Learning of God Loves All Beings 05
學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第五集)
2018/8/31 英國威爾士三一聖大衛大學.蘭彼得校區 檔名:21-786-0005
諸位法師、諸位同學,大家好。今天我們接著看《神愛世人》這個小冊子。
第一個宗教,巴哈伊教。巴哈伊是新興的宗教,很難得,裡面的內容,好像是所有宗教裡面都談到。特別是他們能夠拓開心量,肯定眾神是一體,非常難得,整個宇宙是一家,非常契合我們這個課題。
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。今日私たちは引き続きこの小冊子『神は世人を愛す』を見ていきます。最初の宗教は、バハーイー教(イスラム教シーア派から分派した一神教)です。バハーイーは新興の宗教です。得難いことに、その内容はあらゆる宗教の中で語られているもののようです。特に彼らは心を開き、人々と神とが一体であることを肯定しています。非常に得難いことです。全宇宙は家族であり、私たちの課題と合致しています。
在它的經典上,我們節錄了幾段,這是前面的第一段:「上帝對人類派遣了他的先知、使者們,其目的有二:首先,他要使他的人類孩子們,從無知的黑暗中走出,並引導他們走向真知的光明;第二,他是要藉此來維繫人類的和平,與其心靈上的安寧,並且要為和平與安寧的實現,提供一些可行的方法。」
その経典から、私たちは数段を抜粋しました。これは最初の第一段です。
「神は人類に対して預言者、使者たちを派遣した。その目的は二つある。まず、神が人類という子どもたちを無知の暗闇から抜け出させ、彼らを正しい認識の光明に導くことである。二つ目は、神が人類の平和を維持し、その心の安寧、そして平和と安寧を実現するために、いくつか実行可能な方法を提供することである」
(God’s purpose in sending His Prophets unto men is twofold. The first is to liberate the children of men from the darkness of ignorance, and guide them to the light of true understanding. The second is to ensure the peace and tranquility of mankind, and provide all the means by which they can be established.)
這些方法,在東方,中國五千年的文化;在西方有宗教,許許多多的宗教。為什麼會有這個現象?我們深入經藏之後,逐漸體會到了,大乘經教裡面交代得很清楚。神,一個真神,眾生無量無邊,體是一個,眾神一體,眾生跟神也是一體。體是誰?用佛法來說,就是自己的法身。法身沒有形相,證得法身,沒有圓滿,稱為法身菩薩;證得圓滿,就稱之為佛陀。
それらの方法は、東洋では中国五千年の文化があり、西洋では宗教があります。数多くの宗教です。なぜこのような現象があるのでしょうか?私たちは経蔵に深く入れば、少しずつ理解することができます。大乗の経教の中にはっきりと語り伝えられています。神は一つの神であり、衆生(しゅじょう:命あるもの)は無量無辺(むりょうむへん:計り知れないこと)です。体(たい:本体)は一つです。人々と神とは一体であり、衆生と神もまた一体なのです。体とは誰でしょうか?仏法を用いて言えば、正に自分の法身です。法身には形相はありません。法身を証得して、円満でないものを法身菩薩と言います。円満に証得していれば、それを仏陀と言います。
沒有圓滿的時候,我們看到很多,像這個經上所講的,他們在無知的黑暗裡面生活,所以神要幫助他們回頭、幫助他們回歸自性,方法很多。為什麼有那麼多方法?眾生根性不一樣。神、佛菩薩說法叫應機而說,你是什麼樣的根性,就給你說什麼法,你容易契入、容易明白,道理在此地。方法無量無邊,佛法裡面講八萬四千法門、無量法門,你是什麼樣的根性,就用什麼方法教你,你真正遇到高明。高明在佛教裡面講,佛、菩薩,這是高明;阿羅漢雖然覺悟,並沒有深入。菩薩還分等級,五十一個位次,像讀書一樣,一年級、二年級、三年級……大乘教裡頭五十一個班級。最高的,十個位次,加上等覺,十一個位次,那個境界差不多都是圓滿的。經歷五十一個階級,再上面就是佛陀,功德就圓滿了。
