中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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善光寺西街道;第2回;第1日目(4);立峠を登る

2015年06月05日 18時58分50秒 | 善光寺街道・善光寺西街道

                             <立峠を目指して急坂を登る>

        善光寺西街道;第2回;第1日目(4);立峠を登る
             (五十三次洛遊会)
        2015年5月29日(金)~31日(日)
 
  

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第1日目;2015年5月29日(金)  (つづき) 晴

<ルート地図>

    

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<無量寺遠望>

■カーブミラーの中の世界
 私達は,大師堂の木陰で,少々遅めの昼食を摂る.その様子が,丁度私達の前に立っているカーブミラーに写っている.毎度のことながら,せっかちな私は,ついつい犬食いチックに早々と食事を済ませてしまう.当然のことながら,私は時間を持て余す.そこで暇潰しに目を付けたのが,このカーブミラーである.私はカーブミラーに映し出される自分の醜い姿に吐き気をもよおすが,こればかりは親から貰ったものなので如何ともし難い.
 私が動くと,鏡の中の私も真似をして動く.そんなこと当たり前だが,その当たり前が面白い.それこそかれこれ半世紀以上も前に見たフランス映画に,鏡の中に入っていくやつがあった.映画の名前はカタカタだっと思うが,今となっては思い出せない.勿論,白黒映画である.まあ,そんな古い映画のことは,どうでもいいが…
 …と,突然思い出す.
 “そうだ! 「オルフェ」っていう映画だった…!”
 でも,映画の筋はまったく忘れちゃった.
 “そういえば,(私の)子供達が小さかった頃,「ミラーマン」っていうテレビを見ていたな…”
 懐旧譚はこの辺で終わりにしよう.

<カーブミラーの中の私達>

■石塔群
 大多数の皆さんより先に昼食を済ませてしまった私は少々退屈である.折角時間があるんだからその辺りを少し散歩しようと思う.
 最初に大師堂の裏手に回ってみる.まず目に付いたのは石塔群である.何かの供養塔,頭が欠けた石仏,石の台座などが少々乱雑に並んでいる.
 私には石仏などの知識は全くないが,どうやら江戸後期か明治初期のもののように見える.でも私の想像など全く当てにならない.

<石塔群>

■灯籠と無量寺
 石塔群の少し先まで行くと,急に視界が開ける.
 まず眼に入るのが,真新しい灯籠と無量寺の建物である.遠目では無量寺の建物は壮大で立派そうである.ちょっと遠いが,無量寺までのなだらかな坂道を登って,写真だけでも撮ってきたいなと思うが,勝手な行動もどうかと思うので止めておこう.

<灯籠と無量寺遠望>

■無量寺全景
 少しだけ無量寺に近付いて,本堂と思われる建物をデジカメに収める.
 資料3には,「無量寺は,長野県松本市会田(旧 四賀村)会田にある曹洞宗の寺院.山号は大恵山.本尊は釈迦如来.1812年頃
再建された本堂庫裏,鐘楼堂,宝物殿,土蔵,衆寮の6棟が国の登録有形文化財に登録されている.819年に仁科氏五代の和泉守により真言宗の寺として開かれ,その後大町市の大澤寺6世住職を迎え,曹洞宗に改められた.」という説明がある
 写真を撮ってから,皆さんが休憩をしている場所に戻る.
 「ちょっと,そこまで行くと,視界が開けて,無量寺が見えますよ.遠いので行くのは無理ですが…」
と遠くから眺めることをお薦めする.

<無量寺>

<岩井堂観音堂跡>

■双体道祖神
 長い昼休みを終えて,12時50分,大師堂から立峠を目指して歩き始める.いよいよ長い午後の部の始まりである.
 引き続き上り坂が連続する.
 12時55分,双体道祖神の前を通過する.何時頃祀られた道祖神か分からないが,かなり風化が進んでいる.
 道路の勾配がややきつくなる.私はともすれば速歩になりそうな方に,何回となくもっとユックリ歩きましょうと声を掛ける.
 13時02分,黄色い地に「林道」と書いてある標識を見付ける.ここが林道の始まりという意味だろうか. 
 
