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読書メモ「古代氏族の研究1 和珥氏 中国江南から来た海神族の流れ」(宝賀寿男、2012年)

2024年10月31日 08時55分24秒 | 歴史

読書メモ「古代氏族の研究1 和珥氏 中国江南から来た海神族の流れ」(宝賀寿男、2012年)

 

和珥氏の源流海神族につながる弥生人の一派タイ民族系の「越」の流れを引き、中国の越の最後の本拠地・山東半島から朝鮮半島南部を経て北九州海岸部に渡来し、日本列島に稲作や青銅器文化をもたらした。中国の浙江省海岸地域に興った春秋時代の越の王族は、竜蛇信仰をもつ夏王朝部族の後裔として鰐をトーテムとしたと考えられる。和珥支族の猪甘部首は入れ墨の習俗をもつ。

 

和珥氏の特異な地位難波根子武振熊の「根子」の敬称は天皇と三輪氏・和珥氏のみ三輪氏は神武東征前の畿内大和の主であった磯城(しき)県主の嫡裔で、欠史8代の時期に多くの后妃を出した。武振熊の子は米餅搗(たがねつき)大使主命大使主(おほみ)の地位は葛城氏と和珥氏のみ。

 

瓊瓊杵(ににぎ)尊など日向三代の居地は怡土(いと)郡一帯。神武天皇は彦火火出見尊と海神族の穂高見命の娘・玉依姫の間に生まれた。穂高見命と猿田彦は同一人。神武天皇の皇后・媛蹈鞴(たたら)五十鈴媛の父の事代主神は海神族の磯城県主や三輪君の祖

安曇氏の居地は筑前・那珂郡で、祖神は奴国王家葦原中国、大己貴神(大国主命)の国。

志賀島を拠点し、近江の滋賀郡など各地に志賀の地名を伝えた。安曇氏は神武東征後の3世紀に筑前から畿内に進出し、摂津国西成郡安曇江を根拠として、全国の海人集団・海部を管掌する伴造の地位を得た。安曇氏は内膳司職をめぐって膳(かしわで)氏(阿倍臣一族でのちに高橋氏・浜島氏)と争い失脚。

 

穂高見命の5世代後和珥氏(大栲梨命・押彦命)と安曇氏(小栲梨命)に分かれる。嫡流は和珥氏

和珥氏の本拠地・天理市和邇の東大寺古墳中平紀年銘刀が出土。中平は後漢時代で184~189年。2世紀後半の倭国大乱の時期。ただし、環頭は日本製で4世紀の作とされる。古墳の年代は4世紀前半、中頃、後半と諸説ある。阿倍氏の武淳川別命の墓と推定される桜井市のメスリ山古墳と同時期。

 

和珥氏初代は押彦命3世紀中頃、大倭の和邇里に住む。和邇坐赤坂比古神社。

2代が彦姥津命。小野朝臣、櫟井臣、葉栗臣らの祖。和珥氏拠点の和邇・森本遺跡は弥生時代末期から古墳時代中期に向け大規模化した。

3代彦国葺命崇神朝に活躍し、王族の武埴安彦の謀反を阿倍氏の祖・大彦命とともに討伐した。大彦命らと越前・加賀まで遠征。4世紀前半、東大寺山古墳の被葬者か。兄弟の子孫からは任那に派遣され百済滅亡時に帰国した吉田(きちた)連伊勢の飯高君、壱志君

 

吉備ノ穴(安那)国造。備後福山の神辺・駅家地区。芦田川流域。鞆の浦。

猪甘部首朝廷に豚を献上する職。猪飼、猪養。山城、和泉、摂津に分布。安康・顕宗天皇の食糧を奪い、のちに斬られる。

石見。総社の伊甘神社。猪甘部から益田氏、周布氏、三隅氏ら御神本一族柿本神社

 

