<大泉寺>
[改訂版] 歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第2日目(2):安中城趾旧邸地区
(五十三次洛遊会)
2012年10月12日(金)~14日(日)
※本稿の初出は2012年10月24日である.
初稿に地図を追加し,本文の加除修正を行った.
2012年10月13日(土) (つづき)
<ルート地図> (再掲)
<安中宿地図(東側)> (再掲)
<熊野神社界隈>
■熊野神社
西広寺の見学を終えた私達は,さらに北へ向かう.
8時53分,熊野神社に到着する.広い境内の奥に立派な社殿がある.社殿前の両脇に,少々変わった形の狛犬(?)が向かい合った位置に置かれている.
神社の傍らに立っている案内板の記事によると,「熊野神社は,明治以前は熊野大権現と呼ばれていたが,明治初期の廃仏棄釈により熊野神社となり,近郊の総鎮守となった.その起源は永禄2年(1559年)に安中越前守忠政が安中城を構築したとき,ここに熊野三社を勧請し,安中城の鬼門の守護神としたのが始まりといわれる.以後,安中藩歴代城主厚く信仰し,また,安中城下の総鎮守として地域住民の尊崇を集めた.社殿指図絵,祭典絵巻,絵馬,唐金吊灯籠が市の重要文化財に指定されている.
社殿は,本殿,幣殿,拝殿からなる.本殿は切妻造妻入,桁行3間,梁間2間の大きさで,前面に千鳥破風をつけ,そこから向拝に流れ屋根をかけた春日造りに似た造りとなっている.この本殿の七面の羽目板に鳳凰らしい鳥を中心に,梅,楓などの樹木や霞様の雲を廃した彫刻を施している.
室町時代で,淡雅であり,手法は古拙な写実を特色としている,また,拝殿は,入母屋造平入り,桁行3間,梁間2間で,向拝に向唐破風を出している.」
私には,難しいことは分からないが,説明文を読んで,なるほどそういうことかと思いながら参拝する.
<熊野神社>
■熊野神社の大欅
熊野神社の境内に大木は欅(けやき)の木がある.
傍らの案内板によると,この欅は「板倉勝明(1809~1857年)が編集した「安中誌」の熊野神社の項に「大榎(欅の誤り)社地にある,中うろにして近郷に珍しき大木なり」とある.元は野郷の鎮守であった諏訪社のご神木で,樹齢は推定で1000年という.これを祈願するとイボが撮れる霊験があるといわれた.現在は,落雷により樹身の3分の2が崩れ落ち,残る3分の1が北東に傾いてしまったので鉄柱で支え補強している」.
<熊野神社の大欅>
■安中城東門跡
熊野神社の直ぐ近くの登り坂を少し登ったところに「安中城東門跡」と書いてある案内杭が立っている.近くには石垣が見えるだけで,遺構らしいものは何もない.まあ,この辺りに門があったんだろなと勝手に想像する.
さらに上の方まで坂道が続いているが,手許の地図で見る限り,坂の先へ行っても,これといった遺構や社寺をなさそうである.そこで,地図を片手に坂道を適当に下ることにする.
<安中城東門遺構>
<西広寺墓地から大泉寺へ>
■柏木義圓の墓
安中城東門跡近くの入口から,再び西広寺境内に入る.そして,9時01分.柏木義圓の墓に到着する.案内板の説明によると柏木義圓は「非戦の先覚者」とのことである.
