岡崎城
2014/1/2
愛知県岡崎市のお城めぐり
徳川家康生誕の城で徳川譜代の居城 日本100名城
≪ お城の概要 ≫
城名: 岡崎城
よみ: オカザキ
別称: 龍城・竜ヶ城
所在地: 愛知県岡崎市康生町
現状: 岡崎公園
築城年代: 享徳・康正年間(1452-57)
築城者: 西郷弾正左衛門稠頼
形式: 平山城
遺構: 本丸・二の丸・持仏堂曲輪・復元天守・大手門・東隅櫓・板谷門跡・風呂谷門跡・二の丸井戸跡・産湯の井戸・清海堀・水堀・石垣・切通し
規模: 標高24m
文化財: 市指定文化財
訪城日: 2011/6/26・2014/1/2
≪ 訪城記 ≫
自宅から岡崎城へ向かう。
東名高速岡崎ICを降りて岡崎インター西交差点信号を直進、国道1号東海道を西進、岡崎市役所前を通り岡崎公園前信号を左折すると岡崎公園の東側にある有料駐車場に着く。ここに車を駐車する。
駐車場の東隅に東隅櫓があり、公園への入口横には大手門が再建されています。
公園に入ると二の丸で左側の花時計奥に徳川家康公銅像が建っていて、右側のお土産屋東側に二の丸井戸跡がある。
公園中央には本多平八郎忠勝公坐像、その左側に三河武士のやかた家康館、右側にはからくり時計、奥には能楽堂がある。
からくり時計から南に行くと深い清海堀と持仏堂曲輪で石垣が残っている。本丸に入ると龍城神社と復元天守閣があり、「天守閣」と「三河武士のやかた家康館」セットで入場料が500円でした。
天守閣西側の伊賀川沿いには東照公えな塚、板谷門跡、家康公産湯の井戸がある。
龍城神社の南側にある風呂谷門跡から虎口を降りると石垣と水堀を見られる。
東隅櫓東側の下へ降りる道は、両側が石垣造の切通しです。
岡崎城の詳細は ……… ここをクリック
≪ 歴 史 ≫
享徳・康正年間 (1452-57) 三河守護職仁木氏の守護代西郷弾正左衛門稠頼によって築かれ、大永初年頃まで代々居城とした。
享禄年間 (1528-32) 安祥城の松平清康(家康の祖父)の麾下に入り、清康が城主となる。
天文四年 (1535) 松平清康が尾張守山で家臣に誤って殺される事件(守山崩れ)が起こり、広忠(家康の父)が継ぐ。
天文十一年十二月二十六日 (1542) 徳川家康(幼名竹千代)が岡崎城で誕生するが、六歳で織田信秀(信長の父)、八歳で今川義元の人質となり、駿府で成長する。
永禄三年 (1560) 今川義元が桶狭間の戦いで敗死すると、松平元康(のちの家康)は岡崎城に帰還、織田信長と同盟して三河を平定する。
元亀元年 (1570) 家康が遠江浜松に拠点を移し、岡崎城は嫡男信康が城主となる。
天正七年 (1579) 信康が武田と内通した事件で遠江二俣城に幽閉され、自刃する。その後は石川数正、本多重次が城代となる。
天正十八年 (1590) 家康が秀吉によって関東移封となり、秀吉の家臣田中吉政が城主となる。
慶長五年 (1600) 関ヶ原合戦の後、田中吉政に代わり徳川譜代の本多康重が岡崎城主となり、康紀、忠利、利長と続く。
元和三年 (1617) 天守閣が築かれる。
寛永二十一年 (1645) 本多氏に代わり水野忠善が入り、以後、忠春、忠盈、忠之、忠輝、忠辰、忠任と続く。
宝暦十二年 (1762) 本多氏に代わって松平康福が入る。
明和六年 (1769) 松平氏に代わって再び本多氏が入り、忠肅、忠典、忠顕、忠考、忠民、忠直と明治維新まで続く。
明治六年 (1872) 廃城令によって天守閣が取り壊される。
昭和三十四年 (1959) 天守閣が復元される。
≪ 写 真 ≫
大手門
二の丸
珍しい天守閣付の公衆電話
徳川家康公の銅像
二の丸井戸跡
三河武士のやかた家康館
本多平八郎忠勝坐像
からくり時計
能楽堂
清海堀の切岸
二の丸南側の清海堀
二の丸南側の清海堀に残る石垣
龍城神社への入口
北からの天守閣
持仏堂曲輪東側の清海堀
持仏堂曲輪西側の清海堀
持仏堂曲輪の石段
東からの天守閣
龍城神社
正面からの天守閣
東照公えな塚
天守閣西側の石垣
西側からの清海堀
西側の堀
徳川家康産湯の井戸
本丸東側の石垣
水堀と石垣
板谷門跡
東隅櫓
現地岡崎公園案内図(リンク付サムネイル)
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
名鉄名古屋本線東岡崎駅から徒歩約15分。
<車>
東名高速岡崎ICを降りて岡崎インター西交差点信号を直進、国道1号東海道を西進、岡崎市役所前を通り岡崎公園前信号を左折すると岡崎城のある岡崎公園に着く。東側に有料駐車場がある。
≪ 位置図 ≫
岡崎城(岡崎公園)
紹介したお城の数 166城
2014/1/2
愛知県岡崎市のお城めぐり
徳川家康生誕の城で徳川譜代の居城 日本100名城
≪ お城の概要 ≫
