「トマソン」
本居 千架
ー トマソン ー
「何、これだけ? 他の荷物は?」
「引越し屋の『一時保管』頼んだ」
「何なら、このまま居たら」
「いやいや、仏間を占拠てのもね、ここ客間兼用だし」
客間と言っても、年に一度親戚が線香をあげに入る程度のことで空き部屋には変わりない。今でこそ仏間のこの部屋も元々は姉が戻る場合に備えてキープしておいた部屋であって、姉もそれは解っている。
「けどまさか、移転先でまた再開発に引っかかるとはね。ま、そのおかげで今度こそあの、とちのき通りのマンションに入れるわけだから、結果オーライって言うか御の字って言うか」
「取り壊しなら敷金も返ってくるだろうし、引っ越し代も立ち退き料も出たんだろ」
「退居と入居がずれるから引っ越し費用がかさむけどね。悪い、これいい?」
「ああ、今どかす」
前の住人が出るまでの約一ヶ月、姉は「間借り」と断って、この住んだことの無い実家に帰ってきた。
「ずいぶんと扱いに差があるじゃない」
クローゼットに入れっ放しになっていたプラケースの中から、上目遣いに、うらめしそうに覗いてるソフビを指して姉が笑っている。
「コレクションケースに入れてやんないの? この、ピグモン? ガラモン?」
「ガラモン」
「なんだ、ピグモンじゃないのか。かわいそう」
「何が」
「やっぱピグモンでしょ、ガラモンじゃないよね」
姉は、きっとピグモンだったならもっと違っただろう手つきで、取り出したガラモンを逆さにしたりひっくり返したりしている。
「最期ね、かわいそうなんだよね、ピグモン。そうかガラモンなのか。そうかー、なら、まぁいっか、別にここでも」
使い回しの怪獣スーツでも、ピグモンなら、かわいそうだってか? ガラモンは残念な奴じゃないぞ、別に。
「ほんと。あんたは一時期なんにでも書き込んでたよね、自分のものって」
つっこみの様(さま)でガラモンで人を指した姉の手が、ふいと止まった。
「M、Kか。平仮名じゃないんだ。まあ足の裏には、二つの方が収まり易いんだろうけど」
「けど、何」
「これじゃもしかしたら意味無かったかもって、仮定の話。もっともあたしは、おもちゃに名前入れたりしないけど」
「何それ」
「先に『実』有りきってこと。知らない? でも産まれたのがあたしだったから、太陽の惠のめぐみにみの字を足した惠実に最初しようとしたらしいんだけど。でもそれだと二人ともM・Kになるじゃない? 紛らわしいからそれはやめようって、て、だいたいまだ産まれてもいないのに、次が男とは限らないのにね。まあ、あたしは朱実で良かったけど」
「なんで『実』なわけ?」
「さあ。なんだか、自分が晶子で自分は子の付く名前で嫌だったとか、やたらいきり立ってたのは覚えてるけど。ずいぶん昔のことだし、あたしは自分について聞けたから別にもう。やっぱり、上が日下だからじゃない? 日の下に実る実、って?」
「なんだそれ、安直な」
「何、気に入らないわけ? 日下実」
「字面がさ、簡単て言うか簡素って言うか、小学校の低学年で習う漢字だからさ。のくせ、まず一発で読んでもらえないだろ。あげく馬鹿がヒゲミだの、『ヒゲミちゃん』だの」
「あっはは。そうだそうだ、母さんも『昔、ヒミコってあだ名付けられた』って怒ってたんだ。ヒミコっ、ヒミコなら別にっ、いいじゃないね」
笑いながら「別に」かよ。
「そっか。日が三つで、ヒミコか。なるほどね」
「何、また」
「いや、結婚したおかげで今や、女王から、ヒヨコになっちゃったのかって。あ、これ内緒ね」
こいつ。完璧、面白がってる。
「自分はいいよな、朱実で良かったんだから」
「おかげさまで。でも変えたところで結局、今度は親子で同じなんだよね。自分となら構わないのか、なんか嘘くさいな。いや、でもあの人、天然て言うか、なんて言うか……」
いいよ別にそんなこと、同じだろうと同じじゃなかろうと、イニシャルなんかどうでも。くそっ、不公平だな。好きなほうとか、候補からとか、後からマジ自分で選べるならいいのに。全く、自分の名前なのに自分の自由にならないって、間違いなく生まれて一番最初に背負う不条理、……だ、
「何」
俺の部屋の前で、ドアを開けて待っている姉が訝しげな顔でこっちを見ている。
「理不尽とか、不条理だとか、そんなとこ?」
マジっ!?
