ブログを見ていただき、ありがとうございます。
今回でこのシリーズも4回目を迎えました。
本当は単発一回限りで終わらすつもりだったのですが、シリーズ化してしまいました。
そして、4回目でようやく本題。
長い前振りでした。
いつもお付き合いいただきありがとうございます。
さて、ここからが本文。
日本人が本来持っていた『道徳』や『倫理観』が見事なまでに崩れて、歪んだ個人主義を尊重する今の日本社会。
何かがおかしい、と誰もが感じている筈。
そう感じるのは当然の話で、わたしたちの祖先、かつての日本人はもともと『道徳』を重んじ、自らの行為が『美しいかどうか』と『恥ずべきことではないかどうか』という2つの基準で考えてきました。
そのなかでも『美』は『宇宙の真理』でもあります。
ですから自らの行為を『美』を基準に考えれば、おのずと『真理』に沿ったものとなるのです。
その言葉は美しいか?どうか。
その行動は美しいか?どうか。
先の震災のとき、我先にと買占めに走ったその行動は美しいか?どうか。
他人の不幸は蜜の味、と、ご近所の噂話をして喜ぶその行為が美しいか?どうか。
誰も見ていないから、と道路わきの植栽に空き缶をポイ捨てする、その行為が美しいか?どうか。
幸い、わたしたち日本人は世界的に見ても、とても優れた『美的感覚』を持っています。
ですから、自分たちの美意識に従って生きれば、人生はおのずと『真理』に沿ったものとなるのです。
そして『真理』に沿うことは『宇宙の法則』に則ることになりますから、望めばおのずと豊かな人生も、もれなく手に入るのです。
顔を整形したり、ダイエットに励んだり、メイクやファッションを研究する、そんな外見だけの美しさを求めるよりも、生き方そのものに『美』を求め、美しく生きたほうがずっと優美で素敵だと思いませんか?
いまの日本人は、「自己の権利ばかりを主張して他のことはお構いなし」、という『倫理』も『道徳』もへったくれもない、人として非常に未熟な人間が多く感じられます。
電車内で人目もはばからず化粧をする女性の姿も珍しくないですし、タバコや空き缶のポイ捨てもよく見かける光景です。
日本人とはそういう民族なのか?といえばそんなことはなく、むしろ逆。
かつての日本人は国政に携わるTOPの人間から農民や町人などの下々の者たちまでみな『道徳』や『倫理』を重んじ、誰が見ていなくても「そんなことしたらお天道様に顔向けできない」と自らを律する非常に霊性の高い民族でした。
それが戦後のアメリカ(GHQ)主導による資本主義化によって、『道徳』や『倫理』をどこかにウッチャッて自己の権利を何よりも尊重し、『ルール』さえ沿えば何をしても構わない、という歪んだ個人主義の社会になってしまいました。
かつての日本人。わたしたちのご先祖がいまの日本を見たらなんと思うでしょうか?
なんと自由な!なんとすばらしい時代だ!!
と、褒め称えるでしょうか?
とてもそうは思えませんが・・・。
むしろ、「我は、我は」と自己の権利を主張するばかりの日本人の多さに、『道徳』はどこへいったのか、と嘆き悲しむのではないかと思うのです。
そんなかつての日本人が大切にしていた『道徳』は『美』と『恥』という二つの価値によってできていました。
その行為は美しいか?
その行為は恥ずべきことではないか?
この2つが日本人の持つ『道徳』の基本的な考え。そして日本人的な価値基準でした。
ですから、いくら法で禁じられていないから良いといっても、人前で化粧をする行為は好ましくないことだと感じるのです。
『ルール』でアレコレと言動を規制するよりもよほどシンプルで、それでいてとても理にかなっていると思いませんか?