資料7によれば,柏木義圓は「1860年、越後国与板藩の浄土宗西光寺の住職の家に生まれる。1878年東京師範学校(東京教育大学学、筑波大学の前身)を卒業した後、小学校教員として働く。1884年に群馬県下の小学校在職中、安中教会で海老名弾正に影響を受けて入信、海老名より洗礼を受ける。その後、同志社で学び、新島襄に薫陶を受ける。1889年同志社を卒業する。同志社予備校、熊本英語学校、熊本英語女学校の教職を務めた後に、1893年に、『同志社文学』の編集に従事、井上哲次郎の国家主義および教育勅語を批判する。
1897年に日本組合基督教会安中教会牧師になる。1898年より『上毛教界月報』を創刊し、安中で地域伝道と政治・社会批判運動を活発に展開した。
足尾鉱毒事件、廃娼運動、未解放問題、朝鮮人虐殺事件問題など時代批判を幅広く行った。日露戦争以降は、一貫して非戦を主張した。1910年の日韓併合後の、日本組合基督教会による渡瀬常吉らの植民地伝道を批判した。1912年の、内務省による三教会同を内村鑑三らと共に批判した。満州事変の際には軍部批判を行ったため月報が発禁処分になる。1935年、安中教会牧師を引退する。」
<柏木義圓之墓>
■井伊直政正室・井伊直好生母の墓
西広寺墓地の中を南に進む.どこが寺の境目か良く分からないうちに大泉寺の墓地に入ったようだ.すぐに井伊直政正室・井伊直好生母の墓を見付ける.大きくて立派な五輪塔である.
私は素人なので,間違ったことを言っているかも知れないが.この五輪塔の姿形が,平素鎌倉で見ている五輪塔と少し違っているような気がしてならない.一番違うように思えるのが,下から2番目の「水」を表す球形の石の形である.鎌倉でよく見掛ける五輪塔の「水」の石は,もう少しまん丸な球の形をしているようである.また,「水」を表す石の大きさに比較して,その上に乗っている「火」と「空・風」を表す石が全体のバランスから見て,鎌倉のものに比較して,どうも大きいような気がする.
でも,これは私の思い過ごしかも知れないし,間違っているのかも知れない.まあ,それはともかく,素晴らしく立派な五輪塔を見て,私は大満足である.
<井伊直政正室の墓>
■井伊直政の系譜
井伊直政正室の墓の傍に,井伊直政の系譜を示す案内板が置かれている.この案内板を見ると,井伊直政と直好の関係が良く分かる.
この系統図を見ると,井伊直好の生母は側室だったようである.
<井伊直政の系譜>
■大泉寺
9時07分,浦野墓地を経由して大泉寺本堂の前に到着する.
まだ建立されてからそれほど年月が経っていないと思われる立派な建物である.
資料8には,「何度か火災により焼失、再建を繰り返したことで記録なども失い詳細な由来は不詳ですが創建は文安年間(1444~1449)、圓茂大和尚により開山したのが始まりと伝えられています。明治元年に山門を残して堂宇が焼失、近年になり本堂が再建されました。境内には井伊直政の正室で安中藩初代藩主井伊直勝の母親の墓があり安中市指定史跡に指定されています。 」という説明がある.
<大泉寺本堂>
<大泉寺山門>
<再び中山道に沿って>
■安中本陣跡
大泉寺から坂道を下って,再び中山道に出る.
9時12分,安中郵便局に到着する.局の入口には,赤い布地に白抜きの字で「年賀はがき」と書いた幟が立ててある.もうそろそろ年賀はがきのシーズンかと思うと,今年ももう少しで終わりになるなと焦りに似た感情が湧いてくる.
ここの郵便局の位置に,かつての安中宿本陣があったという.栄枯盛衰,今は本陣を偲ぶよすがもない.
インターネットを使って,安中本陣の資料を探したが,今のところ,これといった資料は見当たらない.
<安中郵便局;本陣跡>
■再びお祭りの山車
9時14分,再び祭りの山車を見掛ける.法被(はっぴ)を着た高校生ぐらいの女の子が山車の前で楽しそうに話をしている.
先ほど見掛けた山車とデザインは違うようだが,ここの山車にも伝馬町と書いた提灯が山車の両側に取り付けられている.
<お祭りの山車>
<再び安中城趾へ>
■旧碓氷郡役所
再び坂道を登る.9時17分,坂の突き当たりにある旧碓氷郡役所に到着する.木造白壁の優雅な建物が建っている.入母屋の屋根瓦の建物にはある種の気品の良さを肌で感じる.
建物の中では,折から「宏影会水墨画展」が開催されている.会場は土足禁止.紐結びの登山靴を履いている私は,靴紐を解くのが面倒なので,展覧会をミルのを諦める.