円満ではない時、私たちは多くのものを見ると、この経典に説かれているように、無知の暗闇の中で生活しているようなものです。だからこそ神は彼らが改心するのを助け、彼らが自性に回帰するのを助けるのです。方法はたくさんあります。なぜそれほど多くの方法があるのでしょうか?衆生の資質が異なるからです。神、仏菩薩の説法は機(き:機根、資質)に応じて説くと言われます。あなたがどのような資質なのかによって、法を説きます。あなたは境地に入り易く、理解し易くなります。道理はここにあります。方法は無量無辺にあり、仏法では八万四千の法門、無量の法門と言われます。あなたがどのような資質なのかによって、(適切な)方法を用いて教えます。あなたは真に優れた人に出会ったのです。優れた人とは仏教の中では、仏、菩薩と言われます。これが優れた人です。阿羅漢は悟ってはいますが、深くはありません。菩薩はさらに等級が分かれます。五十一の位があり、学校と同じように、一年生、二年生、三年生・・・・大乗教の中では五十一の学年とクラスがあります。最も高いものは、十の位、加えて等覚、十一の位、その境界(きょうがい:境地)がほぼ円満です。五十一の階級を経て、更に上は仏陀であり、功徳は円満になります。
大乘在中國有十個宗派,每一個宗下面又分派,所以「方便有多門,歸元無二路」,門門都能成無上道。那為什麼要設這麼多法門?根性不一樣。其實給你說真話,佛無有法教給你,你開悟了,是你自己開悟的;他有方法幫助你開悟,破迷開悟。你不經歷這些方法,你雖然開悟是自己的事情,你自己不會,迷失了方向,所以你得不到佛法的利益。因此,就要設許許多多的方便,對無量無邊的眾生,乃至於為一個眾生,也開了很多法門。這些道理我們現在慢慢都體會到了。像我們求學一樣,童年的時候讀小學,有小學課本,有小學教學法;再長大了,小學畢業了升到中學,中學有中學的教科書,有中學的教學法;乃至於大學。
大乗は中国では十の宗派があり、どの宗にも更に分派があります。ですから「方便有多門,帰元無二路」(方便として多くの門があるが、根元に帰ればニつの路は無い)と言うように、どの法門もこの上ない道なのです。それではなぜこれほど多くの法門を設けるのでしょうか?資質が異なるためです。実のところ、あなたに本当の話をすれば、仏はあなたに教える法など無いのです。あなたが悟りを開くのは、あなた自身で悟りを開くのです。仏はあなたが悟りを開くこと、迷いを破り悟りを開く(破迷開悟)のを助ける方法を持っています。あなたはこれらの方法を経験せず、たとえ悟りを開くことが自分の事だとしても、あなた自身で出来なければ、方向を見失い、仏法のご利益を得ることは出来ません。このことから様々な方便を設け、無量無辺の衆生に対して、乃至は一人の衆生の為にも多くの法門を開いたのです。これらの道理を私たちは少しずつ理解しています。ちょうど私たちが学校で学ぶのと同じように、子どもの頃は小学校で学び、小学校の教科書があり、小学校の教学法があるのです。更に大きくなれば、小学校を卒業して中学校に進学します。中学校には中学校の教科書があり、中学校の教学法があります。そして大学です。
上帝愛世人,上帝幫助世人,派使節,像我們現在講派代表、派老師。宗教,我們把它比喻學校,上帝是校長,他的助教很多,他下面的老師很多。這些老師執行任務,幫助眾生破迷開悟、離苦得樂,所以設八萬四千法門,或者說設無量法門。在我們這個地球上,所有不同的宗教、不同的聖人、不同的先知,他們真身就是上帝;換句話說,他們都是上帝的分身、上帝的化身,是一體。
神は世人を愛し、神は世人を助け、使節を派遣しました。ちょうど私たちが代表を派遣したり、先生を派遣したりするようなものです。宗教を学校に例えれば、神は校長です。彼の助教はたくさんいます。彼の下にはたくさんの先生がいます。これらの先生が任務を執行します。衆生が迷いを破り悟りを開き(破迷開悟)、苦しみを離れて安らぎを得る(離苦得楽)のを助けます。そのため八万四千の法門、或いは無量の法門を設けたのです。この地球上の、あらゆる異なる宗教、異なる聖人、異なる先覚者。彼らの真身(しんしん:本体)は神なのです。言い換えれば、彼らは皆神の分身、神の化身であり、一体なのです。
我們再看下面這一段,這段非常重要:「你們都是同一棵樹木的葉子,都是同一個大海中的水滴。」一滴水。這個話我們一聽就明白了,一體。他用樹跟樹葉來比喻,那一棵大樹就是上帝,變現出無量的眾生、無量的世界。一個星球是一個世界,太空當中有多少星球?數不清,我們能見到的少數,還有許許多多距離太遠了;本身放光的,我們比較容易見到,不放光的不知道有多少。科學家告訴我們,太陽系放光的就一個,太陽;不放光的有九大行星,行星還有衛星,在太陽反射之下我們見到了,反射不到的我們不知道。
次の一段を見ましょう。この段は非常に重要です。
「あなた方は同じ樹木の葉であり、すべて同じ大海の中の水滴である」。
(You are all the leaves of one tree and the drops of one ocean.)
