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架空歴史学?:赤上裕幸『「もしもあの時」の社会学:歴史にifがあったなら』

2018-12-16 06:09:26 | 歴史
 本ブログでの架空世界カテゴリーのいくつかの記事で書いてきたように、私はリアルに設定された架空の世界や架空の歴史というものが好きです。架空の歴史でも、一部のフィクション(いや多くのかな?)のように科学的には起きそうもない事を入れたりせずに、正しく証明された史実と科学的推論[*1]だけを使って構成した架空歴史には学問上の意味もありそうに思えるのですが、「歴史にifはない」という言葉も広く流布しています。この本はまさに、歴史のifにも学問上の意味があるということを社会学者が書いた本です[Ref-1]

序 章 歴史にifは禁物と言われるけれど
 1 素晴らしき哉、人生!
 2 時は分かれて果てもなく[*2]
 3 昔ポストモダン、今ポストトゥルース
第一章 時間線を遡って[*3]
 1 歴史改変SFの歴史
 2 学問としての「歴史のif」
 3 六〇/七〇/八〇
第二章 一九九〇年代日本の架空戦記ブーム
 1 大逆転! 太平洋戦争史
 2 荒巻義雄のシミュレーション小説
 3 ガラパゴス化する日本の「歴史のif」
第三章 ファーガソンの「仮想歴史」学派
 1 ヴァーチャル・リアリティ時代の歴史学
 2 反実仮想はシミュレーション
 3 操作された歴史?
第四章 「歴史のなかの未来」
 1 マックス・ウェーバーと市井三郎
 2 フィリップ・テトロックと二つのパラダイム
 3 リチャード・ルボウと偶然の科学
終 章 もっともっと多くのものが
 1 未来小説の「タイム・ディファレンス」
 2 「未来の他者」という視点

 「もしもあの時--」という思考法を「反実仮想」と呼びますが、序章ではその様々な事例を挙げて反実仮想の何たるかを説明しています。分析哲学(Analytic Philosophy)における可能世界(Possible world)の紹介もしています。可能世界(Possible world)は常識的にはありえない世界も含む概念であり、どちらかというと論理学上の抽象概念なので歴史のifほど具体的なものではないのですが、日本語の入門書としては三浦俊彦『可能世界の哲学』[Ref-2]が適切のようです。

 1~3章でフィクション作家も歴史家も含む「歴史のif」の考察に挑んだ歴史が述べられています。巻末の参考文献には、私の知らなかった著作も含む主要な「歴史のif」作品が並んでいてうれしいですね。「歴史にifは禁物」という言葉が流布している通り、正統派歴史学でも歴史教育でも「歴史のif」は冷たい扱いをされてきたのですが、それでも歴史学でも反実仮想は重要だという歴史家もいて、1990年代以降にその流れは強まりつつあるということのようです。その中でもニーアル・ファーガソン("Niall Ferguson")という歴史家の考えに著者は共鳴しているようです。

--------引用開始-序章 p19--------
 歴史上の「ありえたかもしれない可能性」は、生物学や地理学など、自然科学の分野でも活用されてきた。進化生物学者スティーヴン・ジェイ・グールドは、『ワンダフル・ライフ』(一九八九年)において生物進化の別の可能性に光を当てた。書名は、本書冒頭で紹介したフランク.キャプラの映画に由来する。
  (中略)
 人文科学や社会科学の分野では、実験室で作業を行うことができないため、反実仮想が代役として機能する余地は十分にあったはずだ。ところが、肝心の歴史学者は、「歴史のif」に否定的な態度を取ってきた。時間を操る術を持たないわれわれは、「もうひとつの歴史」についてあれこれ言うことはできても、仮説の正しさを証明することはできない。反証可能性を持たない仮説に対して歴史家は冷酷だった。
--------引用終り-------------