何人かが中に入るというので,その方にカメラを託して,会場の雰囲気を撮るように依頼する.数枚の写真を撮って貰ったが,会の許可を得ていないので,ここで披露するのは止めておこう.
資料9には,「明治11年(1878),郡区町村編成法の公布により群馬県では17の郡が設置され,郡役所は旧安中宿本陣に置かれ,約10年後の明治21年に旧安中城内町口門北側に位置する現在の場所に新築された.郡役所の新築から約22年後(明治43年9月20日)に,碓氷郡役所は原因不明の火災によって焼失してしまったが,明治44年,現在も残る旧碓氷郡役所が建設された.」という説明がある.
<旧碓氷郡役所>
■安中教会
旧碓氷郡役所から道路を挟んで西隣に安中教会がある.
資料5によると,ここは群馬県で最初に建てられた教会である.また,日本で最初に日本人によって創立された教会であり,有形文化財に登録されている.
安中教会の初代牧師は海老名弾正.彼は碓氷峠道(現在の碓氷峠旧道)の建設にかかわっていた.また気性の激しい馬車鉄道の人夫を相手に熱心にキリスト教を布教した人物として有名だという.
残念ながら,私達のような一見(いちげん)の旅人では,教会の内部を見学することができないようである.
「教会って・・・誰でも受け入れるんじゃなかったのか・・」
と私一人で心の中で憤慨している.
<安中教会>
■大名小路
旧碓氷峠役場や安中教会の前を東西に走る道のことを大名小路と呼ぶようである.
この大名小路を,もう少し西へ歩くと郡奉行役宅,武家長屋などの文化材が残っているようである.
<大名小路>
■郡奉行役宅
9時33分,郡奉行役宅に到着する.安中誌の指定重要文化財である.
傍らにある案内板の説明によると,茅葺きの純和風の建物で,気品が漂っている.ここは旧安中藩奉行役宅で,幕末から明治初期にかけて,猪狩幾右衛門懐忠という人物が安中藩の奉行として住んでいたという.
建物の中を見学するには,一寸高い見学料が要る.
「・・・ちと,高いな.見学は止めようか・・・」
ということで,外から建物を見学するだけに止める.
<郡奉行役宅>
■武家長屋
郡奉行役宅脇の十字路を渡る.十字路を挟んで武家長屋が保存されている.ここも気品の高い立派な建物である.勿論,純和風.
先ほどケチった見学料を支払えば,こちらの建物の中も見学できることを,ここに来て始めて分かった.
「なんだ,そうだったんか・・・ん,なら,見学料を支払って,中を拝見すれば好かったな・・・」
と思ったが,後の祭り.
でも庭園は拝見できる.広い庭の奥には一寸した坪庭がある.庭を眺めながら,家屋の中をのぞき見する.
<武家長屋>
■妙高寺
9時51分,武家長屋の西側にある久光山妙高寺というお寺に到着する.手許の資料では,この寺が新島弁治と雙六の墓があるという以外,この寺の由来などは不明.
なお,新島弁治は新島襄の祖父.雙六は文献に出てくる双六のことかな? だとすると,新島襄の弟ということになる
<妙光寺>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;安中市産業部商工観光課,発行年代未詳,「旧道日和(パンフレット)」安中市観光協会
資料6;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AD%90%E5%A0%82
資料7;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E6%9C%A8%E7%BE%A9%E5%86%86
資料8;http://guntabi.web.fc2.com/annaka/daisen.html
資料9;http://www.webgunma.com/429/
[加除修正]
2013/3/27 ルート地図の追加と本文の加除修正を行った.
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d7d6a6f5f2188df146bddcda920f7b42
「中山道六十九宿」第6回目の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d07a6d75e3b121bf37c6d9c3f955e08d
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a181898a3f1ac0cb951e0df3dd63c85b
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e
※記事の正確さは全く保証しません.
この記事は,あくまで,個人的趣味.仲間達と情報を共有することを目的としています.第三者の方々を読者の対象とはしていません.
誤字,脱字,転換ミス,引用ミスなどあって当然ということでご覧下さい.ご不快に思われる方は,当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.