岩村城
2013/11/24
岐阜県恵那市のお城めぐり
武田信玄と織田信長の間で争奪戦が繰り広げられた遠山氏の居城
日本三大山城 日本100名城
≪ お城の概要 ≫
城名: 岩村城
よみ: イワムラ
別称: 霧ヶ城
所在地: 岐阜県恵那市岩村町
現状: 山
築城年代: 文治元年(1185)
築城者: 加藤景廉
形式: 山城
遺構: 本丸・二ノ丸・出丸・東曲輪・南曲輪・八幡曲輪・埋門・長局埋門・六段壁・二ノ丸菱櫓跡・八幡神社・霧ヶ井・追手門跡・三重櫓跡・畳橋跡・土岐門跡・一之門跡・初門跡・藤坂・藩主邸跡・石垣・空堀・土橋
規模: 260m×640m、標高721m、比高153m
文化財: 県指定史跡
訪城日: 2011/9/6・2013/11/24
≪ 訪城記 ≫
自宅を出て岩村城へ向かう。
中央道恵那ICで降りて県道68号を南東へ坂の上複合交差点信号を斜め右折、県道66号を南進、国道19号中山道の高架下手前の側道に左折、国道19号に合流して東進、正家交差点信号を右折、国道257号を南進、山間部へ入り、途中ヘアピンカーブを通り、阿木川湖に架かる阿木川大橋を渡り、絶景の景色を眺めながら長い小沢山トンネルを抜け、一色三叉路信号を直進、南東方向へ裏山三叉路信号を左折、次の信号を右折して旧岩村市街へ入り、商店街を通り抜け、交差点を直進して信号から約300mの次の三叉路を左折、川を渡り道が右に曲がった先に復元された太鼓櫓が見える。その東側を南に入った奥に岩村歴史資料館がある。資料館前の広場に車を駐車する。
岩村歴史資料館前の広い広場が藩主邸跡で、太鼓櫓のある岩村藩校知新館東側に山へ入る登城道があり、登城口の案内板がある。
石畳の道を登っていくと、まず藤坂、初門、一之門と続き、一之門付近から苔むした石垣が道の脇に見られるようになる。
土岐門を過ぎ、畳橋、追手門、三重櫓の見ごたえのある石垣群を見ながら進むと、竜神の井、左側の削平地が八幡曲輪で、八幡櫓跡、八幡神社があり、三重櫓からまっすぐ進んだ先に霧ヶ城の名の由来となった霧ヶ井がある。
霧ヶ井を過ぎると右側に二の丸菱櫓の石垣、左側に俄門があるが、俄門は現在通行止めとなっている。さらに進むと有名な六段壁が見られる。
六段壁手前の通路から右手に入ったところが本丸の埋門で、その北側の雑木林の中が二の丸で中央に弁天池の跡がある。
六段壁を過ぎたところに東曲輪への石段を登り、東曲輪から本丸長局埋門を通り、本丸へ着く。
本丸は南北に長い削平地で南側が一段高くなっていて櫓跡のような構造です。ここに木製の岩村城址碑があり、説明板もある。南東隅には昇龍の井戸、西側の石垣上には多聞櫓があった感じがします。北側のは桝形の埋門、埋門から西側の石垣下の通路を通って本丸南西下の出丸、ここにも説明板があり、氷餅蔵が復元されています。
本丸の南側下には南曲輪があり、ここは石垣ではなく土の曲輪で堀切や土橋を見られます。
壮観な石垣群には見とれてしまいます。
岩村城の詳細は ……… ここをクリック
≪ 歴 史 ≫
文治元年 (1185) 源頼朝の重臣、加藤景廉が築いたと言われている。以後、景廉の長子景朝が遠山姓を名乗り代々居城した。
永正年間 (1504-21) 遠山頼景が在城する。
大永四年 (1524) 城主遠山景友が没する。
弘治二年 (1556) 城主遠山景前が没する。
元亀元年 (1570) 武田信玄が高遠城主秋山信友に岩村城を攻撃させるが、岩村城主遠山景任は織田信長に救援を頼む。
