<あふたの清水>
中山道六十九宿巡り(第10回目);第1日目(2);洗馬宿
(五十三次洛遊会)
2011年9月16日(金)~18日(日)
第1日目;2011年9月16日(金) (つづき) 晴,蒸し暑い1日
<地図>
■詳細図
※再掲
■洗馬宿詳細図
<善光寺街道分去れ>
■肱懸松
衝動買いをしたブドウを食べながら,国道19号線を南南西に歩き続ける.まともな歩道がない道なのに,結構,自動車の往来が激しいので,落ち着いて歩けない.
ガソリンスタンドの前で,左折して草道に入る.道の両側には草地が休耕田のような空き地が広がっている.本の200メートルほど進むと,盛り土の上を走る国道19号線と交差する.
交通量の多い国道を横切って,旧道を進む.手許の資料では,この辺り平出歴史公園があるはずだが,どこにあるのか全く分からない.
(注)後で調べた所,平出歴史公園は平戸遺跡公園から比叡ノ山方面へ数分歩いた所にあることが分かった.
住宅が点在する閑静な道が続く.
11時43分,肱懸松(肱松)に到着する.傍らに案内板が立っている.この案内板の記事によると,細川幽齋がここにあった松に肘を当てて月を眺めたことから肱懸松と呼ばれるようになったという.なお,細川幽齋は肥後細川家の祖だとのことである.
案内板には細川幽齋が詠んだ歌が紹介されている.
“肱懸けて
しばし憩える松蔭に
たもと涼しく
通う河風”
なお,江戸2代将軍秀忠上洛のときに,肱をかけて休んだという説もあるようだ.
■分去れに到着
肱懸松の近くに「中仙道洗馬宿」と書いた案内板が立っている.私たちはこれから洗馬宿の中に入る.
洗馬宿に入って間もなく,11時45分に「善光寺街道分去れ」に到着する.大きな常夜灯の脇に案内板がある.この案内板の記事によると,ここの分岐を右折すると(つまり私たちが通ってきた道),先ほどの肱懸松(相生坂)を上り,桔梗ヶ原を経て塩尻宿に向かう.江戸間で30宿59里余.右折すると北国脇往還の始まりで,松本を経て麻績から善光寺へ向かう善光寺街道である.善光寺まで17宿19里余である.
この説明文を読んで,いつか一人で,この善光寺街道を歩いてみたいなという衝動に駆られる.
なお,説明板の後ろにある常夜灯は,説明文によると,1857年(安政4年)に建立されたものである.
さらに先へ進んで,11時48分,石塔群が並んでいる場所に,「中仙道と前項地道のわかされ」という題名の案内板が立っている.この案内板によると.1932年(昭和7年)4月6日の「洗馬の大火」以後,新道が開通したときに,枡形にあったものをここに移したという.
私には,前後の意味が余りよく分からない.
<善光寺街道分去れ>
<洗馬宿に入る>
■洗馬宿の概況
資料1(p.176)および資料2(p.80 )によれば,洗馬宿は信濃国筑摩郡に属し,宿内人口661人(男性340人,女性321年),宿内惣家数163軒(本陣1,脇本陣1,旅籠29).駄賃・賃銭は荷物1駄,乗掛荷人共45文,軽尻馬1疋29文,人足1人23文と紹介されている.
私は不勉強なので,今の通貨に直して幾らぐらいになるか計算すらしていない.
■あふた(太田)の清水
道路の両側には民家が建ち並ぶ.人通りは殆どなく何となく閑散としている.
地図を見ながら歩き続ける.
「・・・そろそろ“あふたの清水”があるはずだ・・}
と話し合いながら注意深く歩く.
11時49分,空き地の傍らに「あふたの清水」と書いてある杭を見つける.なるほどここかと思いながら右折する.未舗装の路地である.路肩の側溝を気鋭な水が勢いよく流れている.この水を辿ればアフタの清水へ行けるだろうと思って,側溝の先を辿る.やがて側溝は大きく左に曲がって,民家の敷地の中に入っていく.
ここから先は私有地である.私たちは諦めて元の場所に引き返す.
すると,丁度そのとき軽トラックに乗っていた男性が通りかかる.男性は私たちに,
「・・・・そこで帰っちゃダメですよ・・・その先の下り坂を下りると”あふたの清水”がありますよ.そこを見なければ,折角,ここまできた甲斐がないですよ・・・」
と親切に教えてくれる.この方の話によると,江戸時代の有名な絵師広重が,あふたの清水付近から見下ろした絵を画いているとのことである(真偽については調べていない).
男性に教えられたとおりに,先ほど引き返した所からさらに先の下り坂を下りる.
11時53分,無事にあふたの清水に到着する.あふたの清水は鬱蒼とした森の中から湧き出している.交代で清水を味わう.冷たくて実に美味しい.
