Learning of God Loves All Beings 07
學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第七集)
2018/10/16 聯合國教科文組織淨空之友社 檔名:21-786-0007
諸位法師、諸位同學,大家好。這一堂我們接著前面第三十六頁:
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。引き続き前の三十六頁を進めます。
【上帝所派遣的一切神聖使者們,他們出現在這個世間,顯然是為了要在人類之間建立起仁愛、建立起和諧的共識……上帝的神聖宗教不是(也不應是)造成人類紛爭與分歧的原因……因此,當今人類必須努力去認識上帝遺留給我們的教誨,因為這些教誨乃是我們全體人類現狀的解救之道。】
【神が派遣された一切の神聖な使者たちは、この世間に現れると、明らかなのは人類の間に仁愛を打ち立て、調和の共通認識を打ち立てるため・・・・神の神聖な宗教は人類を紛争や分裂させる原因をつくるものではない・・・・そのため、今人類は神が遺された教えを認識しなければならない。なぜならこれらの教えは我々全人類の現状を救う道だからである。】
這段話說得好,正是把我們當前無法解決的問題,連它的根源都拔出來了。確確實實,像經上所講的,一切宗教都是依上帝、依真神、依上主,我們說這些名詞,實際上是一個名詞,在各種不同的宗教有不同的說法。而實際,上帝只有一個,他有這麼多不同的形相、不同的名號,那是他的大慈大悲,應機說法。眾生喜歡什麼樣的人種,他就現同樣的人種;眾生喜歡什麼樣的老師,他就現什麼老師身分。恆順眾生,隨喜功德。這只有神能做到,一般人做不到。
この段は良いことを言っています。正に私たちが今解決できない問題の根源を引き出したのです。確かに経典に説かれているように、すべての宗教は神、真の神、主に基づいていますが、これらの名詞は、実際には一つの名詞なのです。様々な異なる宗教において異なる言い方があります。しかし実のところ神はただ一人であり、神には様々な形や名前があります。それは神の大慈大悲というものです。状況に応じて説法します。衆生がどのような人種を好むかによって、神はそれと同じ人種で現れます。衆生がどのような先生を好むかによって、神はそのような先生の身分で現れます。衆生に従って、嬉々として功徳を積みます。これは神だけができることで、一般人にはできません。
他怎麼會是人類爭執的根源?不可能。人類互相競爭,與他沒關係,不能把這個加在他的身上,那是很大的罪過。所以經上講得清楚,上帝的神聖,這是指的宗教,所有宗教都是上帝建立的,所有不同的神聖都是一個上帝。大家疏忽了、忘了,沒有從這方面去認識、去理解,以為上帝很多,每個宗教都有,上帝不一樣,我喜歡這個上帝,我不喜歡那個上帝,這是不可能的。所以才說神聖的宗教,不是造成人類紛爭與分歧原因,這講不通。
神が人類の論争の根源になることがあるでしょうか?あり得ません。人類の相互の争いは、神とは無関係です。これを神の身の上に被せてはなりません。それは大きな罪です。ですから経典にも明確に説かれています。神の神聖、これは宗教を指します。あらゆる宗教は神が打ち立てたものです。あらゆる異なる神聖はすべて一つの神なのです。皆が疎かにしています。忘れています。この方面から認識し、理解しようとしません。神はたくさんいると思い、どの宗教にもあって、神は同じではないと思っています。自分はこの髪が好きで、あの神は好きではないと思っています。これはあり得ません。だからこそ神聖な宗教と言うのです。人類の紛争と分岐の原因を作るものではありません。これは話が通りません。
『因此,當今人類必須努力去認識上帝遺留給我們的教誨』,這指的是經典。每一個宗教創始人、上帝的使者都不在人間了,留給我們的就是經典的教誨。我們讀經,是聽他們在說話;我們在學習經教,是依照神聖的教誨去學習。佛教裡面稱為修行,行代表思想、行為,思想行為錯了、偏差了,把它修正過來,叫做修行。所以修行這兩個字,是把神聖的教誨,落實在我們起心動念之處,落實在我們日常生活當中。這才是真正修正一切錯誤的行為,這叫修行。
「そのため、今人類は神が遺された教えを認識しなければならない」、これは経典を指しています。どの宗教の創始者も、神の使者はみな人間界にいなくなると、私たちのために経典の教えを遺します。私たちは読経することで、彼らの話を聞きます。私たちが経教(きょうぎょう:経文に説かれている教え)を学習するのは、神聖な教えに照らして学習します。仏教の中では修行と言います。「行」は思想、行為を表します。思想と行為が誤っていれば片寄りが出ます。それを修正することを修行と言います。ですから修行と言う二字は、神聖な教えを私たちの心の使い方において実行し、日常生活の中において実行します。これこそが真に一切の誤った行為を修正することであり、これを修行と言います。
這個地方接著也說得好,『因為這些教誨』,記住,這句話指的就是,因為這些遺留在世間的經典,基督教的《新舊約》、伊斯蘭教的《古蘭經》……,是指這些。這些教誨我們要把它認清楚,『是我們全體人類現狀的解救之道』,這句話說得好,我們要記在心上。我們遇到困難了,怎麼解救?解救之道在哪裡?在這些聖賢教誨我們的經典當中。
この箇所は続けて良いことを言っています。「なぜならこれらの教えは」。覚えておいて下さい。この言葉が指すもの何でしょうか。なぜならこれらの世間に遺された経典は、キリスト教の『新約聖書』『旧約聖書』、イスラム教の『コーラン』・・・、これらを指します。これらの教えを私たちははっきりと認識しなければなりません。『我々全人類の現状を救う道だからである』、この言葉はよく言ったものです。私たちは心に留めておかなければなりません。私たちは困難に遭ったら、どのように救助するのでしょうか?救助の道はどこにあるのでしょうか?これらの聖賢の教えは経典の中にあります。
我每天讀這些經,不是不用功,有人讀三遍、有人讀五遍,還有《無量壽經》從頭到尾念三千遍的、念五千遍的、念一萬遍的,我都見過,我對他很尊敬。他有沒有問題?有。什麼問題?自以為是。就是這裡所說的,他沒有得救,他沒有辦法解決他自己問題,總的原因,就是我們常說的,放不下!
