前回からの続き
ヨーロッパでの複式簿記誕生とその後の会計技術の発展については前回までに述べたとおりですが、日本ではどうだったのでしょうか。
『帳簿の世界史』(Ref-2)には「日本版特別付録 帳簿の日本史(編集部)」が付いていて、「江戸時代には、日本三大商人と呼ばれる伊勢商人、近江商人、大阪(大坂)商人の間で、独自の複式簿記が使われるようになった。」と記されています。ただその実態は「損益計算書や貸借対照表にあたるものが存在しており、また一部には減価償却の概念も取り入れられるなど、西洋式のものと比べても機能的に遜色のない帳簿であった」とあるだけで、具体的にヴェネツィア式とどこが同じでどこが異なるのかはよくわかりません。
調べてみると江戸時代の帳簿に関する具体的2次資料としては次の2つのようです。
Ref-3) 西川登『三井家勘定管見―江戸時代の三井家における内部会計報告制度および会計処理技法の研究』白桃書房 (1993/02)[ISBN-13: 978-4561360476]
Ref-4) 千葉準一『近世江戸期における経済思想と各商家の内部報告会計実践』[URL: http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/3038/1/76-3chiba.pdf]。法政大学学術機関リポジトリからの文献情報によれば、法政大学経済学部学会から(2009/03/09)発行の経済志林という雑誌の記事らしい。
以下のウェブサイト記事も江戸時代の複式簿記に触れていますが、やはり具体的なヴェネツィア式との詳しい比較はわかりません。
w1) Ref-3の著者の西川登教授(神奈川大学・経済学部・現代ビジネス学科)のプロフィール
w2) 英吉利&亜米利加便り(2010年以降はこちら)というブログの 江戸会計と西洋会計(2006/12/12)と題した記事
Ref-3は読んでいないので、Ref-4からわかったことを書きます。
まず江戸時代の複式帳簿とされるものがどんな複式かというと、同じ取引について2種類の数値を出し比較して誤りをチェックできるようにしていた、ということのようです。
----引用-[Ref-4,P12(280)]-------------
ここで「複式決算簿記」とは,ある Entity が支配する経済財の変動として認識されたすべての取引が,勘定・貨幣情報に二重分類され,体系的に決算総括される帳簿記録体系のことをさす。
----引用終わり-------------------
----引用-[Ref-4,P14(282)]-------------
当時の複式決算形式には以下の二つのパターンがあった(高寺,1978;西川登,1993:5)。
[第一の決算形式]:期末資本の二重測定のシステム
期末資産-期末負債=期末資本
期首資本+収益-費用=期末資本
[第二の決算形式]:当期純損益の二重測定のシステム
期末資産-(期末負債+期首資本)=当期純利益
収益-費用=当期純利益
----引用終わり-------------------
一方、他人の資金を預かって商売をするという「資本と経営の分離」に由来すると考えられる借方(debt)と貸方(credit)に該当する概念は生まれてはいないようです。江戸時代も含めて資本と経営がはっきり分離した形態はなかったのだから当然とも言えます。ただしRef-4によれば、別の形の「資本と経営の分離」に近い組織形態があったと考察されています。
----引用-[Ref-4,P18(286)]-------------
三井家「元方」は,企業形態としては,あくまでも当主の「家業」または本家同苗集団であったが,管理体制の観点から見れば,事業部制組織の本社的機構であった。それ故,ここでは各地の店舗を階層的に管理する会計報告制度が要請された。すなわち,「元もとかた方」では「家産」維持のための期末資本算定が要請され,他方,「店たな」では業績評価とそれに基づく経営報酬としての利益分配のための期間「損益」計算が重視された(西川登,1993: 204)
----引用終わり-------------------
またこのような本店-支店関係の他にも、当主-番頭関係という「所有と経営との分離」が貫徹されていたとの考察もあります。そしてこの当主-番頭関係と、「公家と武家」、「帝と摂関」、「将軍と執権・老中」等の関係とを関連付けています[p16-17(284-285)]。