清水の傍らに「ふるさと清水20選」と書いた案内板が立っている.
資料1(p.177)によると,このあふたの清水が,洗馬の地名の起こりだという.資料1では「壬戊」を引用して「右の方に太田の清水ありといふありて,木曽殿の馬を洗ひしより洗馬の名ありとぞ」と紹介している.
ついでに,何とかという絵師が画いたと思われる景色をデジカメに収める.
幹事役のO村さんが,携帯電話で,今日昼食を摂る予定に「本山そばの里」に電話をする.電波の状態が余り良くないようで,通話に苦労している.
<あふたの清水>
<ふるさと水20選>
■洗馬学校跡
元の道に戻る.
枝道への入口と道路を挟んで反対側が,先ほどの男性の家である.駐車している軽トラックの脇に男性が居たので,
「・・有り難うございました.助かりました・・」
と挨拶する.
この男性を含めて,沿道で出会う方々が全員親切なので心が和む.
12時01分,洗馬学校跡に到着する.幾分殺風景な塀沿いの高い所に案内板が取り付けられている.この案内板には,「洗馬学校は1873年(明治6年)民家に開設され,開智学校(重要文化財)を立てた立石清重を棟梁に.1880年(明治11年)ここに新築移築した.近隣に例を見ない廻り階段やバルコニーの付いた洋風3層の校舎は,その偉容からバビロン城と呼ばれ,屋上には今井兼平洗馬の像が飾られた」とある.
立石清重とは誰か? 気になるので,帰宅後,早速,インターネットで調べる.すると資料3に,以下のような紹介文がある.
「立石清重 1829-1894 幕末-明治時代の大工棟梁(とうりょう).
文政12年生まれ.明治9年長野県南深志町(松本市)に開智学校を建築.同校は開成学校を模した和洋折衷の建築で,昭和36年重要文化財に指定された.ほかに松本裁判所,長野県会議事堂などを手がけた.明治27年8月23日死去.66歳.信濃(しなの)(長野県)出身.」
■洗馬宿本陣跡
12時02分,洗馬宿本陣跡に到着する.
現在は,本陣を想起させるようなものはなにもないが,草むした塀の前に案内板が貼り付けてある.
この案内板によれば,本陣,脇本陣の庭園は,中仙道には稀な名園があったようだが,1909年(明治42年),鉄道の開通によってJR洗馬駅の敷地になって失われた.また,先にも触れた1932年(昭和7年)の大火によって,宿場時代の建物は殆ど焼失してしまった.
■荷物貫目改所跡
12時03分,荷物貫目改所跡を通過する.生け垣の前に案内板が立っている.
この案内板によると,中仙道の荷物貫目改所は洗馬,板橋,追分の3宿に置かれていた.規定の重量を超えた荷物に増賃金を徴収するなど,伝馬役に過重な負担がからないようにしていた.
■明治天皇御駐賛之処
12時04分,明治天皇御駐賛之処を通過する.大きな石柱が立っている.
■満福寺
12時05分,満福寺の前を通過する.赤い山門が印象的.この寺の由来は未調査なので良く分からない.
■高札場跡
12時08分,高札場跡を通過する.
案内板によると,ここは明治以降裁判所の出張所(後に宗賀村役場)の敷地の一部となり,その建物は「どんぐりハウス」として移築利用されているという.
どこに,この「どんぐりハウス」があるのかは分からない.
■滝神社
12時10分,滝神社を通過する.赤色の「言成地蔵尊」と書いてある案内板が印象的である.石段の向こうの深い木立の中に朱色の社殿が見えているが,参拝せずに通過する.
■牧野一里塚
12時15分,公民館脇の牧野一里塚を通過する.ここは江戸から60番目の一里塚.つまり江戸からの距離は60里である.
何となく貧相な木の杭が一本立っているだけである.
<本山宿を目指して>
■本山宿の碑
牧野一里塚跡を過ぎる頃から集落が途切れる. 国道沿いの単調な街道を南南西に歩き続ける.進行方向左手(南東側)は台地になっている.右手には田畑や水田が広がる.
12時48分,「中仙道本山宿」と書いてある杭の前を通過する.ここで,幹事役のO村さんが,昼食の予約のために,ふたたび「本山そばの里」へ電話する.
■石像文化財群
12時40分,再び国道と分かれて右側の旧道に入る.
さらにもう少し歩いて,12時41分,石像文化財群に到着する.ここには沢山の石像が建ち並んでいる.
資料2(p.114)によれば,ここには徳本上人碑,庚申塔などが集められている.
