<皇居お堀端の道を行く>
甲州道中四十五宿(1):第1回(1):日本橋から新宿御苑まで[改訂版]
(小田急トラベル)
2010年5月8日(土) (つづき)
<行程地図(1)>
<日本橋から皇居お堀端を巡る>
■日本橋から歩き出す
10時17分,私たち15名は,甲州道中四十五宿の出発点日本橋を出発する.いよいよ,歩いて巡る甲州街道の旅が始まる.天候も暑くなく寒くなく絶好のハイキング日和である.
日本橋の南西角から直ぐに右折して西へ進む.そして,先ほど集合した東京駅日本橋口の前を通過して,皇居を目指して歩く.大手町で左折して,お堀端の道を南下する.やがて東京駅前の広い道路を横断する.すぐに,二重橋前の東京駅に通じる広場のような道路を横断する.
戦時中育ちの私は,この辺りを訪れると,言いしれぬ緊張感に襲われる.あの終戦の日,暑い最中に「玉音放送」を直立不動で聞いたときのことを,嫌でも思い出す.
10時50分,馬場先門に到着する.日射しが強くて,やや暑い.ここで一休み.
■日比谷見附跡
11時06分,休憩を終えて,馬場先門から再び歩き出す.
日比谷交差点で右折する.ここには戦後暫くの間米軍のGHQがあったところである.マッカーサーにまつわる様々なことが,どうしても頭の中に過ぎってくる.そして,戦争末期から戦後の混沌とした時代のことが私の頭の中でフラッシュバックする.古い言い回しで言えば,走馬燈のように思い出される.もっとも走馬燈などと言っても,もはや通じる人はほとんど居ないだろう.こんなことを連想しながら,
「・・ああ,俺も十分年を取ったな~ぁ・・・!」
と愕然.もう残り少ない人生なのに,こんな所をテクテクと歩いていて良いのだろうかと自問自答する.でもすぐに,何時ものように“まあ・・いいや,”で,割り切ることにする.
でも,・・でも,である.
戦争中に体験した忌まわしい記憶の数々を,自分の胸の内に仕舞ったまま公表せずに,あの世へ行ってしまっても良いのだろうか,思い出したくもない日々のことを後世に積極的に伝えるべきではないかと思うことしばしばである.そうすれば,幾ら不平不満を言っても,今の時代は,あの戦争中や戦争直後の時代に比較すれば,格段に素晴らしい時代だと分かって貰えるだろう・・・なんて,照れくさいことを歩きながら一生懸命考えている.でも,回りの方々には,私が何を考えているかは全く分からない.そこがまた,人生の綾として面白い.
お堀端の道は,歩いていても,とても気持ちがよい.今日は何か催し物があるのか,それとも,何時ものことなのか分からないが,沢山のランナーが走っている.何とも平和な情景である.
11時12分,日比谷見附跡を通過する.こんもりとした樹木の間に「日比谷見附跡」と書いた木杭と説明板が立っている.
傍らに江戸城の石垣が残っている.大きな石が巧妙に積み上げられている.まるで,ペルーのクスコの「12角の石」を彷彿とさせる.
<立派な石組み>
■桜田門
11時23分,桜田門に到着する.
長い間,サラリーマン時代に,丸の内の事務所まで通勤した経験があるが,桜田門を訪れるのは初めてである.随分と立派な門だなというのが第一印象である.まるで,テレビの「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」のセットに入り込んだような錯覚に陥る.今,目の前にある門が本物なのに,妙な気分である.
門の中に入れるようだが,今日は宿場巡りの途中なので,中に入る時間はない.門周辺にある案内杭や説明文にザッと目を通しただけで,すぐに歩き出す.
桜田門と言えば,例の事件「桜田門外の変」を思い出す.このとき井伊直弼を襲った水戸藩士の墓が鎌倉の上行寺にある.思わぬ所で鎌倉との関係を再認識する.
<外桜田門>
<外桜田門から桜田門を望む>
■三宅坂
11時37分,三宅坂に到着する.私が鎌倉に住んでいることを知っている同行者が,
「・・FHさん,ここが国道246号線の始点ですよ・・」
と教えてくれる.
ここは,広い道路が交差する騒々しい所である.
<国道246号線の始点>
<お堀端から新宿御苑へ>
■半蔵門
11時40分,重厚で威風堂々の建物の脇を通過する.最高裁判所である.
11時43分,半蔵門を通過する.この辺りから,お堀端を離れて,広い道に沿って西へ,西へと歩き続ける.四谷に近付くにつれて,だんだんと飲食店やお店が増え出す.そして人通りも多くなる.周辺には沢山のマンションが建っている.