私は毎日これらの経典を読みます。努力しない訳ではありません。ある人は三回読み、ある人は五回読みます。また『無量寿経』を最初から最後まで三千回読む人、五千回読む人、一万回読む人、私はすべて見たことがあります。私はその人を尊敬します。その人に問題はないでしょうか?あります。何の問題でしょうか?自分が正しいと思い込んでいます。正にここで説かれています。その人は救われません。その人は自分の問題を解決しようがありません。すべての原因は私がよく話している、放下(ほうげ:執著を手放すこと)できないということです!
放不下的人,學習宗教,初級的,在宗教裡面他是初級班的學生,小學。為什麼不得其用?他沒有透徹的了解,他沒有辦法落實在他自己起心動念之處,沒有用在自己日常生活言談舉止之間,所以他不得解救之道。我們遇到了,講解給他聽,有沒有用處?沒用。為什麼沒有用?他的看法、他的想法他認為他是正確的,不能接受別人建議,這才是根源。
放下できない人は、宗教を学ぶのは初級です。宗教の中でその人は初級班の学生であり、小学です。どうして役に立たないのでしょうか?その人は透徹して理解していません。その人はその人自身の心の起こりと念の動きにおいて実行することができません。自分の日常生活で、言葉や立ち居振る舞いにおいて用いることができません。そのためその人は救いの道を得ることができません。私たちは会ったことがあります。講釈してその人に聞かせました。役に立ったでしょうか?役には立ちません。なぜ役に立たないのでしょうか?その人は自分のものの見方、考え方を正しいと考えています。他の人の提案を受け入れることができません。これこそが根源です。
老師,會教的老師,懂得教育的方法,跟那個不懂方法的不一樣。懂得方法的,依照古人留下來的方法,要把一個人教好,要做好的榜樣給他看;也就是做樣子,做出榜樣,讓他看到,讓他豁然大悟。不容易!要做多久?什麼時候開悟了,你做這個樣子可以改變方法了。如果毛病、習氣放不下,錯誤的見解很深很厚,堅固的執著,難!
教えることのできる先生は、教育の方法を理解しています。方法を知らない人とは違います。方法を知っている人は、古人が遺した方法に照らして、一人の人をしっかりと教えます。しっかりした手本をその人に見せなければなりません。手本を示し、手本を演じてその人に見せ、その人に豁然と大悟させるのです。容易ではありません。どれくらい示すのでしょうか?いつか悟りを開いたら、この手本を示す方法を改めても良いでしょう。もし癖や習気(じっけ)を手放せないなら、誤った見解は深く厚く、堅固な執著があります。これでは難しい!
喚醒一個人,菩薩慈悲,不捨眾生,生生世世追著他,一直追著他,到他覺悟為止;第一個階段。第一個階段圓滿了,目的達到了,第二個階段;第二個階段是幫他提升,榜樣還是離不開的。墮落很容易,跳出來可不簡單。所以稱諸佛菩薩大慈大悲,對眾生無比的恩德,只有得到經教教誨利益的人,他才知道;沒得到利益,難!
人を覚醒させるのは菩薩の慈悲であり、衆生を捨てず、生まれ変わり死に変わりその人を追いかけます。その人が覚醒するまでずっと追いかけます。これが第一段階です。第一段階が円満になり、目的が達成されます。第二段階はその人の向上を助けます。手本となる人とはやはり離れることはできません。堕落するのは容易であり、飛び越えるのは簡単ではありません。ですから諸仏菩薩は大慈大悲と言います。衆生に対して無比の恩徳があります。経教の教えのご利益を得た人だけが知っています。ご利益を得られなければ(菩薩の大慈大悲に気づくのは)難しいでしょう!