難波根子武振熊(建振熊命)。4世紀後半。応神天皇に敵対した仲哀天皇の嫡皇子・忍熊王を討つ。飛騨の両面宿儺を退治した。

和珥氏の墳墓。東大寺山古墳→赤土山古墳→和邇下神社古墳。彦国葺命→大口納命。奈良市春日野若草山頂上の鶯塚古墳は春日臣か。

 

応神天皇の死後、仁徳は皇位継承者の莵道雅郎子を殺して大王となった。和珥氏一族は応神天皇、反正天皇、雄略天皇、仁賢天皇、武烈天皇、継体天皇の后妃を出す。

ただし、仁徳以降の皇位争いで和珥氏が活動した実績はなく、継体の擁立を図ったことはない

 

和珥氏の分岐。仁徳朝ごろ、米餅搗大使主命の子の世代に和珥氏本宗の和珥臣、大宅臣、物部首、春日臣に分かれた。春日臣の系統からまず、小野臣と櫟井臣の系統が分かれ、次に粟田臣、柿本臣が分かれた。嫡流は大春日朝臣となる。和珥氏本宗は欽明朝に断絶した。

天武の八色の姓では朝臣で、大春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、櫟井臣、柿本臣の6氏

和珥氏とその部曲の分布は、大和盆地東北部から山城の宇治、近江の琵琶湖周辺、若狭・越前の日本海域にいたるライン。

 

平安前期の陰陽頭に大春日朝臣真野麻呂。本宗ではなく、船主は山上臣の出で賜姓されたか。柿本人麻呂。中納言の粟田朝臣真人。粟田氏一族に尾張熱田社家。小野臣は山城宇治小野郷から起こり近江で繁栄した。大宅氏の後裔は平安末期まで中下級官人。源満仲、頼義、義家に仕える。駿河・石見の高橋氏らが後裔。

物部首の後裔は布留宿祢となり石上神宮祀官家となる。早く分かれた物部首一族に山上臣があり、山上臣憶良がいる。

 

近江。白髭神社の祭神は猿田彦。志賀郡。真野郷。

米餅搗大使主命の弟の系統・和邇部臣の後裔。富士大宮司家。

湖東。阿倍氏族の佐々貴山君一族。三上氏族の三上祝・蒲生稲置・安国造・犬上県主。

近江八幡の日牟礼八幡神社はもとは日觸で、近江和邇氏の祖名に通ずる。神主は当初櫟井氏

阿倍氏族の海神性志摩の国守を高橋氏が独占。若狭国造。近江守護佐々木氏は佐々貴山君後裔。

和珥氏族・額田国造美濃池田郡を中心として大野郡、安八郡の一部。上磯古墳群・野古墳群

房総の武社(武射)国造尾張知多郡の知多臣氏久松、水野、小河、小川、新海、新美氏。


読書メモ 「古代氏族の研究4 大伴氏 列島原住民の流れを汲む名流武門」(宝賀寿男、2013年)

2024年10月30日 13時52分14秒 | 歴史

「古代氏族の研究4 大伴氏 列島原住民の流れを汲む名流武門」(宝賀寿男、2013年)

1 大伴氏

源流は今のクメール族や苗族で、アジア大陸北方から南方に移動し南蛮といわれた日本列島での始祖はカグツチ。火神迦具土縄文時代に日本列島で原始的な焼畑農業を営んだ山祇族。隼人、蝦夷、土蜘蛛、国栖、佐伯、八束脛なども同族で、縄文人の主体。狩猟に長じ、弓矢を得意にした。中臣氏も山祇族で、蘇我入鹿殺害のとき中臣鎌足は後方で弓に矢をつがえていた

山祇族のトーテムは犬狼愛宕神社の火神カグツチ、月神奉斎、九頭竜神、大国栖御魂神、天手力男神を信仰。北九州若松の戸明神社、長野の戸隠神社手力雄神を祀る。

祖先は筑前夜須郡か肥前基肆郡あたりにいた。天岩戸を開けたとされる天手力男命(天石門別命、手力男、手力雄命)は大伴氏祖・道臣命の5代前にあたる。天孫族のニニギが筑前怡土に移ったとき、大伴氏の先祖も同行神武より先に、畿内・紀伊に移住した紀伊国造氏族の一支族が大伴氏。