<双体道祖神>                                 <林道>

■古い道標と岩井堂観音堂跡入口
 13時03分,古い道標が立っている場所に到着する.この道標の頭部は少し欠損している上に風化が進んでいるので,何が画いてあるか判読しにくいが,どうやら「右 善光寺 弘法大師聖場」という刻字があるようだ.
 さらにその先,ほんの少し登ったところにある岩井堂跡入口に到着する(13時07分).地図を見ると,ここから左手に分岐して,急坂を登ったところに岩井堂跡があるらしい.折角だから岩井堂跡まで往復したいなという衝動にかられるが,仲間の中で,少々バテ気味の方も居られるし,これから登る立峠がどんな難所か分からないので,自制して岩井堂跡は立ち寄らずに通過することにする.
 分岐点の傍らに立っている案内板の記事によると,信濃三十三札所の中で二十番札所が「岩井堂の観音堂」とのこと.どうやら岩井堂はこの辺りの地名らしく,岩井堂という場所にある観音堂という意味かもしれない.でも,これは筆者の勝手な想像である.
 案内書の記事によると,私達が,いま,歩いている道は古代の東山道であり,近世では善光寺道として栄えていたようである.ここには行基菩薩や弘法大師の伝説があって,岩山の上に観音堂があり,霊場の雰囲気が漂っているとのことである.観音堂の本尊は江戸時代に作られた千手観音.その廻りには地蔵,大黒天の磨崖仏,百体観音などがあるらしい.
 私は旅を終えてから,この記事を纏めているが,今になって,この場所に立ち寄らなかったのが,とても残念だったなと思っている.
 
<古い道標>                               <岩井堂跡入口>

■岩井堂観音堂
 残念ながら,私達は岩井堂観音堂の見学は省略したが,先ほど立ち寄った松本市役所四賀支所近くに立っている案内板には,以下の写真のような案内文と写真が載っている.
 この写真を眺めながら,私達も行ったような気分を味わうことにしようvb.


<岩井観音堂;四賀支所前の案内板より引用>

<うつつの清水と一里塚>


■ここから草道
 13時11分,簡易舗装の道が突如途絶える.そこから先は轍の付いた草道になる.幾ら春が遅い信州でも,5月下旬ともなると,雑草もかなり繁茂し始めている.ここから先,どんな道が待っているんだろうかと少々不安になる.
 草道に入る.ところが意外に歩き易い道が連続する.ただ,上りの勾配はそれなりに強くなる.上り坂の草道が大きく左に曲がる.その曲がりを登りきると,進行方向左側に広々とした水田が広がる.水面には辺りの風景が映っている.水田の向こうに,幾重にも重なった山脈が見えている.実に広々とした気持ちのよう風景である.
 勿論,ここで風景を眺めるために,立ち休憩である.
 
<ここから草道>                             <水田の向こうに幾重にも重なる山脈が見える>

■うつつの清水跡
 水田の脇を通過すると,今度は大きく右にカーブする登り坂になる.この坂道を数分登ると,右側の路肩に立っている白い看板が目に付く.
 ”一体何だろう…”
と思いながら,13時30分,この白い看板に到着する.
 どうやら.この看板のすぐ下に,うつつの清水という旧跡があるらしい.
 “よし,行ってみよう…”
 私が率先して,路肩の草を掻き分けて,谷筋を覗いてみる.すると,そこに木枠で囲まれた湧水がある.湧水に手をかざしてみる.それほど冷たいというわけでもないが,気持ちがよい.
 「…ここに湧き水がありますよ…」
と仲間に”おいで,おいで…”をする.
 先ほどの白い看板の記事によると,この泉は弘法大師が掘ったという伝説があり,古来より神秘の水として尊重されていたという.この地域の方々は,お盆になると,この水を組み替えって,盆棚に供えていた.
 資料2(p.417)には,「江戸の中頃,ある旅人が善光寺参りの途中で,この清水を飲んで美味に喜んだが,数年後に重病となった.その夢うつつの中でこの清水が飲みたいと言い続けたので,娘が旅に出て清水を持ち帰ったところ喜んでこれを飲み,まもなく息を引き取った.それから「うつつの清水」と呼ぶようになった」という説明がある.
 