所以佛家教導我們,學習,信、解、行、證四個字。第一個,對老師要有信心。第二個,要一門深入。這是現在人大病,學了這個法門、學了這部經典,不錯了,才學了幾遍,聽說別人告訴他,還有比這個更好的經,功德更大的,開悟最快的,他把這個放棄去學別的;幾年來大概也學了十幾部經,一竅不通。這樣的人不少,我們常見,我看到很痛心。什麼原因?不能一門深入。
仏家では、学習において信、解、行、証の四字を教えています。一つ目は先生に対する信心がなければなりません。二つ目は、一門に深く入ること。これは今の人の大きな病です。この法門を学んで、この経典を学んで、ようやく数回学んだところで、更に良い経典がある、功徳が大きく早く悟れると人から聞くと、それまでのものを放棄して別のものを学ぼうとします。数年で十数部の経を学んで、何一つちんぷんかんぷんです。このような人は少なくありません。私たちはよく見かけます。見て心を痛めています。原因は何でしょうか?一門に深く入ることができないからです。
學別的經典可不可以?可以。什麼時候?我這部經真學通了,這部經典畢業了,我可以再選一部;畢業了,又可以選一部。不是同時,同時學兩部以上的,成就的人很難。有一等天才可以,他看到他同時學兩部、三部,他真有成就。我們不行,我們一部學多少遍還學不會,怎麼可以選擇很多部?這個道理不深,想想能想得通。
別の経典を学んでも良いのでしょうか?それは良いのです。それはいつでしょうか?この経典に本当に精通して、この経典を卒業したら、更にもう一部を選ぶのです。卒業したらまた一部を選びます。同時ではありません。同時に二部以上のものを学べば、成就するのは難しいものです。ある種の天才なら良いでしょう。その人は同時に二部、三部を学んで、本当に成就します。私たちは駄目です。私たちは一部をある程度学んでも学びきれません。多くの経を選んで良いことがあるでしょうか?この道理は深くありません。少し考えれば合点がいくことです。
所以要記住,一門深入,一門沒有學好,不能學第二門,要專注、要扎根。怎麼扎根?經典要背誦,儒的經典要背誦,佛典也要背誦,巴哈伊教的經典還是背誦。所以你要懂方法,一部經、一個方法;能背誦了,求解;大開圓解,那就開悟了。為什麼要這樣做法?你要懂得它的道理,一接近真心,二是妄心。每個宗教神聖所說的經典,都是從一個真性或者說真心流露出來的,二心不可能。
ですから覚えておいて下さい。一門に深く入ることです。一門を学びきれないうちは、次の一門を学ぶことはできません。集中して取り組み、根を下ろさなければなりません。どのように根を下ろすのでしょうか?経典は暗唱しなければなりません。儒教の経典は暗唱です。仏典もまた暗唱しなければなりません。バハーイー教の経典もやはり暗唱です。ですから方法を理解しなければなりません。一部の経、一つの方法です。暗唱出来たら、解を求めます。円満に理解できれば、悟りを開きます。なぜこのようにするのでしょうか?その道理を理解しなければなりません。一は真心に近く、二は妄心です。どの宗教の神聖が説かれた経典もすべて一つの真性、或いは真心から流露したものです。二心ではあり得ないことです。
真心的功德大。佛教有宗門、教下,宗門是先開悟再學經。開悟學經快!為什麼?自性、本性的般若智慧現前,一聽就明白,一看就懂。妄心沒有這個能力,跟著妄心起來的是雜念、是妄想分別執著,煩惱跟著來,智慧不見了。但是宗門難,禪宗難,必須得清淨心之後才有受用。清淨心怎麼得到?看破、放下,六根接觸六塵境界,清清楚楚、了了分明。真心對他是什麼樣子?不起心不動念、不分別不執著,有人來問,對答如流,你都能講給人聽,你有這個本事。為什麼?一切諸佛如來的經教,都是從自性流出來的,你見了自性,你流出來的跟佛沒有兩樣,是這麼個道理!
真心の功徳は大きなものです。仏教には宗門(しゅうもん:禅宗)、教下(天台、法相、賢首)があり、宗門では先に開悟してから経を選びます。開悟は教を学ぶより速いのです!なぜでしょうか?自性、本性の般若の智慧が現れれば、聞けばすぐに分かり、見ればすぐに理解できるのです。妄心にはこの能力はありません。妄心に従って起こるのは雑念であり、妄想・分別・執著です。煩悩が後から後からついてくると智慧はなくなります。しかし宗門は難しいものです。禅宗は難しい。必ず清浄心を得なければならず、その後でようやくご利益を受けます。清浄心はどのように得られるのでしょうか?心を起こさず念を動かさず、分別せず執著しないことです。人が質問に来ても流れる如くに答えます。人に説いて聞かせることができます。その能力があります。なぜでしょうか?一切の諸仏如来の経教はすべて自性から流露したものだからです。あなたが自性を見極めれば、あなたに流露するのは仏と同じです。このような道理なのです!
