FMEN式雑記

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先輩たちの歩いた街

2025-02-26 23:17:47 | 古町・古道探訪
今日半ドンでなかいちでどうしても見たかったのが、これ。

 
昭和の秋田市写真展。

1960年代前半の秋田市内の写真をAIでカラーにした展覧会。
古街が大好きな自分が行きたくないわけがなく!見てきまして。
撮影禁止でパンフのみになりますが、先輩たちはこれで過ごしていたのかと。

とにかく商店街がすごいという。
道は舗装されてないけど。
あと若い人がたくさん写っている!

あと少しですが見たほうがはやいか。

ちなみにですが自分のときは勝手学芸員って感じな説明ばあさんがいてわかりやすかったです。

「柳原」という街

2024-10-09 21:47:37 | 古町・古道探訪
茨島環状線の話などででてくる「柳原経由」という言葉。
一体何がなんだかわからないという方もいるでしょう。

んで、柳原というのはどこなのか。

このへんである。
要するに太平川左岸の卸町、茨島、牛島あたりのこと。
しかし、柳原という名前はない。

実は、柳原は1990年に大字として消えている。
本名は柳原新田といい、全部を卸団地のある「卸町」に変えてしまった。
現在残るのは国道の交差点、古川添と後述するバスのみ。

ここも21世紀過ぎてからも柳原と書いてあったがいつのまにか卸町に。
だが、それ以上に柳原の印象が残るのがバスだった。
1978年に太平川の太平大橋が開通し、牛島からの県道が切り替わりした時にここを通るバスが設置。
国道に出て南部へ行く「柳原経由御野場線」。
これは住居表示や造成前は仁井田で終わる「柳原経由仁井田線」だった説も。
その「柳原経由」が令和になってもまだ生きており、市民から柳原の名前が忘れられてない。
最近はイオン秋田中央店経由など別な表記(大住線など)もあり消えないか気がかりだが。
ちなみに柳原というバス停は存在しなかった。

一方、古川添から国道を渡り新屋に行く路線は「卸センター経由新屋線」と柳原の名前はない。
ただし、市営時代は柳原経由御野場線と同じフォーマットの幕を用い、帰りは御野場線と同じ幕であったしたまに柳原経由と表記が出るなどもある。

別にこれで良かったようにも思うが、柳原新田御鷹野橋字道脇などというのがわかりにくいからか。
なんか京都の地名みたいであるが。
ただ柳原卸町n丁目とかでも良かったのではと。
古川添はラウンドワンがあるが、柳原可奈子がCMに出ていたためオオタニサンのドジャースみたいな効果も出来たはず。

ちなみにこの住居表示では太平川右岸も変わった。
サティのあるあたりは川尻町となんと川尻だったのだ!
これが楢山に変わった。
当時はサティすらなく衛生興業というし尿処理場があり、それが移転して一気に街が広がる。
サティ前は「若草団地」。

そして割を食って廃止になった名前が楢山御島町。
川口デイサービスセンター近辺のせまい街だったが、なぜか吸収され消えている。

南部生まれとしては「市内の入口」という都会の始まりのような場所だったのがこのあたり。
近くに越してきたし、もう少し勉強してみたい。

仁井田の架け橋を探して(第一次資料編)

2024-05-18 23:56:00 | 古町・古道探訪
仁井田地下道の話のつづき。
1982年3月30日に開通した仁井田地下道。

ここまででしらべたネタでは、さらに前は歩道橋の可能性があったと書いた。
Wikipediaにもあったし、確か前にどっかでもそんな資料や地図が。
コメントなども参考に、ひとつひとつ当たる。

☆秋田市史
コメントから秋田市史に全部の歩道橋が掲載とあり、しらべた。
1970年代後半の秋田市の歩道橋データです。
13号は牛島一本?
あとはぬかりがないみたい。
つまり、これは無かったとなるのか。
牛島は敷設の記事もある。

☆空から見た秋田
Wikipediaには「空から見た秋田」に写真がある!とあった。
前に見たがうろ覚え感もあり、やはり複写。カラー50円なり。

歩道橋は…?
無いじゃないか!
国道を広げる工事の最盛期。
↑の白い箱が地下道だろう。
それにしてもイエローラインが新鮮。
仁井田新田(今のローソン前)からあとはかなり先まで続いていたらしい。
ただ、横断歩道を塗っていた形跡が薄い?

