Learning of God Loves All Beings 04
學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第四集)
2018/8/30 英國威爾士三一聖大衛大學.蘭彼得校區 檔名:21-786-0004
諸位法師、諸位同學,大家好。今天我們繼續來談《神愛世人》。
宗教團結的深化,必須要建立在各宗教彼此深入學習對方的經典,在這個基礎上才能夠達成。各宗教的傳教師與信徒們,都可以認識到彼此經典的共通之處,彼此都是同一位真神的子民。
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。今日は引き続き『神は世人を愛す』についてお話し致します。宗教の団結を深めるには、必ず各宗教でお互いに相手の経典を深く学習しなければなりません。この基礎の上においてこそ達成できるのです。各宗教の伝教師と信徒たちは、お互いに経典の共通するところや、お互いが同じ神の子であることを認識することが出来ます。
有鑑於對於各宗教經典的認識與學習是如此的重要,我們這一次從世界十一大宗教的聖典之中,擷取出各宗教經典中的一些精華經句,讓讀者認識到,眾神確實是一體的,他們都擁有著一體不二的大愛、一體不二的真心。這是我們學習的基礎、是我們學習的核心,否則的話,宗教團結的意義就失掉了。《神愛世人》這個小冊子,可以幫助我們契入境界。
その点を考慮しますと、各宗教の経典に対する認識と学習はこれほど重要なのです。私たちはこの度、世界十一大宗教の聖典の中で、各宗教経典の中のエッセンスとなる言葉を抜粋し、読者に人々(衆)と神とは一体であることを認識できるようにしました。彼らはすべて一体不二の大いなる愛、一体不二の真心を備えています。これは私たちの学習の基礎であり、学習の核心です。そうでなければ、宗教団結の意義が失われます。『神は世人を愛す』という小冊子は、私たちが境界(きょうがい:境地)に入る助けとなります。
我們知道,學習的根夾在這一句話裡頭:一體不二的大愛、一體不二的真心。首先肯定,完全沒有懷疑,從經典上認識,每個宗教都建立在神聖教誨的基礎上。我們要怎樣把這個愛找到?這個愛,神聖的愛,是從真心流露出來的,妄心裡頭沒有。什麼叫妄心?有分別、有執著是妄心;或者我們總的說一句,起心動念是妄心,分別、執著是妄心。必須要把這個妄心放下,真心就現前。真心就是上帝的愛心;真心,一切眾生跟上帝沒有兩樣。
私たちは知っています。学習の根本はこの一句の中にあるのです。一体不二の大いなる愛、一体不二の真心。まずそれを肯定して、完全に疑わないこと。経典の中から、どの宗教もすべて神聖な教誨(きょうかい:教え)を基礎としていることを認識します。私たちはどのようにその愛を見つけるのでしょうか?その愛、神聖な愛は、真心の中から流露するもので、妄心の中にはありません。妄心とは何でしょうか?分別があり、執著があるのが妄心です。或いは総じて言えば、起心動念(きしんどうねん:心の起こり、念の動き)は妄心です。分別、執著は妄心です。必ずその妄心を放下(ほうげ:手放すこと)しなければなりません。真心はそうして現れます。真心とは神の愛です。真心は、一切衆生(いっさいしゅじょう:生きとし生けるもの)と神とは何も違いはありません。
所以說到最後,我們會體認到,經教裡面所說的這些句子,我們節錄下來了,往下我們都能看到,不但眾神是一體,整個宇宙是真心所現,妄心所變。真心顯露的是天堂、是極樂世界,妄心所現的是十法界;十法界跟極樂世界、跟天堂,也是一不是二。