教下,不是頭等根機還是用妄心,頭等根機用真心。用妄心的人,就要返妄成真,在妄的上薰修,一遍一遍薰修。這部書讀一百遍、讀一千遍、讀一萬遍,這就是用時間來薰習。把不好的淘汰掉,清淨心讓它現出來。清淨心現出來就好辦了,一看懂了、一聽也就懂了,六根一接觸六塵境界,完全明白了。什麼原因?他放下了,徹底放下了。
教下は最上の根機(こんき:資質)ではなく妄心を使っています。最上の根機であれば真心を使っています。妄心を使っている人は、「妄」を翻して「真」としなければなりません。妄において薫修(くんじゅ:香の薫りが染みつくように深く修行すること)します。一回また一回と薫修します。この書物を百回読み、千回読み、一万回読み、時間をかけて薫修します。良くないものは淘汰され、清浄心が現れてきます。清浄心が出てくればやりやすくなります。一目見れば理解でき、聞いてもすぐに理解できます。六根が六塵の境界に一たび触れれば、完全に理解できます。原因は何でしょうか?その人は放下(ほうげ:執著を捨て去ること)したのです。徹底的に放下したのです。
佛說,上帝也說,常常說:假的,世間一切法,如夢幻泡影。這個比喻《金剛經》上的,儒跟道用這個比喻的人很多。它不存在!現在人學科學,科學也證明了。整個宇宙的現象從哪裡來的?「唯心所現,唯識所變。」現相是心,變化是識;識是妄心,心現是真心;能現萬法的是真心,把萬法變成這個樣子是妄心,叫識心。沒有這兩種心,就沒有這兩種樣子,到哪裡去了?回歸自性了。好!回歸自性就成佛了。這個我們不能不懂,真正懂得,就肯放下了。
仏は説かれました。神も説かれています。よく説かれています。世間の一切は偽りであり、夢幻、泡や影のようなものであると。この譬えは『金剛経』のものです。儒教や道教でもこの譬えを用いる人は多くいます。(この世間は)存在しません!現代人は科学を学んで、科学的にも証明しています。全宇宙の現象はどこから来るのでしょうか?「唯だ心の現るる所、唯だ識の変ずる所」(唯心所現,唯識所変) 。相を現すのは心です。変化するのは識です。識は妄心です。心が現すのは真心です。万法を現すことができるのは真心です。万法をこのように変えてしまうのは妄心です。識心と言います。この二種類の心が無ければ、この二種類のことは無くなります。どこに行くのでしょうか?自性に回帰します。それで良いのです!自性に回帰すれば仏に成ります。これを私たちは理解しなくてはなりません。本当に理解すれば、放下する気になります。
我學佛學了七十年了,七十年怎麼樣?七十年才搞懂。我跟的三個好老師,沒有好老師很難,有好老師。老師一針見血,教導我入門。我向他老人家請教,佛門裡頭有沒有方法教給我們很快就契入?我剛學佛的時候,向章嘉大師請教。大師看到我真誠,看著我,我也看著他,我們看了半個小時,老師說一個字:有。我心裡一振奮,他又不說了。原來傳授你法的時候,你心裡頭乾乾淨淨、一塵不染,給你講的全進去了,管用;如果你有雜念、你有懷疑,你還有分別執著,給你講沒用,這個耳朵進去,那耳出去了,沒效。所以老師用的方法高明,他看到學生整個心心平氣和、一心專注,就教你,就管用。這樣的學生到哪去找?找不到就沒傳人。
私は仏に学んで七十年になります。七十年どうだったでしょうか?七十年でようやく理解できました。私は三人の良い先生につきました。良い先生がいなければ難しいということです。(私には)良い先生がいました。先生はずばり核心に触れて、私を入門に導かれました。私はご老人に教えを請いました。仏門には私たちを早く境地に入らせる方法はありますか?私は仏法を学び始めた頃、章嘉大師にそう教えを請いました。大師は私の真誠を見ました。私を見ていました。私も大師を見ていました。私たちは三十分見ていました。先生はひと言「あります」と言いました。先生はまた話さなくなりました。なるほど法を授ける時、心の中がきれいで一塵の曇りもなければ、話したことがすべて入っていき、役に立つのものです。もし雑念や疑い、分別や執著があれば、あなたに説いて聞かせても役には立ちません。こちらの耳から入り、あちらの耳から出ていきます。効き目がありません。ですから先生が用いた方法は卓越しています。先生は学生の心が平静で穏やかになり、心を集中していれば、あなたに教えます。役に立ちます。このような学生はどこに探しに行けば見つかるのでしょうか?見つからなければ伝承者はいなくなります。
所以我們要了解,理論、方法、境界面面都要顧到,希望在一生之中能有個成就;最低的成就,念佛往生極樂世界,沒有白學。極樂世界不能往生就難了,不能不重視淨宗這個法門。
ですから私たちは理解しなければなりません。理論、方法、境界(きょうがい:境地)のどの面にもすべて配慮しなければなりません。この一生での成就を願ってのことです。最低の成就は念仏して極楽世界に往生することです。無駄に学んだことにはなりません。極楽世界に往生できなければ(成就するのは)難しいでしょう。浄土宗という法門を重視しない訳にはいきません。
今天時間到了,我們學習到此地。
今日は時間になりました。学習はここまでとします。
學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第七集)
2018/10/16 聯合國教科文組織淨空之友社 檔名:21-786-0007
諸位法師、諸位同學,大家好。這一堂我們接著前面第三十六頁:
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。引き続き前の三十六頁を進めます。
