中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
最初に左下の“カテゴリー”を選んで,クリックして下さい.

奥州街道(白河の道);第2回;1日目(4);雨の氏家宿

2017年05月15日 06時15分32秒 | 奥州街道

                                   <光明寺の不動明王

     奥州街道(白河の道);第2回;1日目(4);雨の氏家宿
             (クラブツーリズム)
       2017年4月22日(土)~23日(日)

1日目;2017年4月22日(土)  (つづき)

前の記事
  ↓
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/2e153ec72b31ce6ecde41ac6d3a1a83c

<ルート地図>

氏家宿

←クリック拡大

■氏家宿詳細図

←クリック拡大

<雨の中の氏家宿へ>

■やっぱり歩き続けるの?
 相変わらず雨が降り続いている.
 無情にも(?),講師は雨にもかかわらず,
 「…さあ,歩きましょう…」
と私たちを促す.
 私たちは雨具を着たまま,14時35分,駐車場から歩き出す.

<雨の中,駐車場から歩き出す>

■村境のお伊勢の森
 降りしきる雨の中をトボトボと歩き続ける.寒い!
 道路の側溝を豊富な水が流れている.綺麗に舗装されている道だが,今は枝道らしく自動車の往来は全くなく,一面に田圃が広がっている.田圃の合間に住宅がポツポツと建ち並んでいる.
 やがて,「お伊勢の森」の案内板の前に到着する.
 私は,案内板に到着した時刻をノートに書き込みたかったが,降りしきる雨のために時計を見る気にもならない.仮に時計を見たにしても雨の中でノートにメモを取る気にもならない.
 ”まあ,目の等どうでも良いか…”
ということで,案内板の前で左折する,左折した道は畦道をちょっとよくした程度の土道である.この土道を100メートルほど進んだ右側にこんもりとした森がある,その森の手前に小さな石祠が祀られている.
 14時45分,石祠の前に到着する.天照大神が祭神である.
 講師の説明によると,この森が「お伊勢様の森」といわれるところのようである.
 資料1(p.9)によると,ここには「明治41年(1908年)に建てられた天照大神の碑がある.ここは村境として氏家宿を発つ旅人を見送り,出向えの場所であった.願掛けに伊勢に旅立つ夫を見送り.出迎えた後に,無事子どもを授かったので,この地に伊勢神宮を祀ったという伝説がある」という.


<お伊勢の森>

■野趣豊かな雨の道
 14時49分,往路を戻って,再び「お伊勢の森」の案内板が立っている場所に戻る.ここで左折して,奥州街道の続きを歩く.
 傘を差したまま,カメラを出して,案内板の写真を撮ったり,メモに時間を記録をしているうちに,またもやグループの最後尾になってしまう.みじめだ.
 進行方向左手は広々とした田畑が広がっている.平素,平地が殆どない鎌倉に住んでいる私は,こんな広々とした風景をとても羨ましいなと思いながら歩き続ける.

<お伊勢の森の案内板>

■旧奥州街道踏切
 14時54分,旧奥州街道踏切を渡る.
 丁度このとき,踏切の警報が鳴り出す.
 ”あっ! 電車が来るぞ!”
 私は雨が降っているにもかかわらず,この電車の写真を撮るためにカメラを構える.
 私は,旅先で出会った電車とネコの写真は必ず撮ることにしている,「なぜ?」と聞かれると返答に窮するが,要するに撮ることにしているとしか答えようがない.
 電車の写真を撮っている間に,私は,またまた一行より100メートルほど遅れてしまう.でも,そこは良くしたもので,私は平素から週1回のペースで塔ノ岳詣でを繰り返しているので,一般の方に比較すれば,結構,速歩に耐えられる.難なく一向に追い付く.

<東北本線の電車>

■見渡す限りの水田
 踏切を渡ってからも,暫くの間,広々とした田園風景が続く.何時の間にか,どうやら雨も小降りになったようである.
 田植え間近の水田を眺めながら歩くのも乙なものである.
 私は後ろを振り向いて,今歩いてきた道の写真を撮る.偶然,添乗員の女性が写真に入っている.

<水田が広がる>

<いよいよ氏家宿>

■地蔵と馬頭観音

 15時02分,自動車道路に突き当たる.突き当たりの右側に「お伊勢の森 川原石塔婆群」と書いてある案内杭が立っている.
 その道標に並んで地蔵が祀られている.地蔵はちょっと日焼けした赤い帽子と涎掛けを纏っている.地蔵の隣には大きな石の馬頭観音が立っている.
 突き当たりを左折して自動車道を北の方向に歩き始める.
 氏家宿の中心部まで後僅かである.