結論を言えば、経典の中のそれらの言葉を、私たちは体験して認識することができます。私たちは要点を抜粋しています。後ほどすべてお見せします。人々(衆)と神とは一体であるばかりか、全宇宙は真心の現れであり、妄心によって変化したものなのです。真心が現すものは天国であり、極楽世界です。妄心が現すのは十法界です。十法界は極楽世界や天国と一つであり、二つではないのです。
經典上都說得好,「凡所有相,皆是虛妄」,這是真的不是假的。我們能把虛妄的放下,不要放在心上,這個時候我們的心就是真心。那些開悟的人、明心見性的人,跟我們的差別在哪裡?就在這個地方。明心見性的人,眼見色,不起心不動念,看得清清楚楚、了了分明;耳聽聲音,聽得清楚、聽得明白,也是不起心不動念。我們從這裡就了解,古聖先賢他們修行證果的祕訣在哪裡。搞清楚了、搞明白了,要學!學就叫功夫、學就叫修行。行就是動,行動。凡夫的行動,裡面有妄想、分別、執著,有煩惱、有習氣;明心見性的人,他六根在六塵境界上,真正是不起心不動念、不分別不執著,差別就在此地。
経典に説かれています。「およそ姿・形あるものは、すべて実体がない」(凡所有相,皆是虚妄)。これは真実であり、偽りではありません。私たちは実体のない虚妄を放下して、心の中に留めてはなりません。その時の私たちの心こそが真心です。開悟した人、明心見性した人と、私たちとの違いはどこにあるのでしょうか?違いは正にここにあります。明心見性した人は、眼で物を見ても、心を起こさず、念を動かしません。はっきりと明瞭に見えています。耳に音を聞くと、はっきりと明瞭に聞こえていますが、やはり心を起こさず、念を動かしません。私たちはここから理解することが出来ます。古(いにしえ)の聖なる先賢たちの修行と証果の秘訣はここにあるのです。はっきりと、明瞭になったら、学ばなければなりません!学びとは技量であり、学びとは修行です。行とは動、行動です。凡夫の行動は、その中に妄想、分別、執著があり、煩悩があり、習気(じっけ)があります。明心見性した人は六根が六塵の境界にあって、本当に心を起こさず念を動かさず、分別せず執著しません。違いはここにあるのです。
明心見性不是要離開世間,那你就錯了!世間是離不開的,真妄是在一體,你怎麼能離得開?怎麼辦?佛菩薩教給我們,所有宗教的教主、上帝,以及上帝的使者、教化六道眾生這些大德、大師,他們不但教給我們,而且給我們做模範、做榜樣;我們能契入他們的境界,俗話說「得道」,你得到了,得到什麼?你得到明心見性的道路,你就曉得怎麼走法,就是六根在六塵境界上學習。眼見色是修行,是學習明心見性。現在開始下手,就是所見的色相,不分別、不執著、不放在心上,就對了。
明心見性とは世間を離れることではありません。それは間違いです!世間とは離れられません。真と妄とは一体です。あなたはどのように離れるのでしょうか?どうするのでしょうか?仏菩薩は私たちに教えています。あらゆる宗教の教主、神、及び神の使者、六道の衆生を教化する大徳、大師、彼らは私たちを教えるだけでなく、私たちの模範になってくれます。私たちが彼らの境界に入ることが出来ると、俗にいう「得道」すると、あなたは何を得るのでしょうか?あなたは明心見性への道を得ます。あなたはどのように行けば良いのかが分かります。つまり六根が六塵の境界にあって学ぶのです。眼で物を見るのは修行です。明心見性を学ぶのです。今から着手するなら、眼に見える色相に対して分別せず、執著せず、心に留めないこと。それで良いのです。
一般凡夫他的問題在哪裡?問題是把所有的現象,真的、假的,統統放在心上。他不知道真心、本性裡面是清淨的,一塵不染,雖見色,沒放在心上;雖聞聲,也沒有放在心上;乃至於鼻嗅香、舌嘗味,都不放在心上。所以稱它叫一如、真如。真如是什麼意思?真妄是一不是二,叫一如、叫真如。不起分別、不生執著,這是入門的地方,要用功夫去練。你真正做到了,方東美先生教我的一句話你也得到了,「學佛是人生最高的享受」,得到了;我得到了、你也得到了、他也得到了、人人得到了。怎麼得到的?不起心不動念、不分別不執著、不放在心上,就對了。放在心上的是凡夫,把真心變成妄心,把本性變成習性,問題就出在這裡。我證實了方先生這句話,「人生最高的享受」。