「それを言うなら、あけみって言って先ず『明るく美しい』を連想されて、てのも似たようなものよ。何考えてるか解るし、こっちはそっちと違って期間限定じゃないし。まあ、親の自己満のキラキラ? トンデモネームを一生てのに比べたらね、って比べる次元の話でもないけど。別に、さすがにガキじゃあるまいし……、それ、まさか職場での話じゃないわよね」
「あたりまえだろっ。ガキは守さ。あいつ、いつまで経ってもバカだからっ!」
「守って、本屋継いだの? 会ってるんだ」
「地元だから、嫌でも見つかるんだ」
言い終わるのを待たずに、プラケースをぶら下げたままの俺を尻目に、姉は部屋に入りコレクションケースのガラス戸の前へ真っ直ぐ向かって行った。
「ねえ実くん、実くん。これほんとにピグモンじゃないの? ピグモンてことでここに飾らない? どうせ同じなんだし」
俺は姉の立つその脇を選んで、これ見よがしにケースを下ろした。
「ガラモンとして飾るならいいけど」
「頑なだなー、君。ソフビの名前に、そこまでこだわるか」
そっちこそ。そっちだって、ピグモンとガラモンは違うって思ってるからだろ。
「ま、いいや。君、プラにお帰り」
姉は、充分なスペースを確保した後、今度は両手で丁寧にガラモンを横たわらせた。
だからー、おんなじだからって、こいつはピグモンじゃないんだって!
「さて、ひと休みしよっ。ケーキ買っといたから」
俺の、無言の叫びをあっさり無視した姉は、意に介す様子も見せずそのまま部屋を出て行った。
「こうちゃー? コーヒー?」
「モンブラン?」
「無かったー。アップルパイと、サバラン」
「なら紅茶」
「私はコーヒー」
「解ってます」
冷蔵庫を閉める音がして。パタパタとスリッパの音を立てながら、大きな箱の上に皿を載せた姉が居間に入ってきた。
「なんかレトロな人形の絵だな。どこ?」
「近江屋さん。柏水堂、今日閉まってたから」
「あんた、なかなか戻ってこないと思ったら、淡路町まで行ったの? そこらのコンビニで間に合わせればいいのに」
「『セ・アルジャン』が売り切れだったら林檎って決めてたのっ。神田ベーカリーの『ポム』は無くなっちゃったし」
「神田さん、もう無いわよ」
「えっ? 嘘っ! なんで!」
「鳴ってるぞ」
「あぁっ、ちょっと待って」
言うが早いか慌ただしく出て行った姉は、やかんの音を止めると、どうしたらと思えるスピードでお茶を淹れ戻ってきた。
「嘘でしょ、いつ?」
「引越ししたのは昨年末だけど。おうちが取り壊されたのは、年明けてからよね?」
「え? ああ、そうかな」
「なんでー、教えてよ! 密かにポムの復活を期待してたのに。綿徳に伊勢屋さんに神田さん、なんで皆無くなるわけー」
皆……食べ物ばっかだな。
「ああ懐かしいわね、綿徳。小豆のモナカアイス好きだったわ」
「バニラよ、練乳味のバニラ。ちょっと氷が混ざってしゃりしゃりしてた」
「やっぱ伊勢屋だろ。あの辛めの醤油だれの焼き団子は、甘ったるいみたらしとは次元が違うって言うか、どこにも無い」
「そうっ、他には無いのよ! 引越してどこか他でお店開いてるとか聞いてない?」
「聞かないわね。仕舞う前『やめる』って言ってたし、伊勢屋の若旦那さん」
「神田さんは?」
「神田さんはご主人、おじいさんがね、身体悪くしてからケーキ作らなくなって、パンのほうは変わらずやってたけど、どうも体調が思わしくないみたいで。あそこは一人息子さんがお勤めに出て結婚して別に住んでるから後継ぐ人が居ないでしょ。やれるうちはって、ご夫婦で長いこと頑張ってこられたけど、お店開けてるとなかなかお医者さんにもかかれないから息子さんが心配されてね。お家も古くて年寄り二人っきりじゃ危ないし、前々から立ち退きの話も出てるんだからこの辺で、って言われたとかで。それで入院された、されるのを機にね、ここ引き払って一緒に住むことにしたんですって」
