皆さまこんばんは~(o´・ω・`o)ノ!!
今迄4回に渡って世間一般的に認識されているいわゆるLOVEの「愛」について書いてきました。
その中で、「愛」を3段階に分けてそのうちの2つ目までを書いたわけですが、3番目の「愛」
自我を昇華し、真我(本質)に沿っている人達にとっての「愛」
については、以前すでに記事にしているということと、今回のテーマがLOVEの「愛」ということで割愛させていただきます。
ということで、今日は「愛」とはのまとめです(・ω・)/ヨロ
結局、わたし達が求めて止まない「愛」(LOVEのね)というものとは
ありのままの、そのままの飾らない素の自分という存在を
あなたはこのままで充分なんだよ
あなたはこのままでとても素敵なんだよ
あなたはとても尊い存在なんだよ
あなたはとても大切な人なんだよ
と認めて受け入れてくれること
つまりは自分という存在に対しての承認でした。
よくよく考えても見れば、自分を一番大切にしてくれているはずの親でさえ
〇〇できないとダメじゃない
もっと〇〇しないとこんなんじゃ〇〇になるわよ
と、ダメだし否定をし・・・
挙句は親の価値観で自分の価値を決められてしまい。。
その結果
わたしはダメな人間なんだ
わたしはたいした価値もない人間なんだ
と自分自身を否定してしまうようになる。。
だからこそ、
あなたはとても素敵な人なんだよ
あなたはとても大切な人なんだよ
と自分の事を認めて、受け入れてくれる人を求めてしまうんですね。
それが結果的に
わたしのことを心から愛してくれる人が欲しい
という願望になっていく。
わたし自身もかつては
他の人は置いといて(・x・ノ)ノ⌒ポイッ
わたしだけを全身全霊で愛してくれる人が欲しい
そう願っていました。
結局、そんな人に出会うこともなく。。
イエ
お付き合いした方みなさん、とても大切にしてくださいましたが。。
でも、やっぱり、どーしても
どれほど大切にされてもイマイチ満たされないんですゎ
だから
もっと、もっとщ(゜ロ゜щ) カモーン
ってなって。。
常に欲求不満でわたしのことを全身全霊で愛してくれる運命の人を探している状態。。
いまになって思えば、
わたしのことを愛して欲しい
という言葉に隠された
ありのままのわたしで良いって言って
ありのままのわたしが大切な存在だと・・・
ありのままのわたしが素敵なんだと・・・
素のわたしを認めて、大切にして
という想いは他の誰かにしてもらうのではなく
自分自身にそう、言ってもらいたかった。。
自分自身がそう、認めて大切に受け入れて欲しかった。。
だから、他人がどれほど心を尽くしてくれても
自分が自分を認めていないから
全く心が満たされることはなく・・・
常に相手の心が
本当にわたしの事を大切に想ってくれているのか
ということを試すようなことばかりして・・・
結果、自分で仕掛け自分が想ったリアクションが返ってこないと独りいじけ、傷ついて。。
そんなおバカなことをずっとしてきましてん。
でも・・・
スピから心の事を学び始めて
他の誰でもない自分が自分を認めて受け入れる
ということの大切さを知り。。
そうして、
自分が自分を認めて受け入れ、大切にする
ということをしてきたら
いつの間にか
他人からの評価とか
他人が自分のことをどう思っているのかとか
そんなこと気にもならなくなって。。
あれほど長い間、恋い焦がれてきた
わたしのことだけを全身全霊で愛してくれる人に出会いたい
という願望もなくなって。。
愛され女子になれる〇〇(メイクとか仕草とか)
みたいな
周囲のたくさんの人に愛されたい
というようなフレーズに至っては全く興味がなくなり。。
傍から見ると、そんなわたしは孤高というか孤独に見えるのかな
でも、わたしの心は静かにとても満たされています。
そう、自分自身をかんがみても、やっぱり自分以外の外。
親も含めた自分以外の人からの承認を求めて
そして、自分以外の人からの承認で心を埋めても。。
自分自身が自分を認めないことには満たすことはできない
つくづく、そう思います。
で、満たされない自分の心を満たすために他人からの承認を得ようとするのですが。
どうやって承認を得ようとするのか
というと、大概が一つ目の愛し方をします。
一つ目の愛とは
