浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

『神は世人を愛す』を学ぶ 09

2020-08-16 | 『神は世人を愛す』を学ぶ
Learning of God Loves All Beings 09

學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第九集)
2018/10/18 聯合國教科文組織淨空之友社 檔名:21-786-0009

  諸位法師、諸位同學,大家好。請看《神愛世人》四十四頁:
法師各位、学生の皆さま、こんにちは!『神は世人を愛す』の四十四頁をご覧ください。

  【一切諸佛身,唯是一法身,一心一智慧,力無畏亦然。】
【一切諸仏の身は、唯(ただ)是(これ)一の法身にして、一の心、一の智慧なり。力・無畏(むい)も亦(ま)た然(しか)なり。】

  這四句話很重要!是真話,不是隨便說出來的,我們要牢牢的記住,希望這一生有緣能夠契入這個境界,這個境界就成佛了。
この四句は重要です!真実の話です。勝手に話したのではありません。私たちはしっかりと覚えておかなければなりません。この一生でこの境界(きょうがい:境地)に入るご縁がある事を願います。この境界とは仏に成ることです。

  這是《華嚴經》上的經文,『一切諸佛身,唯是一法身』,說明一切諸佛是一法身變現出來的。什麼是法身?什麼是佛身?佛身是示現在人間,經過修學,達到大徹大悟。悟什麼?就是悟這句話,原來一切諸佛身就是一法身,「唯是」就是「就是」,法身是一。法身之外,有應身、化身,應化身無量無邊。
これは『華厳経』の経文です。「一切諸仏の身は、唯(ただ)是(これ)一の法身なり」(一切諸仏身,唯是一法身)とは、一切諸仏は一つの法身が変化して現れたことを意味します。法身とは何でしょうか?仏身とは何でしょうか?仏身とは人間界に示現して、修学を経て大徹大悟に達します。何を悟るのでしょうか?正にこの言葉を悟るのです。もともと一切諸仏の身は一つの法身なのです。「唯是」とは「ただ、正に」のことです。法身は一つです。法身の他に、応身、化身があります。応化身は無量無辺です。

  我們常說的六道輪迴、常說的十法界依正莊嚴,從哪裡來的?法身變現的。法身沒有形相,真的是「言語道斷,心行處滅」,你沒法子說,說不出來;說什麼都不像,無法形容,是一切法,一切法包括六道輪迴、包括十法界。十法界、六道輪迴無量無邊,太大了、太多了,都是這一個法身變現的。好比我們作夢,醒來的時候還記得很清楚夢中的境界,這夢從哪裡來的?心現的,識變的。真心,真心裡面什麼都沒有,真心就是法身,能現十法界、能現六道輪迴。所以,六道、十法界只是一法身,是一不是二。
私たちがよく言う六道輪廻、十法界依正荘厳とはどこから来るのでしょうか?法身が変化して現れたものです。法身に形相はありません。本当に「言語道断(ごんごどうだん)心行処滅(しんぎょうしょめつ)」です。あなたは話しようがなく、話せません。何を話してもそれらしくありません。形容しようがありません。一切法です。一切法とは六道輪廻や十法界も含みます。十法界、六道輪廻は無量無辺であり、果てしなく大きく、果てしなく多いものですが、すべて一つの法身が変化して現れたものです。ちょうど私たちが見る夢のように、醒めた時はまだ夢の中の境界をはっきりと覚えています。この夢はどこから来るのでしょうか?心が現したもの、識が変化したものです。真心の中には何もありません。真心とは法身であり、十法界を現すことができ、六道輪廻を現すことができます。ですから六道、十法界はただ一つの法身なのです。一であり二ではありません。

  下面說得很好,『一心一智慧,力無畏亦然』。「力」是教化眾生的能力。「無畏」,在十法界、在六道,甚至於在十方世界一切諸佛剎土當中,現身說法,幫助眾生回頭,一樣也能證得佛身、法身。佛身是相,法身就像我們今天所講的時間、空間。時間、空間從哪裡來的?法身變現的。
次の言葉は良いものです。「一の心、一の智慧なり。力・無畏(むい)も亦(ま)た然(しか)なり」(一心一智慧,力無畏亦然)。「力」は衆生を教化する能力です。「無畏(むい:衆生の恐怖心を取り除くこと)」は十法界、六道において、更には十方世界一切諸仏刹土の中において、身を現身して説法し、衆生が改心するのを助け、同じように仏身、法身を証得させることです。仏身は相、法身とは私たちが今日言うところの時間と空間です。時間と空間はどこから来るのでしょうか?法身が変化して現れたものです。