<半蔵門>
<麹町の由来>
■四谷サンサン広場
「・・・四谷って言うからには,谷があるんでしょう.それに,一つ谷,二つ谷,三つ谷などという谷があるんでしょうか・・?」
と,ろくでもない質問をガイドにしてみる.
「さあ~・・,良く分かりません.そう言われると四谷は確かに谷になっているかもしれませんね・・」
とあやふやである.私は心の中で,
「下らない質問をしてゴメンナサイ・・」
という.
12時丁度に,JR四ッ谷駅前の四谷サンサン広場に到着する.誰かが,
「ここで昼食ですか?」
とガイドに質問する.
「いえ,もう少し先の新宿御苑で昼食の予定です」
<四谷サンサン広場>
■四谷見附跡
休憩時間を利用して,近くにある四谷見附跡を探してみる.駅前の広い通りを横切って,近くにある石垣の上に登ってみる.そこには何もない.もう一度石垣を降りて,石垣の周辺を見て回る.結局,どこが四谷見附跡かハッキリと分からない.
10分ほどの休憩のあと,裏道をクランク状に曲がって,甲州街道に出る.そのまま一路西へ向かう.
■四谷番所跡
12時42分,四谷番所跡を通過する.
道路端に大きな石碑が立っている.石碑に何かびっしりと書いてあるが,私には良く読めない・・が,まあとりあえずは写真だけ撮っておいて,跡からユックリ読もうと思う(5月23日現在,全く読んでいない).
一同,石碑の前で立ち止まって,写真を撮りあう.
<四谷番所跡>
■新宿御苑で昼食
12時45分,四谷大木戸と玉川上水番所跡の直ぐ先にある新宿御苑入口に到着する.ここで,昼休み.公園の中で自由昼食である.
私たちは入口近くの休憩所のベンチに座り込んで,思い思いに昼食を摂る.私は東京駅構内で購入した簡単な弁当で済ませる.昼食を食べながら,
「・・俺は何時もケチケチしているな・・」
と自分の貧乏性を嘆く.
<玉川上水番所跡説明板>
<新宿御苑に到着>
<簡素な昼食:これでいいのだ!>
(つづく)
「甲州道中四十五宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/4e4ab6f5b0cc0208148df75c1f1589eb
「甲州道中四十五宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/dc816b20318085eb15cba6d66244484e
甲州道中四十五宿(1):第1回(1):日本橋から新宿御苑まで[改訂版]
(小田急トラベル)
2010年5月8日(土) (つづき)
<行程地図(1)>
<日本橋から皇居お堀端を巡る>
■日本橋から歩き出す
10時17分,私たち15名は,甲州道中四十五宿の出発点日本橋を出発する.いよいよ,歩いて巡る甲州街道の旅が始まる.天候も暑くなく寒くなく絶好のハイキング日和である.
日本橋の南西角から直ぐに右折して西へ進む.そして,先ほど集合した東京駅日本橋口の前を通過して,皇居を目指して歩く.大手町で左折して,お堀端の道を南下する.やがて東京駅前の広い道路を横断する.すぐに,二重橋前の東京駅に通じる広場のような道路を横断する.
戦時中育ちの私は,この辺りを訪れると,言いしれぬ緊張感に襲われる.あの終戦の日,暑い最中に「玉音放送」を直立不動で聞いたときのことを,嫌でも思い出す.
10時50分,馬場先門に到着する.日射しが強くて,やや暑い.ここで一休み.
■日比谷見附跡
11時06分,休憩を終えて,馬場先門から再び歩き出す.
日比谷交差点で右折する.ここには戦後暫くの間米軍のGHQがあったところである.マッカーサーにまつわる様々なことが,どうしても頭の中に過ぎってくる.そして,戦争末期から戦後の混沌とした時代のことが私の頭の中でフラッシュバックする.古い言い回しで言えば,走馬燈のように思い出される.もっとも走馬燈などと言っても,もはや通じる人はほとんど居ないだろう.こんなことを連想しながら,
「・・ああ,俺も十分年を取ったな~ぁ・・・!」
と愕然.もう残り少ない人生なのに,こんな所をテクテクと歩いていて良いのだろうかと自問自答する.でもすぐに,何時ものように“まあ・・いいや,”で,割り切ることにする.
でも,・・でも,である.