自我が最も強く働いている人達にとっての「愛」
で、その愛し方とは
自分の価値観の基
相手のキモチや意思は全くお構いなしに、
自分が思う、自分なりの方法で相手を大切に扱い
自分が求める見返りを得るために相手をコントロールする
という一方的で自分本位のやり方
自分が求める見返り
というのは、何度も出ているように
自分への承認
結局、
自分が自分のことを認められないがために
他人からの愛(承認)を欲しがり。。
そのために自己都合の一方的な押し付けの「愛」という名のコントロールを相手に仕掛ける
ということをとても多くの人が多かれ少なかれやっちゃっている。。
でも・・・
本当に真実の愛という、無条件の承認が欲しければ・・・
それは他人からではなく
自分自身が自分を無条件で認める
ということをしていくのが一番手っ取り早いし、結局はこのことに尽きる。。
そう思います。
だって、他人から真実の愛を求めるのであれば自分がまず、真実の愛で自分を愛さない(認めない)と。。
自分の出会う人は自分自身の投影である
鏡の法則と言うヤツですね
お知らせ
声(ヴォイス)を使って溜めこんだ感情を昇華するヴォイスグループワーク開催
5月は9日(金)、20日(火)PM19:00~PM21:30
いずれも会場は中目黒。
参加費 3000縁
お問い合わせ、お申し込みはコチラまで。
epicurean1974☆mail.goo.nejp
(☆を@に代えてください)
折り返し確認メールを送らせていただきます。
もし、3日過ぎても確認メールが届かない場合はお手数ですが再度お送りください。
また個人セッションについてはコチラを
カウンセリングについてはコチラをご覧ください
皆さまこんにちは~(*ゝω・*)ノコンチャ☆
いよいよGWが始まりましたね~
出掛けると人が多い、多い(´□`。)
普段、人が少ない時しか出歩かないから、こぅ、人が多いと目が回ってしまいます(@_@)
今年のGWは全国的にお天気に恵まれそうでお出かけ日和
でも、ブログもボチボチ更新する予定ですのでよろしくお願いします
さて、それでは本題へ行ってみましょう
前回は「愛」を3段階に分けた中の2つ目の段階の「愛」について説明しました。
この2つ目の「愛」が一般的に広く認識されているLOVEの「愛」。
それは何か
というと
簡単に言ってしまえば、承認でした。
その人の存在(性格とか人間性とかを含めたその人そのもの)を認めて受け入れること
それがわたし達が普段、認識し、使っている「愛」。
その究極が
無条件でその人の存在を認めて無条件で受け入れること
でした。
それがわたし達が憧れ、求めてやまない真実の愛と呼んでいるもの
それとは別にもう一つ、究極の愛と呼んでいるものがあります。
今日はこの究極の愛についてです(・ω・)/デス
究極の愛
それは無私の愛とか無償の愛と呼ばれるもの。
なんでそれが究極なの
というと、それは無私の・・・というように
我が身を省みず
我が身を捨てて
ただひたすら相手に尽くす愛だから
なんですが・・・
どーでしょうね。。
皆さんは憧れますか
こんな愛され方されたい
なんて素敵なんでしょう
って思いますか
わたしの場合だと以前は
わたしには到底ムリだわぁ~(´□`。)(できないという意味で)
と思っていたし、今は・・・というとなんというか・・・
正直言ってあまりいい感じがしません
無条件でその人の存在を認めて受け入れる
という真実の愛と呼ばれるものに対して、この無私の愛とか無償の愛と呼ぶ究極の愛は、わたしの感覚ではとても重くいいカンジとは到底言い難い。。
ハッキリと言ってしまうと、
かなりネガティブなエネルギー
を感じます。
世間一般では至高の愛とか至上の愛と謳われているこの無私の愛、無償の愛をわたしが感じた感覚をわかりやすく例えるとすると
捨てるしかない廃油を固めたものに生クリームで覆い、フルーツやチョコなどできれいにデコレーションして
見た目、とっても素敵な、美味しそうな食べ物に仕上げたまがいもの。。
そんなイメージ。。
今回、このテーマを書くにあたって改めてそんなイメージを持ってしまう無償の愛、無私の愛というものについて考えてみるとわかったことがあります。
