FMEN式雑記

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ふたつの珍しい標識

2024-10-14 23:49:29 | 道路・交通
土曜日に三吉神社にキンモクセイを見に行ったら葉っぱになっていた。
その足で色々見て市内のイベント(エコフェス、AABフェスタ、狐の行列)を見たが、三吉神社前後に手形で2つ珍しい標識を見た。

☆バスだけ

秋田では珍しい、バス禁止標識。
なぜかトラックがないという。
むかしはこれ。

あまりにも古くなり変えたんだろうがなぜトラックが消えた?トラックOKか?
ちなみにこの道はバス路線だがかなり険しい道でありいまではほかを通るほうが無難
ちなみに八郎潟町にもバスのみはあります。

☆珍しい規制

二輪を除く。
秋田では珍しい規制。
やけに東京とかそこらに近い規制だなとおもったらこのあたりは学生街で県外からの方が多いからだろうか。

手形も見てみるもんです。

腕が伸びてます

2024-09-21 21:41:34 | 道路・交通
貴景勝が引退、湊川親方に。
引退会見では「手をいっぱい伸ばしたが横綱に届かなかった」ということに触れた。

貴景勝は短い腕から強い圧力で押し込むタイプ。
組んだら終わりだが押されたら立てない。
それで腕がもう少しながければはわかる。

さて、そんな腕が伸びればだが腕が伸びていたもんを発見。
市立病院は西口からも車入りが容易になる工事をし、影が薄くバス停でしかない市立病院西口が出世。

でる道がせまいため感応式を採用するんだが、
押しボタンがこれ。
どんなシステムかはわからないが、
腕がついてる!
電柱に貼り付いたタイプがほとんどで、腕がついてるのは初めて見た。
遠目。
感応器付き。

ただ、この細さでは折れないか心配。

事故ゼロを目指せ〜飯島国道横断物語〜(後編)

2024-08-10 21:46:59 | 道路・交通
上飯島駅交差点横断史。
前編は危険な交差点でついに小学生が死亡してしまい遺族や地域が陳情をはじめたまで。

☆無視できない実情に建設省は
亡くなった小学生は手を挙げていた、既に何人も事故に巻き込まれて子どもの血を吸い続けた構造など。
必死こいた飯島地域の皆さんに建設省秋田工事事務所はスーパースピードで動き出した。
飯島地区の調査を行い、さらにドライバーも渋滞に悩まされるなどからついに歩道橋の発注を69年秋に実施した。

☆安全の架け橋
翌1970年、ついに歩道橋が出来た。
同時に新城川堀川橋にも別添の歩行者橋、飯島小には交通安全センターが完成。
わたり始めは遺影を持ちわたった人も居たらしい。
日本最古の歩道橋(愛知)も子どもの事故陳情で、死んだと言われているが実は存命。
茨島では経済大の女子大生がはねられたからなども噂にあるが、これは本当の話なのがやはり悲しいとこ。

☆愛された歩道橋
こんな経緯なのに、喉元を過ぎたからか日常なりすぎたからか地元の渡り方に問題が。
ゴミまみれ。
また、面倒くさくて7号線直渡りをするのも。
そのため汚さず使うを周知させて再びきれいに渡らせたりもした。
架橋し、地元に愛されていた。

☆バイパス工事で引き際に
ものすごい道みたいに言われるが規制もちゃんとあり、40km制限はみ出し禁止だった。
だから渋滞もひどくなりついに飯島地区のバイパス工事に入る。
その時に歩道橋は撤去、地下道になることが決まった。
1981年8月31日深夜に道路をとめて撤去。
国道では初の事業に。
事故から12年、架橋11年。生きていたら成人が近づいていただろう御霊が成仏していったように、飯島歩道橋は7号線から消えた。

☆飯島バイパスと地下道
難工事を経て、1981年11月16日開通。

飯島地下道も完成。
これが1982〜1983年の南部バイパスの地下道のエポックメイキングともなり、今に至っている。

☆事故ゼロの願いは恒久の念願
それでも交通量が多い7号線。
ゼブラゾーンを付けたり、上飯島駅交差点は変わった信号にしたりして工夫もしている。
事故ゼロの願いは、令和になってもやめることはない…

事故ゼロを目指せ〜飯島国道横断物語〜(前編)

2024-08-10 21:15:55 | 道路・交通
飯島ネタ最後です。
X向けかな?と思いましたがこのネタはやや限定なんでXは改めて。

飯島の上飯島駅交差点。
黒川へ向かう道との交点は紹介したが、この道は交通量が多く非常にあぶない。
しかも上飯島駅や飯島小学校に向かう人も居て。
そんなあぶない道だから、
飯島地下道がある。
仁井田や牛島と同じ構造。
この地下道までの歴史がなかなか調べごたえがあった。
プロジェクトX並みな話といってもいい。

☆モータリゼーション、急激な交通量
秋田市も高度成長でモータリゼーションや開発が進み、飯島地区もこれまでの国鉄東側から中心が西側に移りはじめていた。
国道7号線の交通量が激増、事故がポツポツと増えていて上飯島駅の付近も例外ではなかった。

☆ある小学生の死
そんな中、1969年3月に飯島小1年の女児が7号線ではねられてしまう。
34時間後に亡くなった。
これまでも飯島小の事故はあったし、死亡事故はあったが、「飯島小生の死亡事故」は初めて。
しかも前年から増え始めて嫌な兆候(ハインリッヒの法則)があった事故であった。

☆歩道橋を作ってほしい
交通戦争は秋田ならず日本各地で死亡事故が頻発。
そのため交通弱者に歩道橋をもとめる陳情多数。
秋田でもあったが追いつかず茨島は当時あった経済大が自腹で立てたぐらい。
それでも死を無駄にするなと、葬式の前から父親は飯島の地域で歩道橋陳情を進めるのだった…
(後編につづく)

80年代組歩道橋があった

2024-06-23 20:12:04 | 道路・交通
ヤフーニュースに、これが出てた。

大仙市協和峰吉川の「半仙歩道橋」が撤去とのこと。
この歩道橋は峰吉川半仙地区の住民の通行に掛けられた歩道橋であり階段でなくスロープをわたるタイプ。自転車もOK。
しかし、老朽化や学校の廃止でとうとう引退。
ちなみに、峰吉川歩道橋は手前の山の中にあります。
老人施設から渡るためとか。

こんな、スロープ。

んで注目したが年数。
1981年に掛けたとある。
前に1980年代前半ゼンリン図に記されていた仁井田の短命歩道橋。
【再掲】
1979年にはなく、1982年には既に地下道が会ったため相当短命な歩道橋。
地理院でもこのあたりはないみたいだし、1981年には飯島が撤去されたとあるから、もうこれは間違いなのかと思っていたが、1981年に新規架設があったとすれば短命ながら本当にかかっていた可能性にまた見込みが。
この当時全国的な短命橋があったらしいし、個人的には通学激増の暫定橋だと見ている。
このあたりのデータが見つかればいいが、なかなか見つからないのが残念なとこ。