【上帝所派遣的一切神聖使者們,他們出現在這個世間,顯然是為了要在人類之間建立起仁愛、建立起和諧的共識……上帝的神聖宗教不是(也不應是)造成人類紛爭與分歧的原因……因此,當今人類必須努力去認識上帝遺留給我們的教誨,因為這些教誨乃是我們全體人類現狀的解救之道。】
【神が派遣された一切の神聖な使者たちは、この世間に現れると、明らかなのは人類の間に仁愛を打ち立て、調和の共通認識を打ち立てるため・・・・神の神聖な宗教は人類を紛争や分裂させる原因をつくるものではない・・・・そのため、今人類は神が遺された教えを認識しなければならない。なぜならこれらの教えは我々全人類の現状を救う道だからである。】
這段話說得好,正是把我們當前無法解決的問題,連它的根源都拔出來了。確確實實,像經上所講的,一切宗教都是依上帝、依真神、依上主,我們說這些名詞,實際上是一個名詞,在各種不同的宗教有不同的說法。而實際,上帝只有一個,他有這麼多不同的形相、不同的名號,那是他的大慈大悲,應機說法。眾生喜歡什麼樣的人種,他就現同樣的人種;眾生喜歡什麼樣的老師,他就現什麼老師身分。恆順眾生,隨喜功德。這只有神能做到,一般人做不到。
この段は良いことを言っています。正に私たちが今解決できない問題の根源を引き出したのです。確かに経典に説かれているように、すべての宗教は神、真の神、主に基づいていますが、これらの名詞は、実際には一つの名詞なのです。様々な異なる宗教において異なる言い方があります。しかし実のところ神はただ一人であり、神には様々な形や名前があります。それは神の大慈大悲というものです。状況に応じて説法します。衆生がどのような人種を好むかによって、神はそれと同じ人種で現れます。衆生がどのような先生を好むかによって、神はそのような先生の身分で現れます。衆生に従って、嬉々として功徳を積みます。これは神だけができることで、一般人にはできません。
他怎麼會是人類爭執的根源?不可能。人類互相競爭,與他沒關係,不能把這個加在他的身上,那是很大的罪過。所以經上講得清楚,上帝的神聖,這是指的宗教,所有宗教都是上帝建立的,所有不同的神聖都是一個上帝。大家疏忽了、忘了,沒有從這方面去認識、去理解,以為上帝很多,每個宗教都有,上帝不一樣,我喜歡這個上帝,我不喜歡那個上帝,這是不可能的。所以才說神聖的宗教,不是造成人類紛爭與分歧原因,這講不通。
神が人類の論争の根源になることがあるでしょうか?あり得ません。人類の相互の争いは、神とは無関係です。これを神の身の上に被せてはなりません。それは大きな罪です。ですから経典にも明確に説かれています。神の神聖、これは宗教を指します。あらゆる宗教は神が打ち立てたものです。あらゆる異なる神聖はすべて一つの神なのです。皆が疎かにしています。忘れています。この方面から認識し、理解しようとしません。神はたくさんいると思い、どの宗教にもあって、神は同じではないと思っています。自分はこの髪が好きで、あの神は好きではないと思っています。これはあり得ません。だからこそ神聖な宗教と言うのです。人類の紛争と分岐の原因を作るものではありません。これは話が通りません。
『因此,當今人類必須努力去認識上帝遺留給我們的教誨』,這指的是經典。每一個宗教創始人、上帝的使者都不在人間了,留給我們的就是經典的教誨。我們讀經,是聽他們在說話;我們在學習經教,是依照神聖的教誨去學習。佛教裡面稱為修行,行代表思想、行為,思想行為錯了、偏差了,把它修正過來,叫做修行。所以修行這兩個字,是把神聖的教誨,落實在我們起心動念之處,落實在我們日常生活當中。這才是真正修正一切錯誤的行為,這叫修行。
「そのため、今人類は神が遺された教えを認識しなければならない」、これは経典を指しています。どの宗教の創始者も、神の使者はみな人間界にいなくなると、私たちのために経典の教えを遺します。私たちは読経することで、彼らの話を聞きます。私たちが経教(きょうぎょう:経文に説かれている教え)を学習するのは、神聖な教えに照らして学習します。仏教の中では修行と言います。「行」は思想、行為を表します。思想と行為が誤っていれば片寄りが出ます。それを修正することを修行と言います。ですから修行と言う二字は、神聖な教えを私たちの心の使い方において実行し、日常生活の中において実行します。これこそが真に一切の誤った行為を修正することであり、これを修行と言います。
這個地方接著也說得好,『因為這些教誨』,記住,這句話指的就是,因為這些遺留在世間的經典,基督教的《新舊約》、伊斯蘭教的《古蘭經》……,是指這些。這些教誨我們要把它認清楚,『是我們全體人類現狀的解救之道』,這句話說得好,我們要記在心上。我們遇到困難了,怎麼解救?解救之道在哪裡?在這些聖賢教誨我們的經典當中。
この箇所は続けて良いことを言っています。「なぜならこれらの教えは」。覚えておいて下さい。この言葉が指すもの何でしょうか。なぜならこれらの世間に遺された経典は、キリスト教の『新約聖書』『旧約聖書』、イスラム教の『コーラン』・・・、これらを指します。これらの教えを私たちははっきりと認識しなければなりません。『我々全人類の現状を救う道だからである』、この言葉はよく言ったものです。私たちは心に留めておかなければなりません。私たちは困難に遭ったら、どのように救助するのでしょうか?救助の道はどこにあるのでしょうか?これらの聖賢の教えは経典の中にあります。
我每天讀這些經,不是不用功,有人讀三遍、有人讀五遍,還有《無量壽經》從頭到尾念三千遍的、念五千遍的、念一萬遍的,我都見過,我對他很尊敬。他有沒有問題?有。什麼問題?自以為是。就是這裡所說的,他沒有得救,他沒有辦法解決他自己問題,總的原因,就是我們常說的,放不下!