「ケーキやめちゃってたんだ。そう言えば前リクエストした時、ポムはチョコや他のケーキの切れ端がある程度たまらないと作れないから、って言われたんだけど。今考えると、たまらないって、それってその頃からケーキ自体の数が減ってたってことよね。確かに総菜パンも種類が多かったから、大変っちゃ大変だったんだろうけど。でもやめちゃうって、えーっ、ほんとにもう二度と?」
「前居た職人さんもとうの昔にやめちゃってるし、他に作り手が居ないんだから、しょうがないでしょ」
「蕎麦屋じゃないけど、暖簾分けみたいなのも無かったわけ?」
「神田さんは元々はお菓子屋さんだからね、ゼリービーンズや薄荷糖や、菓子パンなんか売ってた」
「ああ、量り売りのね。駄菓子屋によく有る四角い、ガラスの蓋を開け閉めするケースがずらっと並んでた。実、覚えてる?」
俺は口に含んでいると言わんばかりに素早く首を振り、含んだふりをしたままカップに手を伸ばして、お茶を飲み干した。
「そのガラスの陳列ケースを半分にして、代替わりした今のご主人が自分でパンを作るようになってケーキ置くようになって。『商店』から『ベーカリー』に屋号が変わって、そのうちに、お煎餅の入った地球瓶もガラスケースも無くなって」
俺は覚えていない、あのガラスケースがいつ無くなったのか。ばら売りのバターボールや十円のフーセンガム、色とりどりのグミ。いつも目移りした、そのくせ同じものばかり選んでた。なんでもっと……
「ずいぶんと、昔のことね。パン屋さんも八百屋さんも昔は何軒も有ったけど、神保町もすっかり様変りしちゃったし。神田さんのあの辺りも近隣と合わせて何か、計画が有るのかもしれないわね」
「帰りに近く通ったけど別に、取り敢えずって感じのコインパーキングは、ぽつぽつ有ったけど。淡路町のほうは、近江屋さんの向かい側は通りのずっと前(さき)まで白い鉄板で覆われてて、かなり大きな再開発みたいじゃない。うちみたいに、あれ? あの一画って、まさか淡路公園にまで掛かってたりとかしないでしょうね」
「淡路公園なんて、あんた知ってるの?」
「ホームは錦華公園だけど、西神田公園だって神田公園だって皆遊びに行ったわよ」
「淡路小も確か、小川小と同じ時期に統廃合で閉校になったでしょ。錦華小は『お茶の水小学校』に名前が変わっただけで残ったからいいのよ。小川小の跡地は広場になって母校は無くなっちゃたし、西神田だってそう。どこも皆変わっちゃって、公園だって整備されて昔の面影なんて残ってないんじゃないの」
「あそこは錦華公園と同じで台地だから、坂に山が残るみたいな形は変わってないのよ。もし、引っ掛かってたら」
「淡路小の跡地利用だとすると、公園も一緒じゃないの」
「ええーっ、やめてよ、せっかく戻ってきたのに」
「最近はどこもかしこも、ちょっと見ないうちに更地になってたり、お店だって入れ替わりが激しいから覚える前に変わっちゃったりするのよ」
「覚える前に上書きされちゃうわけか」
「上書き?」
「ああ、更新、更新。更新ってもコインパーキングじゃ更地と変わりないけどね。なんでだろう、見てないわけじゃないのに、更地になっちゃうと前何が有ったのか思い出せなくなるのよね。さっき見たとこだって、なんの跡だか解らないもの」
「更地も一軒ならまだ。まとめちゃうとね、駄目よね。思い出そうにも、うちなんか『ここ』ってさえね……」
タワーマンションが建ち、路地や横丁が消滅した今となっては、昔の家並みを辿ることすらできない。
「それで、具合のほうは。入院て引越し先じゃなくて、あれ? そう言えば仮契約で御茶ノ水に行った時会ったの、やっぱり神田さんのおばちゃんだったんじゃ。坂下りてくる人が似てたから会釈したんだけど、目が合ったのにスルーされたから人違いかと思ってたけど。やっぱそうよね、忘れちゃったのかしら、まさか惚けちゃったとか」