 4章では20世紀初頭のマックス・ウェーバー("Maximilian Karl Emil Weber"[英語版];"Maximilian Carl Emil Weber"[独語版])と1960年代の市井三郎による先駆的研究から、良い反実仮想と悪い反実仮想との区別について論じています。そして5章では今後に向けての著者の抱負とも取れる考えを述べています。


 さて私が思うに、歴史学が単なる史実の解明と羅列に終わるのではなく、なぜそうなったかという原因を求めたり、歴史を動かす法則のようなものを求めたりといったことをも目指すならば、実際には起きなかった歴史のifを想定することは論理的必然です。歴史上の出来事の原因を求めるということは「もしもその原因がなければ、その出来事は起きなかった」という命題を検証することに外ならないからです。この本の著者も次のように述べています。

--------引用開始-序章 p19--------
重要なことは、ヒトラーの影響力を分析しようとすれば、「ヒトラーが存在しない」状況のシミュレーションが必要だということだ。
--------引用終り-------------

--------引用開始-序章 p27--------
 しばしば歴史のlf」は歴史の原因を探究する時に用いられる。歴史上の出来事は一度しか起こらないので、反実仮想は因果関係の推定を可能にしてくれる有効な方法なのだ。カーが『歴史とは何か』で指摘したように、「歴史の研究は原因の研究」であるならば、歴史家も無意識のうちに反実仮想の思考を行っていることになる。
--------引用終り-------------

 にもかかわらず「歴史にifは禁物」などと誰が言い出したのかは定かではなく、この本でも最初に言い出した人物は書かれていませんが、「歴史のif批判」の急先鋒として上記にも引用されているカー("Edward Hallett Carr")の『歴史とか何か』(1964)[Ref-3]が挙げられています[序章]。

 カーが歴史のifに批判的だった理由は、ソ連の歴史の執筆中にボルシェビキと対立するグループから「勝利者史観に陥っている」との批判を受けたためだとされています。つまり「(自分たちに心地よい)別の歴史もあり得たはずだ」という感傷を歴史研究に持ち込むのはよくない、と考えたためらしいのです。また1990年代以降の反実仮想の登場が左翼的思想の弱体化とほぼ同時だったこと、ポストモダン(postmodern)の流行直後だったことなどから、「反実仮想は右派の主張だ」「反実仮想はポスモダニズムだ」という批判も、反実仮想に対しなされました。

 以上の2つの批判は、いわば悪用されたための批判であり反実仮想という方法論そのものへの批判としては不適切でしょう。方法論そのものの弱点としては次の点がありそうです。

 1.検証ができない :これは科学的方法としては致命的になりかねません。
 2.「こうだったら良かったのに」という未練に引きずられ勝ちである
 3.歴史研究が扱うのは、「存在した過去」であって「存在したかもしれない過去」ではない

 2に関して本書には未練学派という言葉があります[序章2節]。これはカーによる"Geschichtenscheisenschlopff"の清水幾太郎による訳語です。第1章2節にはユートピア(utopie/a)をもじったユークロニア(uchronie/a)という言葉が登場しますが、これはフランスの哲学者シャルル・ルヌーヴィエ(Charles B. Renouvier)の『ユークロニー---歴史の中のユートピア』から取られた言葉で、この本も「自らの理念である共和制やヨーロッパ連合が実現しなかった無念の思い」を込めたものだそうです。また反実仮想を擁護するニーアル・ファーガソン自身が「希望的観測(wishful thinking)」の罠に陥らないようにと自戒しているとのことです[第3章1節]。

 3は、アメリカの経済学者で数量的方法を用いた経済史の第一人者で1993年ノーベル経済学賞受賞者のロバート・フォーゲル(Robert William Fogel)による『鉄道とアメリカの経済成長(Railroads and American Economic Growth)』(1964)を、経済史の研究者フリッツ・レードリックが批判した言葉です[第1章2節]。

