二俣城
2012/12/9
静岡県浜松市のお城めぐり
武田軍と徳川軍が奪い合い、松平信康が自害した悲劇のお城
≪ お城の概要 ≫
城名: 二俣城
よみ: フタマタ
別称: 蜷原城
所在地: 静岡県浜松市天竜区二俣町二俣
現状: 城山公園・城山稲荷神社・旭ヶ丘神社
築城年代: 文亀年間(1501-04)
築城者: 二俣氏
形式: 平山城
遺構: 天守台・本丸・二の丸・北曲輪・蔵屋敷・南曲輪・井戸曲輪・土塁・空堀・石塁・堀切
規模: 350m×100m、標高約40m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2012/12/9
≪ 訪城記 ≫
鳥羽山城から二俣城へ向かう。
国道152号秋葉街道へ戻るため、来た道を引き返しトンネル出口の交差点を左折、約200m進んだ信号を左折したら、すぐに右へ道がカーブする、その途中に山へ登る側道があるので、その道を登っていくと二俣城址入口と書かれた木製看板が左側にある。そのまま道なりに左カーブになった所の右側土手に5台ほど止められる無料駐車場がある。
この駐車場の道向かいに登城道の参道があり、二俣城址碑や案内板が建てられている。
少し登ると右の谷に竪堀、左に北曲輪(旭ヶ丘神社)、まっすぐで本丸に行ける。
まずは竪堀を見て、北曲輪の神社へ、続いて石垣が残る虎口から土塁で囲まれた本丸跡へ、正面の野面積天守台がすぐに見られる。ここだけ城跡から浮いたような感覚でいきなりポンと持ってきたような違和感を覚える。おそらく二俣城攻防戦の後の平穏な時代の建築物なのかも?
この天守台の裏側は天竜川の絶壁です。
天守台の横には梟が乗った二俣城址碑が建てられている。広い本丸南側には大きな説明板があり、二俣城をめぐる武田氏と徳川氏の攻防が書かれている。
喰い違いになった桝形をから二の丸に入ると、城山稲荷神社があり南側には高い土塁が残る。二の丸東側に追手虎口があり、虎口南側の土塁上には櫓台跡があり、二代目物見の松が植えられている。
この虎口にも石垣が残る。
虎口から南へ行くと二の丸と蔵屋敷の間の大きな堀切が良くわかる。蔵屋敷の南側には土塁跡があり石垣も少し残っている。この土塁の西端から南曲輪へ入れるが、竹藪でよくわからない。
二の丸まで引き返し、稲荷神社裏から井戸曲輪へ降りられる。二の丸と蔵屋敷の間の堀切をこんどは逆方向から見られ、見る位置が違うと雰囲気が変わります。
井戸曲輪は竹藪になっていて、竪堀や堀切がありそうですが、よくわかりません。
駐車場に戻り、二俣城の事件、家康の嫡男信康自刃の悲劇の場所でもあり、その墓所のある清瀧寺が近いので寄りました。
≪ 歴 史 ≫
文亀年間 (1501-04) 二俣近江守昌長が築く。
永正十一年 (1514) 二俣昌長が米倉城に移り、代って堤城城主松井左衛門亮信薫が入城する。
享禄二年 (1529) 信薫が病没し、弟の五郎八郎宗信が跡を継ぎ城主となる。
永禄二年 (1559) 松井左衛門佐宗信が今川氏真から所領を安堵される。
永禄三年 (1560) 桶狭間の戦いで宗信が討死する。同年十二月に子宗恒に所領を安堵される。
その後、今川氏の衰退によって、徳川氏が二俣城を攻略する。
永禄十一年十二月 (1568) 家康は、鵜殿氏長を城番に任じて所領を安堵する。
中根正照を主将、松平康安と青木貞治を副将として二俣城の守備に入れる。
元亀三年 (1572) 三方ヶ原の戦いの前哨戦で遠江に侵攻した武田信玄が二俣城を囲み、徳川軍は城を開け渡し、城は武田軍のものとなり依田信守・信蕃父子が守備に入る。
天正元年 (1573) 家康は二俣城攻略に着手。