<うつつの清水入口>                           <うつつの清水>

■水留め石と一里塚
 なお,同じ看板の記事によると,大正時代までは,現在の源泉から東へ約50メートルはなれたところに源泉があって,そこから竹筒を繋いで,岩井堂観音堂まで引水していたという.
 同じ看板の記事によると,ここは善光寺西街道の立峠登り口にある一里塚跡でもある.この付近には,大正時代まで茶屋もあったようである.

<いよいよ険しい立峠>

■馬頭観音
 13時25分,うつつの清水での休憩を終える.美しいお花畑を眺めながら坂道を登り続ける.
 13時30分,馬頭観音の脇を通過する.馬頭観音脇の案内によると,この馬頭観音は善光寺街道中(西街道のことか?)一番大きくて美しい像だという.なお,立峠は善光寺街道では最大の難所で,旅をする人も馬も大変難儀したと書いてある.
 この案内分を見ながら,
 “オレ達も苦労するわけだな…”
と妙な納得をする.
 本音を小さな声でいえば,塔ノ岳登山とは到底比較にならないほど楽である.
 
<お花畑が連続する>                            <街道一の馬頭観音>

■立峠登山口
 馬頭観音前でいくつかの山道が交差する.
 念には念を入れて,どの道を登るかをチェックする.気の早い人が,
 「こっちに道標がありますよ…」
と言っている.
 “そんなこと分かっているよ,でも分岐では必ず確かめなければ…”
 私は磁石を借りて,行きたい方向と合致しているかを確かめてから,ここを登りましょうと決める.ここからは急坂の登りになる.
 私は内心で,
 “やっと山らしくなってきたな…”
とほくそ笑んでいる.
 入口には確かに「立峠登山口」と書いてある白い杭が立っている.
 
<立峠登山口>                              <登山口を示す白い杭>

■やっと山らしくなる
 登山口から先はさすがに山道らしくなる.
 右膝の故障のために暫く山から遠ざかっていた私は,山道に入ると嬉しくて仕方がない.一行の皆様などこの場にほったらかして,思いっきり高速で登りたいなという衝動に駆り立てられるのを抑えに抑えて,一番足の遅い方の顔色を見ながら登り続ける.
 少しでも呼吸が乱れたり,垂れ流すような汗をかいていたら,すぐに立ち止まって深呼吸である.そして,
 「ユックリ歩いて下さい…」
を連呼する.
 (こう書くとエラソーに聞こえそうで躊躇するが,1人でも落伍者が出たら大変.ついつい要らぬお節介をしてしまう.)
 暫くの間.ジグザグ道が連続する.
 ”こういう道,実に良いな…”

<やっと山らしくなる>

<道標に励まされながら…>

■まずは1000メートル杭
 13時36分,山頂まで1000メートルの杭を通過する.
 後ろの方から,
 「…まだ1000メートルもあるの…」
と悲鳴に近い声が聞こえてくる.
 それらさらに大分歩いたところで,13時45分,次の500メートル杭を通過する.つまり,9分掛けて500メートル歩いたことになる.時速に換算すれば約3キロメートル/時である.まあままあの速度である.
 
<山頂まで1000メートル杭>                      <山頂まで500メートル杭>

■続いて300メートル杭とすぐそこ杭
 13時54分,山頂まで300メートル杭を通過する.
 この辺りで1~2名の方が少々疲労している様子である.お一人のリュックを,元気そうな方に持って貰ってから,ごくごくユックリ着実ペースで登り続ける.
 14時丁度に,「峠までもう少し」と書いてある杭を通過する.
 後ろの方から,
 「本当にもう少しなの…」
と言っている声が聞こえる.
 