私は毎日これらの経典を読みます。努力しない訳ではありません。ある人は三回読み、ある人は五回読みます。また『無量寿経』を最初から最後まで三千回読む人、五千回読む人、一万回読む人、私はすべて見たことがあります。私はその人を尊敬します。その人に問題はないでしょうか?あります。何の問題でしょうか?自分が正しいと思い込んでいます。正にここで説かれています。その人は救われません。その人は自分の問題を解決しようがありません。すべての原因は私がよく話している、放下(ほうげ:執著を手放すこと)できないということです!
放不下的人,學習宗教,初級的,在宗教裡面他是初級班的學生,小學。為什麼不得其用?他沒有透徹的了解,他沒有辦法落實在他自己起心動念之處,沒有用在自己日常生活言談舉止之間,所以他不得解救之道。我們遇到了,講解給他聽,有沒有用處?沒用。為什麼沒有用?他的看法、他的想法他認為他是正確的,不能接受別人建議,這才是根源。
放下できない人は、宗教を学ぶのは初級です。宗教の中でその人は初級班の学生であり、小学です。どうして役に立たないのでしょうか?その人は透徹して理解していません。その人はその人自身の心の起こりと念の動きにおいて実行することができません。自分の日常生活で、言葉や立ち居振る舞いにおいて用いることができません。そのためその人は救いの道を得ることができません。私たちは会ったことがあります。講釈してその人に聞かせました。役に立ったでしょうか?役には立ちません。なぜ役に立たないのでしょうか?その人は自分のものの見方、考え方を正しいと考えています。他の人の提案を受け入れることができません。これこそが根源です。
老師,會教的老師,懂得教育的方法,跟那個不懂方法的不一樣。懂得方法的,依照古人留下來的方法,要把一個人教好,要做好的榜樣給他看;也就是做樣子,做出榜樣,讓他看到,讓他豁然大悟。不容易!要做多久?什麼時候開悟了,你做這個樣子可以改變方法了。如果毛病、習氣放不下,錯誤的見解很深很厚,堅固的執著,難!
教えることのできる先生は、教育の方法を理解しています。方法を知らない人とは違います。方法を知っている人は、古人が遺した方法に照らして、一人の人をしっかりと教えます。しっかりした手本をその人に見せなければなりません。手本を示し、手本を演じてその人に見せ、その人に豁然と大悟させるのです。容易ではありません。どれくらい示すのでしょうか?いつか悟りを開いたら、この手本を示す方法を改めても良いでしょう。もし癖や習気(じっけ)を手放せないなら、誤った見解は深く厚く、堅固な執著があります。これでは難しい!
喚醒一個人,菩薩慈悲,不捨眾生,生生世世追著他,一直追著他,到他覺悟為止;第一個階段。第一個階段圓滿了,目的達到了,第二個階段;第二個階段是幫他提升,榜樣還是離不開的。墮落很容易,跳出來可不簡單。所以稱諸佛菩薩大慈大悲,對眾生無比的恩德,只有得到經教教誨利益的人,他才知道;沒得到利益,難!
人を覚醒させるのは菩薩の慈悲であり、衆生を捨てず、生まれ変わり死に変わりその人を追いかけます。その人が覚醒するまでずっと追いかけます。これが第一段階です。第一段階が円満になり、目的が達成されます。第二段階はその人の向上を助けます。手本となる人とはやはり離れることはできません。堕落するのは容易であり、飛び越えるのは簡単ではありません。ですから諸仏菩薩は大慈大悲と言います。衆生に対して無比の恩徳があります。経教の教えのご利益を得た人だけが知っています。ご利益を得られなければ(菩薩の大慈大悲に気づくのは)難しいでしょう!