天正三年五月 (1575) 家康は長篠の戦いで勝利すると、六月に二俣城奪還のため鳥羽山城・毘沙門堂砦・蜷原砦・和田ヶ島砦を築き包囲攻撃する。光明城・諏訪原城が攻略され孤立しても城兵は抵抗を続けたが、十二月二十四日依田信蕃は降伏開城し、長い攻城戦は終止符を打ち、家康は大久保忠世に守備を命じる。
天正七年九月十五日 (1579) 家康の嫡男信康が武田氏との共謀を疑われ、二俣城で自害させられる。墓は清瀧寺にある。
天正十八年 (1590) 家康が関東に移封になり、大久保忠世も小田原城へ移ったため二俣城は廃城となる。
≪ 写 真 ≫
登城口
北曲輪(旭ヶ丘神社)
本丸虎口
天守台
天守台横の二俣城址碑
本丸
本丸から二の丸へ入る桝形
二の丸土塁
二の丸
二の丸櫓台跡の二代目物見の松
追手虎口
二の丸と蔵屋敷の間の堀切
蔵屋敷南側土塁に残る石垣
蔵屋敷と南曲輪の間の堀切
信康の墓所のある清瀧寺
信康廟
現地縄張図(リンク付サムネイル)
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
天竜浜名湖鉄道二俣本町駅から徒歩10分。鳥羽山公園入口バス停から徒歩7分。
<車>
新東名高速浜松浜北ICを降りて国道152号を北上し、新東名高速の下を抜け、中瀬大平交差点を左折、堤防上の道を進むと右側に自動車教習所の跡地があり、しばらく進むと県道45号笠井街道へ出る三叉路へ着く、この三叉路を右斜めに右折し、県道45号へ出る。北上を続けると鹿島坂下南の複合交差点へ着く。この交差点をななめ左折し、天竜浜名湖線の踏切を越えるとすぐに国道152号秋葉街道へ出る鹿島坂下の三叉路を斜めに右折、約200mで天竜川に架かる鹿島橋を渡り、約200m進むとトンネルがあり、このトンネルをを抜けて一つ目の信号を左折したら、すぐに右へ道がカーブする、その途中に山へ登る側道があるので、その道を登っていくと二俣城址入口と書かれた木製看板が左側にある。そのまま道なりに左カーブになった所の右側土手に5台ほど止められる無料駐車場がある。
≪ 位置図 ≫
登城口
二俣城
清瀧寺
紹介したお城の数 19城
2012/12/9
静岡県浜松市のお城めぐり
武田軍と徳川軍が奪い合い、松平信康が自害した悲劇のお城
≪ お城の概要 ≫
城名: 二俣城
よみ: フタマタ
別称: 蜷原城
所在地: 静岡県浜松市天竜区二俣町二俣
現状: 城山公園・城山稲荷神社・旭ヶ丘神社
築城年代: 文亀年間(1501-04)
築城者: 二俣氏
形式: 平山城
遺構: 天守台・本丸・二の丸・北曲輪・蔵屋敷・南曲輪・井戸曲輪・土塁・空堀・石塁・堀切
規模: 350m×100m、標高約40m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2012/12/9
≪ 訪城記 ≫
鳥羽山城から二俣城へ向かう。
国道152号秋葉街道へ戻るため、来た道を引き返しトンネル出口の交差点を左折、約200m進んだ信号を左折したら、すぐに右へ道がカーブする、その途中に山へ登る側道があるので、その道を登っていくと二俣城址入口と書かれた木製看板が左側にある。そのまま道なりに左カーブになった所の右側土手に5台ほど止められる無料駐車場がある。
この駐車場の道向かいに登城道の参道があり、二俣城址碑や案内板が建てられている。
少し登ると右の谷に竪堀、左に北曲輪(旭ヶ丘神社)、まっすぐで本丸に行ける。
まずは竪堀を見て、北曲輪の神社へ、続いて石垣が残る虎口から土塁で囲まれた本丸跡へ、正面の野面積天守台がすぐに見られる。ここだけ城跡から浮いたような感覚でいきなりポンと持ってきたような違和感を覚える。おそらく二俣城攻防戦の後の平穏な時代の建築物なのかも?
