<j成覚寺のウメ>
歩いて巡る甲州道中四十四次(第1回);(3)内藤新宿から初台へ
(五十三次洛遊会)
2013年3月3日(日) (つづき)
<ルート地図>
<内藤新宿の概要>
資料2(p.254)には,内藤新宿(ないとうしんじゅく)の宿内人口は2377人.内,男1172人,女,1205人.宿内惣家数698軒.内,本陣1軒,旅籠24軒であった.
資料3によれば,「江戸時代に設けられた宿場の一つ.甲州街道に存在した宿場のうち,江戸日本橋から数えて最初の宿場であり,宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった.現在の住所では,新宿一丁目から二丁目・三丁目の一帯にあたる.東海道の品川宿,中山道の板橋宿,日光街道(奥州街道)の千住宿と並んで,江戸四宿と呼ばれた.地名から四谷新宿と呼ばれることもある.」という説明がある.なお,同資料には,内藤新宿の設立の経緯が詳細に記述されれている.
また,同資料によると,「宿場予定地には信濃国遠藩・内藤家中屋敷の一部や旗本の屋敷などが存在したが,これらの土地を幕府に返上させて宿場用地とした.」という説明がある.
<太宗寺>
■太宗寺に到着
新宿御苑で昼食を終えた私達は,12時55分,新宿御苑から歩き出す.
新宿御苑入口付近にあった大木戸が内藤新宿の入口だったので,私達は既に甲州道中の最初の宿場,内藤新宿に入っていることになる.
新宿が近くなったせいか,歩くにつれて,街の様子がだんだんと繁華街らしく賑やかになりはじめる.
13時08分,太宗寺に到着する.正式には霞関山山本覚院太宗寺という.
資料4によれば,「慶長元年(1596年)ごろに僧太宗が開いた草庵,「太宗庵」が前身である.寛永6年(1629年),阿波国勝山藩藩主であった内藤正勝の葬儀を行う.これを契機に内藤氏との縁が深まり、寛文8年(1668年)に正勝の長男重頼から寺地の寄進を受け,太宗を開山として太宗寺が創建された.院号は正勝の法名を拝している.元禄4年(1691年),内藤氏は信濃国遠藩へ移封されたが,太宗寺はその後も高遠藩内藤氏の菩提寺として,歴代藩主や一族の墓地が置かれた.内藤氏の墓地は約300坪の広大なものであったが,昭和27年(1952年)から行われた区画整理で縮小された.5代目当主正勝など3基の墓石が現存する.境内には江戸に入る6本の街道の入り口にそれぞれ安置された地蔵菩薩像(江戸六地蔵)の第三番がある.また,この寺には閻魔像・奪衣婆が安置されており,江戸時代から庶民に信仰されてきた.現在も,毎年7月15日・16日の縁日に御開扉されている.他に新宿山手七福神の一つである布袋尊像、真っ白に塩を被った姿が特徴の「塩かけ地蔵」などがある.」(以上コピペ).
さて,さて,コピペばかししていてはマズイナ・・・・何だか出来の悪い大学生の卒業論文のようになりそうだ.
…で,この辺りで過剰なコピペは止めにしよう.
■文化財の宝庫
地図を頼りに住宅街の路地をあちこち曲がって太宗寺を探す.すると突然目の前に大きな地蔵菩薩の背中が見える.この背中を見て,
“ああ,ここが太宗寺か・・・”
と合点する.
境内に入る.それほど広い境内ではない.しかし,この寺には沢山の文化財があるようだ.
まず,入口右手に銅造地蔵菩薩座像が安置されている.さきほど背中が見えていた地蔵菩薩である.そして,境内正面にある近代的な建物が目につく.これが本堂である.
向かって右側には,赤い柱や門構えが目立つ閻魔堂がある.
左側には内藤家の墓がある.その手前に不動堂と塩掛け地蔵が安置されている.
<太宗寺の境内配置図>
<本堂> <閻魔堂>
■銅造地蔵菩薩座像
まずは銅造地蔵菩薩座像を拝観する.近くに設置されている案内板の記事によると.この像は江戸六地蔵のひとつに入っているようである.
そして, 「江戸六地蔵の由来は,この像の内部に奉納されていた刊本『江戸六地蔵建立之略縁起』によれば,江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり,病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから,京都の六地蔵に倣って,宝永3年(1706年)造立の願を発し,人々の浄財を集め,江戸市中六カ所に地蔵菩薩をそれぞれ1躯ずつ造立したと伝えられている.これらの内,深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第6番)は,廃仏毀釈で取り壊されたが,残りの5躯は残っている」という.
太宗寺の座像は,六地蔵の中では一番小振りだという.高さは267センチメートル.本体にはかつて鍍金が施されていたという.
<銅造地蔵菩薩座像>
■閻魔像
焔魔堂に安置されている閻魔像は拝見できなかったが,下の写真の案内板に欠かれているように,区指定有形民俗文化財である.
