関西に帰ってきてから、電車通勤になったのでものすごく本を沢山読んでいる。
で、今読んでる本も、そろそろクライマックスなんだけれども、
こんな一説があってふと考えた。
ジャージ先生は子供達に挨拶をしている。
無邪気に「さようなら」と言っている子供たちは可愛らしかった。
気軽に、「さようなら」が言えるのは、別れのつらさを知らない者の特権だ、と私は思う。
先生、さよなら。みなさん、さよなら
今思えば、小学生の頃は元気良く「さよならー!」なんて先生に言って帰っていたように思う。
先生も「はい、さようなら。気を付けてね」など言ってくれていた。
でも日常的に「さようなら」を言っていたのは一体いつまでだろう。。。
恐らく無意識に言わなくなって、今では意識的に言わなくなった。いや、言えなくなった、と言うべきか。
言わないようにしている。
その言葉、気軽な挨拶ではなくて、重大な別れのコトバ、という風に認識されてしまった。
使えない。
あらためて「さようなら」なんて言われると、言われた方もなんだか意味深に思ってしまうのではないか。
なにが私にそうさせたのか、わからないけど、コトバの力は恐ろしい。
だから、私はメッセージ性のあるコトバを紡ぐ行為はやめたし、もう一度しようとも思わない。
言葉の持つ力を、ある時思い知ってしまったから。
「さようなら」、じゃなくて、「またね」、と沢山言える人生を生きたい
で、今読んでる本も、そろそろクライマックスなんだけれども、
こんな一説があってふと考えた。
ジャージ先生は子供達に挨拶をしている。
無邪気に「さようなら」と言っている子供たちは可愛らしかった。
気軽に、「さようなら」が言えるのは、別れのつらさを知らない者の特権だ、と私は思う。
先生、さよなら。みなさん、さよなら
今思えば、小学生の頃は元気良く「さよならー!」なんて先生に言って帰っていたように思う。
先生も「はい、さようなら。気を付けてね」など言ってくれていた。
でも日常的に「さようなら」を言っていたのは一体いつまでだろう。。。
恐らく無意識に言わなくなって、今では意識的に言わなくなった。いや、言えなくなった、と言うべきか。
言わないようにしている。
その言葉、気軽な挨拶ではなくて、重大な別れのコトバ、という風に認識されてしまった。
使えない。
あらためて「さようなら」なんて言われると、言われた方もなんだか意味深に思ってしまうのではないか。
なにが私にそうさせたのか、わからないけど、コトバの力は恐ろしい。
だから、私はメッセージ性のあるコトバを紡ぐ行為はやめたし、もう一度しようとも思わない。
言葉の持つ力を、ある時思い知ってしまったから。
「さようなら」、じゃなくて、「またね」、と沢山言える人生を生きたい