<老いの森,川原石地蔵群の案内杭>

■河原石塔婆群
 16時07分,川原石塔婆群に到着する.詳細は,少々見にくいが,下の写真の通りである.
 なお,資料1(p.11)には,川原石塔婆群は市指定文化財で「6基並んでいる.主に南北朝時代に制作された石の供養塔である.当時は埼玉県秩父地方産の青石で板碑(供養塔)をつくったが,さくら市のでは軽視は同じで,自然石を使っているのが珍しい」という主旨の説明文が掲載されている.


<川原石塔婆群>

■寛方・ダゴール平和公園
 15時21分,寛方・ダコール平和公園に到着する.ここでトイレ休憩.
 資料1(p.12)によれば,「ここは日本美術院で活躍した画家荒井寛方」の生家跡.現在はノーベル文学賞を受賞したインドの詩人ダコールとの交流も祈念する公園」とのこと.また,「公園入口のモニュメントはダコールが寛方と分かれるときに贈った詩が刻まれている」.
 雨で憂鬱な私は,ただただ早く本日の目的地に到着することばかり願っていた.そのために,このモニュメントには気が付かなかった.帰宅後,資料を読み返す内に,ここにこのようなモニュメントがあったことを初めて知る.
 こういうのを後の祭りという(この紀行文には何回も後の祭りが出てくるが…困ったものだ).
 資料2には,荒井寛方について,次のような説明がある.
 「
父・藤吉は素雲と号し、滝和亭に師事して南画を学んでいた。明治32年(1899年)瀧和亭の勧めで水野年方に入門した。翌年、年方から「寛方」の号を与えられ、同門の四天王の一人と称される。明治34年(1901年)第10回日本絵画協会共進会に風俗画「温和」を出品し、2等褒状を受け、以後同会で受賞を重ねる。翌35年(1902年)国華社へ入社、同社出版の古美術雑誌『国華』で掲載する木製複製図版用に、仏画模写の仕事を通じて画家として修練を積んだ。第一回文展に「菩提樹下」が入選し、第二回から第四回展まで連続受賞。
 大正3年
(1914年)再興第一回院展で「暮れゆく秋」(さくら市ミュージアム蔵)を出品し、院友となる。翌年、第二回展の「乳糜供養」では、スジャータが粥を釈迦に捧げる場面を描いて、院の東洋主義的理想とも合致し、同人に推される。以後は院展で活躍した。大正5年(1916年)詩人のラビンドラナードダコールに招かれて、ビチットラ美術学校の絵画教授としてインドに渡り、アジャンダー石窟群の壁画などを模写。大正7年(1918年)帰国後は、仏教関連に多く題材を得て院展を中心に作品を発表、「仏画の寛方」と呼ばれ、大正期院展の傾向であるインド的趣向の代表者として認められた。
 
大正13年(1924年)から翌年にかけて、中国を訪問。この頃から画風が変わり、伝統的な日本の古典に取材するようになる。大正15年(1926年)、渡欧しローマの遺跡などを訪問。昭和15年(1940年)から法隆寺金堂壁画の模写事業の主任画家に選ばれ、春秋は斑鳩の里の阿彌陀院に住み模写に力を注いだが、昭和20年福島県郡山駅で急逝し、完成を見ることはなかった。」(以上コピペ;一部省略)
 15時28分,トイレ休憩を終えて,寛方・ダコール記念公園を出発する.


<寛方・ダコール平和公園>

<西導寺>

■西導寺参道
 寛方・ダコール平和公園から歩き出した私たちは,仲町の広い通りの左側を一列になってひたすら歩き続ける.雨は小降りにはなったものの,相変わらず降り続いている.
 ”しつこい雨だな…全く嫌になるな”
 私は口には出さないが,しつこい雨に頭の中で愚痴を繰り返しながら,ひたすら前を歩き人に付いて歩き続ける.
 15時35分,電信柱に「穀町」という案内板のあるところで,突然左折する.ここが西導寺参道の入口である.どうやら山号は塩谷山というらしい.
 参道は狭い路地風で,道路の両側には生活臭のある住宅がビッシリと建っている.

<西導寺参道>

■西導寺本堂
 15時35分,西導寺本堂前に到着する.広々とした境内に立派な本堂が建っている.
 資料1(p.12)によれば,ここは氏家氏の菩提寺である.最初は真言宗の寺だったが,改宗して現在は浄土宗の寺になっている.境内には室町時代作の宝冠釈迦如来像,大型の五輪塔,永野万右衛門(江戸時代の名工)が手がけた本堂など多数の市指定文化財があるという.
 講師から細かい説明を受ける.なかなか頭には入らないが,概要は資料1に記載されたものと一緒である.
 雑談の中で,本堂の中に吊り下げられている天蓋とシャンデリアはルーツが同じという話は印象的であった.