「なに失礼なこと言ってんの。忘れたんじゃなくて覚えてなかっただけじゃないの、あんた顔薄いから」
「どっちが失礼よ」
「おばあちゃんなら、この間も、おうち跡の近くで見かけたわよ。お見舞いの帰りだったのかもね」
「ごまかされないわよ」
神田さんにはあの日以来、会っていない……
あの日から。あの日は、遠足の前日だった。あの時あいつがヒゲミなんて言わなければ。
「おれ、これ買うから、ヒゲミ、チョコ買えよ」
「えー、おれはラスクとキャラメルと、うまい棒って決めてんだから、守買えよ」
「三◯◯円超えちゃうからさ、だからさ。いいじゃん、ヒゲミちゃん」
「やめろよ」
「ひでみ君て言うの、ぼく」
「違う違う。ヒゲミ、ヒゲミ!」
「ひげみ?」
違う。
「……、ヒゲミっ」
「俺はヒゲミじゃないっ」
「実で呼んで無視して、ヒゲミで返事するってどうよ。あんた人の話聞いてなかったわね。いいわもう、カップ貸しなさいよ、おかわり淹れるから」
「あ、あ」
そうじゃない。
あのあと。喧嘩して何も買わずに店を出た俺は、おばさんが夕飯のしたくで店先に出てこない時間にもう一度。おじさんは奥に居て、買う時に声をかければ良かった。
俺は、手の届かない棚の上に有ったチョコボールを取ろうとして、手前に有ったケースに膝をついて、蓋を。
怒られると思った。でも。
「どうした、手をついたの? 大丈夫か?」
ガラスの割れる音で飛んできたおじさんは俺の肩を両手でさすりながら、そう言った。俺はただ頷くだけで、本当のことも、ごめんなさいも言えなかった。
あれから、俺は神田商店に行かなくなった。覚えてないんじゃない。知らないんだ。俺の中では今でも、神田ベーカリーはお菓子屋のままなんだ。
「実。あんた明日、午前中健康診断って言ってたわよね。会社は? ご飯食べに帰ってくる?」
「何時に終わるか解らないし、適当にそこらで食べてそのまま行くよ」
俺は、でかい声を張り上げてしまったばつの悪さを隠そうと、敢えて気にしない風に普通に返した。お茶は、なかなか戻ってこなかった。間が持てないと思い始めた頃、スリッパの音が聞こえてきた。
姉は、俺を一瞥するとお盆を突き出した。促されるままカップを受け取ると、今度は目の前にスマホを突き出された。
「これ! あんた、こういうの好きでしょ」
「……目黒のマンション? レトロモダンは、そっちの趣味だろ」
「よく見なさいよ。壁。トマソンよ」
「よく解らないな、暗くて」
「しかたないじゃない。気がついたのが一昨日の夜で、撮り直してる暇なんか無かったんだもの。ここ、切妻屋根の形、見えない?」
「原爆か」
「お隣に有った古いお蕎麦屋さんの建物のね、もう完全に更地なんだけどシルエットだけ残ってて、要るならそっち携帯よね、サイズ落として送れるけど?」
「要るって、これじゃな」
「原爆を、要るだの要らないだの、あんたたち何言ってんのっ」
「ああ。この人には『トマソン』から説明しないと駄目ね」
検診は一時間半程で終わった。昼にはまだ早い時間だったが、朝飯抜きの俺は開けている店を見つけて早々に食事を済ませた。午後の就業時刻には、電車の時間を差し引いてもまだ余裕が有る。俺は店を出て駅に向かった。
御茶ノ水駅前の交差点から西に伸びる、かえで通り沿いには「超芸術トマソン」を定義づけるきっかけとなった三番目の物件、三楽病院の無用門が有った。本来の機能を失いながらもそのまま保存される、必要を必要としない必要を超えた存在。セメントで糊づけされた通用口は、旧館とともに無くなった。「無用門」は既に無い。かえで通りを背に、俺は茗渓通りに向かった。
相変わらずだな。
四角いビル群の中に有ってひときわ目立つ、御茶ノ水のランドマークとでも呼べそうな白い城。窓にステンドグラスのはめ込まれた昔は名曲喫茶だったというロシア風の白い城と、その外観の上にバリケードのように立ち並ぶ、およそクラシックとは相容れない看板群。LEMON画翠も天下の丸善でも、到底太刀打ちできそうにないこの、城と大衆居酒屋という違和感この上ない取り合わせも、もはや見慣れた光景だ、変わりない。
