FMEN式雑記

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秋田環状線

2025-02-04 23:57:50 | 道路・交通
秋田環状線と聞いてピンとくる方はかなりの道マニアか都市計画に精通したといっていいだろう。
大事な道なのにあまり知られてない。
何よりこの道、まだ開通してないのだから。

☆秋田環状線とは?

秋田市の中心部を環状巡りする道であり、保戸野、千秋、南通、楢山、牛島と通り茨島につながる道である。
1960年代に事業認可がおりた。

☆千秋工区
1978年冬、千秋公園下を掘り進む千秋トンネルが開通。
これでまずは附属小学校から久保田城彌高門付近までが整っていく。
こっからどんどん開通していく。

☆牛島仲見工区
1987年8月、今度は牛島の牛島駅前〜楢山の太平川ギリギリまでを結ぶ区間が開通。
牛島仲見通りと名付けられてこれまでの新屋敷小路を経ないで車両基地や上北手にでられるアクセスロードに。
また、牛島銀行〜駅前までは県道牛島停車場線に指定されていたがとくに変化はなし。
ちなみにここと原ノ町の県道土崎港秋田線が唯一の県道区。

☆保戸野工区
1990年4月6日。
保戸野新川向の起点から附属小学校付近までの県道を含む改良達成。
国鉄官舎付近を整備して見違える街に。
泉ななかまど通りと命名する。

広報あきた 90.4号

☆開通の遅滞
しかし、こっからバブルが崩壊したうえ終点の方の工場の不振、公共事業に消極的な市長の影響で開通は一気に遅滞する。

☆渡れない橋
1999年3月、楢山の太平川を渡る愛宕下橋が開通。
しかし、この橋は約10年渡れなかった。
上の理由か用地の買収が異常にやる気なく、調整もできずにどんどんのびのびに。
ちなみにこの市長時代は都市開発道路が異常に遅延し茨島〜仁井田までの南部中央線、八橋〜寺内までの外旭川新川線の北部工区、大町の川尻広面線の大町工区(横町はいまも整備中)などの異常遅延が目立ち次の佐竹、穂積で大量完成という憂き目を見た。

☆渡れた橋
2010年7月、ついに愛宕下の整備が終了して開通した。
このあと南中の先からも秋田駅まで道がつながることになる。
NHKカメラでもたまにうつる場所。

☆牛島茨島工区
2019年3月。牛島駅〜卸町まで開通。
開発された時は昭和だった道。もう平成の終わりが近づいていた。
牛島駅からの行き止まりをなくし、ダイレクトにつないで変電所近くでまがり、橋をわたり卸町のウエストまでつなぐ工区。
卸町は問屋配送所倉庫が多く道幅がひろくなる。
この時、主線だった牛島北交差点からの道が復道になりムリな分岐が発生した。

☆未成区間
実はこの道は未成区間がまだある。
明田〜南中までの南通工区、秋田駅〜千秋までの久保田工区と思われる。
南通工区は南中から明田まで一気にボトルネックとなる。
しかも右折レーンなしだから混むようになった。
一部は解体されたりしてるがこれが改良かは不明。
久保田工区は現在整備中。
当時は第二千秋トンネルという説もあったがいまは違う。

果たして開通はいつになるのか。

続きは、秋田環状線を走ったバスについてやります。

ふたつの珍しい標識

2024-10-14 23:49:29 | 道路・交通
土曜日に三吉神社にキンモクセイを見に行ったら葉っぱになっていた。
その足で色々見て市内のイベント(エコフェス、AABフェスタ、狐の行列)を見たが、三吉神社前後に手形で2つ珍しい標識を見た。

☆バスだけ

秋田では珍しい、バス禁止標識。
なぜかトラックがないという。
むかしはこれ。

あまりにも古くなり変えたんだろうがなぜトラックが消えた?トラックOKか?
ちなみにこの道はバス路線だがかなり険しい道でありいまではほかを通るほうが無難
ちなみに八郎潟町にもバスのみはあります。

☆珍しい規制

二輪を除く。
秋田では珍しい規制。
やけに東京とかそこらに近い規制だなとおもったらこのあたりは学生街で県外からの方が多いからだろうか。

手形も見てみるもんです。

腕が伸びてます

2024-09-21 21:41:34 | 道路・交通
貴景勝が引退、湊川親方に。
引退会見では「手をいっぱい伸ばしたが横綱に届かなかった」ということに触れた。

貴景勝は短い腕から強い圧力で押し込むタイプ。
組んだら終わりだが押されたら立てない。
それで腕がもう少しながければはわかる。

さて、そんな腕が伸びればだが腕が伸びていたもんを発見。
市立病院は西口からも車入りが容易になる工事をし、影が薄くバス停でしかない市立病院西口が出世。

でる道がせまいため感応式を採用するんだが、
押しボタンがこれ。
どんなシステムかはわからないが、
腕がついてる!
電柱に貼り付いたタイプがほとんどで、腕がついてるのは初めて見た。
遠目。
感応器付き。