戦争中に体験した忌まわしい記憶の数々を,自分の胸の内に仕舞ったまま公表せずに,あの世へ行ってしまっても良いのだろうか,思い出したくもない日々のことを後世に積極的に伝えるべきではないかと思うことしばしばである.そうすれば,幾ら不平不満を言っても,今の時代は,あの戦争中や戦争直後の時代に比較すれば,格段に素晴らしい時代だと分かって貰えるだろう・・・なんて,照れくさいことを歩きながら一生懸命考えている.でも,回りの方々には,私が何を考えているかは全く分からない.そこがまた,人生の綾として面白い.
お堀端の道は,歩いていても,とても気持ちがよい.今日は何か催し物があるのか,それとも,何時ものことなのか分からないが,沢山のランナーが走っている.何とも平和な情景である.
11時12分,日比谷見附跡を通過する.こんもりとした樹木の間に「日比谷見附跡」と書いた木杭と説明板が立っている.
傍らに江戸城の石垣が残っている.大きな石が巧妙に積み上げられている.まるで,ペルーのクスコの「12角の石」を彷彿とさせる.
<立派な石組み>
■桜田門
11時23分,桜田門に到着する.
長い間,サラリーマン時代に,丸の内の事務所まで通勤した経験があるが,桜田門を訪れるのは初めてである.随分と立派な門だなというのが第一印象である.まるで,テレビの「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」のセットに入り込んだような錯覚に陥る.今,目の前にある門が本物なのに,妙な気分である.
門の中に入れるようだが,今日は宿場巡りの途中なので,中に入る時間はない.門周辺にある案内杭や説明文にザッと目を通しただけで,すぐに歩き出す.
桜田門と言えば,例の事件「桜田門外の変」を思い出す.このとき井伊直弼を襲った水戸藩士の墓が鎌倉の上行寺にある.思わぬ所で鎌倉との関係を再認識する.
<外桜田門>
<外桜田門から桜田門を望む>
■三宅坂
11時37分,三宅坂に到着する.私が鎌倉に住んでいることを知っている同行者が,
「・・FHさん,ここが国道246号線の始点ですよ・・」
と教えてくれる.
ここは,広い道路が交差する騒々しい所である.
<国道246号線の始点>
<お堀端から新宿御苑へ>
■半蔵門
11時40分,重厚で威風堂々の建物の脇を通過する.最高裁判所である.
11時43分,半蔵門を通過する.この辺りから,お堀端を離れて,広い道に沿って西へ,西へと歩き続ける.四谷に近付くにつれて,だんだんと飲食店やお店が増え出す.そして人通りも多くなる.周辺には沢山のマンションが建っている.
<半蔵門>
<麹町の由来>
■四谷サンサン広場
「・・・四谷って言うからには,谷があるんでしょう.それに,一つ谷,二つ谷,三つ谷などという谷があるんでしょうか・・?」
と,ろくでもない質問をガイドにしてみる.
「さあ~・・,良く分かりません.そう言われると四谷は確かに谷になっているかもしれませんね・・」
とあやふやである.私は心の中で,
「下らない質問をしてゴメンナサイ・・」
という.
12時丁度に,JR四ッ谷駅前の四谷サンサン広場に到着する.誰かが,
「ここで昼食ですか?」
とガイドに質問する.
「いえ,もう少し先の新宿御苑で昼食の予定です」
<四谷サンサン広場>
■四谷見附跡
休憩時間を利用して,近くにある四谷見附跡を探してみる.駅前の広い通りを横切って,近くにある石垣の上に登ってみる.そこには何もない.もう一度石垣を降りて,石垣の周辺を見て回る.結局,どこが四谷見附跡かハッキリと分からない.
10分ほどの休憩のあと,裏道をクランク状に曲がって,甲州街道に出る.そのまま一路西へ向かう.
■四谷番所跡
12時42分,四谷番所跡を通過する.
道路端に大きな石碑が立っている.石碑に何かびっしりと書いてあるが,私には良く読めない・・が,まあとりあえずは写真だけ撮っておいて,跡からユックリ読もうと思う(5月23日現在,全く読んでいない).
一同,石碑の前で立ち止まって,写真を撮りあう.
<四谷番所跡>
■新宿御苑で昼食
12時45分,四谷大木戸と玉川上水番所跡の直ぐ先にある新宿御苑入口に到着する.ここで,昼休み.公園の中で自由昼食である.
私たちは入口近くの休憩所のベンチに座り込んで,思い思いに昼食を摂る.私は東京駅構内で購入した簡単な弁当で済ませる.昼食を食べながら,
「・・俺は何時もケチケチしているな・・」
と自分の貧乏性を嘆く.
<玉川上水番所跡説明板>
<新宿御苑に到着>
<簡素な昼食:これでいいのだ!>
(つづく)
「甲州道中四十五宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/4e4ab6f5b0cc0208148df75c1f1589eb
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