改往修來 洒心易行——二O二O農曆新春開示 / 過去の誤りを改め、未来の浄業を修め、心清らかに念仏する 二〇二〇年旧暦新春の開示
2020/1/24 馬來西亞漢學院 檔名:32-352-0001
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【注】「改往修来 洒心易行」
「改往修来」・・・・中国のネット検索では「改变以往的错误,修治来日的善行。」と解釈が出る。「これまでの誤りを改め、将来の善行を修繕する」という意味。過去を改め未来を修めること。
「洒心易行」・・・・「洒心」の「洒」は「洗」と同義。「洒心」は「洗心」。心を洗い清めること。「易行」は「たやすく行える修行」、念仏を指す。心を洗い清めて念仏すること。
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諸位法師、諸位同學,大家新年好!
法師の皆さま、学生の皆さま、新年明けましておめでとうございます!
過年,我們在《受新歲經》裡面看到釋迦牟尼佛的懺悔,給我們很大的啟示,這是最好的教育。佛自己說:「我今欲受新歲,我無過咎於眾人乎?又不犯身口意耶?」過年,釋迦牟尼佛跟大家講開示,他帶頭反省:第一,我這一年當中處事待人接物有沒有過失?換句話說,有沒有做對不起人的事情?第二,我有沒有犯身口意?就是我有沒有造十惡業:身,殺、盜、淫;口,妄語、兩舌、綺語、惡口;意,貪、瞋、痴,身三、口四、意三,我有沒有犯?新年開示,我們就能體會到釋迦牟尼佛天天都是這樣反省,新年更是特別提醒。那是成了佛,究竟圓滿的果位,尚且要這樣做法,天天檢討、天天反省,何況我們凡夫?我們想想,自己是生死凡夫,不知道反省,不知道改過,我們在六道輪迴是每況愈下的,不會提升,這個要知道。不是向上走,就走下坡路,這多麼危險!前途一團黑漆,還能夠放逸嗎?還能夠懈怠嗎?聽憑無常到來,手忙腳亂,那時候遲了,來不及了。是必須趁我們身體還健康、頭腦還清醒的時候,要認真懺悔,要徹底改過自新。學佛,多少要幾分像佛的樣子,這才是真正聰明人。這是佛過年的時候給我們做的榜樣。
年越しについて、私たちは『受新歳経』の中に釈迦牟尼仏の懺悔を見ることができます。これは私たちに大きな啓示を与えています。これは最も良い教育です。仏はご自身で「私はいま新年を迎えようとしています。私は衆生に対して過失がなかったかどうか。また身口意(しんくい:動作を行う身、言葉を話す口、心を働かせる意念)を犯さなかったかどうか」と仰っています。新年を迎える時に釈迦牟尼仏は皆に開示されています。彼は先頭に立って反省されています。第一に、自分はこの一年で人間関係において過失がなかったどうか。言い換えれば、人に申し訳ない事をしなかったかどうか。第二に、自分は身口意を犯さなかったかどうか。つまり自分は十悪業を作らなかったかどうか。身は殺、盗、淫。口は妄語、両舌、綺語、悪口。意は、貪、瞋、痴。身は三つ、口は四つ、意は三つです。自分は犯していないかどうか。新年の開示として、私たちは釈迦牟尼仏が毎日このように反省されていたことを理解することができます。新年に特に注意喚起しています。仏に成り、究極円満の果位(かい:悟りの位)を得ても、このように毎日自分を点検し、反省されていたのです。まして私たち凡夫はなおさらやらなければならないでしょう。考えてみれば、自分は生死の凡夫であるのに、反省を知らず、過ちを改めることを知りません。私たちは六道輪廻でますます状況が悪くなっていきます。向上することができません。これは知っておかなければなりません。上に向かって進むのでなければ、正に坂道を下っているのです。これはどれほど危険なことでしょうか!前途は真っ暗闇です。どうして放逸にしていられるでしょうか?怠けていられるでしょうか?無常が来るのに任せて、大忙しで取り乱していては、その時が来てからでは遅いのです。間に合いません。私たちの体が健康で、頭が冴えている時に、真剣に懺悔して、徹底的に心を入れかえなければなりません。仏に学んで、いくらか少しでも仏のようになること。これこそが本当に賢い人です。これは新年を迎える時に仏が私たちに示されたお手本です。
我記得有一年過年,李老師在蓮社為大家講開示,一開端就說:過年大家都喜氣洋洋,見面第一句話就是恭喜恭喜你,細細想來,有何可喜?壽命少了一年,業障增加了不少,嚴格的講是悲哀,哪有什麼可喜的!世間人顛倒,把可悲的事情當可喜,真正可喜的事情早忘得乾乾淨淨。如果我們世情一年比一年淡薄,道念一年比一年濃厚,那是可喜!還在搞名聞利養、五欲六塵,把這句佛號不當作一回事情,那有什麼可喜的?