一滴の水です。私たちはこの話を聞いてすぐに理解できます。一体です。(バハイ教では)樹木と葉とを用いて例えています。その大樹は正に神であり、無量の衆生、無量の世界に変化して現れます。一つの星は一つの世界です。宇宙にはどれほどの星があるのでしょうか?数え切れません。私たちが見ることのできるのは少数で、まだまだ遠い彼方には数限りなくあります。それ自身が発光するものは見え易いですが、発光しないものがどれほどあるか知れません。科学者は言います。太陽系で発光するのはただ一つ、太陽です。発光しないのは九つの惑星があり、惑星には更に衛星があります。太陽の反射を受けて私たちは見ることが出来ます。反射しなければ私たちには分かりません。
科學不斷的在提升,我們的視野不斷的在擴大,這是得利於科學,發明許多儀器,幫助我們看到肉眼所很難見到的,我們都見到了;這宏觀世界。再看另外一頭,微觀世界,生物更多了,它幫助我們看到肉眼看不到的細胞、細菌。我們從科學報告裡頭知道這些常識,是不是就是這麼多?不敢說,肯定不是這麼多,有更多。我們等待科學儀器再提升,不斷的進步,使所有看不見的,在顯微鏡裡面統統看到。說明我們是同一個法身,這裡講的,同一棵樹木的葉子。
科学は絶えず進歩しています。私たちの視野は絶えず広がっています。これは科学のお陰を被っています。様々な計測機器を発明して、私たちが肉眼で見られないものを見るのを助けてくれています。これはマクロの世界です。また別の一方を見れば、ミクロの世界です。生物は更に多く、それは私たちが肉眼で見られない細胞、細菌を見るのを助けてくれます。私たちは科学のリポートからこれらの常識を知っています。それだけなのでしょうか?そうとは言えません。間違いなくそれだけではなく、もっと多いでしょう。科学の計測器が更に進化し、絶えず進歩すれば、すべての見えないものを顕微鏡の中で見ることが出来るでしょう。私たちは同じ一つの法身であることの証明です。ここで説かれている、同じ一つの樹木の葉なのです。
我們這邊走出去,街道的兩旁邊是公園,樹木有年代了,都非常高大,所以有很好的樹蔭給我們乘涼。所有這麼多樹,就像經上講的,你們有這麼多人,都是一棵樹木的葉子。親切,不是獨立的樹,我們是樹上一片樹葉。
ここから外に出ると、道の両辺は公園で、年数を経た樹木があります。どれも高くて大きいので、良い木陰ができて涼むことができます。これらの樹木は、経に説かれているように、――皆さんはこのようにたくさんいますが――すべて一つの樹木の葉なのです。親しみがわきます。独立した樹ではなく、私たちは樹木の一葉なのです。
後面還有一句:「都是同一個大海的水滴。」大海距離我們不遠,巴黎的外面是大西洋,大海望不到邊際,芸芸眾生就像一滴海水一樣。這個比喻很親切,把我們人與人、人與上帝的關係講清楚了、講明白了。我們有沒有接受?沒有。為什麼沒有?我們迷得太深、迷得太厚了。
その後更に一句「すべて同じ大海の中の水滴である」とあります。大海はここから遠くはありません。パリの外は大西洋です。大海はその果てを望むことはできません。あらゆる衆生は一滴の海水のようなものです。この比喩はとても親しみがわきます。私たち人と人、人と神との関係をはっきりと、明瞭に説いています。私たちはそれを受け入れているでしょうか?受け入れていません。なぜでしょうか?私たちの迷いが深く深刻だからです。
所以我們不能離開上帝,不能離開上帝派到這個世間來的使者。使者是上帝的助教、是我們的老師,我們對他要尊重、我們對他要信任,不能懷疑。帶著懷疑的心來學道,難;帶著懷疑去學科學,行,學道不行,道是形而上的。所以我們要肯定,這些都是上帝的話,都是上帝使者教給我們的,我們信心從這裡建立。有了信心之後,我們再來解決問題。
