浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

『神は世人を愛す』を学ぶ 08

2020-08-14 | 『神は世人を愛す』を学ぶ
Learning of God Loves All Beings 08

學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ (第八集)
2018/10/17 聯合國教科文組織淨空之友社 檔名:21-786-0008

  諸位法師、諸位同學,大家好。請看《神愛世人》第三十八頁:
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。『神は世人を愛す』三十八頁をご覧ください。

  【讓我們共同團結在上帝、先知的忠告與勸言之中;我們應當要有共同的意念……我們當要不懈地去實踐那些對於人類有利益的事,無論受益者是老是少,也無論他們的地位是高是低。】
【我々を神、先覚者の忠告と勧めの中において共に団結させる。我々は共通の認識を持つべきである。・・・・・・我々はそれらの人類の利益に適うことにおいて怠らず実践すべきである。利益を受ける人が年寄りであろうと若者であろうと、また彼らの地位が高かろうと低かろうと関係はない。】

  今天我們從這一段經文學起。感謝同學們抽出時間,把這些經典裡面重要的經句提出來給我們學習,這一段我們看了,確實每一段都重要。都是上帝的兒女、上帝的使者,派遣下來幫助上帝教化眾生。今天的社會,頭一句說得很好,『讓我們共同團結在上帝、先知的忠告與勸言之中』。這句經文很重要。上帝的經典、先知的忠告,日常生活當中我們遇到了,都是互相勸告,要跟上帝學習。學習什麼?學習上帝的「愛」。上帝愛世人,是上帝可以說天天講的,經典裡面我們天天讀到,句句話都是好話、都是經典、都是忠告,也都是勸告。
今日はこの経文から学習します。学生の皆さんが時間を割いて、これらの経典の中の重要な経文を取り上げ、学ばせて下さることに感謝します。この一段を見ると、確かにどの一段も重要です。すべて神の子、神の使者であり、派遣されて来ると神を助けて衆生を教化しています。今日の社会において、最初の一句は良い言葉です。「我々を神、先覚者の忠告と勧めの中において共に団結させる」。この経文は重要です。神の経典、先覚者の助言、日常生活の中で私たちはそれと向き合い、お互いに助言し合い、神に学びます。何を学ぶのでしょうか?神の「愛」を学びます。「神は世人を愛す」とは、神が毎日説くものと言って良いでしょう。経典の中で私たちが毎日読むものです。どの一句もすべて良い言葉であり、すべて経典であり、すべて助言であり、すべて勧告でもあります。

  勸告,讓我們聯想到,上帝很著急,不願意看到人與人之間的對立、鬥爭;不願意見到,在我們現前社會裡面,天天見到、時時見到。每一次我們見到了,同樣的,上帝也見到了。我們能不能在這個短暫剎那之間想起這段經文,認真的反省、認真的學習,把彼此對立、彼此不和改正過來,要做上帝聽話的兒女、實踐的信徒。把他的話記住,要在我們身體日常生活當中,處事待人接物,真正的做到了。
勧告(という言葉から)は、神が焦り、人と人との対立と闘争を見たくないということを私たちに連想させます。私たちの現前の社会では、毎日目にします。いつも目にします。毎回私たちは目にします。同じように神もまた目にしています。私たちはこの刹那の間にこの経文を思い出して、真剣に反省し、真剣に学んで、互いの対立、互いの不和を改善できないものでしょうか。神の聞き分けの良い子、(神の教えを)実践する信徒にならなければなりません。神の話を覚えて、私たちの身体・日常生活において、人間関係において、本当に実践しなければなりません。

  這個話說得好!我們是不是時時刻刻想著,去做一些對人類有利益的事?今天擺在面前的,沒有利益的,是對立、是批評,不是讚歎。特別告訴我們,無論受益者是老是少,無論他們地位是高是低。有時候要用言語,有時候要用行為,中國古人所說的,言教是用言語,做出一個好榜樣給他看。看到這個人毀謗,我們給他講的是讚歎,做出榜樣給他看,看久了,一定會有一天他回頭了。這經文我們就學到了。
これは良い言葉です!私たちは常に考えて、人類の利益になることをしているでしょうか?今日では目の前に並べて利益にならないものであれば、対立し、批判します。称賛ではありません。わざわざ「利益を受ける人が年寄りであろうと若者であろうと、また彼らの地位が高かろうと低かろうと関係はない」と言っています。ある時は言葉を使い、ある時は行動します。中国の古人が説く所の「言教」とは言葉を使い、人に手本を見せることです。人を誹謗するのを見たら、私たちは称賛することを説いてその人に手本を見せます。久しくそれを見れば、必ずいつの日かその人は改心します。この経文の学習はここまでです。