 

神武天皇の東征のさい久米部を率いて貢献した道臣命を人代初祖とする。道臣命の原住地は紀伊名草郡(和歌山市一帯)。道臣命は古事記では大久米命の名で登場する。目の周りに入れ墨をしていた。名草郡の族長たちは紀伊国造氏族で、名草戸畔が神武に討たれると、残る紀国造の祖・天道根命ら一族族長たちは神武に降った。紀伊名草郡の大伴連同族では、宇治大伴連、大伴櫟津連、大伴若宮連、榎本連(のち熊野新宮三家の一)がある。

神武が初めて政務を行なったとき、道臣命は諷歌・倒語をもって妖気を払い、大伴氏の宮門警衛の由来となった。大伴氏は各地から上番する人々の管理、軍事・警衛を主とする職掌をもち、靫負部や久米部、佐伯部を率いて天皇警固と宮門警備を担った。大伴とは朝廷に仕えた多くの伴を率いた統率者を意味する。物部氏は物(武器など)の管理を所管し、国軍・警察的な色彩がより強かった。

 

大伴氏の武日命は垂仁朝に武渟川別命らとともに大夫に任じられ、倭建命の東征に従軍した。武日命の弟に乎多弖(おたて)命がおり、陸奥小田郡に留まって蝦夷に対峙し、靫大伴部、丸子部ら後裔の一族を分布した。丸子部の裔が奈良時代に陸奥大国造となった道嶋宿祢嶋足の一族。

崇神朝の各地平定での指揮官は少彦名神系統の氏族(山城・鴨県主→三野前国造一族→三河加茂郡の松平氏)で、大伴・久米氏が指揮官になったのは景行朝の遠征が初めて。大伴武日命の一族はその子の健持の名が現れるだけで仲哀朝の大伴武以、允恭朝の室屋まで正史から姿を消す

道臣命は神武から大和高市郡の築坂邑(畝傍山周辺)に宅地を賜った。道臣命以降の居住地は橿原神宮の南方にあり、近隣や紀伊に支族を分出した。新沢千塚古墳群は大伴・久米両氏に関係する。新沢茶臼山古墳(500号墳)の被葬者は武日命、または健持か。三角縁神獣鏡は4世紀中頃に倭建命が征討に合わせて配布したもの。紀伊那珂郡の粉河寺は大伴連孔子古が開基。その後裔が和佐氏・和佐大八郎。

大伴談(かたり)は紀小弓と新羅に派遣され、戦死した。両氏は起源が紀伊にあると雄略が語る

宮城12門を警衛する門号氏族大伴氏、佐伯氏、山部氏(久米氏族)、壬生氏(大伴氏族)的臣氏(葛城臣氏族)玉手臣氏、建部君氏(倭建命後裔)若犬甘氏・伊福部氏・丹治比氏(尾張氏族)猪使氏(安寧天皇後裔)海犬甘氏(安曇氏族)。

大伴金村は欽明期に任那割譲の責任を物部尾輿に糺問されて失脚。その五人の子のうち阿被布子の流れが主流となる。奈良時代の政争で没落、桓武時代の藤原種継暗殺事件関与で大伴継人は死刑、家持は死後除名。両者の子は流罪。伴善男の失脚後、家持の曾孫・伴保平が参議・大蔵卿。その弟の保在の後裔は下級官人。

 

大和の雄族・越智氏は大伴氏の可能性。伊豆の伴氏は善男の後裔と称す。その後裔に住友氏

ヤマトタケルの征路。相模、房総など東国の丸子氏は大伴一族。三河の幡豆・八名・設楽郡。書紀に「三河大伴(部)直」。郡司クラス。伴助兼。設楽氏、富永氏夏目氏。夏目漱石も。土井利勝