ですから私たちは神を離れることはできません。使者たちは神がこの世に派遣しました。使者は神の助教であり、私たちの先生です。私たちはその人を尊重し、信頼して、疑うことはできません。懐疑的な心を持って道を学ぶのは、難しいものです。懐疑的な心を持って科学を学ぶのは良いのです。道を学ぶことはできません。道は形而上のものです。ですから私たちは肯定しなければなりません。これらはすべて神の話であり、すべて神の使者が私たちに教えたものなのです。私たちの信心はここから打ち建てます。信心が生まれた後、私たちは更に問題を解決します。
修行,依照經典的教訓認真學習,把經典的教訓變成自己生活的規範。起心動念不離開經典,言語造作不離開經典,這是上帝的兒女,這是聖賢的弟子。
修行は経典の教訓に照らして真摯に学びます。経典の教訓を自分の生活規範に変えるのです。心の働きは経典を離れず、言葉や行為は経典を離れません。これが神の子です。これが聖賢の弟子です。
有同修告訴我,我們很想學習,但是就是入不了境界,怎麼辦?我告訴大家從哪裡入門,儒、佛,再看一切宗教經典,能入門要行、證。我們聽講聽明白、聽懂了,沒有把它變成我們的生活行為,那不管用,我們入不進去。幾乎所有宗教也是同樣的道理,都是主張從放下入門。放下什麼?放下妄想、放下分別、放下執著,你就會看到門,你就能入門。
ある人が私に言いました。「私たちは学びたいと思っていますが、境界(きょうがい:境地)に入ることが出来ません。どうしたものでしょうか」。私はどこから入門すべきかを皆に話しました。儒、仏、そして一切の宗教経典を見ます。入門するには行(ぎょう:修行)、証(しょう:証得)をしければなりません。私たちは説くところを明瞭にし、理解しなければなりません。それを私たちの生活、行為に変えていないのであれば、役には立ちません。(境界に)入ることはできません。およそあらゆる宗教も同じ道理であり、すべて放下(ほうげ:執著を捨てること)から入門することを主張しています。何を放下するのでしょうか?妄想を放下し、分別を放下し、執著を放下すれば、あなたは門を見るに到ります。あなたは入門することができるのです。
有些同修告訴我,就是放不下,怎麼辦?我勸你學經教。你為什麼放不下?你不了解事實真相,所以你放不下;如果了解事實真相,你就不會把它放在心上,自自然然放下。放下就自在,放下就生智慧。那我再告訴你,你真正想學,學道,這十個宗教都合起來,無論你學哪一個,沒有例外的,都是從把煩惱習氣放下。煩惱習氣是根,樹木的根,根放下了,枝葉自然就沒有了。
ある人たちは私に言います。「正に放下することが出来ないのです。どうしたものでしょうか」。私は経教に学ぶことを勧めます。あなたはなぜ放下できないのでしょうか?あなたは事実の真相を理解していません。だから放下できないのです。もし事実の真相を理解すれば、あなたはそれを心に留めたりしません。極自然に放下します。放下すれば自在になります。放下すれば智慧が生じます。私は更に言います。あなたが本当に道を学びたいなら、この十の宗教を合わせて、あなたはどれを学ぼうと、例外はありません。すべて煩悩の習気(じっけ)を放下することからです。煩悩の習気は根であり、樹木の根です。根を放下すれば、枝葉は自然になくなります。
中國的儒,儒家從哪入門?格物、致知;然後才有修身、齊家、治國、平天下。那儒家這個根什麼意思?不能不懂,不能不講究。格物,格是格鬥,打仗,跟誰打仗?跟自己打仗。物是什麼?物是欲望。這個東西害死我們,我們時時刻刻沒辦法離開,眼見色、耳聞聲、鼻嗅香、舌嘗味,它起作用。起的作用是迷,不是覺。覺怎樣呢?不起作用的時候就覺了。所以從哪裡下手?放下物欲、放下煩惱、放下習氣、放下一切錯誤。