  下面的註解我們念一遍:「所有證得究竟大覺的聖者們」。包括我、包括你、包括一切眾生,都在這一句經文裡面,全都說到了—「乃至於必定會於未來徹底覺悟宇宙人生之真相的所有一切眾生們,他們的本體與真身,都是周遍宇宙、相互含容、乃至於是究竟一體的。那些大覺者們的真心,以及所有眾生們的真心,都是同一個真心」。
次の註解を一度読みましょう。「あらゆる究極の大覚を証得された聖者たち」。自分も、あなたも、一切衆生も含めて、すべてこの経文の中に全部言及されています、「ひいては未来に宇宙・人生の真相を徹底して悟る一切衆生たち。彼らの本体は真身であり、すべて宇宙を行き渡り、互いに寛容で、ひいては究極の一体なのである。それらの大覚者たちの真心、及びあらゆる衆生たちの真心はすべて同じ一つの真心なのである。

  在這段經文裡頭我們看到,同一個,都是同一個真心,不能分別、不能執著,那就是大圓滿。你分別、你執著,你就偏了,你沒有見到全部,只見到侷限的一部分。所以一定要知道,遍法界虛空界,上到諸佛如來,下到一切眾生,最下面是無間地獄眾生,都是同一個真心變現出來的。
この段の経文の中に見ることができます。すべて同じ一つの真心であり、分けることも執著することもできません。それこそが大円満です。あなたが分別し、執着すれば、あなたは偏ります。あなたは全部を見ていません。ただ限りのある一部分を見たに過ぎません。ですから必ず知っておかなければなりません。遍法界虚空界、上は諸仏如来、下は一切衆生、一番下は無間地獄の衆生たち、すべて一つの真心が変化して現れたものなのです。

  怎麼變現的?大乘經上說得好,唯心所現,唯識所變。能現的就是此地講的真心,大乘經上說的真如、說的真性,自性的性,名詞很多,都是說的這一樁事情,是一不是二。所以我們跟諸佛如來、我們跟一切眾生同一體,體就是真心。真心在哪裡?真心能現十法界,妄心是所現的,真心能現,是一不是二。
どのように変化して現れるのでしょうか?大乗経には良い言葉があります。「唯だ心の現るる所、唯だ識の変ずる所」(唯心所現,唯識所変)。現すことができるのは正にここで説かれている真心です。大乗経で説かれる真如、真性、これは自性の性です。名詞はたくさんありますが、すべて同じことです。一であり二ではありません。ですから私たちは諸仏如来と一切衆生と同じく一体なのです。体とは真心です。真心はどこにあるのでしょうか?真心は十法界を現すことができ、妄心は現れたものです。真心は現すことができます。一であり二ではありません。

  宗教教育裡頭,應該是以這句話做為核心,我們稱之為宗教。宗教是神聖的教育,是一個人一生當中不能不學的功課。這門課,它告訴我們,整個宇宙萬事萬物是一體,一個真心所現。識是什麼?識是妄心。
宗教教育の中に、この言葉を核心に据えなければなりません。私たちは宗教と称しています。宗教は神聖な教育です。人の一生の中で学ばなくてはならない科目です。この科目は私たちに説きます。全宇宙の万事万物は一体であり、一つの真心が現したものです。識とは何でしょうか?識とは妄心です。

  真心現相,相現了,什麼樣子?於一切相當中,沒有一樣不明瞭,樣樣都明瞭,沒起心、沒動念、沒有分別執著,這是真心見,見到宇宙的真相。妄相也是真相,真妄是一不是二。所以同一個真心、同一個自性,自性就是真心,是一不是二。如果你能夠相信,你能再不懷疑,入這個境界了,也沒有起心動念,也沒有妄想分別執著,這叫證得,這叫見性,見性就稱他作佛陀。佛陀這個名詞是從印度梵文翻譯過來的,意思是明白了、覺悟了,徹底覺悟了,一絲毫懷疑都沒有,這叫佛。
真心は相を現します。相が現れると、どんな様子でしょうか?一切の相において、一つとして不明瞭なものはなく、すべて明瞭で、心が起こらず、念は動かず、分別・執著がありません。これが真心で宇宙の真相を見る様子です。妄相もまた真相であり、真と妄は一つであり二つではありません。ですから同じ一つの真心であり、同じ一つの自性であり、自性こそが真心であり、一であり二ではありません。もしあなたが信じることができれば、二度と疑うことはなくなり、この境界(きょうがい:境地)に入ります。やはり心を起こさず念を動かさず、妄想・分別・執著はありません。これを証得と言います。これを見性(けんしょう)と言います。見性すればその人を仏陀と言います。仏陀と言う名詞はインドのサンスクリット語を翻訳したもので、意味は理解した、悟ったということです。徹底して悟り、ほんの僅かな疑いさえありません。これを仏と言います。

