浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

あなたは「修行」ができますか?

2019-02-24 | 【修行の方法】


你會「修行」嗎? / あなたは「修行」ができますか?

修行はどこで修めるのでしょうか?経を読むことは修行でしょうか?違います。教えを聞くことは修行でしょうか?それも違います。毎日念仏して叩頭(こうとう:ひれ伏して頭を地面につけて行う礼)することは修行でしょうか?それも違います。

それでは何を修行と言うのでしょうか?「修」は修正すること。「行」は行為です。行為はとても多く、雑然としたものです。仏はそれを大きく三つに帰納されました。身(しん)口(く)意(い)。「身」とはあなたが行った行為です。「口」で言う言葉は行為です。「意」の起心動念(心の動き、念の動き)は行為です。もし身で行うこと、口で言うこと、心で思うことに、まだ私利私欲があり、まだ名聞利養(みょうもんりよう:名声や利得に対する執著)があり、まだ貪瞋痴慢(とんじんちまん:貪り、怒り、迷い、傲慢の心)があるなら、それは修行ではありません。私たちは経を聞き、経教を研究し、念仏するのに、不善の心を捨てなければなりません。これを修行と言います。眼で「色」を見、耳で「声」を聞いて念を動かし、好むものに貪心を動かし、好まないものには瞋恚(しんに:怒り)の心を動かすこと。それはすべて誤った行為なのです。

どのように修めるのでしょうか?一句の名号を用います。貪心が起こったら、南無阿弥陀仏。貪心を取り換えて無くします。この仏号を用いて、貪心を取り換えて無くしてしまいます。瞋恚の心が起こったら、阿弥陀仏を唱えて瞋恚の心と取り換えます。これを真の修行というのです。これが真に念ずることができるということです。あなたはこの仏号を念ずればとても役に立ちます。あなたの煩悩の習気(じっけ)、業障(ごっしょう)をすべて念じて無くすことができます。もし私たちが念仏し、経を聞き、教えを学ぶのに、私たちの煩悩や業障と関係が生じないなら、それはすべて無駄に念じているのです。それは修行ではありません。偽りであり、本物ではありません。あなたの誤った考え、誤った言論、誤った行為は、まったく修正されることはありません。このような修学の仕方では、一生修めても役には立ちません。最後にはまた六道輪廻を続けるのです。六道輪廻は面倒です!

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