変わりない。そうだ、上書きであっても中身が居酒屋に変わっても、名曲喫茶だった頃の姿を知らない俺にはこれがデフォルトなわけだから、変わってないと思っても間違いではない筈だ。さすがに、原風景と言ってしまったら昔を知ってる人には妄言と映るかもしれないが。いや、知ってるイコール思い入れが有るとは、限らないか。に、しても、せめて昔のピザ屋くらいで止めとけば、俺は原風景を後に、丸善、LEMONを通り越して駅の反対口に出た。
聖橋を南に折れてニコライ堂沿いの坂を下りる。車道を挟んだ向かい側に遊休地を利用した青空駐車場と、見晴らしの良くなった東の空が、遠く、緑色の冠を載せた白い万惣の看板が見える。
駐車場の奥に見えるカステラもどきは、屋敷の塀か。新しそうな明るい色は原爆の痕を消すために塗り直されたものかもしれない。大通りに面した建物が消え、古い屋敷が高みにぽつりと浮かんでいる。黄色い塀の上に被さる瓦屋根の先に抜ける眺望を、屋敷が取り戻したのも束の間だろう。
たぶんこの辺だ。坂下に位置する淡路公園はここからは見えない。姉は、きっと確認しに行くだろう。
台地を南に下る本郷通りを歩き、坂の終わりで交差する靖国通りを跨いで裏へ入る。表通りからは見えないところで、知らない更地が出来ている。路地裏を抜けて細い通りに出る。
そこには、空間が有った。まだ雑草も生えてない、漆喰のかけらのような白い塊、石が転がる、土の地肌を見せた四角い土地。
「更地になっちゃうと前何が有ったのか思い出せなくなるのよね」
左右をビルに挟まれた何も無い空間の、ここと思い出させるものは何も残る筈の無かった更地に。けれど一つだけ、建物の、二階建ての店舗を兼ねた住まいの、三角屋根の影がそこに写っていた。密着して建ったビルの片側に残った痕跡。そこだけ色の変わった、隣のビルの外壁だけが「記憶」を、とどめている。
今さら……
「お客さん?」
俺の記憶は、おぼろげなあの日で止まっている。
「うちにご用でした?」
後ろで聞こえてた話し声が、俺にかけられたものだと気づくのに、どれだけかかったろう。なんの気無しに振り向くまで俺は解らなかった。顔を見ても一瞬、誰と解らなかった。
「前に来ていただいてた方ですか」
「あ、ええ」
「寄ってもらったのに、ごめんなさいね。お店、去年たたんで」
「知ってます」
「え?」
「あ、いや、聞いて、来たんです。ちょっと、時間が空いたので」
「そうですか。遠いところ、わざわざ有難うございました」
「いえ、近いんです。地元です。来たのは小学生の時以来ですけど」
何、言ってんだ俺は。
「姉が、いつもつかいに来てたのは姉だったんで、自分が来てなかっただけで、ポムとかいつも買いに。姉が、無くなって残念がってました」
取り繕おうとして饒舌になるのが自分でも解った。
「そうですか。ずいぶん前から、ごひいきにしてもらって。小学生だと、まだ、お菓子屋だった時分ですか」
「……はい」
「ご近所なら、錦華小……お茶の水小学校かしら。いつも大勢で」
「遠足の前とか」
思わず口を衝いて出た言葉に俺は自分自身驚いた。
「そう、どこかでと思ったけど。おばちゃん、名前忘れちゃったわ。ごめんなさいね、聞いたのにほんとの名前」
「え?」
「まもる君とちょっと似てた、なんだったかしら。あだ名は駄目よね。ごめんね」
ヒゲミか。いくら変だからって、もう十、何年前だ。ある意味感動だな。
「あのあとね、まもる君バナナ買ってったのよ。もらったでしょ?」
「バナナ、ですか?」
「バナナって、ちっちゃな、これくらいのね、お菓子のバナナでね、カリカリした」
カリカリ。そういえば何か、何、なんだったか全然覚えてないけど、何か渡されたような。バナナ?