  比佛次一等的稱菩薩,菩薩覺了,沒有圓滿,還要親近佛陀,向佛陀請教。像《華嚴經》上所說的,菩薩有五十一個等級,真的有大菩薩、小菩薩。這五十一個就是十信、十住、十行、十迴向、十地、等覺,《華嚴經》上所說的。什麼時候你用真心不用妄心?會用真心的人是初地以上,我們稱為大菩薩。他還住在人間,幫助佛教化眾生、接引眾生,為初學人做一個最好的榜樣。《華嚴經》講得非常詳細,大乘不能不讀。
仏の次の等級は菩薩です。菩薩は悟っていますが円満ではありません。まだ仏陀について教えを請います。『華厳経』で説かれているように、菩薩には五十一の等級があり、本当に大菩薩、小菩薩がいます。この五十一とは十信、十住、十行、十廻向、十地、等覚です。『華厳経』に説かれているものです。いつになったらあなたは真心を用いて妄心を用いなくなるのでしょうか?真心を用いる人は初地以上の人です。私たちは大菩薩と言います。その人はまだ人間界にいて、仏が衆生を教化するのを助け、衆生を導き、初学者に最も良い手本を示します。『華厳経』には非常に詳細に説かれています。大乗は読まなくてはなりません。

  「大覺者們的智慧,以及一切眾生自性本具的真實智慧,都是同一種究竟圓滿的智慧。那些大覺者們對於宇宙萬法徹底無礙的認識與理解,他們那種究竟解脫的境界,以及他們化導眾生、演說正法時所具備的那種決定無礙、決定無畏的境界與能力,也都是彼此相同不二。」這段話很重要。下面說:「乃至於,在一切眾生的真心自性之中,也都擁有著同樣不二的境界與能力」,也都是彼此相同不二的境界、能力。
大覚者たちの智慧、及び一切衆生の自性がもともと具えている真実の智慧は、すべて同じ究極円満の智慧である。それらの大覚者たちは宇宙万法に対して徹底無碍の認識と理解があり、彼らのその究極の解脱の境界、そして彼らが導く衆生に正法を説く時に具える絶対的な無碍、絶対的に無畏の境界と能力、それらもまたそれぞれ同じであり一つのものである」。この言葉は重要です。次に説かれています。「ひいては一切衆生の真心・自性の中に、同じ境界と能力を具えているのである」。それぞれ同じ不二の境地であり、能力です。

  這些話是大乘教的大乘經中之王《大方廣佛華嚴經》,我們學的這個經文是《華嚴經》上的,經只有四句:「一切諸佛身,唯是一法身,一心一智慧,力無畏亦然。」說明我們每個人跟諸佛如來有沒有兩樣?沒有,是一樣。佛有法身,我們有法身;佛有應化身,我們也有應化身;佛現十法界,我們的心也現十法界,我們跟佛沒兩樣。所以佛教裡面跟一般宗教不相同,一般宗教有真神、上帝,人能不能跟真神一樣?不能。能不能跟上帝一樣?不能。上帝至高無上,我們是他的子民,要依靠他。佛不然,佛,人人都能成佛,人人學佛最後必定成佛。
これらの言葉は大乗教の大乗経の中の王『大方廣佛華厳経』の中のものです。私たちが学んでいるこの経文は『華厳経』のものです。経は四句だけです。「一切諸仏の身は、唯(ただ)是(これ)一の法身にして、一の心、一の智慧なり。力・無畏も亦(ま)た然(しか)なり。」(一切諸佛身,唯是一法身,一心一智慧,力無畏亦然。)。私たちはどの人も諸仏如来と異なる所があるのでしょうか?ありません。同じです。仏には法身があり、私たちには法身があります。仏には応化身があり、私たちにも応化身があります。仏は十法界を現し、私たちの心もまた十法界を現します。私たちと仏は何も違いません。ですから仏経の中では一般の宗教とは異なります。一般の宗教は真実の神がいます。人は真実の神と同じになれるでしょうか?なれません。神は至高・無上であり、私たちは神の子であり、神に頼らなければなりません。仏はそうではありません。人は誰でも仏に成ることができます。誰でも仏に学んで最後は必ず仏に成るのです。