元亀三年 (1572) 岩村城主遠山景任が病没し、信長の六男御坊丸(勝長)を養子として家督を相続させ、信長の叔母で景任の妻おつやの方が女城主となるが、再び秋山信友に攻められ、おつやの方と信友が婚約、幼主の養育を条件に和議が成立、武田方の秋山信友の居城となる。御坊丸は人質として甲府に送られた。
天正元年 (1573) 武田と織田が岩村城を巡って戦う。
天正三年 (1575) 長篠の戦いで武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗れ、秋山信友の岩村城も織田信忠軍に攻められ落城する。以後、織田方の武将川尻秀隆が城主となる。
天正十年三月 (1582) 武田勝頼滅亡によって川尻秀隆が甲斐一国を与えられ、代わって森蘭丸が岩村城主となるが、在城せず、留守代として森家の家老各務兵庫が在城する。
天正十年六月 (1582) 本能寺の変で主君信長に森蘭丸が殉じ、蘭丸の兄長可が跡を継ぎ、長可の領地となる。
天正十二年 (1584) 小牧・長久手の戦いで森長可が討死し、長可の末弟忠政が遺領を継ぐ。
慶長四年 (1599) 森忠政が信濃川中島へ転封となる。森氏三代の間、各務兵庫が城代を務める。代わって田丸直昌が入城する。
慶長五年 (1600) 関ヶ原合戦で田丸直昌が西軍に与したため除封される。
慶長六年 (1601) 大給松平家乗が入り、近世岩村藩が成立する。
寛永十五年 (1638) 家乗の子乗寿が遠江浜松に転じ、代わって三河伊保から丹羽氏信が入り、氏定、氏純、氏明、氏音と続く。
元禄十五年 (1702) 家中騒動で氏音が左遷され、代わって信濃小諸から大給石川松平乗紀が入封、乗賢、乗薀、乗保、乗美、乗喬、乗命と続く。
明治二年 (1869) 版籍奉還により廃城となる。
明治六年 (1873) 建造物がすべて取り壊され、石垣を残すのみとなる。
≪ 写 真 ≫
復元された旧藩主邸と太鼓櫓
登城口
藤坂
初門
一之門
一之門の石垣
土岐門
畳橋
三重櫓石垣
追手門
竜神の井
八幡曲輪入口
八幡神社
霧ヶ井
二ノ丸菱櫓石垣
二ノ丸弁天池
六段壁
東側からの六段壁
長局埋門
本丸南側
本丸
本丸昇龍の井戸
本丸北側埋門枡形
本丸桝形虎口
岩村城址碑
出丸
本丸西側石垣
南曲輪
南曲輪の堀切
現地岩村城案内図(リンク付サムネイル)
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
明知鉄道岩村駅から岩村歴史資料館まで徒歩約20分。資料館から本丸まで徒歩約20分。
<車>
中央道恵那ICで降りて県道68号を南東へ坂の上複合交差点信号を斜め右折、県道66号を南進、国道19号中山道の高架下手前の側道に左折、国道19号に合流して東進、正家交差点信号を右折、国道257号を南進、山間部へ入り、途中ヘアピンカーブを通り、阿木川湖に架かる阿木川大橋を渡り、絶景の景色を眺めながら長い小沢山トンネルを抜け、一色三叉路信号を直進、南東方向へ裏山三叉路信号を左折、次の信号を右折して旧岩村市街へ入り、商店街を通り抜け、交差点を直進して信号から約300mの次の三叉路を左折、川を渡り道が右に曲がった先に復元された太鼓櫓が見える。その東側を南に入った奥に岩村歴史資料館の広場に駐車可能。
≪ 位置図 ≫
岩村城
岩村歴史資料館(藩主邸跡)
紹介したお城の数 158城
2013/11/24
岐阜県恵那市のお城めぐり