甲賀の伴氏は三河伴氏から平安末期に分かれ、大原・上野・伴・多喜氏、滝川一益、池田恒興、山岡道阿弥大隅の肝属氏は肥後・葦北国造一族の大伴部の後裔。刑部靫部、百済生まれの日羅

相模の波多野氏は佐伯経範の子孫。松田氏も。

 

2 佐伯氏 久米氏

佐伯連。大伴金村の弟・御物が祖。平安時代、今毛人が三位参議。伴氏・佐伯氏は宮門の開門職を南北朝まで務めた。越中立山の佐伯氏の祖は越中守佐伯有若ではなく、佐伯広足の孫・赤麻呂、浄継、河雄の系統。なお、空海の佐伯直氏は応神天皇の弟の後裔である播磨国造の一族。佐伯部は蝦夷の俘囚を管理する職で、佐伯直氏は佐伯連のもとで地方の佐伯部の管理にあずかった。

 

大伴氏族の神社。山城葛野郡の伴氏神社(現在は右京区の住吉大伴神社)。河内志紀郡の伴林神社。佐伯連支族林連。信濃佐久郡の大伴神社。滋野氏・真田氏は大伴氏の可能性

信州安曇郡の仁科氏は大伴姓を称す。飯縄明神、戸隠権現は犬狼信仰

 

久米氏クメは熊・狗奴・クメール人に通じ、弓矢に長じた狩猟民族的な山人。大伴・久米両氏は、崇神前代の3世紀後半に分岐した。久米氏族は大和高市の久米からは早い時期に姿を消し、和邇氏や蘇我氏の支族がその地に入り、蘇我支族の久米氏(久米朝臣)を出した。旧来の久米氏は久米直・連を姓とした。久米奈保麻呂の娘・久米連若女(わかめ、780年没)は藤原宇合の子・百川を生む。

久米直の祖は倭建命の遠征に随行した七拳脛(ななつかはぎ)尾張愛智郡氷上姉子神社祀官家は七拳脛の弟の八甕(やみか)の後裔、山田郡・愛智郡の郡領家

同族の6国造淡道(淡路)、大伯(備前邑久郡)、吉備中県、久味(伊予久米郡)、阿武(長門阿武郡)、天草(肥後天草郡)

吉備中県家の後裔は美作の立石氏、漆間氏(浄土宗祖・法然)ら。漆部(ぬりべ)連。伯耆(鳥取県)羽衣石(うえし)城主の南条氏も同族。物部連に混入された。曽祢連も同様で、本来は久米氏族。平安中期の歌人曽祢好忠。

久味国造の後裔。伊予の守護河野氏の重臣大野氏。大伴家持の弟の後裔と称した。伊予の曽根氏、三好長慶一族も同族。阿波の久米氏は伊予喜多郡久米庄からの来住。摂津島上郡の芥川氏も三好一族淡路の安宅氏、讃岐の十河氏も同族。

 

山部連も伊予の久味国造の後裔で、朝廷の山部を管掌した。5世紀後半に仁賢・顕宗兄弟を播磨で発見した伊予来目部小楯の功績により山部連姓を賜る。藤原鎌足の父・御食子の母は山部連歌子の娘。延暦4(785)年、桓武の諱を避け山宿祢になった。山部氏は門号氏族で陽明門を守った。万葉歌人の山部赤人を出す。子孫は播磨に土着し、三木氏、淡河氏となる。

 

紀伊氏族は大伴・久米と同族。天御食持命の後裔で、紀国造家となる。神武以前に大伴氏族を分岐した。平安朝に武内宿祢後裔と称する紀朝臣家からの入嗣があった。同族とみられる吉野の国栖と通婚して丹生祝を出した。支流には滋野朝臣がある。地方の国造では葛津立国造(肥前藤津郡)、石見国造


読書メモ「古代氏族の研究3 阿倍氏 四道将軍の後裔たち」(宝賀寿男、2013年)

2024年10月29日 09時02分48秒 | 歴史

読書メモ「古代氏族の研究3 阿倍氏 四道将軍の後裔たち」(宝賀寿男、2013年)