  所以佛,我們不稱他真主、不稱他作上帝,我們稱他作老師。他是佛陀教學裡面根本的老師,就是這個學校他創辦的,這個學校主要是他來上課的。也有諸佛如來跟他的弟子到這個地方來代上他的課程,這種情形很多。所以學佛終極的目標是成佛,跟諸佛如來無二無別,這是一般宗教裡面沒有的,只有大乘佛法講得究竟徹底明白。
ですから仏のことを私たちは神とは言いません。私たちは仏のことを老師(先生)と言います。仏は仏陀の教学の中の根本の老師です。この学校は彼が創立したものです。この学校は主として彼が授業をするものです。また諸仏如来とその弟子がそこに来て彼の代わりに授業をします。このような状況が多いのです。仏法を学ぶ最終目標は仏に成ることであり、諸仏如来と区別はありません。これは一般の宗教の中にはありません。大乗仏法だけが究極的に説かれ、徹底的に明白なのです。

  我們再看下面一段經文,在四十六頁:
さらに次の経文を見ていきます。四十六頁です。

  【無一眾生而不具有如來智慧,但以妄想顛倒執著而不證得;若離妄想,一切智、自然智、無礙智,則得現前。】
【一衆生として如来の智慧を具有せざるは無く、但だ妄想・顛倒・執著を以て証得せざるのみ。若し妄想を離るれば、一切智、自然智、無礙智は、則ち現前するを得る。】

  我們就說這一句。學佛有什麼好處?如來的智慧是圓滿的、是無礙的、是無邊際的,過去、現在、未來,無所不知、無所不能。佛在此地告訴我們,他所有的智慧德能,我們每個眾生都有,跟他沒有兩樣。但是現在,本來沒有兩樣,現在不止兩樣,太多了。什麼原因?這一句說出來了,『但以妄想、顛倒、執著而不能證得』,變成六道凡夫,變成這個樣子。我們要覺悟,我們本來跟佛一樣,為什麼淪落到這裡?怎麼辦?
私たちはこの一句を言います。仏法を学ぶことは何か利点があるでしょうか?如来の智慧は円満であり、無碍(むげ:妨げのないこと)であり、果てがありません。過去、現在と、「知らざる所無く、能はざる所無し」です。仏はここで私たちに説かれています。仏が具えている智慧と徳能は、私たちどの衆生にもあるのです。仏と何も異なりません。しかし今、本来は同じなのに、今は違うどころではありません。違いすぎます。原因は何でしょうか?この一句で説かれています。「但だ妄想・顛倒・執著を以て証得せざるのみ」。六道の凡夫に変わり、このように変わったのです。私たちは悟らなければなりません。私たちは本来仏と同じなのに、なぜここで零落しているのでしょうか?どうすれば良いのでしょうか?

  我初學佛的時候,二十六歲,跟章嘉大師第一次見面,我就向他請教:我跟方先生學哲學,方老師把大乘佛法介紹給我,告訴我「佛經哲學是世界哲學的最高峰」。我能相信、我能接受,但是我有疑惑,佛菩薩覺,我迷了,這就不一樣。章嘉大師告訴我,看破、放下是真修行。我們過去行的是什麼?起心動念、妄想分別執著。錯了!我們要把這個放下,徹底放下,為什麼?它是假的,它不是真的。我們受這個假的這個害太大了!我們本來自性裡頭,真心、自性裡頭有跟如來同樣的智慧德能,為什麼現在變成這個樣子?平常人講的神通,六種神通,佛具足、菩薩具足、阿羅漢也具足,人天沒有。二十八層天有神通,小通,不是大通,他有礙,不是無礙。
私は仏法を学び始めた頃、二十六歳で章嘉大師と初めてお会いしました。私は大師に教えを請いました。私は方先生に哲学を学んで、方先生が大乗仏法を紹介して下さいました。私に「仏経哲学は世界の哲学の最高峰です」と言いました。私は信じ、受け入れることができました。しかし私には疑問がありました。仏菩薩は悟り、私は迷っています。これでは同じではありません。章嘉大師は私に言いました。看破(かんぱ:物事の真相を見極めること)、放下(ほうげ:一切の執著を捨てること)が本当の修行であると。私たちが過去に行ったのは何でしょうか?心を起こし念を動かし、妄想し、分別し、執著していました。これは間違いです!私たちはこれを放下しなければなりません。徹底して放下します。なぜでしょうか?それは偽りだからです。それは本当ではありません。私たちはこの偽りに大きな害を受けています!私たちは本来、真心・自性の中に如来と同じ智慧と徳能を具えています。なぜ今このように変わってしまったのでしょうか?一般の人が言う六種類の神通は、仏は具えています。菩薩も具えています。阿羅漢も具えています。人天(人界・天界)にはありません。二十八層天には神通がありますが、小さなものです。大きなものではありません。彼らには障碍があり、無碍ではありません。