しかしこのような会計技術は、ヨーロッパのように書物で広く広がるということはなく「相互の繋がりと社会性を有しない「秘伝」として各商家内部でのみ伝えられることになった。[p21(289)」ことは、ヴェネツィア式との大きな違いでしょう。ただし『帳簿の世界史』(Ref-2)によれば、各商家の内部ではきっちりと技術伝承がなされ「それぞれの商人たちの間で、江戸時代を通じて大切に扱われていた」とのことです。すなわち「伊勢商人の系譜にあたる三井家では、組織的な帳簿の教育が行われていたこともわかっている。毎年秋になると、閉店後に若い店員を集めて、先輩社員が読み書き算盤などの講義を行うことで、帳簿の技術は脈々と受け継がれていったという。」。内部ではきっちり伝承し、外への流出はきっちり防ぐ、という意味でも「大切に扱われていた」のですね。
なおRef-1,2では、ルネッサンス期やそれ以後の商人たちが、神への想いからの厳しい営業倫理を身に付けたり、金もうけを悪とするキリスト教の倫理観との板挟みに悩んだりという話が出てきます。西洋での商業倫理がカルヴィン派などの宗教倫理に由来するとはよく指摘されますが、では江戸時代の商人倫理はどこからという問題が出てきます。この点についても[Ref-4,p4-11(272-279)]に詳しい考察があります。江戸時代の場合は、武士の倫理からは「「私的」利益のみを追求する情欲をもった人間であるいうとレッテルをはられ,社会の下層に位置づけられることになった」という士農工商の事情があり、それに対抗して自分達のアイデンティティーを生み出す必要があったことになります。
歴史の中の共通法則を探る研究はすべてそうですが、一地域の歴史だけから判断すると他の地域では通用しないということが起きます。私は少なくとも欧日中の3地域くらいは必須で、さらにインドや中東が加わればなおいいと思いますが、それはプロの歴史家にとってもなかなかに困難なことでしょう。西欧に関してはRef-1,2のような一般書が書かれるくらいの蓄積があるようですが、日本に関しては上記の西川登教授の弁[w1]で述べられているように「競争者がほとんど現れない非常にマイナーな分野」というのが実情で、果たしてこの情報が海外の研究者にどれくらい届いているのかは気になるところです。さらには、中国ではどのような発展があったのかなかったのか、という点の研究となると、どの程度行われているのかどうにも心もとなさそうです。
少なくとも日本の読者はRef-2の日本編が読めるのは幸せですね。
ヨーロッパでの複式簿記誕生とその後の会計技術の発展については前回までに述べたとおりですが、日本ではどうだったのでしょうか。
『帳簿の世界史』(Ref-2)には「日本版特別付録 帳簿の日本史(編集部)」が付いていて、「江戸時代には、日本三大商人と呼ばれる伊勢商人、近江商人、大阪(大坂)商人の間で、独自の複式簿記が使われるようになった。」と記されています。ただその実態は「損益計算書や貸借対照表にあたるものが存在しており、また一部には減価償却の概念も取り入れられるなど、西洋式のものと比べても機能的に遜色のない帳簿であった」とあるだけで、具体的にヴェネツィア式とどこが同じでどこが異なるのかはよくわかりません。
調べてみると江戸時代の帳簿に関する具体的2次資料としては次の2つのようです。
Ref-3) 西川登『三井家勘定管見―江戸時代の三井家における内部会計報告制度および会計処理技法の研究』白桃書房 (1993/02)[ISBN-13: 978-4561360476]
Ref-4) 千葉準一『近世江戸期における経済思想と各商家の内部報告会計実践』[URL: http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/3038/1/76-3chiba.pdf]。法政大学学術機関リポジトリからの文献情報によれば、法政大学経済学部学会から(2009/03/09)発行の経済志林という雑誌の記事らしい。
以下のウェブサイト記事も江戸時代の複式簿記に触れていますが、やはり具体的なヴェネツィア式との詳しい比較はわかりません。
w1) Ref-3の著者の西川登教授(神奈川大学・経済学部・現代ビジネス学科)のプロフィール
w2) 英吉利&亜米利加便り(2010年以降はこちら)というブログの 江戸会計と西洋会計(2006/12/12)と題した記事
Ref-3は読んでいないので、Ref-4からわかったことを書きます。
まず江戸時代の複式帳簿とされるものがどんな複式かというと、同じ取引について2種類の数値を出し比較して誤りをチェックできるようにしていた、ということのようです。
----引用-[Ref-4,P12(280)]-------------
ここで「複式決算簿記」とは,ある Entity が支配する経済財の変動として認識されたすべての取引が,勘定・貨幣情報に二重分類され,体系的に決算総括される帳簿記録体系のことをさす。