 

阿倍氏は孝元天皇の皇子・大彦命から出た皇別氏族とされるが、大彦命は皇子ではなく、神武天皇の息子・神八井耳命の曾孫で多臣氏と同族である。神武天皇から4世代目の孝元天皇(崇神天皇の1世代前)と同世代。

阿倍氏は大和十市郡阿倍の地名と供膳の職掌にちなんで「アヘ」という氏の名をもち、安倍文殊院の東にある高屋阿倍神社を氏神とする。

阿倍氏族の分布は、本拠地の後背地である伊賀・宇陀が稠密で、西国は少ない。また、四道将軍の伝承のある大彦命・武渟川別命父子の遠征経路とほぼ一致する。大彦命は伊賀、近江、若狭、越前、加賀、越後を経て会津に至る路。武渟川別命は伊賀、伊勢、尾張、駿河、房総、那須を経て会津に至る路。

阿倍一族は本宗が絶えたあとは、氏族では布勢臣、引田臣が有力になり、狛臣、久努臣、長田臣などのちに、阿倍朝臣姓に変更した例が多い。地方国造では若狭・那須の国造が同族で、越・加賀の国造は疑わしい。

平安中期以降、安倍氏は安倍晴明を輩出した系統が主流となり、中世からは土御門・倉橋の二家が堂上公家に列し陰陽道・暦道を支配した。

食膳関係の系統では磐鹿六雁命の後裔である膳臣、宍人臣。膳臣の流れの高橋氏は平安期以降、志摩守を世襲し、後裔の浜島氏が江戸末期まで官人であった。

外交関係では得彦宿祢の後裔とされる難波吉士、草香部吉士が古代の朝鮮関係で活躍した。この一族や陰陽道の安倍氏は吉士舞を奉仕した。

北陸。若狭国造若桜部臣。膳臣。越の道君は海神族の磯城県主一族・彦坐王の後裔。

埼玉稲荷山鉄剣のオホヒコ。オホヒコは阿倍氏祖の大彦命。ヲワケが鉄剣の製作者・賜与者。被葬者は知々夫国造(中臣氏)一族

伊賀の御墓山古墳は阿閉臣の祖・伊賀彦宿祢か。伊賀の石山古墳は伊賀臣の祖・彦屋主田心命か。近江の安土瓢箪山古墳は佐々貴山君の祖・大稲輿命(大彦命の子)か。

大和の桜井茶臼山古墳は大彦命の娘・御間城姫(崇神皇后)。メスリ山古墳は武渟川別命。

 

阿倍氏本宗家の動向は、景行朝から宣化朝まで、4世紀半ばから6世紀前半まで不明

応神天皇の皇位簒奪にさいして、旧王統側の忍熊王側についたからではないか。忍熊王側の将軍で最後は琵琶湖に沈んだ難波吉士氏の祖が伊佐比宿禰で、阿倍一族が疎まれたという仮説がある。

本宗家最後の当主は阿倍内麻呂(倉梯麻呂)。安倍文殊院西古墳の被葬者布勢朝臣御主人が阿倍氏の氏上となる。

 

筑紫国造は阿倍氏族ではなく、火の国造と同じ天孫族の五十猛神・建緒組神の後裔。

丈部(はせつかべ)氏。阿倍氏の私有民である部曲(かきべ)か。名張の丈部氏。出自は不明、和爾氏か。

陸奥の俘囚長安倍頼時一族の系譜。京師の阿倍氏とは別系の陸奥土着系陸奥の丈部氏の流れで、郡司級の丈部が賜姓して阿倍陸奥臣となった者を祖とした可能性が高い。安倍貞任の後裔が安東氏で嫡裔が幕藩大名の秋田氏