この天守台の裏側は天竜川の絶壁です。
天守台の横には梟が乗った二俣城址碑が建てられている。広い本丸南側には大きな説明板があり、二俣城をめぐる武田氏と徳川氏の攻防が書かれている。
喰い違いになった桝形をから二の丸に入ると、城山稲荷神社があり南側には高い土塁が残る。二の丸東側に追手虎口があり、虎口南側の土塁上には櫓台跡があり、二代目物見の松が植えられている。
この虎口にも石垣が残る。
虎口から南へ行くと二の丸と蔵屋敷の間の大きな堀切が良くわかる。蔵屋敷の南側には土塁跡があり石垣も少し残っている。この土塁の西端から南曲輪へ入れるが、竹藪でよくわからない。
二の丸まで引き返し、稲荷神社裏から井戸曲輪へ降りられる。二の丸と蔵屋敷の間の堀切をこんどは逆方向から見られ、見る位置が違うと雰囲気が変わります。
井戸曲輪は竹藪になっていて、竪堀や堀切がありそうですが、よくわかりません。
駐車場に戻り、二俣城の事件、家康の嫡男信康自刃の悲劇の場所でもあり、その墓所のある清瀧寺が近いので寄りました。
≪ 歴 史 ≫
文亀年間 (1501-04) 二俣近江守昌長が築く。
永正十一年 (1514) 二俣昌長が米倉城に移り、代って堤城城主松井左衛門亮信薫が入城する。
享禄二年 (1529) 信薫が病没し、弟の五郎八郎宗信が跡を継ぎ城主となる。
永禄二年 (1559) 松井左衛門佐宗信が今川氏真から所領を安堵される。
永禄三年 (1560) 桶狭間の戦いで宗信が討死する。同年十二月に子宗恒に所領を安堵される。
その後、今川氏の衰退によって、徳川氏が二俣城を攻略する。
永禄十一年十二月 (1568) 家康は、鵜殿氏長を城番に任じて所領を安堵する。
中根正照を主将、松平康安と青木貞治を副将として二俣城の守備に入れる。
元亀三年 (1572) 三方ヶ原の戦いの前哨戦で遠江に侵攻した武田信玄が二俣城を囲み、徳川軍は城を開け渡し、城は武田軍のものとなり依田信守・信蕃父子が守備に入る。
天正元年 (1573) 家康は二俣城攻略に着手。
天正三年五月 (1575) 家康は長篠の戦いで勝利すると、六月に二俣城奪還のため鳥羽山城・毘沙門堂砦・蜷原砦・和田ヶ島砦を築き包囲攻撃する。光明城・諏訪原城が攻略され孤立しても城兵は抵抗を続けたが、十二月二十四日依田信蕃は降伏開城し、長い攻城戦は終止符を打ち、家康は大久保忠世に守備を命じる。
天正七年九月十五日 (1579) 家康の嫡男信康が武田氏との共謀を疑われ、二俣城で自害させられる。墓は清瀧寺にある。
天正十八年 (1590) 家康が関東に移封になり、大久保忠世も小田原城へ移ったため二俣城は廃城となる。
≪ 写 真 ≫
登城口
北曲輪(旭ヶ丘神社)
本丸虎口
天守台
天守台横の二俣城址碑
本丸
本丸から二の丸へ入る桝形
二の丸土塁
二の丸
二の丸櫓台跡の二代目物見の松
追手虎口
二の丸と蔵屋敷の間の堀切
蔵屋敷南側土塁に残る石垣
蔵屋敷と南曲輪の間の堀切
信康の墓所のある清瀧寺
信康廟
現地縄張図(リンク付サムネイル)
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
天竜浜名湖鉄道二俣本町駅から徒歩10分。鳥羽山公園入口バス停から徒歩7分。
<車>
新東名高速浜松浜北ICを降りて国道152号を北上し、新東名高速の下を抜け、中瀬大平交差点を左折、堤防上の道を進むと右側に自動車教習所の跡地があり、しばらく進むと県道45号笠井街道へ出る三叉路へ着く、この三叉路を右斜めに右折し、県道45号へ出る。北上を続けると鹿島坂下南の複合交差点へ着く。この交差点をななめ左折し、天竜浜名湖線の踏切を越えるとすぐに国道152号秋葉街道へ出る鹿島坂下の三叉路を斜めに右折、約200mで天竜川に架かる鹿島橋を渡り、約200m進むとトンネルがあり、このトンネルをを抜けて一つ目の信号を左折したら、すぐに右へ道がカーブする、その途中に山へ登る側道があるので、その道を登っていくと二俣城址入口と書かれた木製看板が左側にある。そのまま道なりに左カーブになった所の右側土手に5台ほど止められる無料駐車場がある。
≪ 位置図 ≫
登城口
二俣城
清瀧寺
紹介したお城の数 19城
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