ただ、この細さでは折れないか心配。

事故ゼロを目指せ〜飯島国道横断物語〜(後編)

2024-08-10 21:46:59 | 道路・交通
上飯島駅交差点横断史。
前編は危険な交差点でついに小学生が死亡してしまい遺族や地域が陳情をはじめたまで。

☆無視できない実情に建設省は
亡くなった小学生は手を挙げていた、既に何人も事故に巻き込まれて子どもの血を吸い続けた構造など。
必死こいた飯島地域の皆さんに建設省秋田工事事務所はスーパースピードで動き出した。
飯島地区の調査を行い、さらにドライバーも渋滞に悩まされるなどからついに歩道橋の発注を69年秋に実施した。

☆安全の架け橋
翌1970年、ついに歩道橋が出来た。
同時に新城川堀川橋にも別添の歩行者橋、飯島小には交通安全センターが完成。
わたり始めは遺影を持ちわたった人も居たらしい。
日本最古の歩道橋(愛知)も子どもの事故陳情で、死んだと言われているが実は存命。
茨島では経済大の女子大生がはねられたからなども噂にあるが、これは本当の話なのがやはり悲しいとこ。

☆愛された歩道橋
こんな経緯なのに、喉元を過ぎたからか日常なりすぎたからか地元の渡り方に問題が。
ゴミまみれ。
また、面倒くさくて7号線直渡りをするのも。
そのため汚さず使うを周知させて再びきれいに渡らせたりもした。
架橋し、地元に愛されていた。

☆バイパス工事で引き際に
ものすごい道みたいに言われるが規制もちゃんとあり、40km制限はみ出し禁止だった。
だから渋滞もひどくなりついに飯島地区のバイパス工事に入る。
その時に歩道橋は撤去、地下道になることが決まった。
1981年8月31日深夜に道路をとめて撤去。
国道では初の事業に。
事故から12年、架橋11年。生きていたら成人が近づいていただろう御霊が成仏していったように、飯島歩道橋は7号線から消えた。

☆飯島バイパスと地下道
難工事を経て、1981年11月16日開通。

飯島地下道も完成。
これが1982〜1983年の南部バイパスの地下道のエポックメイキングともなり、今に至っている。

☆事故ゼロの願いは恒久の念願
それでも交通量が多い7号線。
ゼブラゾーンを付けたり、上飯島駅交差点は変わった信号にしたりして工夫もしている。
事故ゼロの願いは、令和になってもやめることはない…

事故ゼロを目指せ〜飯島国道横断物語〜(前編)

2024-08-10 21:15:55 | 道路・交通
飯島ネタ最後です。
X向けかな?と思いましたがこのネタはやや限定なんでXは改めて。

飯島の上飯島駅交差点。
黒川へ向かう道との交点は紹介したが、この道は交通量が多く非常にあぶない。
しかも上飯島駅や飯島小学校に向かう人も居て。
そんなあぶない道だから、
飯島地下道がある。
仁井田や牛島と同じ構造。
この地下道までの歴史がなかなか調べごたえがあった。
プロジェクトX並みな話といってもいい。

☆モータリゼーション、急激な交通量
秋田市も高度成長でモータリゼーションや開発が進み、飯島地区もこれまでの国鉄東側から中心が西側に移りはじめていた。
国道7号線の交通量が激増、事故がポツポツと増えていて上飯島駅の付近も例外ではなかった。

☆ある小学生の死
そんな中、1969年3月に飯島小1年の女児が7号線ではねられてしまう。
34時間後に亡くなった。
これまでも飯島小の事故はあったし、死亡事故はあったが、「飯島小生の死亡事故」は初めて。
しかも前年から増え始めて嫌な兆候(ハインリッヒの法則)があった事故であった。

☆歩道橋を作ってほしい
交通戦争は秋田ならず日本各地で死亡事故が頻発。
そのため交通弱者に歩道橋をもとめる陳情多数。
秋田でもあったが追いつかず茨島は当時あった経済大が自腹で立てたぐらい。
それでも死を無駄にするなと、葬式の前から父親は飯島の地域で歩道橋陳情を進めるのだった…
(後編につづく)