中国の儒、儒家はどこから入門するのでしょうか?格物(かくぶつ)、致知(ちち)です。その後で修身(しゅうしん:身を修めること)、斉家(せいか:家を整えること)、治国(ちこく:国を治めること)、平天下(へいてんか:天下を平和にすること)が出てきます。儒家のこの根はどのような意味でしょうか?理解しなければなりません。研究しなければなりません。格物の「格」とは格闘です。戦いです。誰と戦うのでしょうか?自分と戦うのです。「物」とは何でしょうか?「物」とは欲望です。これは私たちを害するものです。私たちは時々刻々離れることが出来ません。眼で色を見て、耳で音を聞き、鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を味わいます。それが作用を起こします。起こる作用は迷いであり、覚りではありません。覚りとはどのようなものでしょうか?作用が起きなくなった時が覚りです。ですからどこから着手すべきでしょうか?物欲を放下し、煩悩を放下し、習気(じっけ)を放下し、一切の誤りを放下することです。
知道錯了馬上就要改,怎麼改法?先放下,再學習,功夫就得力了。你一面放下一面又再做,那你怎麼能放得下?放下之後智慧就現前,所以致知。智慧從哪裡來的?煩惱輕的人智慧就多,煩惱重的人智慧就少。妄想、分別、執著只生煩惱,不生智慧;可是妄想、分別、執著你就放不下,你不但不肯放,你還在上添油添醋。這是念經沒錯,修行錯了,方向、路統統走錯了。
誤りと知ったらすぐに改めなければなりません。どのように改めるのでしょうか?まず放下して、更に学習すれば、技量を得ることが出来ます。あなたが一方で放下して、一方ではまた繰り返すのであれば、どうして放下出来るのでしょうか?放下した後で智慧が現れます。だから致知(知を致す)なのです。智慧はどこから来るのでしょうか?煩悩が軽い人は智慧が多く、煩悩が重い人は智慧が少ないものです。妄想、分別、執著はただ煩悩を生むばかりで、智慧を生みません。しかし妄想、分別、執著を放下出来ないのは、あなたが放下しようとしないばかりか、あなたが自分で味付けをしているのです。これは経を正しく読みながら、修行を誤っています。方向、道、すべて誤っています。
佛法裡面講看破、放下,儒家講的格物、致知。格物就是跟物欲打仗,要把它打敗;致知就是開智慧。我們現在沒有智慧,是因為欲望太多、妄想太多,那不是真的。從今之後,我們要把這個放下,不放在心上,心上只放上帝的愛。我們這裡總標題是「上帝愛世人」,沒有一部經典不講上帝愛世人,上帝愛世人是真的,不是假的。我們一定要曉得,一定要把它搞清楚,在這裡下手就對了。
仏法の中では看破、放下を説き、儒家では格物、致知を説きます。格物とは物欲との戦いです。それを打ち負かさなければなりません。致知とは智慧を開くことです。私たちは今は智慧がありません。それは欲望が多く、妄想が多いためです。それは真実ではありません。今からはこれを放下して、心の中に留めず、心の中には神の愛だけを留めます。私たちのここでの題目は「神は世人を愛す」です。どの経典でも神が世人を愛することを説かないものはありません。神は世人を愛するのは真実です。偽りではありません。私たちは必ず理解しなければなりません。必ずそれをはっきりさせ、ここから着手すれば良いのです。
循著這個順序不斷向上提升,提到最後,治國、平天下;這是講我們沒有離開地球,還住在這邊,你的功德圓滿。再向上提升,我們就會跟上帝在一起,生到天國去了,佛法生到極樂世界去。這問題才是徹底搞清楚了,徹底終極最高的利益我們真正得到了,大圓滿,這是我們努力的方向。所有的這些經典、神聖、先知告訴我們,我們可以做到,不是做不到。只要下定決心,真肯幹,我們共同在一起互相幫助,不斷的向上提升。
この順序に従って絶えず向上したなら、最後は治国、平天下です。これは私たちが地球を離れることなく、ここに住んでいながら、功徳が円満になることです。さらに向上すれば、私たちは神と共にあり、天国に生まれます。仏法では極楽世界に生まれます。これで問題が徹底的にはっきりします。徹底して最高のご利益を得るのです。大円満です。これが私たちの努力の方向です。あらゆる経典、神聖、先覚者は、私たちには出来ると言います。出来なくはありません。ただ決心をして、本当に実行することです。私たちはお互いに助け合って、絶えず向上していきます。
今天時間到了,我們就學習到此地。
時間になりました。学習はここまでとします。