所以佛家教導我們,學習,信、解、行、證四個字。第一個,對老師要有信心。第二個,要一門深入。這是現在人大病,學了這個法門、學了這部經典,不錯了,才學了幾遍,聽說別人告訴他,還有比這個更好的經,功德更大的,開悟最快的,他把這個放棄去學別的;幾年來大概也學了十幾部經,一竅不通。這樣的人不少,我們常見,我看到很痛心。什麼原因?不能一門深入。
仏家では、学習において信、解、行、証の四字を教えています。一つ目は先生に対する信心がなければなりません。二つ目は、一門に深く入ること。これは今の人の大きな病です。この法門を学んで、この経典を学んで、ようやく数回学んだところで、更に良い経典がある、功徳が大きく早く悟れると人から聞くと、それまでのものを放棄して別のものを学ぼうとします。数年で十数部の経を学んで、何一つちんぷんかんぷんです。このような人は少なくありません。私たちはよく見かけます。見て心を痛めています。原因は何でしょうか?一門に深く入ることができないからです。
學別的經典可不可以?可以。什麼時候?我這部經真學通了,這部經典畢業了,我可以再選一部;畢業了,又可以選一部。不是同時,同時學兩部以上的,成就的人很難。有一等天才可以,他看到他同時學兩部、三部,他真有成就。我們不行,我們一部學多少遍還學不會,怎麼可以選擇很多部?這個道理不深,想想能想得通。
別の経典を学んでも良いのでしょうか?それは良いのです。それはいつでしょうか?この経典に本当に精通して、この経典を卒業したら、更にもう一部を選ぶのです。卒業したらまた一部を選びます。同時ではありません。同時に二部以上のものを学べば、成就するのは難しいものです。ある種の天才なら良いでしょう。その人は同時に二部、三部を学んで、本当に成就します。私たちは駄目です。私たちは一部をある程度学んでも学びきれません。多くの経を選んで良いことがあるでしょうか?この道理は深くありません。少し考えれば合点がいくことです。
所以要記住,一門深入,一門沒有學好,不能學第二門,要專注、要扎根。怎麼扎根?經典要背誦,儒的經典要背誦,佛典也要背誦,巴哈伊教的經典還是背誦。所以你要懂方法,一部經、一個方法;能背誦了,求解;大開圓解,那就開悟了。為什麼要這樣做法?你要懂得它的道理,一接近真心,二是妄心。每個宗教神聖所說的經典,都是從一個真性或者說真心流露出來的,二心不可能。
ですから覚えておいて下さい。一門に深く入ることです。一門を学びきれないうちは、次の一門を学ぶことはできません。集中して取り組み、根を下ろさなければなりません。どのように根を下ろすのでしょうか?経典は暗唱しなければなりません。儒教の経典は暗唱です。仏典もまた暗唱しなければなりません。バハーイー教の経典もやはり暗唱です。ですから方法を理解しなければなりません。一部の経、一つの方法です。暗唱出来たら、解を求めます。円満に理解できれば、悟りを開きます。なぜこのようにするのでしょうか?その道理を理解しなければなりません。一は真心に近く、二は妄心です。どの宗教の神聖が説かれた経典もすべて一つの真性、或いは真心から流露したものです。二心ではあり得ないことです。
真心的功德大。佛教有宗門、教下,宗門是先開悟再學經。開悟學經快!為什麼?自性、本性的般若智慧現前,一聽就明白,一看就懂。妄心沒有這個能力,跟著妄心起來的是雜念、是妄想分別執著,煩惱跟著來,智慧不見了。但是宗門難,禪宗難,必須得清淨心之後才有受用。清淨心怎麼得到?看破、放下,六根接觸六塵境界,清清楚楚、了了分明。真心對他是什麼樣子?不起心不動念、不分別不執著,有人來問,對答如流,你都能講給人聽,你有這個本事。為什麼?一切諸佛如來的經教,都是從自性流出來的,你見了自性,你流出來的跟佛沒有兩樣,是這麼個道理!
真心の功徳は大きなものです。仏教には宗門(しゅうもん:禅宗)、教下(天台、法相、賢首)があり、宗門では先に開悟してから経を選びます。開悟は教を学ぶより速いのです!なぜでしょうか?自性、本性の般若の智慧が現れれば、聞けばすぐに分かり、見ればすぐに理解できるのです。妄心にはこの能力はありません。妄心に従って起こるのは雑念であり、妄想・分別・執著です。煩悩が後から後からついてくると智慧はなくなります。しかし宗門は難しいものです。禅宗は難しい。必ず清浄心を得なければならず、その後でようやくご利益を受けます。清浄心はどのように得られるのでしょうか?心を起こさず念を動かさず、分別せず執著しないことです。人が質問に来ても流れる如くに答えます。人に説いて聞かせることができます。その能力があります。なぜでしょうか?一切の諸仏如来の経教はすべて自性から流露したものだからです。あなたが自性を見極めれば、あなたに流露するのは仏と同じです。このような道理なのです!