武田信玄と織田信長の間で争奪戦が繰り広げられた遠山氏の居城
日本三大山城 日本100名城
≪ お城の概要 ≫
城名: 岩村城
よみ: イワムラ
別称: 霧ヶ城
所在地: 岐阜県恵那市岩村町
現状: 山
築城年代: 文治元年(1185)
築城者: 加藤景廉
形式: 山城
遺構: 本丸・二ノ丸・出丸・東曲輪・南曲輪・八幡曲輪・埋門・長局埋門・六段壁・二ノ丸菱櫓跡・八幡神社・霧ヶ井・追手門跡・三重櫓跡・畳橋跡・土岐門跡・一之門跡・初門跡・藤坂・藩主邸跡・石垣・空堀・土橋
規模: 260m×640m、標高721m、比高153m
文化財: 県指定史跡
訪城日: 2011/9/6・2013/11/24
≪ 訪城記 ≫
自宅を出て岩村城へ向かう。
中央道恵那ICで降りて県道68号を南東へ坂の上複合交差点信号を斜め右折、県道66号を南進、国道19号中山道の高架下手前の側道に左折、国道19号に合流して東進、正家交差点信号を右折、国道257号を南進、山間部へ入り、途中ヘアピンカーブを通り、阿木川湖に架かる阿木川大橋を渡り、絶景の景色を眺めながら長い小沢山トンネルを抜け、一色三叉路信号を直進、南東方向へ裏山三叉路信号を左折、次の信号を右折して旧岩村市街へ入り、商店街を通り抜け、交差点を直進して信号から約300mの次の三叉路を左折、川を渡り道が右に曲がった先に復元された太鼓櫓が見える。その東側を南に入った奥に岩村歴史資料館がある。資料館前の広場に車を駐車する。
岩村歴史資料館前の広い広場が藩主邸跡で、太鼓櫓のある岩村藩校知新館東側に山へ入る登城道があり、登城口の案内板がある。
石畳の道を登っていくと、まず藤坂、初門、一之門と続き、一之門付近から苔むした石垣が道の脇に見られるようになる。
土岐門を過ぎ、畳橋、追手門、三重櫓の見ごたえのある石垣群を見ながら進むと、竜神の井、左側の削平地が八幡曲輪で、八幡櫓跡、八幡神社があり、三重櫓からまっすぐ進んだ先に霧ヶ城の名の由来となった霧ヶ井がある。
霧ヶ井を過ぎると右側に二の丸菱櫓の石垣、左側に俄門があるが、俄門は現在通行止めとなっている。さらに進むと有名な六段壁が見られる。
六段壁手前の通路から右手に入ったところが本丸の埋門で、その北側の雑木林の中が二の丸で中央に弁天池の跡がある。
六段壁を過ぎたところに東曲輪への石段を登り、東曲輪から本丸長局埋門を通り、本丸へ着く。
本丸は南北に長い削平地で南側が一段高くなっていて櫓跡のような構造です。ここに木製の岩村城址碑があり、説明板もある。南東隅には昇龍の井戸、西側の石垣上には多聞櫓があった感じがします。北側のは桝形の埋門、埋門から西側の石垣下の通路を通って本丸南西下の出丸、ここにも説明板があり、氷餅蔵が復元されています。
本丸の南側下には南曲輪があり、ここは石垣ではなく土の曲輪で堀切や土橋を見られます。
壮観な石垣群には見とれてしまいます。
岩村城の詳細は ……… ここをクリック
≪ 歴 史 ≫
文治元年 (1185) 源頼朝の重臣、加藤景廉が築いたと言われている。以後、景廉の長子景朝が遠山姓を名乗り代々居城した。
永正年間 (1504-21) 遠山頼景が在城する。
大永四年 (1524) 城主遠山景友が没する。
弘治二年 (1556) 城主遠山景前が没する。
元亀元年 (1570) 武田信玄が高遠城主秋山信友に岩村城を攻撃させるが、岩村城主遠山景任は織田信長に救援を頼む。