それは、無私の愛、無償の愛この二つとも動機が2パターンあるということ。
そして、二つとも2パターンある動機はそれぞれ同じ。
無私の愛とは
自分の事は置いといて(・x・ノ)ノ⌒ポイッ
ただひたすら相手に尽くす愛
(世間一般に言われる無私と本当の無私とは全く別物なんですがここでは割愛します)
無償の愛とは
見返りを一切求めずにただひたすら相手に与える愛
そしてその愛とは、その人の全てを認めて受け入れること
つまり、
自分の事(立場や状況とか)は一切構わずに相手が望むことにただひたすら応え続ける
これが無私の愛
で
見返りを一切求めずに相手が望むこと全てを与え続ける
これが無償の愛
なわけ。
でも、見返りを一切求めない・・・と言いながらも実はしっかり、ちゃ~んと回収しています
何を回収しているのか
というと・・・
それは自分自身の存在価値を相手に知らしめること
相手に自分を差し出すことで差し出された相手はその人にドップリと頼るようになり・・・
次第にその人ナシではいられなくなる・・・
生きていけなくなる・・・
つまり、相手(この場合は無償の愛を注いでくれる人)に依存するようになるわけで。
次第にその人(無償の愛を注いでくれる人)ナシではいられなくなる。
そうすることで、自分の存在価値を無償の愛を受け取る側に知らしめる。。
というわけ。
ようするに
自分自身を相手に差し出すことによって、相手に必要とされるように仕向け
自分の存在価値を認めてもらう
という思惑が根底にある。。
自分の存在価値を認めてもらいたくて、自分自身を差し出す行為
コレを世間では無償の愛とか無私の愛と呼んで賛美しているわけです。
行っている行為がどんなに崇高な素晴らしいものでも・・・
その行為をするに至った動機が自分の中の何かを埋めたい
(この場合は自分の存在を認められたいというモノ)
という不足感から来るものであったなら
その行為の結果、得られるものは
不足感を思い知らされるような現実になる
ということ。
そして、不足感というのは結局は自我の思い違いからきているモノなので、聞いたカンジはとても素晴らしい内容でも
本質とは全く違うモノ
それが世間一般的に認識されている殆どの無償の愛とか無私の愛と言われるモノの正体
もう一つのパターンとしてあるのが、多くの場合であてはまるケースだと、前回の記事にも書きましたが、
我が子をこの世界に迎え入れたときの親のキモチ
元気に、無事に生まれてきてくれさえしてくれれば他には無いも望まない
そんな親のキモチ。
そして、その時は確かに
この子に我が身全て差し出してもかまわない
そんなキモチになります。
コレもまた無償の、無私の愛ですが、先ほどのケースとは全く動機が違います。
先ほどのケースの動機は自分の存在を認めてもらたいというモノでしたが、このケースの場合は簡単に言うと
自分自身が我が子を迎えた、我が子をこの手で抱けた。。
それで充分満たされたから、それ以上はもういらない。。
という自分自身の満足感からくるモノ
自分自身が充分満たされているから、それ以上の見返りは何も求めない
ただ、自分ができる限りのことを相手にしたい。。
という動機。
これが本当の無私の愛、無償の愛
つまり、無私の愛、無償の愛と呼ばれるものは本来、
自分自身が満たされていないとできないモノ
なんです。
相手にする行為は同じ、自分自身を差し出すことでも動機が違うとまるで別物になってしまいます。
これを客観的に見比べようとすると、結構、難しい。。
でも、奥に流れているエネルギーを感じると、一発でわかるから面白いですフフッ
お知らせ
声(ヴォイス)を使って溜めこんだ感情を昇華するヴォイスグループワーク開催
5月は9日(金)、20日(火)PM19:00~PM21:30
いずれも会場は中目黒。
参加費 3000縁
お問い合わせ、お申し込みはコチラまで。
epicurean1974☆mail.goo.nejp
(☆を@に代えてください)
折り返し確認メールを送らせていただきます。
もし、3日過ぎても確認メールが届かない場合はお手数ですが再度お送りください。
また個人セッションについてはコチラを
カウンセリングについてはコチラをご覧ください
明日からGWかぁ~(゜o゜;
今年も月日がたつのがホント早い。。(´・ω・`)