なんで。普通そういう場合、俺が好きなラスクだろっ。なんだよバナナって、バナナ、
「バナナはおやつじゃない、ってダメか。実! バレるとヤバイから……」
…… 三◯◯円。
あいつ。あの、馬鹿。
「そう、まもる君にね、似てる」
「実です」
「そうそうっ、まこと君。まこと君だった」
「ヒゲミって、あいつ、ヒゲミってまだ言うんです」
俺は言葉に詰まって、自らそのあだ名を口にした。
「良かったわ」
「良かった、ですか?」
「仲が良くって、良かったわ」
俺は苦笑した。どうだろ? と言う具合に首をひねってみせた。すみません、と、無言でつぶやきながら。
「……すみません。おじさんは、おじさんの具合は大丈夫ですか」
「知ってるの? 検査入院でね、大したことないの。もう齢だからね、しかたないのよ」
「すみません」
「謝らなくてもいいのよ」
そう言うとおもむろに、おばさんは手に提げたバッグの中を探り始めた。
「さっきね、おじさんと食べたの」
蓋を開けてスライドさせる箱の中に、オレンジ色の四角い粒が見えた。
「オブラートだから」
差し出された、オブラートに包まれたキャラメルを口に含むと、それとは違う甘酸っぱい味がした。初めて食べる飴だった。
「美味しいです」
おばさんは、ゆっくりと二度頷くと、自分も一粒口に入れた。柔らかい餅のような飴が無くなるまで、黙ったまま、おばさんと俺は家の有った場所を見ていた。
「お姉ちゃんと食べて」
箱を俺に手渡すと、おばさんは深々とおじぎした。同じ言葉を繰り返してしまいそうになるのを押さえ、俺は頭を下げた。
「おばさん」
別れ際、後ろ姿に声をかけ手を振った。
「おじさんに、よろしく。『ありがとう』って伝えてください。お大事に」
振り返ったおばさんは、初め合点のいかない表情を浮かべていたが。手の中のものに気づくと、頷きながら目を細めた。
日は既に高く上っていた。足下に映る影は更地になったそこに、もう届かない。背中を押す日差しに促され、俺は時間を確認した。時計は、携帯には姉からのメールが入っていた。
この写真は、今朝か。さすがにやることが早いな。
俺はメールから切り替えると、そのまま携帯を壁に向けて。ヒゲミを、カメラに収めた。一枚、二枚三枚。店の無い敷地を入れて、後ろ姿の消えた通りを入れて。
俺は返事を送らなかった。
この「ボンタンアメ」が証拠になるかどうか解らないけど。「俺のことは覚えてたぞ」、帰ったら、そう言って自慢してやろう。今ならまだ、トマソンが残っていると教えてやろう。
ー ウヤマ ー
今、大丈夫なの? ぁ、ちょっと待って、移動する。
なんだか、……合わせて、こっちもひそひそしちゃう。
え、帰ってるわよ。コーヒー落ちるの待ってた。
お待たせ。
そう、普通のリビングダイニング、フローリングの。で、何故か炬燵。
炬燵ってもね、今時「フレンチシック」なんてのが有ったりするのよ、うちのは違うけど。
だから。シックはシックでも、全然シャビーじゃない、どちらかって言うと姫系の白ってタイプ?
無しでしょ? 無しでしょ?
………… 有り得ない。
「大人女子」ねぇ。
……………… 聞いてる。コーヒー飲んでた。
そうそう、シャビーシック好いよね。
実家出る時にね。まず一つ、取り敢えず失敗したとしても、カップボードなら白物家電の脇に置けばなんとかなるかって、それで冷蔵庫も白にしたんだけど。
そう、本物じゃなくてアンティークフィニッシュ。
好いなと思っていたんだけどね……アンティークホワイト。
うーん。駄目ってか、ある意味飾り物だから、中に仕舞うものでどうとでも印象は変えられるんだけど。
そうなんだけど、日常にはハードルが高いって言うか。剥げた白で揃える部屋って、
解る? するよね、暗がりに、ぼうっと浮かぶ感じで。
独りだし、塗装が剥がれた白い家具に囲まれて暮らすって、他所なら「素敵」で、済むけど。
う……ん、まだ、自分が育てた傷なら、また違うとは思うんだけどね。
なんだか、異質な時間が常にそこに有るみたいで。ちょっと、思い出すって言うか、変に連想しちゃって。
買った時には、以前はそんな風に思うことも無かったわけだけど。
今?
ああっ、今ね。ウォルナットがベースの、焦げ茶のカフェ系の部屋になってる、筈?
とちの木通りね、マロニエから改名したのよ。最初見た時には空いてたんだけど、他あたってる間に入られちゃって。
家賃と、あと、まだその時はアンティークホワイトかダークブラウンかで迷ってたから、
どっちでも合う白転びの灰茶の床が決め手だったんだけど、てか先越されちゃったんだけどね。
諦めきれなくて、連絡頼んで、ようやくね。
ここは二〇〇九年からだから戻って、四、五年ってとこ。
うん、実家壊すのに合わせてだから、けっこう経ってる。前は目黒に住んでたんだけど、
違う。確かに「インテリア通り」で買ったけど、職場に近くて早起きしなくて済むってのが一番の、
えー、そんなこと。記憶違いでしょ、ギリギリセーフでしょ?