近江。甲可臣。佐々貴山君。佐々木氏。伊賀。阿閉(敢)臣。伊賀臣。名張臣。

周防沓屋氏は阿倍貞任の後裔と伝え、大内氏・毛利氏に仕えた。櫛辺氏は阿倍仲麻呂の後裔と称し、周防大島西部の屋代を開発し、惣公文職を世襲し、大内氏・毛利氏に仕えた。古代陸奥の丈部氏に関連する諸国造は、阿岐国造の同族だと「国造本紀」に伝える。実際には、沓屋氏と櫛辺氏は同族で、古代大島国造の末流であり、天孫族・玉作氏の支族で物部氏と同族の安芸(阿岐)国造の一族とみられる。

総理の安倍晋三氏の実家は山口県大津郡油谷で、先祖の阿倍宗任の子孫が平家没落後、防長地方に土着し毛利氏に仕えたと伝える。宗任後裔説は疑問が大きく、実際には古代以来の周防大島の安倍一族の流れかもしれない。


読書メモ「古代氏族の研究2 葛城氏 武内宿祢後裔の宗族」(宝賀寿男、2012年)

2024年10月28日 09時01分18秒 | 歴史

読書メモ「古代氏族の研究2 葛城氏 武内宿祢後裔の宗族」(宝賀寿男、2012年)

 

葛城氏は皇別の臣姓の氏が主。ほかに神別で葛城国造系の直姓もあるが,同族ではない。葛城国造族は鴨県主と同じく天孫族・少彦名神の後裔である。

葛城襲津彦(そつひこ)が初代とされるが、大和葛城地方あたりに本拠を置いて活動したのは、その先代の武内宿禰からである。

武内宿禰の活動期間は実際には成務から応神までの60年ほどであろう。武内宿禰は、孝元天皇の孫の屋主忍男武雄心命と紀国造の祖・菟道彦(ウチヒコ)の娘との間に生まれた。大和国宇智郡に因んで武内宿祢という通称を名乗った。実名は不明。北隣の葛城国造家と通婚し、その地に入って子の襲津彦を儲け、襲津彦の代に豪族となり葛城氏を氏の名とした

380年ごろ新羅の重臣・昔于老(奈解王の子)を殺した倭の将軍「于道朱君」は「宇治宿祢」「内宿祢」「武内宿祢」で、倭の使臣「葛那古」は襲津彦であろう。

 

井上光貞のソツヒコ実在論。襲津彦の伝承は、『日本書紀』の神功皇后摂政紀・応神天皇紀・仁徳天皇紀に記される。何れも将軍・使人として朝鮮半島に派遣された内容であるが、中でも、襲津彦の新羅征討を記す神功皇后摂政62年条で、『百済記』を引用し、壬午年に新羅征討に遣わされた「沙至比跪(サチヒコ)」なる人物が美女に心を奪われ、誤って加羅を滅ぼすという逸話が紹介される。これは史実であって、『書紀』紀年を修正して干支2運繰り下げると、壬午年は382年と解釈される。襲津彦は4世紀末から5世紀初めの広開土王碑に記された時代に実在した人物とみられる。380年代に襲津彦は新羅など韓地で活動。襲津彦が韓地から多くの俘虜を倭国に連れ帰ったという記事は葛城地方に残る遺跡で裏付けられる。御所市の南郷遺跡は冶金・金工・韓鍛冶の技術者の居地で、5世紀の馬韓・百済・伽耶系土器が出土する。

 

記紀によれば、襲津彦の娘の磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の3天皇を生んだとされるが、実際には皇后ではなく、仁徳の皇子時代の最初の妃であった。仁徳は応神の崩御後に、皇太子の菟道稚郎子皇子が即位したのを殺害して皇位を簒奪し、菟道稚郎子の同母妹の矢田皇女を皇后とした。

 

葛城氏の本宗は「襲津彦―玉田宿禰―円大臣」と続いて滅んだ玉田宿禰允恭天皇5年(416年)に職務怠慢の罪に問われ、天皇に召し出されて武装したまま参上して、激怒した天皇に誅殺された円大臣安康天皇3年(456年)に安康天皇暗殺の下手人である眉輪王を自宅に匿い、大泊瀬皇子(後の雄略)の軍によって宅に火を放たれて眉輪王らとともに焼殺され、本宗は滅んだ