教下,不是頭等根機還是用妄心,頭等根機用真心。用妄心的人,就要返妄成真,在妄的上薰修,一遍一遍薰修。這部書讀一百遍、讀一千遍、讀一萬遍,這就是用時間來薰習。把不好的淘汰掉,清淨心讓它現出來。清淨心現出來就好辦了,一看懂了、一聽也就懂了,六根一接觸六塵境界,完全明白了。什麼原因?他放下了,徹底放下了。
教下は最上の根機(こんき:資質)ではなく妄心を使っています。最上の根機であれば真心を使っています。妄心を使っている人は、「妄」を翻して「真」としなければなりません。妄において薫修(くんじゅ:香の薫りが染みつくように深く修行すること)します。一回また一回と薫修します。この書物を百回読み、千回読み、一万回読み、時間をかけて薫修します。良くないものは淘汰され、清浄心が現れてきます。清浄心が出てくればやりやすくなります。一目見れば理解でき、聞いてもすぐに理解できます。六根が六塵の境界に一たび触れれば、完全に理解できます。原因は何でしょうか?その人は放下(ほうげ:執著を捨て去ること)したのです。徹底的に放下したのです。
佛說,上帝也說,常常說:假的,世間一切法,如夢幻泡影。這個比喻《金剛經》上的,儒跟道用這個比喻的人很多。它不存在!現在人學科學,科學也證明了。整個宇宙的現象從哪裡來的?「唯心所現,唯識所變。」現相是心,變化是識;識是妄心,心現是真心;能現萬法的是真心,把萬法變成這個樣子是妄心,叫識心。沒有這兩種心,就沒有這兩種樣子,到哪裡去了?回歸自性了。好!回歸自性就成佛了。這個我們不能不懂,真正懂得,就肯放下了。
仏は説かれました。神も説かれています。よく説かれています。世間の一切は偽りであり、夢幻、泡や影のようなものであると。この譬えは『金剛経』のものです。儒教や道教でもこの譬えを用いる人は多くいます。(この世間は)存在しません!現代人は科学を学んで、科学的にも証明しています。全宇宙の現象はどこから来るのでしょうか?「唯だ心の現るる所、唯だ識の変ずる所」(唯心所現,唯識所変) 。相を現すのは心です。変化するのは識です。識は妄心です。心が現すのは真心です。万法を現すことができるのは真心です。万法をこのように変えてしまうのは妄心です。識心と言います。この二種類の心が無ければ、この二種類のことは無くなります。どこに行くのでしょうか?自性に回帰します。それで良いのです!自性に回帰すれば仏に成ります。これを私たちは理解しなくてはなりません。本当に理解すれば、放下する気になります。
我學佛學了七十年了,七十年怎麼樣?七十年才搞懂。我跟的三個好老師,沒有好老師很難,有好老師。老師一針見血,教導我入門。我向他老人家請教,佛門裡頭有沒有方法教給我們很快就契入?我剛學佛的時候,向章嘉大師請教。大師看到我真誠,看著我,我也看著他,我們看了半個小時,老師說一個字:有。我心裡一振奮,他又不說了。原來傳授你法的時候,你心裡頭乾乾淨淨、一塵不染,給你講的全進去了,管用;如果你有雜念、你有懷疑,你還有分別執著,給你講沒用,這個耳朵進去,那耳出去了,沒效。所以老師用的方法高明,他看到學生整個心心平氣和、一心專注,就教你,就管用。這樣的學生到哪去找?找不到就沒傳人。
私は仏に学んで七十年になります。七十年どうだったでしょうか?七十年でようやく理解できました。私は三人の良い先生につきました。良い先生がいなければ難しいということです。(私には)良い先生がいました。先生はずばり核心に触れて、私を入門に導かれました。私はご老人に教えを請いました。仏門には私たちを早く境地に入らせる方法はありますか?私は仏法を学び始めた頃、章嘉大師にそう教えを請いました。大師は私の真誠を見ました。私を見ていました。私も大師を見ていました。私たちは三十分見ていました。先生はひと言「あります」と言いました。先生はまた話さなくなりました。なるほど法を授ける時、心の中がきれいで一塵の曇りもなければ、話したことがすべて入っていき、役に立つのものです。もし雑念や疑い、分別や執著があれば、あなたに説いて聞かせても役には立ちません。こちらの耳から入り、あちらの耳から出ていきます。効き目がありません。ですから先生が用いた方法は卓越しています。先生は学生の心が平静で穏やかになり、心を集中していれば、あなたに教えます。役に立ちます。このような学生はどこに探しに行けば見つかるのでしょうか?見つからなければ伝承者はいなくなります。
所以我們要了解,理論、方法、境界面面都要顧到,希望在一生之中能有個成就;最低的成就,念佛往生極樂世界,沒有白學。極樂世界不能往生就難了,不能不重視淨宗這個法門。
ですから私たちは理解しなければなりません。理論、方法、境界(きょうがい:境地)のどの面にもすべて配慮しなければなりません。この一生での成就を願ってのことです。最低の成就は念仏して極楽世界に往生することです。無駄に学んだことにはなりません。極楽世界に往生できなければ(成就するのは)難しいでしょう。浄土宗という法門を重視しない訳にはいきません。
今天時間到了,我們學習到此地。
今日は時間になりました。学習はここまでとします。