  看第四十面,四十面文比較長一點:
第四十頁を見てください。四十頁の文は比較的長いです。

  【那位一體不二、具有崇高榮耀的真神,祂把自己展現給了人類,為的是要讓人類去反觀到自己最內在的真實自我——其心地中的寶藏。所有不同的宗教教派,以及各種不同的信仰體系,它們彼此之間絕不可以去引發人與人之間的對立,這就是在此一時代之中,對於上帝,及其宗教之信仰的根本理念。】
【その一体不二、崇高と栄誉を具えた真実の神はご自身の姿を人類に示された。それは人類に自身の最も内側の真実の自己――心の中の宝物――を異なる角度から見せるためである。あらゆる異なる宗教の教派、及び様々な異なる信仰の体系、それらが相互に人々の対立を起こしてはならない。これがこの時代における、神とその宗教に対する基本理念である。】

  特別記住,信仰根本的理念,是對上帝那種尊敬、仰慕,落實上帝經典裡面的教誨。中國古人所說的信、解、行、證,真信,你就決定不會毀謗,你決定不會跟其他宗教對立;這都屬於根本理念,屬於信。信了之後,有時候做不到,毛病還是照犯,這什麼原因?解得不夠透徹;深信要深解,解要講深度,深解,真信;之後變成我們日常生活當中的行為,這才叫修行。修行怎麼講法?修正錯誤的行為。得利益了,佛法裡面講的,福德、功德同修。
特に覚えておいてください。信仰の根本的な理念は、神に対する尊敬と敬慕であり、実際には神の経典の中の教えです。中国の古人が説く所の信、解、行、証(信じる→理解する→修行する→証得する)、本当に信じていれば絶対に誹謗することはありません。また絶対に他の宗教と対立することはありません。これはすべて根本理念であり、信に属します。信じた後でも時には実行できません。過失を犯します。これは何が原因でしょうか?透徹して理解していないからです。深く信じるには深い理解が必要です。理解は深さが大切です。深く理解すれば本当に信じます。その後私たちの日常生活の行為に変えていきます。これを修行と言うのです。修行とはどう説明したら良いでしょうか?誤った行為を修正することです。ご利益が得られるなら、仏法で言う福徳、功徳を同時に修めています。

  累積福德跟功德,自自然然就改造命運。得到了什麼?方東美先生早年把大乘佛法介紹給我,非常愛護的口吻,老師的年齡跟我父親差不多,我們都看作父輩一樣的看待,恭敬。老師告訴我:「學佛是人生最高的享受。」這句話很中聽!哪一個人活在世間,不希望得到最高的利益、享受?最高的享受從哪裡來的?從學佛來的。
福徳と功徳を積むと、自然に運命が変わっていきます。何を得るのでしょうか?方東美先生はかつて私に大乗仏法を紹介されました。非常に思いやりのある話し方でした。先生の年齢は私の父親とほとんど同じです。私たちは父の世代と同じように接し、敬いました。先生は私に「仏法を学ぶことは人生最高の享受である」と言いました。この言葉は聞き心地が良いものです!世間を生きて、最高のご利益と享受を望まない人がいるでしょうか?最高の享受とはどこから来るのでしょうか?仏法を学ぶことから来るのです。