  老師教給我,看破、放下,把修行的方法告訴我了。什麼叫修行?行就是我們日常起心動念、言語造作,行為,迷而不覺,佛菩薩是覺而不迷。我們要看破、放下,為什麼?全是假的。《金剛經》上說了多次,不是一次,「凡所有相,皆是虛妄」,告訴我們所有的現相都是假的,都不是真的,不要上當,沒有一樣是真的。那怎麼辦?放下起心動念,在一切境界當中學習不起心不動念,修心。我們眼見色,會起心動念,接著又分別執著,這錯了;如果眼睛接觸這個色相,不起心不動念、不分別不執著,對了。真正懂得修行的人知道在這用功,真功夫。耳聽聲音,聽得清清楚楚,了了分明,聽了怎麼樣?不起心不動念、不分別不執著。
先生は私に看破、放下を教えました。修行の方法を私に教えました。何を修行と言うのでしょうか?「」とは私たちの日常の心の起こりと念の動き、挙措動作、行為です。「迷って覚らず」。仏菩薩は「覚って迷わず」です。私たちは看破、放下しなければなりません。なぜでしょうか?すべて偽りだからです。『金剛経』には何度も説かれています。一度ではありません。「およそ姿形のあるものは、すべて偽りであり実体がない」(凡所有相、皆是虚妄)。あらゆる現相(現れている相)はすべて偽りであり、すべて本物ではありません。騙されてはなりません。一つも本物はありません。それではどうすれば良いのでしょうか?心の起こりと念の動き(起心動念)を放下します。一切の境界において心を起こさず念を動かさないことを学び、心を修めるのです。私たちは目で色(しき:物体)を見ると、心を起こし念を動かします。続いてまた分別し、執著します。これは間違いです。もし目で色相を見たら、心を起こさず念を動かさず、分別せず、執著しない。それで良いのです。本当に修行を理解している人はここに努めることを知っています。真の技量です。耳で音を聞き、はっきりと聞こえていて、すべて明らかです。聞いてどうなのでしょうか?心を起こさず念を動かさず、分別せず、執著しません。

  你用耳根的根性,你用眼根的根性,諸佛、大菩薩他們就是這樣成就的。我們見色聞聲起心動念,引起來的自私自利,妄念、雜念太多了,錯了,愈陷愈深、愈墮愈重。不像羅漢,羅漢頂多起心動念、分別,下面就壓下去了,不執著,對了。我們這一起心動念,妄想分別執著,再下去就不必說了,什麼樣的煩惱都起來,貪瞋痴慢疑統統起來,造業。
あなたは耳根の資質を用い、眼根の資質を用います。諸仏、大菩薩たちは正にこのように成就したのです。私たちは色・聞・聲に心を起こし念を動かして、私利私欲を引き起こし、妄念、雑念が多すぎるのです。間違いです。ますます深みにはまり、ますます堕落していきます。羅漢とは違います。羅漢はせいぜい起心動念と分別だけで、その他は抑えています。執著しません。これで良いのです。私たちは一たび心を起こし念を動かすと、妄想、分別、執著が起こり、その続きは言うまでもありません。どのような煩悩もすべて起こします。貪瞋痴慢疑(貪り、怒り、無知、傲慢、懐疑)がすべて起こり、業を作ります。

  佛教跟其他宗教不一樣,我們稱佛為老師、稱菩薩為老師,對了。我們在向他們學習,希望學習跟他一樣,也成菩薩、也成佛陀,這就對了。
仏教はその他の宗教とは異なります。私たちは仏を老師(先生)と呼び、菩薩を老師と呼びます。そうです。私たちは彼らに学び、彼らと同じように菩薩に成り、仏陀に成ることを願います。これで良いのです。

  今天時間到了,我們就學習到此地。
今日は時間になりました。学習はここまでとします。

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