傍系では、円大臣の弟から出た玉手臣氏、玉田宿禰の兄弟・的戸田宿祢から出た的臣(いくはのおみ)は残った。また、玉田宿禰の兄弟・葦田宿祢の子の蟻臣の娘の荑媛(はえひめ)は市辺押磐皇子の妃となり、顕宗天皇・仁賢天皇・飯豊女王を生んだ。

 

葛城氏同族の諸氏。葛城氏は地方展開がほとんどなかった。葛城臣氏が起こったときには、列島主要部はすでに平定されていたからである。

玉手臣氏は楽人の家となる。的臣(いくはのおみ)氏の祖・的戸田宿祢は仁徳期以降に半島へ派遣された。平城宮の警衛。的門はのちに郁芳門(いくほうもん)となる。

 

武内宿祢後裔と称した氏族。実際にはほとんど仮冒

紀氏火国造祖・建緒組命後裔の筑紫国造一族平群氏は紀氏と同族。巨勢氏筑紫国造と同族の佐賀県主の一族で、本姓は雀部(さざきべ)

 

蘇我氏は武内宿祢後裔を称すが、本姓境部(さかいべ)で鐸石別(ぬてしわけ)命(備前の和気朝臣の祖。垂仁天皇の皇子ではなく、息長氏系統)の後裔とみる。備前から河内、大和の高市郡曽我に定着し、飛鳥で発展したとみる。橿原市曽我の宗我坐宗我都比古神社を奉斎。蘇我馬子は元の本拠だとして葛城県の割譲を推古天皇に要求した。波多臣(羽田臣)も蘇我同族とみられる。

越前の生江臣氏は葛城氏後裔を称したが、彦坐命の後裔である加賀の道君(称阿倍氏)や越前の江沼臣氏と同族。忍海原連・朝野宿祢氏は833年参議の朝野朝臣鹿取が有名。武内宿祢後裔ではなく忍海部造の一族で、彦坐王の後裔とされる日下部連の一族。三河穂国造も同じ。

葛城国造族。2世紀後葉に神武が奈良盆地南部を押さえたとき、葛城国造族・鴨族の祖が先導役をつとめて、功績を認められ、剣根命が葛城国造に任じられた。

遠祖は天孫族の天照大神の子・天背男命(天津彦根命)で、出雲を経由して、その子の少彦名神かその子の代に畿内へ遷住し、葛城地方を中心に居住した。同族の物部氏と同じく神武東征に先立ち畿内に入っているので大和先住民としての色彩が濃い。三輪山麓の大物主神一族と通婚を重ねた。

狭義の鴨族は葛城国造族から北方に分かれて、山城・カモ氏となった。三野前国造も同族。神骨命は実際には山城の鴨県主支流。牟義津国造、池田首の祖。美濃東部から三河に入り、松平氏(加茂朝臣と称す)となる。倭建の西征に随行した止波(とは)足尼は比多(ひた・日田)国造に。

飛鳥時代に直姓。平安時代は宿祢姓の葛木氏が主流。役(えん)直は応神前代に分岐

 

尾張氏海神族で、神武創業時の功臣・高倉下命の後裔葛城地方に住み、葛城氏と通婚を重ねた

垂仁・景行期に乎止与(おとよ)命が尾張東部に移遷し、成務期に初代尾張国造に定められた。尾張という国名は先祖の地葛城の高尾張邑にちなむ。尾張氏系統では笛吹連・若犬養連・竹田連など葛城に残るものがあった。

 

大和葛城の鴨氏海神族で大己貴命後裔。地祇の鴨君・賀茂朝臣大和・カモ氏)の祖は大物主神一族の祖で「賀茂大神」とされる味鉏(あじすき)高彦根命。海神族三輪君の一族・鴨君氏は、鴨族(天神族の山城・カモ氏)遷住のあとにその旧域を占めた。