☆ゼンリンを比較すると…?
※権利が厳しいから、コーポレートマークをつけてます。
次はあるオフ、土崎図書館でゼンリンに頼る。

1980年。市史通り、地下道や歩道橋は無し。

1985年。手書きから印刷に。地下道完成。
なんだ、やはりガセか。

と、1982年にあたる。
な、なんやこのハシゴ型の構造物は!?
1982年だが取材は1980〜1981年にやることが多く、さらに古いネタもある。
だから地下道ではない。
もっとも地下道は書いてないか別な記されを山王や秋田駅で確認している。
他の歩道橋も似たような描かれをしているため、これは歩道橋だろう。

☆架かっていたなら短命か?
んで、市史&地下道の歴史に戻ると、
・1979年 なし
・1980年代前半 あり
・1982年 すでに地下道
であり、相当短命な歩道橋であったことは間違いない。
1978年にはバイパス工事が始まり、すでに去就が決まっていたのに歩道橋ならかなりの税金をかけていて、敷設撤去に莫大な税金をかけたはず。
短命歩道橋でもかかった仮説が2つある。

①バイパス開通まで待ったなしな危険さ
この当時、仁井田・四ツ小屋新団地(御野場)の造成のほか仁井田各地がベッドタウン化し小学校の生徒が増加。当時は仁井田が御野場団地内でも幅広く指定されていたため大量の通学に安全が間に合わず暫定的に架けた可能性である。
中通にさらに増やす予定でつくった歩道橋の部品を反対で断念し、山本郡に移したという記事もあったため仁井田も断念橋や老朽橋から使いまわしたのではなかろうか。

②工事用の暫定歩道
このあたり、今よりも横断場所がなく工事すりにさしあたりなかなか渡れないし、危ない。
だから、工事業者専用のわたり道として足場を組んで仮設で作り上げたのではなかろうか。
いわば墨俣一夜城。
出来たらすぐ取り払ったとなる。
ただ、足場レベルが住宅地図に載るか。

どちらにしろさらなる追加調査が必要である。

旭南のあるもの…締めくくり調査

2024-03-07 18:15:43 | 古町・古道探訪
こないだ存在としての最終報告をまとめた旭南の城町公衆トイレ。
古めな住宅地図でついに場所を特定。
場所は、ここ。
皆々様の言う通り新屋線の松倉家北側だった。
こんな感じ。

改めて驚いたのは、城下町のクランクのカギにすっぽりと入る路上トイレだったこと。
ここでは整理されカギが消えている。
通行のじゃまも廃止の遠因かもしれない。

また、当時存続していた八橋のトイレも別日に調べたがこちらもなくなっていた。

まとめ
・秋田市旭南城町公衆トイレ
・場所は松倉家北のクランクの路上
・2003年にコンビニに利用者を取られ廃止
・既に遺構すらなし
・秋田市には露地トイレはもう無い

こうなった。

【最終報告】旭南のあるもの パート3

2024-02-24 21:45:31 | 古町・古道探訪
今からおよそ3か月前の晩秋11月に、旭南の公衆トイレについて取り上げた。

これ以上の追加取材ができなかったが、晩冬2月、ついに結論を見出すことが出来た!

秋田さきがけの2003.4.18朝刊の県央面に廃止の記事があったのだ。
明徳館で印刷。
 「秋田市旭南の市道脇にある城町公衆トイレが老朽化を理由に閉鎖された」
つまり、トイレは本当に実在した。
場所は城町公衆トイレ。確かにこうまでの調査証言通り。
 「城町公衆トイレは秋田市2つしかない路地トイレであった」
過去に調べ上げた通町や寺町は既に廃止されていた。
 「不特定多数の人が集まる場所だから、衛生面の理由があった」
 「調査をしたら、24時間で42人、7割がタクシー運転士で女性は0」
タクシーの用足しにしか使われていなかったのか。
 「2月に閉鎖」
冬のうちに閉まっていたのだった。

そして…
 「コンビニなど使えるところが多くなって役割を終えた」
コンビニトイレ台頭が引導を渡していたのだった。
タクシー運転手の話、
 「店では気兼ねするから気軽に使えなくなり残念」
当たり前に使えるときからは考えられぬ民度の高さ!

記事は締め。この段階で八橋老人の家前がまだ残っていたらしい。

凄いよ!本当にトイレは実在した!
いくら調べても、Xでも引っかからないトイレの存在をついに証明した。
これでネットで調べてわかるようになるはず。やりきった。

残念ながら最終的な場所は特定できなかったが、多分証言の通り。
写真もあり、まさに立方体のコンクリで「城町公衆トイレ」と表札。
昭和を見つけ上げ、当時の旭南の活気を懐かしむ。

皆々さまの証言にも感謝し、この大ネタの調査は終わります。