<あと300メートル杭>                           <峠までもう少し杭>

■いよいの立峠
 すぐそこ杭の直ぐ側に案内杭が立っている.その案内杭のすぐ先が本日のハイライトである立峠である.
 14時05分,無事,立峠に到着する.心の中で“万歳”.
 バス停大門から山頂までの水平歩行距離は約6.5キロメートル.大門を歩き出したのが,10時38分.したがって,休憩時間込みで,大門から立峠までの所要時間は3時間27分(3.45h)である.
 したがって,水平歩行速度は,
     6.5km/3.45h=1.88km/h
ということになる.われわれのグループとしてはなかなかの好成績である.したがって,高齢者ばかりではあるが,当グループの実力をちょっぴり見直すことにしよう.
 
<立峠すぐそこの案内板>                        <立峠だ>

<立峠でユックリ休憩>

■まずは記念写真
 折角,全員無事に立峠までのぼったので,まずは記念写真を撮ることにする.シャッターを押す人を変えて2枚の写真を撮ったので,パソコンを使って2枚の写真を合成すれば全員が写っている写真ができるが,面倒なのでまだやっていない.したがって,この写真には参加者の1人が写っていない.はて? だれが写っていないんだろう.
 この写真からも分かると思うが,立峠という難所を登ってきたのに,みな元気である.
 内心で私は,
 “この分だと,ここから先の下りも問題なさそうだな…”
と思っている.

<立峠で集合写真>

■峠でノンビリ休憩
 私は時計を眺めながら,これから先の下りでどの程度時間を見ておいたらいいかを,頭の中で考える.地図から判断して,本日の終点乱橋公会堂へ,16時頃には十分に余裕を持って下山できそうである.
 そこで,皆さんに,
 「立峠でユックリ大休止しましょう…」
と提案する.
 私達は広場にリュックを下ろして,ノンビリと休憩を取る.ただ,ここには残念ながらベンチのような類は一切ないので,なんとも落ち着かない.

<立峠の広場で休憩>

■立峠からの眺望
 立峠からの眺望は,予想していたほどには開けていないが,北の方角だけ遠くの山賀見えてる.早速,デジカメにこの風景を収めるが,見えている山がどこなのかはあまりハッキリ分からない.でも,多分,今回3日目に訪れる聖山ではないかと思う.
 足元には,これから下る乱橋間ノ宿がある筈だが,ここからは谷間の陰になってしまい全く見えない.

<立場峠からの眺望>

■立場茶屋跡と唐鳥屋城跡
 山頂の広場の片隅に案内板が立っている.
 この案内板の説明によると,立峠の頂上にかつては4軒の茶屋があったようである.また,前方に見えている山の向こうが善光寺平のようである.昔,旅人は,まずはここで一服して,あの山を越えれば善光寺だと思ったことだろう.4軒の茶屋の中で一番大きな茶屋は「みたらしや」という名前だったらしい.資料1によると,芭蕉の『更級日記』に「四十八曲がりかどや」と記されているようである.
 この近くにあった唐鳥屋城趾についても説明文がある.この城を建てたのは藤沢大道という人物.寛元2年(1244年)に築城したという.藤沢大道は,小県の海野氏の一族であった.また海野氏は木曾義仲の四天王の一人.城は長さ13間,横3.5間,南向だった.天文年間に小笠原氏に滅ぼされたとのこと.
 立峠山頂はどうやら唐鳥屋城趾でもあるようだ.
 ここに出てくる小県の海野は,秋に予定している善光寺街道歩きで訪れる予定の所である.
   
<立場茶屋跡>                               <唐鳥屋城跡>

[参考資料]
資料1;完全踏査海道マップシリーズ『ちゃんと歩ける善光寺街道』五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料3;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BA_(%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%B8%82

                                       (つづく)
続きの記事

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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/e1de1c6becb5cd7ba9be9f46eda6d54a

善光寺西街道」の目次
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「善光寺西街道」の索引
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