元亀三年 (1572) 岩村城主遠山景任が病没し、信長の六男御坊丸(勝長)を養子として家督を相続させ、信長の叔母で景任の妻おつやの方が女城主となるが、再び秋山信友に攻められ、おつやの方と信友が婚約、幼主の養育を条件に和議が成立、武田方の秋山信友の居城となる。御坊丸は人質として甲府に送られた。
天正元年 (1573) 武田と織田が岩村城を巡って戦う。
天正三年 (1575) 長篠の戦いで武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗れ、秋山信友の岩村城も織田信忠軍に攻められ落城する。以後、織田方の武将川尻秀隆が城主となる。
天正十年三月 (1582) 武田勝頼滅亡によって川尻秀隆が甲斐一国を与えられ、代わって森蘭丸が岩村城主となるが、在城せず、留守代として森家の家老各務兵庫が在城する。
天正十年六月 (1582) 本能寺の変で主君信長に森蘭丸が殉じ、蘭丸の兄長可が跡を継ぎ、長可の領地となる。
天正十二年 (1584) 小牧・長久手の戦いで森長可が討死し、長可の末弟忠政が遺領を継ぐ。
慶長四年 (1599) 森忠政が信濃川中島へ転封となる。森氏三代の間、各務兵庫が城代を務める。代わって田丸直昌が入城する。
慶長五年 (1600) 関ヶ原合戦で田丸直昌が西軍に与したため除封される。
慶長六年 (1601) 大給松平家乗が入り、近世岩村藩が成立する。
寛永十五年 (1638) 家乗の子乗寿が遠江浜松に転じ、代わって三河伊保から丹羽氏信が入り、氏定、氏純、氏明、氏音と続く。
元禄十五年 (1702) 家中騒動で氏音が左遷され、代わって信濃小諸から大給石川松平乗紀が入封、乗賢、乗薀、乗保、乗美、乗喬、乗命と続く。
明治二年 (1869) 版籍奉還により廃城となる。
明治六年 (1873) 建造物がすべて取り壊され、石垣を残すのみとなる。
≪ 写 真 ≫
復元された旧藩主邸と太鼓櫓
登城口
藤坂
初門
一之門
一之門の石垣
土岐門
畳橋
三重櫓石垣
追手門
竜神の井
八幡曲輪入口
八幡神社
霧ヶ井
二ノ丸菱櫓石垣
二ノ丸弁天池
六段壁
東側からの六段壁
長局埋門
本丸南側
本丸
本丸昇龍の井戸
本丸北側埋門枡形
本丸桝形虎口
岩村城址碑
出丸
本丸西側石垣
南曲輪
南曲輪の堀切
現地岩村城案内図(リンク付サムネイル)
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
明知鉄道岩村駅から岩村歴史資料館まで徒歩約20分。資料館から本丸まで徒歩約20分。
<車>
中央道恵那ICで降りて県道68号を南東へ坂の上複合交差点信号を斜め右折、県道66号を南進、国道19号中山道の高架下手前の側道に左折、国道19号に合流して東進、正家交差点信号を右折、国道257号を南進、山間部へ入り、途中ヘアピンカーブを通り、阿木川湖に架かる阿木川大橋を渡り、絶景の景色を眺めながら長い小沢山トンネルを抜け、一色三叉路信号を直進、南東方向へ裏山三叉路信号を左折、次の信号を右折して旧岩村市街へ入り、商店街を通り抜け、交差点を直進して信号から約300mの次の三叉路を左折、川を渡り道が右に曲がった先に復元された太鼓櫓が見える。その東側を南に入った奥に岩村歴史資料館の広場に駐車可能。
≪ 位置図 ≫
岩村城
岩村歴史資料館(藩主邸跡)
紹介したお城の数 158城
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