級陶磁器とともに多量の炭化物が出土している。

 

 遺物のほとんどは遺構内からの出土で、日用品、武器・武具、宗教用具、茶道や香道の道具、化粧道具、文具など多種多量で、中世三戸南部氏の物心両面の豊かさがうかがわれる。年代は15世紀から16世紀前葉にかけてのものがほとんどである。

出土した陶磁器のうち中国産のものは、青磁の碗・皿・盤・壺・香炉・酒会壺・鉄斑文瓶・器台、白磁の碗・皿・小坏、青白磁梅瓶、五彩(赤絵)の皿、染付の碗・皿・盤(元染)・壺(元染)、瑠璃釉磁器、青釉小皿、ルソン壺(葉茶壺)などがある。

国産のものとしては瀬戸・美濃焼の碗・皿・天目茶碗・瓶子、越前焼の甕、信楽焼の壺、瓦質土器の風炉や香炉が出土した。

特に威信財と考えられる青磁酒会壺・瑠璃釉磁器などは当時としては国内第1級品の高級品で、南部氏の経済力、文化力を示すものである。

「向鶴(むかいづる)」が施された刀装具。目貫(めぬき)金具。

 中世の「向鶴」としては初めての出土となる銅製刀装具が出土した。

 この刀装具は、聖寿寺館跡の中で最も重要とされる大型掘立柱建物跡(建物B)の柱穴(pit-114)の中から出土した。長さ26mm、幅13mm、厚さ3mmで、刀の柄の装飾品である「目貫(めぬき)金具」の部分と考えられる。年代は15世紀後半から16世紀前葉のものと推定され、1円玉ほどの円が二つ連なる形状をしている。ぞれぞれの面に鶴が彫られ(「鶴丸」)、向かい合った状態となっている。

江戸時代の南部家の家紋は向鶴紋であることが知られていたが、それ以前に使われていたかどうかはこれまで確認できていなかった。南部藩発祥の地の城館である聖寿寺館跡において鶴が向かい合った姿の刀装具が出土したことは、中世南部家の家紋の発生とルーツを考えるうえで重要な資料と言える。

※目貫(めぬき)とは刀の柄と刃が抜け落ちないように穴に差し込み留める釘やそれを覆う金具のことを云う。

南部家の家紋『向鶴』の由来。

向鶴紋、または双鶴紋と称される南部家定紋の起源について二説が伝えられている。

ひとつは、藩祖南部三郎光行が1193年(建久4)の春、将軍源頼朝に従って信州浅間山へ狩に赴いたときに、陣所付近の池に飛来した二羽の鶴を殺さずに射ち落とし、頼朝から賞されたことを記念して二羽の鶴を定紋にしたという説。

もうひとつは、13代南部守行のときの1411年(応永18年)正月、根城南部十代光経が先陣の将として秋田安東氏と山北(仙北郡)での戦中、夜明けの空に二羽の鶴が飛来し、九曜の星が空から降ってくる夢を見て勝利をおさめることができたため、このことを記念して胸に九曜の星をつけた向鶴を家紋と定めたという説である。

はじめ向鶴紋は、鶴の外羽根が7枚、中羽根が5枚、内羽根が3枚であった。1808年(文化5)、36代利敬のとき、高20万石、侍従に任ぜられ、この記念に羽根数7・5・3を改め8・6・3に、1839年(天保10)利済のとき少将に任ぜられたのを記念し、10・8・4と改められたといわれている。

このほか、南部家では南部光行の画像にも見られる割菱(武田菱)、花菱、九曜、松毬(まつかさ)なども定紋としていた。

青森県 下北半島 下風呂温泉「海峡の湯」 大間崎とマグロ 



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