私はある年の年越しを覚えています。李老師は蓮社で皆に開示をされ、はじめからこのような話をされました。新年を迎えて皆が喜びにあふれています。会ってひと言目には「おめでとうございます」と言います。よく考えてみれば何か喜ぶことがあるのでしょうか?寿命は一年少なくなり、業障は少なからず増えています。厳格に言えば悲しみです。どこに喜ばしいことがあるのでしょうか!悲しむべき事を喜んで、本当に喜ぶべき事をきれいさっぱり忘れています。私たちの世情が年々薄くなれば、道念(どうねん:仏の道を求める心)は年々深まります。それは喜ばしい事です!相変わらず名聞利養、五欲六塵にとらわれて、この仏号(ぶつごう:南無阿弥陀仏)を大切に思わない。それで何か喜ばしい事があるのでしょうか?
要生極樂世界,要學阿彌陀佛。阿彌陀佛在哪裡?《無量壽經》就是阿彌陀佛,你每一天讀誦,每一天學習,沒有離開阿彌陀佛。無論在什麼時候,無論在什麼處所,都不離開阿彌陀佛,這叫真念佛。要把經典裡面的道理變成自己的思想見解,把這裡面的教訓變成自己的生活行為,使自己跟經完全相應。經典跟自己的思想、見解、行為融會成一體,叫契入彌陀境界。你能夠契入彌陀境界,不必完全,能夠契入少分,往生就有把握。如果我們起心動念、言語造作跟經上講的相違背,那你天天念誦也沒用處,你不能往生。所以經教不是念的,經教是教我們要實行的。《無量壽經》教我們要做的,我們認真努力去做;教我們不可以做的,我們不但不能做,念頭都不能起。佛菩薩如何保佑我們?經典裡頭的教訓是保佑我們,我們能夠依教奉行,種善因得善果,這是保佑。
極楽世界に生まれ、阿弥陀仏に学ばなければなりません。阿弥陀仏はどこにいるのでしょうか?『無量寿経』こそが阿弥陀仏です。あなたが毎日読み、毎日学習していれば、阿弥陀仏から離れません。いつでも、どこでも、阿弥陀仏から離れません。これが真の念仏です。経典の中の道理を自分の思想・見解に変えなければなりません。その中の教訓を自分の生活・行為に変えなければなりません。自分を経と完全に相応させることです。経典と自分の思想・見解・行為とが一体になることで、弥陀の境界(きょうがい:境地)に入るのです。あなたは弥陀の境界に入れば、完全でなくても、少しばかり入り込めれば、往生を掌握することができます。もし私たちの起心動念(きしんどうねん:心の働き)、言葉や行為が経に背いているなら、毎日読誦(どくしょう:声に出して読むこと)したところで役に立ちません。あなたは往生できません。ですから経教(きょうぎょう:経文に説かれている教え)は読むものではありません。経教は私たちに実行させるものです。『無量寿経』は私たちに行わせるものです。私たちは真剣に努力して行わなければなりません。私たちがしてはならないことは、ただしないというだけではなく、思いさえ起こしてはなりません。仏菩薩はどのように私たちを加護するのでしょうか?経典の中の教訓が私たちを加護します。私たちが教えに従って行えば、善因を蒔けば善果を得ます。これが加護です。
「如來所行,亦應隨行。種修福善,求生淨剎」,是《無量壽經》全經的總結。如來所行,心行上是清淨行、平等行、覺行,就是清淨平等覺;事相上,我們將無量無邊的如來行歸納為五個科目:三福、六和、三學、六度、十大願王,這就是阿彌陀佛萬德洪名在我們生命當中落實。這五個科目不但是淨土法門修學的根本,可以說是世尊四十九年所說一切法的總歸結。日常生活當中,起心動念、言語造作都能與這五個科目相應,這就是萬德洪名落實了;能夠聲聲佛號都具足這五個科目,那就是佛功德。
「如来所行,亦応随行。種修福善,求生浄刹」は『無量寿経』全経の総括です。如来の所行、心行においては清浄行、平等行、覚行、つまり清浄平等覚です。事相においては、私たちは無量無辺の如来行を五つの科目に帰納しました。三福、六和、三学、六度、十大願王。これこそが阿弥陀仏の万徳洪名の私たちの生命における実践です。この五つの科目は浄土法門修学の根本というだけでなく、世尊が四十九年説かれた一切法の総括です。日常生活の起心動念(きしんどうねん:心の働き)、言葉や行為はすべてこの五つの科目と相応しなければなりません。これが万徳洪名の実践です。唱える仏号がすべてこの五つの科目を具足していれば、それが仏の功徳というものです。