----引用終わり-------------------
----引用-[Ref-4,P14(282)]-------------
当時の複式決算形式には以下の二つのパターンがあった(高寺,1978;西川登,1993:5)。
[第一の決算形式]:期末資本の二重測定のシステム
期末資産-期末負債=期末資本
期首資本+収益-費用=期末資本
[第二の決算形式]:当期純損益の二重測定のシステム
期末資産-(期末負債+期首資本)=当期純利益
収益-費用=当期純利益
----引用終わり-------------------
一方、他人の資金を預かって商売をするという「資本と経営の分離」に由来すると考えられる借方(debt)と貸方(credit)に該当する概念は生まれてはいないようです。江戸時代も含めて資本と経営がはっきり分離した形態はなかったのだから当然とも言えます。ただしRef-4によれば、別の形の「資本と経営の分離」に近い組織形態があったと考察されています。
----引用-[Ref-4,P18(286)]-------------
三井家「元方」は,企業形態としては,あくまでも当主の「家業」または本家同苗集団であったが,管理体制の観点から見れば,事業部制組織の本社的機構であった。それ故,ここでは各地の店舗を階層的に管理する会計報告制度が要請された。すなわち,「元もとかた方」では「家産」維持のための期末資本算定が要請され,他方,「店たな」では業績評価とそれに基づく経営報酬としての利益分配のための期間「損益」計算が重視された(西川登,1993: 204)
----引用終わり-------------------
またこのような本店-支店関係の他にも、当主-番頭関係という「所有と経営との分離」が貫徹されていたとの考察もあります。そしてこの当主-番頭関係と、「公家と武家」、「帝と摂関」、「将軍と執権・老中」等の関係とを関連付けています[p16-17(284-285)]。
しかしこのような会計技術は、ヨーロッパのように書物で広く広がるということはなく「相互の繋がりと社会性を有しない「秘伝」として各商家内部でのみ伝えられることになった。[p21(289)」ことは、ヴェネツィア式との大きな違いでしょう。ただし『帳簿の世界史』(Ref-2)によれば、各商家の内部ではきっちりと技術伝承がなされ「それぞれの商人たちの間で、江戸時代を通じて大切に扱われていた」とのことです。すなわち「伊勢商人の系譜にあたる三井家では、組織的な帳簿の教育が行われていたこともわかっている。毎年秋になると、閉店後に若い店員を集めて、先輩社員が読み書き算盤などの講義を行うことで、帳簿の技術は脈々と受け継がれていったという。」。内部ではきっちり伝承し、外への流出はきっちり防ぐ、という意味でも「大切に扱われていた」のですね。
なおRef-1,2では、ルネッサンス期やそれ以後の商人たちが、神への想いからの厳しい営業倫理を身に付けたり、金もうけを悪とするキリスト教の倫理観との板挟みに悩んだりという話が出てきます。西洋での商業倫理がカルヴィン派などの宗教倫理に由来するとはよく指摘されますが、では江戸時代の商人倫理はどこからという問題が出てきます。この点についても[Ref-4,p4-11(272-279)]に詳しい考察があります。江戸時代の場合は、武士の倫理からは「「私的」利益のみを追求する情欲をもった人間であるいうとレッテルをはられ,社会の下層に位置づけられることになった」という士農工商の事情があり、それに対抗して自分達のアイデンティティーを生み出す必要があったことになります。
歴史の中の共通法則を探る研究はすべてそうですが、一地域の歴史だけから判断すると他の地域では通用しないということが起きます。私は少なくとも欧日中の3地域くらいは必須で、さらにインドや中東が加わればなおいいと思いますが、それはプロの歴史家にとってもなかなかに困難なことでしょう。西欧に関してはRef-1,2のような一般書が書かれるくらいの蓄積があるようですが、日本に関しては上記の西川登教授の弁[w1]で述べられているように「競争者がほとんど現れない非常にマイナーな分野」というのが実情で、果たしてこの情報が海外の研究者にどれくらい届いているのかは気になるところです。さらには、中国ではどのような発展があったのかなかったのか、という点の研究となると、どの程度行われているのかどうにも心もとなさそうです。
少なくとも日本の読者はRef-2の日本編が読めるのは幸せですね。
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