陰陽道の賀茂朝臣氏はその後裔で、勘解由小路を家号として中世末まで続き、幸徳井家が明治まで続いた。

馬見古墳群葛城国造一族(新山→佐味田宝塚→乙女山)、葛城臣氏、大王家関係が混在

室宮山古墳武内宿祢の墓新木山古墳は葛城襲津彦の墓鑵子(かんす)塚古墳(御所市)は玉田宿祢の墓。屋敷山古墳(葛城市)は円大臣、葦田宿祢、戸田宿祢などが候補。


読書メモ「古代氏族の研究⑥息長氏 大王を輩出した鍛冶氏族」(宝賀寿男、2014年)

2024年10月27日 09時00分33秒 | 歴史

読書メモ「古代氏族の研究⑥息長氏 大王を輩出した鍛冶氏族」(宝賀寿男、2014年)

 

息長氏族はスサノヲ神(五十猛神・イタケル神)の後裔の天孫族で、初代神武天皇を祖とする皇統や邪馬台国王家と同じ天孫族である。神武天皇の3世代前に分かれ、瓊瓊杵尊(神武の祖父)と同世代の少彦名神を祖とする。

プロト息長氏は宇佐国造の支流出身で当初は九州北部にいた。この系統から、応神天皇・継体天皇が出た。

プロト息長氏の嫡系は、九州を出て、四国の讃岐から対岸の吉備東部を経て播磨西部に移った。このときの息長田別命(武貝児命)は垂仁・景行朝ごろの人で息長氏の名をもった。その子が針間国造の祖である稲背彦命(息長宿祢王・大江王)で、稲背彦命と垂仁天皇皇女・阿邪美都媛との間に生まれた子が摂津・河内を経て大和に入り、前王統から大王位を簒奪した応神天皇(ホムツワケ・ホムチワケ)である。

応神天皇は宇佐が故地であるので宇佐八幡(渡来系の鍛冶神)の祭伸とされた。

5世紀前半の息長氏は応神天皇の弟である品夜別命(息長日子王)に受け継がれた。その子または同一人が稚淳毛(わかぬけ)二俣命(息長真若彦命)で、本拠はまだ播磨にあった。その子が大郎子命(佐芸王)で、このころ河内から近江国坂田郡(米原・長浜)に移遷したとみられる。妹は允恭天皇の皇后忍坂大中姫である。私非王、彦主人王と続き、彦主人王の長男が意富富杼(ヲヲホト)王で、二男が継体天皇(ヲホト)である。

意富富杼王、阿居乃王、息長真手王、伊多葉王と続き、息長真人の姓を得る。息長真手王の娘は広媛で敏達天皇の皇后となり、忍坂彦人皇子を生む。その子が舒明天皇で、和風諡号は息長足日広額天皇である。

稚淳毛二俣命の子の大郎子命の後裔を狭義の息長氏とすると、奈良時代初期の兵部卿・息長真人老以外は高官は出なかったが、中世まで下級官人として続いた、息長丹生真人氏は奈良時代に中務省画工司の画師に見える。一族では坂田宿祢から出た南淵朝臣年名が貞観末期に正三位大納言まで昇ったが、その後は衰えた。

補遺

息長氏同族三国君。越前・坂井。波多君(羽田公)。坂田酒人君。南淵朝臣。参議南淵弘貞、大納言南淵年名。

火国造の祖・建緒組命。肥前の水沼別(水間君)。佐賀県主。大和の巨勢氏

筑紫国造。火国造と同族。筑紫君磐井の乱後は筑紫宿祢・筑紫朝臣大和の紀氏・平群氏

大分国造。豊門別命。日向国造。諸県君

讃岐の讃留霊王。綾氏

吉備・播磨。吉備品遅部君、針間阿宗君。吉備磐梨別君。和気氏。宮道別君。宮道氏。

蘇我氏波多臣と同族で、本姓は境部首。播磨の竜山石を好む。

羽咋君と三尾君は同族。伊賀国造と近江の建部君、犬上君も同族。