資料5によれば,徳本上人は「27歳のとき出家し、木食行を行った.各地を巡り昼夜不断の念仏や苦行を行い、念仏聖として知られていた.大戒を受戒しようと善導に願い梵網戒経を得、修道の徳により独学で念仏の奥義を悟ったといわれている.文化11年(1814年)、江戸増上寺典海の要請により江戸小石川伝通院の一行院に住した.一行院では庶民に十念を授けるなど教化につとめたが、特に大奥女中で帰依する者が多かったという.江戸近郊の農村を中心に念仏講を組織し、その範囲は関東・北陸・近畿まで及んだ.「流行神」と称されるほどに熱狂的に支持され、諸大名からも崇敬を受けた.徳本の念仏は、木魚と鉦を激しくたたくという独特な念仏で徳本念仏と呼ばれた.墓所は一行院.」と記述されている.
なお,引用文の中にある「木食(もくじき」)は、資料6によると,「木食戒(穀断ち)(火食・肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行)を受けた僧のこと.木食上人ともいう.」ようである.
■本山そばの里
見通しが良くて,平らな道を歩く.やがて前方にそば畑が見え始める.
道路脇に,「本山そばの里」と書いてある大きな看板が立っている.ここで右折する.そして,白い花が一面に咲いているそば畑を右手に見ながら,枝道を歩いて,12時49分に,本山そばの里に到着する.
なお,大きな看板が立っていた辺りは,資料7によると,本山宿の下木戸跡.池生神社の入口のようである.つまり,この辺りが本山宿の入口に当たる.
店の入口には,「そば切りの発祥の里 中仙道本山宿」と大きな字が書いてある立て看板ある.
<一面のそば畑の先に「本山そばの里」が見える>
<本山そばの里に入る>
■美味しいそば
店の中に入る.30人ほどの客が座れる座敷になっている.靴を脱ぐのが少々面倒だが,明るい店内が気に入る.私は盛りそばの定食を注文する.
愛想の良い女将が,はきはきと応対する.
そばは,腰があって,しかもツルツルしていて,大変美味しい.大満足である.
ここで,小一時間かけてユックリと昼食を楽しむ.
私たちが食事をしている間にも,三々五々,来客がある.
(つづく)
[参考資料]
資料1;今井金吾,1994,『今昔中仙道独案内』日本交通公社
資料2;岸本豊,2001,『中仙道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料3;http://kotobank.jp/word/%E7%AB%8B%E7%9F%B3%E6%B8%85%E9%87%8D
資料4;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E5%85%BC%E5%B9%B3
資料5;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E6%9C%AC
資料6;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E9%A3%9F
資料7;完全踏査街道マップシリーズ『ちゃんと歩ける中仙道六十七次』五街道ウォーク事務局
「中仙道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/0539f22aad01423726d0fce9274d5ddd
「中仙道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/7fd6864769fa0aee7c3b9e381b989872
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[編集後記]
2011年10月6日(木)
昨夜,就寝するまで,何回も,何回も,有料天気予報を開いて眺め続けていた.何回チェックしても,明日(つまり今日10月6日)は,11時頃までは雨,後,曇,昼過ぎから晴という予報が変わらなかった.
10月7日から,2~3日,故郷の小諸でヤボ用があるので,出掛ける前に是非一度塔ノ岳に登っておきたかったのだが,雨では仕方がない.諦めるしかない.
さて,今朝である.
何時も通り,4時に起床.私が住んでいる鎌倉は,海に面しているために,東京辺りに比較するといくらか暖かいが,それでも季節が進んで,今朝も暖房なしでは少し寒い感じである.
「寒いな・・・もう少し,寝床の中でグズグスしていよう・・・」
そう思った私は,1時間ほど,寝床に潜り込んで,本などを読みながら過ごす.
5時頃改めて起床する.
念のため,天気予報を見る.すると,丹沢地方は明け方6時頃までは雨だが,そのあとは曇りに変わっている.
「なんだ! そんならば,丹沢へ出掛ければ良かった・・!!」
極めて残念である.
「・・ん,なら,・・・今から出掛ければいいじゃないか・・!」
私の心の中に巣喰っているもう一人の私(名前をハイドフラワーという)が,私をけしかける.
でも,丹沢へ行くんなら,どうしても1番バス,せめて2番バスで行きたい.だから,今日は丹沢行を諦める. ハイドフラワーは,
「何だ,結局は,最初から行く気がないんじゃないか・・」
と私をせせら笑う.
まあ,いいさ・・・可笑しければ笑いなさいよ.
私はふくれっ面である.でも,10月8日は,故郷に住んでいる弟と姪の2人と一緒に浅間山に登ることになっている.それで埋め合わせだ・・・
午後から,中仙道六十九宿巡りの下打ち合わせで,藤沢まで出掛けることになっている.
序でに藤沢駅前の家電量販店でも覗いてみるか.
(愚痴おわり)