ただ、「美しいかどうか」はいいのですが、「恥ずべきことかどうか」の判断基準は個人によっての解釈に違いがでますし、社会の価値観にも非常に左右されるのですが、敢えていうなら「自分の魂、自分自身に対して恥ずべきことかどうか?」ということを判断基準にしたいと思います。
そうでないと、かつての武士社会のように面子や名誉を守るためなら、潔く死ぬのが良いことで、生きながらえる事は「恥ずべきこと」だと、その時代の価値観に影響されてしまうから。
真理とはどの時代、どの場所でも、変わらないもの。
ですから、これからは『美』を基準に物事を考えてみてはどうかと思うのです。
***前回の続きです***
もちろん学校では、集団生活に必要な『ルール』は教え込まれますし、更にその場、その場で『暗黙のルール』なるものが存在して、『ルール』は生きていく上で非常に重要なファクターとなります。そして、そのルールに従わないものは必然的に「社会不適格」の烙印を押されて抹消されるのです。学校でも、大人の社会でも。
でも、それは『ルール』であって、『倫理』や『道徳』ではありません。
『ルール』は監視する目から逃れ、あるいは抜け道を探せばいいわけで、極論すると『法の抜け道』、『法の盲点』をついた悪徳非道だって『ルール』(法律)に触れなければそれが犯罪と言われる類のものであっても、何してもOKなのです。
まぁ、それで大きな被害がでれば『盲点』をカバーする法律が新たにできるわけで、でも、結局はまたさらに『盲点』をつく犯罪がでて、と、『ルール』に沿うと永久にイタチごっこが続くことになります。
一方、『倫理』や『道徳』に基づいた言動を求められた場合、いかに法律に触れず、犯罪にならないような行為であっても、誰も見ているものがいなくとも、それが『人として如何なものか?』という自問自答によって判断しますから、イオチごっこになるようなこともないわけです。
で、『ルール』と『倫理』『道徳』の違いを簡単にまとめると、
『ルール』は自分以外の人間や社会の価値基準に左右され、善悪の判断はあくまでも『ルール』に沿っているかどうかということ。
それに対し『倫理』『道徳』は法が認めていようがいまいが、判断基準はあくまで『自分』。自分の心に沿った言動であるかどうかが重要なので、他人や社会、法律は関係ないわけです。
例えば、電車で座っていて、立っているのが如何にもしんどそうなお年寄りが目の前に来たとき、『ルール』に沿えば、別にそのお年寄りのことは気にしなくていいわけです。
だって、席を譲らないといけないって法律は別にないわけですし、校則にもありませんから。先に座ったのは自分だと『権利』を主張すればいいのです。
前出の『モンスターペアレンツ』も同じです。
子供が持っている携帯電話を先生が没収して、保護者を呼び出して注意したところ、
「先生の呼び出しで学校に行くことになってパートを休まなくてはならなくなったのだから、その分のパート賃金を払え」
と学校を訴える。
笑えない冗談のような話ですが、実際、この類の話は結構あるようです。
でも、こんな不条理な話でも、『ルール』に沿って『自己の権利』を主張しているだけですから、こういった行為を規制する新たな『ルール』ができない限りは真っ当な主張になるわけです。
でもこれが『倫理』『道徳』に基づいて考えたらどうか?