回過頭來想想自己,自己跟佛的差別在哪裡?把這五個科目,我們要把它做到,把它變成我們的生活、行為,我們才是心同佛心、願同佛願、解同佛解、行同佛行。我們做到了多少?我們這個佛號為什麼念不好?念了這麼多年,西方極樂世界連個影子都沒有,一點消息都沒有,我們的修學一定有錯誤,這就是值得我們認真去檢討的地方。錯在哪裡?錯在沒有根。淨業首重三福,這不是淨宗特別重視的,修哪個法門都重視。佛說得很清楚,這三福叫「三世諸佛淨業正因」,這句話說得多重!三世,過去諸佛、現在諸佛、未來諸佛,這叫三世。菩薩修成佛道,決定不能違背這三條,違背這三條不是佛法。這個三條是佛法裡頭,無論是大乘小乘、宗門教下、顯教密教,三世一切諸佛都用這個做最高的修學指導原則,這能違背嗎?這能小看嗎?這能疏忽嗎?凡是修行不能成就的、中途變節的,都是沒有把三福當作一回事情,你細心去觀察,他對三福不重視。這不是釋迦牟尼佛一個人說的,是三世一切諸佛都這麼說的。如果有心想在這一生當中超越六道輪迴,念佛往生淨土,你一定要修淨業三福;不從淨業三福下手,淨土不能成就。淨業三福第一條實際上是落實儒釋道的三個根,孝親尊師落實在《弟子規》,慈心不殺落實在因果教育,後面是修十善業。這些不是念的、不是講的,是自己的生活,是自己的起心動念,是自己的言語造作。起心動念、言語造作跟這些基本的戒條相不相應?相應是善的,不相應是惡的,斷惡修善標準在這裡。這三個標準是三教聖人定的,是性德自然的流露,不是哪個人發明、不是哪個人創造。唯有性德才能夠開發性德,孝敬是性德,佛教導我們從這個地方下手,開發自性圓滿的性德,阿彌陀佛就是自性圓滿的性德。這樣才能與阿彌陀佛相應,所謂「一念相應一念佛」,也就是印光大師所說的「一分誠敬得一分利益」。
振り返って自分のことを考えてみるなら、自分と仏の差はどこにあるのでしょうか?この五つの科目を実践できて、私たちの生活・行為に変えれば、心は仏の心と同じであり、願いは仏の願いと同じであり、理解は仏の理解と同じであり、行いは仏の行いと同じなのです。私たちはどれくらいできているでしょうか?私たちはこの仏号をどうしてよく念ずることができないのでしょうか?長年念じているのに、西方極楽世界の影さえありません。少しばかりの知らせさえありません。それは私たちの修学に必ず誤りがあります。これこそが私たちが真剣に検討すべきところです。誤りはどこにあるのでしょうか?誤りは「根」が無いことにあります。浄業はまず三福【注】を重んじます。これは浄宗が特別に重視するのではありません。どの法門を修めても重視するものです。仏は明瞭に説かれています。この三福は「三世諸仏浄業正因」と言います。この言葉はどれほど重いことでしょうか!三世とは、過去の諸仏、現在の諸仏、未来の諸仏。これを三世と言います。菩薩は仏に成る道を修めるのに、絶対にこの三条に背きません。この三条に背くなら仏法ではありません。この三条は仏法の中で、大乗であろうと小乗であろうと、宗門、教下、顕教、密教であろうと、三世一切諸仏はすべてこれを最高の修学の指導原則としているのです。これに背くことができるでしょうか?これを軽視することができるでしょうか?これを疎かにすることができるでしょうか?およそ修行が成就しない者、中途で変節する者は、すべて三福を重んじていないのです。注意深く観察してみれば、その人は三福を重視していません。これは釈迦牟尼仏一人が説いたのではなく、三世一切諸仏が皆このように説いたのです。もしこの一生で六道輪廻を超越したい、念仏して浄土に往生したいと思うなら、必ず浄業三福を修めなければなりません。浄業三福から着手するのでなければ、浄土は成就できません。浄業三福の第一条は実のところ儒教・仏教・道教の三つの根の実践です。親孝行すること、師を尊ぶことは『弟子規』において実践し、「慈心にして殺さず」は因果教育において実践します。後は十善業です。これらは念ずるものでも、講ずるものでもありません。自分の生活、自分の起心動念、自分の言葉や行為のことなのです。起心動念、言葉や行為は、これらの基本的な戒と相応しているでしょうか?相応していれば善であり、相応していなければ悪です。悪を断ち善を修める(断悪修善)の基準はここにあります。この三つの基準は三教の聖人が定めたものです。性徳の自然な流露であり、誰かが発明したり、創造したものではありません。性徳だけが性徳を開発することができます。孝敬(こうけい:父母を大切にして敬うこと)は性徳です。仏はここから着手するように教え導かれています。自性円満の性徳を開発します。阿弥陀仏ことが自性円満の性徳です。このようであってこそ阿弥陀仏と相応できるのです。いわゆる「一念は一念の仏に相応する」です。または印光大師が説かれた「一分(いちぶ)の誠敬は一分のご利益を得る」です。