普通の凡夫の問題はどこにあるのでしょうか?問題はあらゆる現象、本当のこと、偽りのこと、すべてを心に留めていることです。その人は真心を知りません。本性は清浄(しょうじょう:清らかなこと)であり、一塵にも染まらず、物を見たとしても、心に留めません。音を聞いたとしても、やはり心に留めません。または鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を味わったとしても、すべて心に留めません。ですからそれを一如、真如と言います。真如とはどのような意味でしょうか?真と妄とは一つであり二つではありません。これを一如と言い、真如と言います。分別を起こさず、執著を起こさないこと。これが入門の場所であり、時間を掛けて訓練しなければなりません。あなたは本当にできるようになれば、あなたも方東美先生が私に教えた言葉を得るのです。「仏に学ぶことは人生最高の享受である」。それを得るのです。私は得ていますし、あなたも得るのです。彼も得ますし、誰もが得るのです。どうすれば得られるのでしょうか?心を起こさず、念を動かさず、分別せず、執著せず、心に留めないこと。それで良いのです。心に留めるのは凡夫です。真心が妄心に変わります。本性が習性に変わります。問題はここに出てくるのです。私は方先生の「人生最高の享受」という言葉を実証しました。
有人問我:我修了幾十年了,煩惱重重,沒有得到安樂,你是怎麼得到的?我告訴他:你要跟我學,你也會得到,學什麼?不放在心上。這句話說得容易,做起來很難。為什麼?你已經把起心動念、分別執著養成一種習慣;眼見色立刻就起心動念,耳聞聲立刻也起心動念,六根在六塵境界上,個個都忙著起心動念,這麻煩可大了!心上有起心動念叫做妄心,不是真心。把起心動念放下、分別執著放下,心上什麼都沒有,那是真心、那是自性。千經萬論幫助我們認識諸法實相,一切法的真相認識;認識之後,認識是在解,信、解、行、證,認識是在解,你沒修行。行是什麼?是放下。這一放下,你的認識就變成智慧,不是煩惱。
ある人が私に聞きました。「私は数十年修めましたが、煩悩が重く、安らぎを得られません。法師はどのように得られたのでしょうか」。私はその人に言いました。「あなたが私と学ぶなら、あなたにも得られます。何を学ぶのでしょうか?心に留めないことです。この話は言うのは簡単ですが、行ってみれば難しいものです。なぜでしょうか?あなたは心を起こし、念を動かし、分別し、執著することが一つの習慣として身についているからです。眼に物を見れば、すぐに念を動かし、耳に音を聞けば、すぐに念を動かし、六根が六塵の境界にあれば、忙しく念を起こし、念を動かすのです。これは面倒なことです!心の中に念を起こし、念を動かすことを妄心と言います。真心ではありません。心を起こりと念の動き、分別と執著を放下して、心の中に何もなければ、それを真心と言います。それが自性です。千経万論は私たちが諸法実相、一切法の真相を認識する助けとなります。認識は「解」(理解、解釈)にあたります。信(教義を信じること)、解(教義を理解すること)、行(教義を実践すること)、証(証得すること)。認識は解にあたります。あなたはまだ修行をしていません。「行」(ぎょう)とは何でしょうか?(行とは)放下です。ひとたび放下すれば、あなたの認識は智慧に変わります。煩悩ではありません。