<西導寺>


■榧(かや)の巨木
 講師が,
 「…あちらに大きなカヤの木がありますので,見に行きましょう…

と一行を誘う.
 本堂右手の奥に「氏家町天然記念ぶる榧」と書いてある白い杭が立っている.浅学な私には「榧」という字は,とてもではないが読めない.
 草木のことに疎い私には,この木の価値は全く分からないが,とにかく写真だけは写しておく.

<カヤの巨木>

<十六夜塔と蔦地蔵>

■十六夜塔
 15時43分,西導寺の参拝見学を終える.そして,再び元の道に戻る.
 5分程歩いて,15時48分,つた地蔵に到着する.つた地蔵の入口近くに,大きな十六夜塔が立っている.あまりに立派な石塔なので思わず写真を撮る.
 資料3によれば,
 「
月待行事とは、十五夜,十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事である。
 
文献史料からは室町時代から確認され、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行した。板碑としては埼玉県富士見市の嘉吉3年(1441)のものを初見とする。
 特に普及したのが二十三夜に集まる二十三夜行事で、二十三夜講に集まった人々の建てた二十三夜塔は全国の路傍などに広くみられる。十五夜塔も多い。群馬・栃木には「三日月さま」の塔も分布しており、集まる月齢に関しては地域的な片寄りもみられる。」(以上コピペ)

<十六夜塔>

■蔦地蔵
 資料1(p.12)によれば,「この地蔵は鎌倉時代の作.石造地蔵菩薩坐像という.
 氏家氏の主君宇都宮氏と藤原定家が縁戚でもあるため,定家の顔を写した定家地蔵とも伝えられる.蔦が絡まる場所を好んだという伝説と藤原定家と式子内親王の悲恋,定家蔦伝説も混ざって蔦地蔵になったと推察される」という.


<蔦地蔵>

<光明寺からさくら市役所へ>

■巨大な不動明王
 15時51分,蔦地蔵から一旦西導寺前に戻る.そして,15時15分,光明寺に到着する.
 山門の向こうに一際目立つ青銅造不動明王坐像(栃木県指定文化財)が見える(冒頭の写真).
 この寺は宝暦8年(1789年)に宇都宮藩の御用鋳物師戸室卯兵衛によって鋳造されたという(資料1(p.12)).


<光明寺>

■市街地図で現在地を確かめる
 光明寺入口に市街地図が設置されている.地図の中で「現在地」を探す.
 ”なるほど,私たちはここに居るのか…”
と納得する.
 雨の中,ろくに地図も見ないで,講師の後を追って歩いていた私には,一体何処を歩いているのか検討が付かず,気色が悪かったが,この地図を見て”なるほど,こう言うところを歩いていたのか”とスッキリする.


←クリック拡大

■第1日目の終点;さくら市役所
 16時05分,さくら市役所前の広場に到着する.ここが第2回1日目の終着点である.私たちは,ここで専用車の到着を待つ.雨は何時の間にか止んでいる
 16時11分,専用車が到着する.早速専用車に乗り込む.
 ”雨の中の初日がやっと終わったな…”
 後は本日の宿泊ホテル「ルートイン宇都宮」までドライブするだけである.


<さくら市役所前で専用車に乗車>
                                      (つづく)
[参考資料]
資料1;さくら市教育委員会(編),2012,『歴史あそびBOOK2さくら市の奥州街道お出かけハンドブック』さくら市
資料2;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E4%BA%95%E5%AF%9B%E6%96%B9
資料3;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%BE%85%E5%A1%94

つづきの記事
  ↓
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/2bc849af173985df85775c082d1f241e

「奥州街道」の目次
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/55f1b2dce2470adc0fd0bd872352e0d7
「奥州街道」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/4c195cfa3f795ede28aa0764b57a5db3

お断り;
 これらの記事は,私の趣味仲間を読者対象としたものであり,一般の読者を対象としていません,したがって,まったく個人的なものです.また十分に時間を掛けて編集していませんので,記事は正確とは言えないし,誤字脱字転換ミスも多々あると思います.このことを前提にしてご覧下さい.
 また,当ブログ記事を読んで,不快になられた方は,以後,当ブログへアクセスされないようにお願い致します.

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。