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事故ゼロを目指せ〜飯島国道横断物語〜(後編)

2024-08-10 21:46:59 | 道路・交通
上飯島駅交差点横断史。
前編は危険な交差点でついに小学生が死亡してしまい遺族や地域が陳情をはじめたまで。

☆無視できない実情に建設省は
亡くなった小学生は手を挙げていた、既に何人も事故に巻き込まれて子どもの血を吸い続けた構造など。
必死こいた飯島地域の皆さんに建設省秋田工事事務所はスーパースピードで動き出した。
飯島地区の調査を行い、さらにドライバーも渋滞に悩まされるなどからついに歩道橋の発注を69年秋に実施した。

☆安全の架け橋
翌1970年、ついに歩道橋が出来た。
同時に新城川堀川橋にも別添の歩行者橋、飯島小には交通安全センターが完成。
わたり始めは遺影を持ちわたった人も居たらしい。
日本最古の歩道橋(愛知)も子どもの事故陳情で、死んだと言われているが実は存命。
茨島では経済大の女子大生がはねられたからなども噂にあるが、これは本当の話なのがやはり悲しいとこ。

☆愛された歩道橋
こんな経緯なのに、喉元を過ぎたからか日常なりすぎたからか地元の渡り方に問題が。
ゴミまみれ。
また、面倒くさくて7号線直渡りをするのも。
そのため汚さず使うを周知させて再びきれいに渡らせたりもした。
架橋し、地元に愛されていた。

☆バイパス工事で引き際に
ものすごい道みたいに言われるが規制もちゃんとあり、40km制限はみ出し禁止だった。
だから渋滞もひどくなりついに飯島地区のバイパス工事に入る。
その時に歩道橋は撤去、地下道になることが決まった。
1981年8月31日深夜に道路をとめて撤去。
国道では初の事業に。
事故から12年、架橋11年。生きていたら成人が近づいていただろう御霊が成仏していったように、飯島歩道橋は7号線から消えた。

☆飯島バイパスと地下道
難工事を経て、1981年11月16日開通。

飯島地下道も完成。
これが1982〜1983年の南部バイパスの地下道のエポックメイキングともなり、今に至っている。

☆事故ゼロの願いは恒久の念願
それでも交通量が多い7号線。
ゼブラゾーンを付けたり、上飯島駅交差点は変わった信号にしたりして工夫もしている。
事故ゼロの願いは、令和になってもやめることはない…

事故ゼロを目指せ〜飯島国道横断物語〜(前編)

2024-08-10 21:15:55 | 道路・交通
飯島ネタ最後です。
X向けかな?と思いましたがこのネタはやや限定なんでXは改めて。

飯島の上飯島駅交差点。
黒川へ向かう道との交点は紹介したが、この道は交通量が多く非常にあぶない。
しかも上飯島駅や飯島小学校に向かう人も居て。
そんなあぶない道だから、
飯島地下道がある。
仁井田や牛島と同じ構造。
この地下道までの歴史がなかなか調べごたえがあった。
プロジェクトX並みな話といってもいい。

☆モータリゼーション、急激な交通量
秋田市も高度成長でモータリゼーションや開発が進み、飯島地区もこれまでの国鉄東側から中心が西側に移りはじめていた。
国道7号線の交通量が激増、事故がポツポツと増えていて上飯島駅の付近も例外ではなかった。

☆ある小学生の死
そんな中、1969年3月に飯島小1年の女児が7号線ではねられてしまう。
34時間後に亡くなった。
これまでも飯島小の事故はあったし、死亡事故はあったが、「飯島小生の死亡事故」は初めて。
しかも前年から増え始めて嫌な兆候(ハインリッヒの法則)があった事故であった。

☆歩道橋を作ってほしい
交通戦争は秋田ならず日本各地で死亡事故が頻発。
そのため交通弱者に歩道橋をもとめる陳情多数。
秋田でもあったが追いつかず茨島は当時あった経済大が自腹で立てたぐらい。
それでも死を無駄にするなと、葬式の前から父親は飯島の地域で歩道橋陳情を進めるのだった…
(後編につづく)