放下是你的修行。所以我向章嘉大師請教,佛門有沒有方法讓我們很快就契入?他老人家聽了我這個問題之後,看著我,我看著他,我們兩個對看了半個小時。他看著我,我不知道什麼意思,他是在等我靜下來,不靜下來,老師講的你不相信。半個小時就像入定一樣,定了半個小時,心清淨了,沒有雜念了,他說了一個字:有。那我們的注意力就集中了,又錯了,又起心動念了,他就又不說了,大概又看了十分鐘。前面三十分鐘,定下來了,他說個有,我們的心又動了、又起分別執著,有了,所以他就不講了。十分鐘之後,我就又定下來,告訴我:「看得破、放得下,看破幫助你放下,放下幫助你看破。」我就明白這個方法了,佛法的修行是什麼?看破、放下,看破是智慧,放下是功夫。
放下はあなたの修行です。私は章嘉大師に「仏門には私たちが早く境地に入れる方法はありますか?」と教えを請うたことがあります。ご老人は私の質問を聞いた後、私を見ていました。私はご老人を見ていました。私たち二人は三十分見合っていました。ご老人は私を見ていましたが、私はどういう意味か分かりません。ご老人は私の心が静まるのを待っていました。心が静まらなければ、先生が話しても信じられません。三十分はまるで入定したようでした。三十分落ち着いて、心が清浄になり、雑念がなくなると、ご老人はひと言「あります」と言いました。それで私の注意力は集中し、また誤りを犯しました。また心を起こし、念を動かしたのです。ご老人はまた話さなくなりました。だいたい十分ほどです。最初は三十分で落ち着きました。ご老人が「あります」と言うと、私の心はまた動き、分別と執著を起こしました。それがあるので、ご老人は話さなくなりました。十分後に、私はまた落ち着きました。そして「看破できれば、放下できる。看破は放下を助け、放下は看破を助ける」と私に言いました。私はこの方法を理解しました。仏法の修行とは何でしょうか?看破、放下です。看破は智慧であり、放下は技量です。
在日常生活當中,你要想得到受用,不能不把人事統統放下,不放在心上,你就有智慧。好處太多了!你能慢慢的入佛境界,佛菩薩明心見性,你也明心見性了。明心見性是自性本有的,不是外頭來的。功夫也是本有的,功夫是禪定,心裡有事就不定了;妄想、分別、執著統統放下,心定下來。定生智慧,智慧是自性本有的。然後經愈看愈深入,它的深度、它的廣度慢慢你就看到。這個我們不能不知道,希望同學們慢慢琢磨。
日常生活の中でご利益(りやく)を得たいと思うなら、世間のことを放下しなければなりません。心に留めなければ、あなたには智慧が生じます。良いところがたくさんあります!あなたは少しずつ仏の境界(きょうがい:境地)に入ることができます。仏菩薩(ほとけぼさつ)は明心見性しています。あなたも明心見性するのです。明心見性は自性にもともとあるもので、外から来るものではありません。技量もまたもともとあるものです。技量とは禅譲です。心の中に物事を留めていれば落ち着けません。妄想、分別、執著をすべて放下すると、心が落ち着いて来ます。定(じょう:禅定)は智慧を生み、智慧は自性にもともとあるものです。その後は経にますます深く入ります。その深さ、その広さを少しずつ知るのです。これは知っておかなければなりません。学生の皆さんが少しずつ研鑽されることを願っています。
最好,這是福報,一生能夠不管人、不管事、不管錢。把人放下、把事放下,事來的時候做,做完了不放在心上,錢放下。方先生這句話,「學佛是人生最高的享受」,你就體會到了。
最も良いのは、これは福報だということです。一生人、事、お金に関わりません。人を放下し、事を放下して、用事が来れば対処して、対処し終えたら心に留めません。お金も放下します。「仏に学ぶのは人生最高の享受です」という方先生の言葉を、あなたは体験することができるのです。
時間到了,我們就學習到此地。
時間になりました。学習はここまでとします。