木造彩色,総高550センチメートルの像である.詳細は,この写真の通りである.
<閻魔像>
<正受院>
■正受院に到着
13時16分,成覚寺に隣接する正受寺(しょうじゅいん)に到着する.早速参拝を兼ねて境内を見学する.
ここは浄土宗の寺.明了山正受院願光寺.本尊は阿弥陀如来.
資料6には,「正受院は,文禄3年(1594年),正受乘蓮和尚を開山として創建される.正受院の奪衣婆像は「綿のおばば」と呼ばれ,民衆の信仰を集めた.幕末の会津藩主,松平吉保が葬られた寺院でもあるが,後に会津若松市の松平家院内御廟へ改葬されたため現在正受院には墓石も記念碑も残っていない.」という説明がある.
<正受院に到着>
■子育老婆尊
まずは境内入り口近くの子育老婆尊を参拝する・
資料7によれば,子育老婆尊は「木造で像高70センチメートル.片膝を立て,右手に衣を握った奪衣婆の坐像で,頭から肩にかけて頭巾状に綿を被っているため「綿のおばば」とも呼ばれる.本像は咳止めに霊験があるとして,幕末の嘉永2年(1849年)頃大変はやり,江戸中から参詣人をあつめ,錦絵の題材にもなっている.当時,綿は咳止めのお札参りに奉納したと伝えられる.本像は小野篁の作であるとの伝承があり,また田安家所蔵のものを同家と縁のある正受院に奉納したとも伝えられる.」という.
<子育老婆尊>
■梵鐘
傍らにある説明文によると,これは安永8年(1711年),神田の鋳物師河合兵部藤原周徳により鋳造された銅造りの梵鐘である.
総高135センチメートル,口径72.8センチメートル.
この梵鐘は太平洋戦争中の昭和17年(1942年)に金属供出されたが,戦後アメリカのアイオワ州立大学にあることが発見され,昭和37年,正受院に変換された
別名「平和の鐘」というらしい.
区登録有形文化財に指定されている.
<平和の鐘>
<成覚寺>
■成覚寺に到着
13時20分.地図を頼りに,太宗寺と路地を挟んで反対側にある成覚寺に到着する.
成覚寺は,交通量の多い甲州街道から,1本路地を入ったところに位置しているため,境内は閑静である.入口の大きな石柱が山門になっている.石柱には成覚寺の表札が取り付けられている.何となく境内に入りにくい雰囲気だが,粛々と拝見することにする.
<成覚寺の入口>
■成覚寺の概要
浄土宗の寺.山号は十劫山.
資料5によれば,成覚寺は「文禄3年(1594年)の創建と伝わる.江戸時代には,岡場所としても繁栄した内藤新宿の飯盛女たちの投げ込み寺であった.奉公途中に死んだ飯盛女は身につけていたものを剥ぎ取られて俵に詰められ,投げ込むように葬られたという.成覚寺に葬られた人数は,2200とも3000余りとも伝わる.」という.現代の感覚で,こんな話を聞くと,残酷で凄いなと思う.
さらに,同資料には,「境内には共同墓地に葬られた飯盛女たちの供養碑である「子供合埋碑(こどもごうまいひ)」、玉川上水で心中した男女らを供養する「旭地蔵(あさひじぞう)」などの文化財が残されている. また,黄表紙という新ジャンルを成立させた戯作者の鯉川春町や,暦学者の塚本明毅が葬られた寺でもある.」という説明がある.
境内の一角にある梅の花が見頃を迎えている(冒頭の写真).
■子供合埋碑
境内に子供合埋碑と刻字した大きな石碑が立っている.
石碑の前にある案内文によると、江戸時代の内藤新宿にいた飯盛女(子供と呼ばれていた)達を弔うため,万延元年(1860年)に旅籠屋中で造立したもので,惣墓と呼ばれた共同墓地の一角に建てられた墓じるしである.
ここは区指定有形文化財歴史資料に指定されている.
<子供合埋碑>
■旭地蔵
境内は狭い.隣接地のブロック塀のすぐ前に旭地蔵が祀られている.区指定有形文化財である.
傍らに説明文があるが,ここでは紹介を省略する.
<旭地蔵>
■塚本明毅の墓碑
ブロック塀沿いに塚本明毅の墓碑が立っている.大きな石に色々と刻字されているが,良く読めない.傍らにある説明文によると,塚本明毅は,幕末から明治前期にかけて,国民生活の近代化の貢献した人物のようである.
<塚本明毅の墓碑>
<新宿駅界隈>
■伊勢丹
13時24分頃,成覚寺を出発する.新宿の繁華街が間近なので,歩くほどに人通りが急に多くなる.
13時31分,新宿3丁目の交差点に到着する.右手に伊勢丹を眺めながら,交差点を左折する.
<伊勢丹前を左折する>
■子育地蔵・天竜寺・青梅街道追分
直ぐに信号新宿4丁目に突き当たる.ここを右折してなだらかな上り勾配の道を進むと,新宿駅南口に到着する.
