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七戸城

2014-10-07 06:03:54 | 北海道・青森県・岩手県
 七戸城

2014/9/16

青森県七戸町のお城めぐり

 九戸政実の乱で九戸城主九戸政実とともに滅ぼされた七戸南部氏の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 七戸城
よみ: シチノヘ
別称: 柏葉城
所在地: 青森県上北郡七戸町七戸・城ノ後・貝ノ口
現状: 神明宮・柏葉公園・住宅地
築城年代: 鎌倉時代
築城者: 工藤右近将監または南部政長
形式: 平山城
遺構: 本丸・二の丸・北館・下館・宝泉館・西館・角館・土塁・水堀・空堀・大手虎口跡・復元東門
規模: 375m×387m、比高40m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2014/9/16


≪ 訪城記 ≫

ホテルから七戸城へ向かう。

ホテルを出て国道103号を南下、浜田交差点信号を直進、青森道高架下をくぐり、八甲田山へ向かう。山道に入り八甲田ゴールドライン途中で三叉路を左折、県道40号を東進、突き当りの雪中行軍銅像茶屋前を右折、そのまま南下、山を越えた駒込交差点を斜め左折、国道394号を北上して、山を迂回して東進、山を下りていき和田ダム横を通り、七戸町に入り、柏葉館前の七戸信号を左折、約50m北上した三叉路を左折、右手に七戸庁舎があり、そのまま坂を登って行った先に神明宮があり、横の駐車場に車を駐車する。

神明宮のあたりが本丸跡で、北側に柏葉公園が広がる。
柏葉公園の入口に七戸城趾碑と説明板が建てられていて、入った芝生広場が二の丸跡で南西隅に空堀跡が残る。
北東へ降りると姫塚があり、その東に菖蒲園があり、この付近が堀跡らしい。この菖蒲園の南側に東門が復元されている。姫塚から二の丸跡に戻り、北側土塁跡の中央付近で北館に渡る間に水堀がある。広い北館の西側に七戸城の復元模型が展示してある。道を隔てた西側に角館と西館があり、道を南に降りたところが大手虎口跡で大きな案内マップがある。東側に下館、西側に宝泉館があり、宝泉館には土塁と空堀跡がある。


七戸城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

建武元年 (1334) 北畠顕家の将工藤右近将監が蝦夷館を改修するが、北条方であった工藤氏は七戸城を没収され、南朝方の伊達行朝にあたえられ、さらに結城朝祐に与えられる。
建武二年 (1335) 結城氏が南朝方に反したので、鎌倉攻めに功を立てた南部政長に与えられ、改築する。
建武五年 (1338) 根城南部氏の南部師行が戦死する。弟の七戸城主政長が五代根城城主となり七戸城主と兼任する。
貞和四年 (1348) 政長の子根城南部氏六代信政が京都で戦い戦死する。
観応元年 (1350) 根城南部氏五代政長が死去する。以後、七代信光、八代政光と続く。
明徳四年 (1393) 政光は八戸を甥の長経に譲り、七戸に退き、七戸南部氏の初代となる。
康正二年 (1456) 田名部の蛎崎蔵人の乱で七戸城は落城する。
文明十五年 (1483) 宗家三戸南部の御家騒動により落城する。
天正十九年 (1591) 九戸政実の乱で九戸城主九戸政実と七戸城主家国が結び、豊臣秀吉の奥州仕置軍によって滅ぼされ、七戸南部氏は断絶する。七戸城は宗家南部信直の直轄地となる。


≪ 写 真 ≫


七戸城大手虎口


本丸跡の神明宮


七戸城趾碑


柏葉公園入口


二の丸跡


姫塚


東門の北側の堀跡


復元東門


二の丸と北館の間の水堀


北館


角館


菖蒲園の空堀跡


西館


西から見た水堀


大手へ降りる付近


下館


宝泉館


宝泉館の空堀跡


二の丸土塁跡


現地七戸城跡全体図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東北新幹線七戸十和田駅からバスで役場七戸庁舎バス停下車すぐ。
<車>
青森道青森東ICを降りて県道47号を南東に進み、滝沢下川原付近でみちのく有料道路を通り、七戸町志茂川原付近で県道242号を東進、後平交差点信号を右折、国道4号を南下、JR東北新幹線高架下をくぐり、七戸署を過ぎた大沢三叉路を右折、道が左に大きく曲り奥州街道を南下、影津内信号を過ぎた、次の三叉路を右折、国道394号を約600m西進、交差点を左折、約80m南下した交差点信号を右折、約130m西進して左折した町役場七戸庁舎の裏山に七戸城跡の柏葉公園がある。庁舎や柏葉館前の駐車場を利用すると良い。


≪ 位置図 ≫

七戸城(柏葉公園)


紹介したお城の数 273城



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