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【注】 浄業三福(じょうごうさんぷく)
第一福(世福)・・・・孝養父母,奉事師長,慈心不殺,修十善業
第二福(戒福)・・・・受持三皈,具足衆戒,不犯威儀
第三福(行福)・・・・発菩提心,深信因果,読誦大乗,勧進行者
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最後我們也隨俗,新年恭喜發財;我們的發財是要功德法財,以真實信心、懇切的願心執持阿彌陀佛名號,開發自性無量智慧、無量功德法財。祝福大家改往修來,洒心易行;自然感降,所願輒得!祝福大家諸惡莫作,歲歲平安;眾善奉行,年年如意。謝謝大家!
最後に私たちも世間のならわしに従います。新年おめでとうございます。私たちのおめでとうは功徳の法財のことです。真実の信心をもって、切に願い、阿弥陀仏の名号をしっかりと保ち、自性無量の智慧、無量の功徳の法財を開発することです。皆さまが過去の誤りを改め、未来の浄業を修め、心を清らかにして、念仏されますよう祝福いたします。自然に感応道交し、願いが叶いますように!皆さまが悪い行いをせず、ますます平安になり、年々思い通りになりますよう祝福いたします。皆さま、ありがとうございました!
【真理と自然観】
《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのかと。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。
我々の世界は質感。
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。
《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。
《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。
《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』
生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。
*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
『志向(作用)→肉体・機構』
然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)
【世界創造の真実】
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。
【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。
善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することはなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。
美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることはなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。
《抑止力, 育維》
【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。
【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。
真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。