「これだよ」っ! ふふっ。
ふっ、ワッフルタワー? あー、そうだね、そう見えるね。代替で入って、あとは貸してる。
いいのよ、うちは弟が居るから。そのうち、いつか、子供部屋とかも必要になるんだし。
一人のほうが気楽だし。まだって言うか、取り立てて何も予定無いし。
ああ、小林君ちは、別な場所用意してもらったみたい。渡辺さんも。
うーん、詳しいことは……
だよね。中学卒業しちゃうと皆別々になるからなかなか、就職すればなおさらだし。
て、言うか。さっき浜田病院で遭わなかったら、今こうして話してないじゃない。同じ日に検診で一緒になるって無いよね。それも検診違いで。
そうそう! 大声出したらいけないよね、あんなとこで。
今回は子宮がんだけ。二年に一度、千代田区の区民検診で八〇〇円で受けられるのよ。
一応。今後出産するにしてもしないにしても、
え? だから予定も無いし、それに、まだ二年でしょ。
ほんとに。里帰りかと思ったら。
でも良かったじゃない、帰れて。
そうは言っても……。先考えると。
三ヵ月でしょ?
不安にならないほうが、おかしいもの。
構わないよ。いつ? うちは?
大丈夫。寄るなら検診のついででも、都合が合えば。
外で会うより何かと楽でしょ。前もって言ってくれれば掃除して、忘年会のビンゴで当たった空気清浄機も有るし。
でしょ? それも、結構グレードの高い奴。花粉平気な人だから、ずっと使わないまま仕舞ってあったんだけどね。
そうそう、そう言うものだよね。でも結局は、必要になっちゃったけど。
ほんとに。地デジ化でテレビを換えざるを得なかった上に洗濯機も、あれの後、乾燥機付きのものに替えたから、空気清浄機まで買わずに済んでほんと助かったのよね。
いや、そのものは無理だろうけど、ほこりとか花粉に付着してる奴は。そっちは、どんなの使ってるの?
そうか。性能は上がってるだろうけど、機能としては、変わってないんだよね。
測るほうもセットにしてくれたらって思わない?
目玉も、その時のニーズって有るから、でも、却って嫌がるって人も、居るかもしれないけど。
貰っても嬉しくないって思われてもね。
何を?
あー、覚えてる覚えてる! カップ麺だった。うわっ懐かしい! 誰だっけ当たったの。
ああ、皆藤だっけ。遠いいのに、一箱提げて帰るって、嬉しいけど嬉しくないよね。
シャンパン二本? そうだっけ。嬉しいっちゃ嬉しいだろうけど、重いよね。
ふふっ、負け惜しみみたい?
ビール券ね。偏ってたよね。学校役員か幹事にでも、酒屋さんとか居たのかな。
いかにも。有りがちだね。
知らない。来てないよ。いつ?
ああ、うち引っ越し二回、正確に言うとあたしは三回だけど、してるから解らなくなったのかも。
幹事って誰?
あ、じゃあ今度寄ってみる。さくら通りにまだ店有ったから。あ、「まだ」だって。
そうなんだよね、結構変わったでしょ? 残ってないよね。
かと言って、新しい店は新しい店で、すぐに上書きされちゃうし。何故だか同じ場所に限って、ころころ変わるんだよね。
家賃が高いのか鬼門なのか、今度は半年くらい閉めたままなんだけど。看板が「本店」の字だけ残ってて、なんの何処の本店ですかって。居抜きはともかく、屋号まで使い回せるなんて考えているわけじゃ、
まさか。だってずっと飲食店だったのよ、本屋のほうの本店? 神保町だから? よもやに備えて? 嘘でしょっ。
甘味屋さん? 綿徳も味楽も、とうに無いからね。神田さんもやめちゃったし。
古本屋の息子は居るよね、弟の友達も跡継いでるし。本屋無くなったらお終いだから。
さすがに、間違っても古書店街の看板を下ろす日は来ないだろうけど。
小中も統廃合で減ったし、大学も移転してるし。あちこちで再開発も、だし。
単純に、昔のままで変わらないで欲しいって以前は思っていたんだけど、あれでね。
言っても百年足らずの寿命なんだから、後々の世代のことも考えないと。
あたしたち、まだ三十過ぎたばかりなんだけどね。
誰? 中学じゃ、ないのよね?
ふーん。四年まで?
学校主催じゃないんでしょ?
構わないんじゃない。卒業生じゃなくたって、今こっちに居るなら声かけたって。
……って、ひだか君って誰だっけ?