  我接受了,用了半年的時間,我聽一些高僧大德講經,能聽得懂,聽了生歡喜心。要想得到享受,靠全聽懂了還不行、還不夠。聽懂了,解門,有信、有解,最高的享受還達不到,最高享受還要向上再踏一步。踏一步是什麼?行,要把我所知道的,變成我自己的起心動念、生活行為,這人生最高的享受你就嘗到了。嘗到最後證,證什麼?證明老師告訴我這句話是真話,證明經典裡面的教訓是真言,確確實實上帝說的。為什麼?不是上帝說不出來,只有上帝才能說出來。為什麼?上帝是大聖大賢,大聖大賢哪有不愛眾生的道理!他用什麼來愛眾生?經教,我們不能不知道。
私は受け入れました。半年の時間を使って、私は高僧大徳の講経を聞きました。聞いて理解できました。聞くと歓喜心が生まれました。享受したいと思えば、聞いたことを全部理解できるだけでは駄目です。それでは足りません。聞いて理解するのは「解門」です。(信心)があり、(理解)がありますが、最高の享受には達しません。最高の享受は更に上に一歩踏み出さなければなりません。一歩踏み出すとは何でしょうか?(ぎょう:修行)です。自分が知ったことを、自分自身の心の起こり念の動き(起心動念)、生活の行為に変えなければなりません。これで人生最高の享受を味わえます。味わったら最後は(証得、証明)です。何を証明するのでしょうか?先生が話された言葉は真実の言葉だということ、経典の教訓は真実の言葉だということを証明します。間違いなく神が語ったものです。なぜでしょうか?神でなければ話せません。神だけが話せることです。なぜでしょうか?神は大聖大賢であり、大聖大賢が衆生を愛さないという道理があるでしょうか!何を用いて衆生を愛するのでしょうか?経教(きょうぎょう:経文に説かれている教え)です。私たちは知っておかなければなりません。

  這個後面,有幾句話幫助我們解決問題,什麼問題?疑慮。學習宗教是真有好處嗎?懷疑、顧慮,這東西有用嗎?有,我給你做證明,真有。一直好好的學下去,依教奉行,慢慢怎麼樣?智慧開了。你到智慧開了,你自己就得到證,證明了真的,不是假的,是正確的,不是錯誤的,你明白了。
この後の幾つかの言葉は私たちが問題を解決するのを助けてくれます。何の問題でしょうか?疑いです。宗教を学ぶことは本当に利点があるのでしょうか?ここに疑いと心配があります。これは役に立つのでしょうか?役に立ちます。私があなたに証明します。本当に役に立ちます。しっかりと学び続け、教えの通りに実行します。少しずつどうなるでしょうか?智慧が開きます。あなたは智慧が開けば、あなた自身が証得します。真実であり偽りではないこと、正しい事であり間違っていないことを証明します。あなたは理解します。

  為什麼世界上宗教這麼多?傳教師給我們講經,彼此講的不一樣,甚至於產生對立,自讚毀他:我學的這個法門,我拜的這個上帝是真神,你那個靠不住。這種現象不少,我們遇到怎麼辦?這裡就告訴我們,時代之中,對於上帝及其宗教之信仰根本理念:
なぜこの世界には宗教がこれほど多いのでしょうか?布教する先生が私たちに講経(こうきょう:経を講じること)すると、それぞれ話が違います。甚だしきに至っては対立を生みます。自分を称賛して他人を誹謗します。私が学ぶ法門、私が拝むこの神が本当の神で、あなたのは当てにならない。このような現象は少なくありません。私たちはこのような状況に遭遇したらどうすれば良いでしょうか?この中で説かれています。この時代における、神とその宗教の信仰に対する根本理念です。

  【那些各宗教的教理原則以及戒律,那些被堅固樹立、具有強大力量的各種信仰體系,它們都擁有著同樣的源頭,都是來自於同一道的真光;而它們彼此會有差異,那是為了順應不同時代之人們的不同需求之緣故。】
【各宗教の教理原則及び戒律、それらの強固に確立された強い力を具えた様々な信仰の体系、それらは同じ根源を有しているのであり、すべて同じ真実の光から来ているのである。それらは相互に違いがあるが、それは異なる時代の人々の異なる需要に応じるためである。】

  給我們解釋了。不同的說法,遇到的人不一樣,根性不相同,你教他,你一看就明白了從哪裡教起。所以學習的人,一個老師,兩個人去學習,學習的時候不一樣,兩個學生程度不相同,應機說法。
私たちに解釈してくれています。異なる説法、出会う人は異なり、資質も同じではありません。その人を教えるのに、一目見ればどこから教えるべきかが分かります。ですから一人の先生に二人が学ぶなら、学習する時間も違います。二人の学生の程度も同じではありません。資質に応じて説法するのです。