 一方で反実仮想を全否定する歴史研究は「後知恵バイアス(hindsight bias)」に陥りやすいと指摘されています[第3章1節]。これは既に起きたことについて「必然的であり予測できた出来事だった」と思い込んでしまうバイアスです。例えばいわゆるコメンテーターとか評論家とか呼ばれる人達が社会や世界情勢の予測を発表することがよくありますが、いざ予測した時点になったときに、実際とは異なる自分の予測を再現できずに、実際に起きたことを自分が予測できたと思い込む「知ったかぶり」の態度を示すことが多いらしいです。これは後知恵バイアス(hindsight bias)という言葉の提唱者である認知心理学者のバルーク・フィッシュホフ(Baruch Fischhoff)の実験の結果です[*4] 。アメリカの心理学者フィリップ・テトロック(Philip E. Tetlock)と社会学者アーロン・ベルキン(Aaron Belkin)編『世界政治に見る反実仮想の歴史実験(Counterfactual Thought Experiments in World Politicd)』(1996)では後知恵バイアスによる確信のことを「忍び込む決定論(creeping determinism)」と呼んでいます。

 思うに上記の反実仮想への批判の3は、まさに忍び込む決定論に陥る道です。では反実仮想による歴史研究が2の希望的観測に陥らず、1の検証不可能性の壁を乗り越えるにはどうすればよいのかが問題です。

 ファーガソンは過去の人達の視点に立つことを強調しています。現在の我々が史実として知っている出来事も、それ以前の過去の人達にとっては未来であり、その時点では複数の可能性の中のひとつでしかなかった、という視点です。「それがどうした?」ということを説明したり、本書の説明を理解したりするのはなかなか難しい面もあるかも知れません。私が思うに、複数の未来を視ていた過去の人達の立場は、複数の未来を視ようと試みている現在の我々と同じ立場であり、現在の我々にとって有用なのは、同じ立場に身をおいた過去の人達の視点であろう、という点が重要なのではないでしょうか。

 本書の著者の赤上裕幸は「起こったこと」と「起こらなかったこと」との間に「起こりえたこと」という第3の選択肢を提案しています[序章3節]。また反実仮想の歴史(Counterfactual history)を、歴史改変SF(Alternate history)に近い「エッセイ型」と厳密に学術的観点から分析を行う「学術分析型」とに分類しています[第1章1節]。「起こりえたこと」と言えども現実に存在していないのだから学術的分析の価値すらない、というのが極端な反実仮想否定論ですが、それは既に述べた難点があります。ではどうすれば「学術分析型」になりうるのか? というのがこの本のテーマですが、なかなかに答えは難しいようです。

 著者の試みは本書をご覧いただくとして、私なりの考察を次回に書いてみましょう。



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Ref-1) 赤上裕幸『「もしもあの時」の社会学:歴史にifがあったなら』筑摩書房 (2018/11/12)
Ref-2) 三浦 俊彦『可能世界の哲学―「存在」と「自己」を考える(NHKブックス)』日本放送出版協会 (1997/02),ISBN-13: 978-4140017906
Ref-3) E.H.カー;清水幾太郎(訳)『歴史とは何か(岩波新書)』岩波書店(1962/03/20), ASIN: B000JAL794

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*1) 自然科学のみならず、心理学や社会科学、経済学、なども含む。
*2) ラリー・ニーヴン(Larry Niven)のSF作品「時は分かれて果てもなく(All the Myriad Ways)」
  小隅黎(訳)『無情の月』早川書房(1979/01)に収録。
  a) "Manuke Station : SF Review"
*3) ロバート・シルヴァーバーグ(Robert Silverberg)のSF作品「時間線を遡って(Up The Line)」
  a) ロバート・シルヴァーバーグ;中村保男(訳)『時間線を遡って(創元SF文庫)』東京創元社(1974)
  b) ロバート・シルヴァーバーグ;伊藤典夫(訳)『時間線をのぼろう【新訳版】(創元SF文庫)』東京創元社(2017/6/11)
*4) ニクソン訪中時(1972)の結果予想を題材にしたもの。

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