だからそう、中学なら、人数多いから解らないのもあたりまえ、ってか、有りでしょ。
うーん。載ってる、っても、無くしちゃったんだよね。
たぶんね。やっぱ、その都度開けないと。
卒業アルバムならまだしも、成長記録も一緒にだから。
え、そりゃあ、そっちはいざとなったら誰かの見せてもらえるじゃない。
どこか紛れてるとは思うんだけど、見つからないんだよね。
ネガね。いつか出てくるんじゃないかと思ってまだ。
聞いて、無かった時ショックじゃない。
写真より、ネガ探す方が大変な気がするけど。やっぱクラウドに、
あっ!
いや、ひだかって、日高か。飛ぶ鷹、想像してた。
なこと言ったって、こっちは「く」だもの。
席順?
そんなのあたりまえじゃない、出席番号でなら。
えー。覚えてないなー、日高、君が?
薄情って言われても。
いや、そんなことは。……有るかも。
でも、あ! ……起きたね。
いい、いい。
こっちも、そろそろ布団取り込まないと、って思ってたから。
もちろん測ってるわよ。測った上で干しているから。あたりまえじゃない。
花粉は、だから、花粉平気な人なんだって。
花粉の無い世界か。そ、
あっ、泣いてる泣いてる! ごめん、行って行って。じゃ、またね。
0.0……花粉なら、平気、だけど。
よし。
あーー。お日さまの匂いがする。
うーーん。お日さまの、あたりまえの、お日さまの匂い。
あたりまえの……
敬いし、天の恵みに、抱かれん。
ー ヒサシ ー
日本の原風景を残した地に、三丁目の白日夢とも、ひさし町とも、タイムカプセル村とも呼ばれる、或る場所が有る。
そこには、人が住んでいない。
併合や過疎で消滅した町や、ダムに沈んだ村と違うのは、廃居となった建物が元有った姿のままに修繕保存されていることだ。但し全てが、輪郭を残すだけの白い塊に姿を変えてしまっているが。
超芸術。
超然と、本来の用途を失いながらも、なんらかの形でそこに姿をとどめる。意図せず生み出された「トマソン」とは存在理由を、意味を鑑賞者に強要しないことによって純粋な芸術、超芸術へと昇華する。故にそこに付随する記憶、経緯を知る必要は無い。もちろん想像するのは自由だが。
白が全体に塗布され、窓も扉も無くなったその上に、雨や日差しをよけていた庇が残る、「ヒサシ」だけが佇む町。一秒、一分、一時間。見えないものが行き来する一日、一年。
助っ人として呼ばれながら、役に立たない、華麗な空振りを披露し続けた元巨人軍の選手の名を拝借し命名された、超芸術トマソン。
あたかも屋根が庇となって、その庇が取り払われた後に、雨染みや日焼けの痕が隣家の壁に現れる原爆。
看板の一部分だけを消して或いは残して、来るとも知れない日に備えるウヤマ(卯山)。
塞がれた窓や扉のその上で、棲息し続けるヒサシ。
夏の日照りを跳ね返し、冬の雪に掻き消されそうになりながら。
花の春も知らず、秋の収穫もそのままに。
建物にまつわるものトマソンとは、自ずと人の暮らしが有った記憶を内包している。
人が住んでいる所、とりわけ都会に於いては日常的に現れ消える、時間の瓦礫。
いつかなくなってしまうものに記憶を宿す存在も、やがて、浄化、昇華される時が来る。
作り手に創ったという意識の無い作品は、「芸術」の名の下で保護され残される作品のように永遠ではない。
芸術とも遺構とも違う、バックボーン・目的を持たないトマソンは、「超芸術」の名の下に保護されない限り、時間の経過とともに往生を迎えるのが自然の流れだ。
ひさしまち。
ヒサシが往生するのが先か、ヒサシの名を取払い、タイムカプセルが開けられる日が来るのが先か。
記憶が、どちらに向かって更新されるか、今はまだ誰も知らない。
了
※ 2014.11.2 ~ 11.14 加筆・修正(改稿)。
「トマソン ー トマソン」
初稿(脱稿):2012.4.30 (起稿:2012.2.25)
改稿(脱稿):2013.3.31
改稿(脱稿):2014.4.30
「トマソン ー ウヤマ」
初稿(脱稿):2013.3.31
改稿(脱稿):2014.4.30
「トマソン ー ヒサシ」
脱稿:2014.4.30
「トマソン」
加筆・修正(改稿):2014.11.2~11.14
※関連記事。
「三年」 2014.3.10
http://blog.goo.ne.jp/doteneco-cm/e/6605144f81d558be1f41b13362b1b0d1