城名: 岡崎城
よみ: オカザキ
別称: 龍城・竜ヶ城
所在地: 愛知県岡崎市康生町
現状: 岡崎公園
築城年代: 享徳・康正年間(1452-57)
築城者: 西郷弾正左衛門稠頼
形式: 平山城
遺構: 本丸・二の丸・持仏堂曲輪・復元天守・大手門・東隅櫓・板谷門跡・風呂谷門跡・二の丸井戸跡・産湯の井戸・清海堀・水堀・石垣・切通し
規模: 標高24m
文化財: 市指定文化財
訪城日: 2011/6/26・2014/1/2
≪ 訪城記 ≫
自宅から岡崎城へ向かう。
東名高速岡崎ICを降りて岡崎インター西交差点信号を直進、国道1号東海道を西進、岡崎市役所前を通り岡崎公園前信号を左折すると岡崎公園の東側にある有料駐車場に着く。ここに車を駐車する。
駐車場の東隅に東隅櫓があり、公園への入口横には大手門が再建されています。
公園に入ると二の丸で左側の花時計奥に徳川家康公銅像が建っていて、右側のお土産屋東側に二の丸井戸跡がある。
公園中央には本多平八郎忠勝公坐像、その左側に三河武士のやかた家康館、右側にはからくり時計、奥には能楽堂がある。
からくり時計から南に行くと深い清海堀と持仏堂曲輪で石垣が残っている。本丸に入ると龍城神社と復元天守閣があり、「天守閣」と「三河武士のやかた家康館」セットで入場料が500円でした。
天守閣西側の伊賀川沿いには東照公えな塚、板谷門跡、家康公産湯の井戸がある。
龍城神社の南側にある風呂谷門跡から虎口を降りると石垣と水堀を見られる。
東隅櫓東側の下へ降りる道は、両側が石垣造の切通しです。
岡崎城の詳細は ……… ここをクリック
≪ 歴 史 ≫
享徳・康正年間 (1452-57) 三河守護職仁木氏の守護代西郷弾正左衛門稠頼によって築かれ、大永初年頃まで代々居城とした。
享禄年間 (1528-32) 安祥城の松平清康(家康の祖父)の麾下に入り、清康が城主となる。
天文四年 (1535) 松平清康が尾張守山で家臣に誤って殺される事件(守山崩れ)が起こり、広忠(家康の父)が継ぐ。
天文十一年十二月二十六日 (1542) 徳川家康(幼名竹千代)が岡崎城で誕生するが、六歳で織田信秀(信長の父)、八歳で今川義元の人質となり、駿府で成長する。
永禄三年 (1560) 今川義元が桶狭間の戦いで敗死すると、松平元康(のちの家康)は岡崎城に帰還、織田信長と同盟して三河を平定する。
元亀元年 (1570) 家康が遠江浜松に拠点を移し、岡崎城は嫡男信康が城主となる。
天正七年 (1579) 信康が武田と内通した事件で遠江二俣城に幽閉され、自刃する。その後は石川数正、本多重次が城代となる。
天正十八年 (1590) 家康が秀吉によって関東移封となり、秀吉の家臣田中吉政が城主となる。
慶長五年 (1600) 関ヶ原合戦の後、田中吉政に代わり徳川譜代の本多康重が岡崎城主となり、康紀、忠利、利長と続く。
元和三年 (1617) 天守閣が築かれる。
寛永二十一年 (1645) 本多氏に代わり水野忠善が入り、以後、忠春、忠盈、忠之、忠輝、忠辰、忠任と続く。
宝暦十二年 (1762) 本多氏に代わって松平康福が入る。
明和六年 (1769) 松平氏に代わって再び本多氏が入り、忠肅、忠典、忠顕、忠考、忠民、忠直と明治維新まで続く。
明治六年 (1872) 廃城令によって天守閣が取り壊される。
昭和三十四年 (1959) 天守閣が復元される。
≪ 写 真 ≫
大手門
二の丸
珍しい天守閣付の公衆電話
徳川家康公の銅像
二の丸井戸跡
三河武士のやかた家康館
本多平八郎忠勝坐像
からくり時計
能楽堂
清海堀の切岸
二の丸南側の清海堀
二の丸南側の清海堀に残る石垣
龍城神社への入口
北からの天守閣
持仏堂曲輪東側の清海堀
持仏堂曲輪西側の清海堀
持仏堂曲輪の石段
東からの天守閣
龍城神社
正面からの天守閣
東照公えな塚
天守閣西側の石垣
西側からの清海堀
西側の堀
徳川家康産湯の井戸
本丸東側の石垣
水堀と石垣
板谷門跡
東隅櫓
現地岡崎公園案内図(リンク付サムネイル)
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
名鉄名古屋本線東岡崎駅から徒歩約15分。
<車>
東名高速岡崎ICを降りて岡崎インター西交差点信号を直進、国道1号東海道を西進、岡崎市役所前を通り岡崎公園前信号を左折すると岡崎城のある岡崎公園に着く。東側に有料駐車場がある。
≪ 位置図 ≫
岡崎城(岡崎公園)
紹介したお城の数 166城
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愛知中世城郭研究会,中井 均 | |
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