電車の話でも、学校での話も、いくら自分の権利を主張し、認められたところでそれらの行為は「道徳観に欠けた浅ましい行為」、「人として未熟だ」となるのです。
***次回へ***
ブログを読んでいただき、ありがとうございます。
毎日更新を目標にしているのですが、なかなか難しいですねー。最近サボリ気味です。ブログをはじめて1ヶ月で早くも挫折か
しかーし志は高く。
なるべく目標を達成できるようにボチボチがんばるので、お付き合いください。
それでは、まいりましょう。
今回のテーマは『美』について。
このブログのテーマでもあります。そして、以前このカテゴリー内の『美人塾』でも『美』について触れましたが今回はもう少し深いお話です。
つい、最近のことなのですが、テレビでだか、小学生のお子さんのいる方からか、記憶が定かではないのですが、今の小学校では『道徳』の時間がないのだということを聞きました。
「えーそうなの?」と驚きましたが、よくよく考えてみるとまぁ、わたしが小学校のときも6年間通して『道徳』の時間にどのようなことをしたか、自分自身、ほとんど記憶にないんですよ。なんとなく思い出したのが、自分が好きな本を持ってきて読む『読書タイム』だった気がします。あとは、学級会かなぁ?なんかの係りを決めるような。
いま思うと、『道徳を学ぶ』ということと全く違うことをしていたようだと思うのです。
だって、「読書」だってとりあえず漫画でなければなんでも良かったし。
いま、もし、わたしが教師で『道徳』の時間を任されたら、とりあえず『論語』でも教えるケド・・・。
その所為かどうか、いまの大人ってなんだか物凄ーく、とんでもなく非常識な人が多い気がするのです。『モンスターペアレンツ』とか『モンスターなんちゃら』だとか。とにかく、自分の権利を闇雲に主張する人や周りの迷惑など全く持って気にせずに利己都合に走る人たち。
その『モンスターペアレンツ』の問題が言われだした世代って、ほぼ、わたしと同じ世代なんですよ。それって、『道徳』をきちんと学んでいない、ということも何か関係があるのではないかと思うのです。もちろん、原因はそれだけではないでしょうし、今の30代ばかりが非常識だというわけでもなく、それ以外の世代でももちろん非常識な人はいるでしょう。
電車が遅れて腹いせに駅員を殴る、という人の多くは団塊世代だという話もありますから。
とにかくいえる事は、いつの間にか、人としての『倫理』や『道徳』を学校では敢えて教えなくなった、ということと、『倫理』『道徳』を重要視しなくなったということ。
***次回へ***
ブログを見ていただきありがとうございます。
今回はこのブログのタイトル『美人塾』についてのお話です。
『美人塾』のコンセプトは流行に左右されることのない、一人ひとりがそれぞれ持つオリジナルの『美』を追求すること。
でも、『美』を追求することにより、人生が豊かになるというのはどういうことなのか?
『美』をテーマにしたブログなのに覘いてみれば、『宇宙の法則』だとか『宇宙の本質』、『自立について』や『呼吸』のことなど『美』と全然関係ない内容ばかりじゃないか。
ほとんどの方は少なからずそう思うのではないでしょうか。
ごもっともなご意見です。
で、ここで『美』について。『美』とはそもそもなんなのか?
『美』とは『宇宙の真理』であり、『宇宙の本質』、そして『調和』。
『美』を追求するということは『宇宙の真理』を知り『宇宙の本質』にそって生きること。
『美』とはそれ自体が『完全』であり、『不変』のもの。
そして、すべての存在は存在したときからすでに完全であり『美』そのものである。
のです。
ですから、わたしたちはもうすでに一人ひとりが完全な『美』を持っているのです。
わたしたちの本質である『魂』はそれ自体が『美』そのもの。
『美』を輝かせることは『魂』を輝かせること。
自分の『美』を知ることは自分の『魂』の本来の姿を知ること。そして『真理』を知ること。
美しく生きるということは、真理(本質)に沿って生きること。
そして、わたしたちの『魂』はとてつもなく偉大で創造性に富んでいるのです。
だから、自分の『美』を知ることは自分の『魂』が持つ創造性を知ることで、その創造力を使えば人生思いのまま、ということになります。そして、『魂』はとても愉しい事が大好きな快楽主義。
というわけでこの『美人塾』では、美と愉しいことを追求し、宇宙の真理に沿った生き方を探索ていこうと思います。
自分が本来持つ美を知ることは宇宙の真理(本質)を知ること、そして法則を知ることになるのでその内容は『今伝えたいこと』を見てください。
また、拙著『美人塾』ではここで書いてある内容をもっと具体的にわかりやすく紹介していますので、そちらも合わせてご覧ください。