  一部經書有沒有這個現象?也有。那我們就明白了,我跟另外一個同學,同學一部經,有些經文上我有我的看法,他有他的看法,甚至於看法完全相反,這時候怎麼辦?各人說的都有道理,如果老師在,請教老師;老師不在,讀誦,我把這個經文念上一百遍、念上二百遍,就融化了。
一部の経書にこの現象があるでしょうか?やはりあります。それで分かります。自分ともう一人の学生がいます。同じ経書を学んで、ある経文は自分には自分の考えがあり、別の人にはその人の考えがあります。甚だしきに至っては考え方が完全に異なります。この時にはどうすべきでしょうか?各人の言うことには道理があります。もし先生がいれば先生に教えを請います。先生がいないなら声に出して読みます。その経文を百回読み二百回読めば、(問題は)溶けていきます。

  如果你要懂得,聖賢的教誨沒有一樣不是應機而說的。你看中國《論語》,孔老夫子的,同樣一個問題學生發問、提出來,孔子的答覆不一樣,對甲的說法跟對乙的不相同。一個聖人教的,為什麼會這樣?根性、程度不一樣,根性不相同。於是我們明白了,這樣的事情在經典裡面非常之多,都是正確的;某一個程度正確,他超越這個軌道了,那另外一個講法。
あなたが理解できるなら、聖賢の教えは「資質に応じて説法する」ものでないものは一つもありません。中国の『論語』を見てください。孔夫子は同じ質問を学生にされて、答えは同じではありませんでした。甲に対する説法は乙に対するものと同じではありません。一人の聖人が教えるものが、なぜこうなのでしょうか?資質、程度が異なるからです。資質が同じではありません。それで理解できます。このような事は経典の中に非常に多く、すべて正しいのです。ある水準においては正しく、その人がその段階を越えたら別の言い方があるのです。

  這是在聖教經典裡面常有的事情,不足奇怪,你依你的解去修行,他依他的解門去修行,統統得利益。我們學習,經過老師的指點,幾十年的經驗、修學的歷程,幫助我們認識這個問題。
これは聖教経典の中によくあることです。怪しむに足りません。あなたはあなたの解法(理解の仕方)で修行し、他の人はその人自身の解法で修行して、すべてご利益があるのです。学習は先生の指導を経て、あとは数十年の経験と修学の過程とが、この問題を理解する助けとなります。

  所以下面這段說,說得好,說得好親熱:
次の段は良い言葉です。とても親しみが持てます。

  【我真正的同伴法侶們啊!所有的人類都是同一所學校裡的孩子,……那些帶來神聖啟示的一切使者,則都是這所學校裡的老師。這些老師們令眾人驚歎,無人可與之比擬。在這所屬於真理的學校中,老師們依照上帝的誨諭,來教導上帝的這些學生子女們,並以慈恩撫育他們……一直到他們把這個世界變成了一面廣大的鏡子,並讓那永恆不滅的另外一個世界,明現在此一大鏡之中。】
【私の本当の道を共にする者たちよ!すべての人類は同じ学校の子どもであり、・・・神聖な啓示をもたらす一切の使者は、すべてこの学校の先生である。これらの先生方は人々に驚嘆され、誰もそれと比較することはできない。ここは真理の学校に属し、先生方は神の教えに照らして神の学生たちを教え導き、慈恩(じおん:慈しみのある恩恵)で彼らを育成します。・・・彼らがこの世界を広大な鏡に変え、永久不滅のもう一つの世界を、この大きな鏡に映すまで。】

  這個地方,另外的世界是天堂、是極樂世界。你的功夫成熟了,極樂世界你見到了。有,念佛同修們我就遇到幾個;還有前一輩的善知識,像黃念祖老居士、李炳南老居士,或在定中、或在夢中見到極樂世界。真的,不是假的,這我們應當學習。
この部分、もう一つの世界とは天国であり、極楽世界です。あなたの技量が熟せば、あなたは極楽世界を見ます。あります。(極楽世界を見た)念仏修行者に何人かお会いしました。また一世代前の善知識、黄念祖居士、李炳南居士のような方々は、或いは定(じょう:禅定)の中で、或いは夢の中で極楽世界を見ています。本当です。偽りではありません。私たちはそれに学ぶべきです。

  今天時間到了,我們把巴哈伊的經典重要的經句學習到此地。謝謝大家。
今日は時間になりました。バハーイー教経典の重要な経文の学習はこれで終わります。皆さまありがとうございました。

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