新宿4丁目の交差点付近に子育稲荷や天竜寺があるが,広い道路の反対側にあるので,時間の都合もあって,見学は省略する.また,高札場跡などもあるようだが,何処にあるかはっきりしない.
また,今回のルートとは少し外れているので,わざわざ訪れることはしなかったが,伊勢丹の前をそのまま通過すれば,青梅街道追分がある.資料1によると,青梅街道は甲州道中の裏街道とも言われ,大菩薩峠を越えて甲府にでられるようである.甲府までは,この裏街道を辿る方が,甲州道中より2里ほど近いという.
■新宿駅南口から西口へ
13時38分,新宿駅南口の前を通過する.
今日は日曜日なので,駅前は沢山の観光客で賑わっている.そんな中,リュックを背負った私達ジジババの集団が歩いているので,周囲から,どうも浮いているような気がしてならない.
新宿駅南口を通過して,すぐに右折して新宿駅西口に出る.
田舎者の私には,新宿のことは良く分からないが,甲州街道から1本中に入った国際通りに入る.狭い道路の両側には家電量販店,飲食店などが立ち並んでいる.
近くに花園神社が有るようだが見落としてしまう.
資料1によると,花園神社は内藤新宿の鎮守で,元尾張侯の別邸があったところで,花園があったという.
信号西新宿2丁目付近で,再び甲州街道に合流する.
<行楽客で賑わう新宿駅南口>
<甲州街道に沿って>
■天満宮と箒銀杏
甲州道中は,暫くの間,現在の甲州街道と一緒になる.自動車の騒音がうるさい甲州街道をひたすら西へ歩き続ける.
立派で壮大な文化学園大学のビルに度肝を抜かれながら,西へ,西へと歩く.
13時52分,大きなビルの片隅にある天満宮に到着する.天満宮の敷地は,ビルに囲まれた猫の額ほどの狭隘なところだが,この敷地一杯に大きなイチョウの木が生えている.
塀に取り付けられている説明文によると,このイチョウは“箒イチョウ”と呼ばれているようである.樹齢約200年.このイチョウは逆さ箒に見えることから,箒イチョウという名が付いたようである.
<箒イチョウ> <天満宮>
■正春寺
進行方向右手(北側)には高層ビル群が見えている.高層ビルがある辺りは,以前,淀橋水場があったところである.
私は戦後間もない頃,新宿駅西口之バラック商店街を抜けて淀橋浄水場付近を歩き回ったことがある.今になって,あの頃のことを懐かしく思い出す.
13時56分,正春寺に到着する.
資料8には,「初台の局の菩提寺として知られる正春寺は,慶長19年(1614年),文京区湯島に天台宗専西寺として建立された.
元和6年(1620年)初台の局は知行地に菩提寺を建てようとしたが,当時江戸幕府の政策で新寺建立は認められなかった.そこで孫の秀教坊正入が慶長19年(1614年)湯島に建てた専西寺を引寺するという形で菩提所を建てた.その後,娘の梅園局(家光の乳母)が,知行地を受け継ぎ,剃髪後正春院清安として代々木に隠居した.寛永4年(1627年)正春院と正入は,天台宗から真宗東(大谷派)に改宗し,同10年(1633年)菩提所を湯島山専西寺安養院と号し,正保2年(1645年)に山号を柴山に改めた.」という説明がある.
正直なところ,ここまで詳しい記述を読んでいると,脳みそがスカスカになっている私にはシンドイ.何となく,
“ああ,そんな経緯があったのか”
ということで,流し読みして詮索は終わりにする.
<正春寺>
<初台>
■井伊別屋敷跡と常夜灯跡
資料1の地図を頼りにさらに西へ進む.
14時07分頃,井伊別屋敷と常夜灯があったと思われる所に到着する.進行方向左手には,ず~っ・・・と,鬱陶しい高架の高速道路が続いている.
この信号の北側,つまりこの写真の左手に経っている大きなビルの辺りが,多分,井伊別屋敷が有った場所のように思える.
また,仲間達が地図を広げてキョロキョロしている辺りに常夜灯があったと思われる.しかし,この辺りには,これらの遺構を示す何物も残っていない.
<井伊別屋敷跡付近>
■初台駅前の公園で一休み
暫くの間,井伊別屋敷跡と常夜灯跡を探したが,見当たらないので探すのを諦める.近くの信号で自動車がうるさい甲州街道を渡る.
初台駅手前が東西に長い講演になっている.ここのトイレを借りて,10分ほどトイレ休憩を取る.
<初台駅前>
(つづく)
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%AE%BF
資料4:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%97%E5%AF%BA
資料5;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E8%A6%9A%E5%AF%BA
資料6;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8F%97%E9%99%A2
資料7;http://www.tesshow.jp/shinjuku/temple_shinjuku_shoju.html
資料8;http://www.tokyo-rekisi.com/shibuya/yoyogi/yoyogi.html
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