残月録

残月がやがて消えていく間にも、私の日常生活の中に何か一瞬の輝きを求めて写真を撮っています.

あおによし

2020-11-25 11:48:57 | 日記
柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺

秋くるゝ 奈良の旅籠や 柿の味

をりをりに 鹿のかを出す 紅葉かな
        正岡子規

正岡子規は肺結核の身で日清戦争の従軍記者として
中国に渡り、帰りの船で大喀血して帰国した。
郷里の松山で静養していたが、夏目漱石より10円借りて
最後の旅に出たのが奈良であった。







文中の柿は御所柿(ごしょかき)。
奈良の御所市でとれる柿。子規は好んで食べた。



奈良公園の鹿

2020-11-22 11:09:57 | 日記
奈良公園の鹿は野生動物(飼い主はいません)で天然記念物に
指定されてます。戦後の食糧不足で100頭以下に減少したが
現在は約千頭位いるそうです。
以下、鹿せんべいを売っているおばあさんから聞いた話です。
おばあさんの関西弁を再現しておきます。
「平城京の時代767年春日神宮さんが創建された時
鹿島神宮から主神様が白い鹿に乗って来られたということで
神鹿(しんろく)として大事にされるようなったんじゃ。
それに大和の国の守護だった興福寺さんからも神鹿として厳重に
保護されとったん。でもな過保護がすぎて大勢の人が罰を受けたんよ。
少女が市中引き回しのうえ斬首をうけたりしてな。
それから、三作とう男の子が習字を書いている時、鹿がその紙を
食べてしまったんよ。三作は思わず文鎮を投げるつけると
運悪く鹿が死んでしもうた。三作は穴に埋められて、
石を詰められ石子詰の刑罰(死罪)をうけたそうな。
母親が悲しんで明け七つ、暮れ六つに供養に努めたため
、興福寺に三作の塚がつくられたんよ。
今もあるから行ってみなはれ。」
とまあ、おばあさんの鹿にまつわる話。







南都墨(奈良の墨)

2020-11-17 11:08:55 | 日記
日がな一日奈良の街を散歩して目についたのは
書道の道具を売っている老舗です。
なんの事はない、奈良は全国の墨の
95%のシュアを占めているそうです。
以下古梅園の店員さんに聞いた話です。
「墨は基本的には煤とニカワを職人さんが手でこねて
造ります。
墨は中国から入って来て、仏教が浸透し
写経が盛んになり墨の需要が追いつかず
飛鳥時代(推古天皇)には日本の国内で生産されました。
当時は松をもやした松煙墨でした。
平安・室町時代、墨は奈良の興福寺の燈明の煤で作られたで油煙墨が主流となり、
興福寺は墨生産の一大拠点となりました。
現在でも油煙墨が主流です。
南北朝時代に奈良が墨の主たる生産地のため南都墨と呼ばれる
ようになりました。
安土桃山時代、墨師が店舗を構えて商売をするようになり
”古梅園”が創業しました。約400年以上昔です。」
奈良市内には、古梅園、奈良市史料保存館、墨の資料館、永楽案、
がありますので興味のある方はどうぞ。


本店では墨の工程から販売まで見学することができます。








       (資料 古梅園より)






秋の一日

2020-11-12 18:14:05 | 日記
秋日和の公園を散歩すると若いころ読んだ
詩集を思い出します。 
  秋の歌
    ポール・ベルレーヌ
    (訳)上田敏
秋の日の ビオロンの
ためいきの ひたぶるに
みにしみて うら悲し。

鐘の音に 胸ふたぎ
色かへて 涙ぐむ
過ぎし日の おもいでや。

げにわれは うらぶれて
ここかしこ さだめなく
とび散らふ 落ち葉かな。



後に知ったのですがこの詩には
血なまぐさい逸話があります。
第二次世界大戦の末期、ノルマンディー上陸
の日をパリのレジスタンスに知らせる為に
この詩が前日ラヂオから流されたそうです。
ノルマンディー上陸作戦の暗号に使われたのです。


ちさい秋みつけたー2ー

2020-11-09 16:59:15 | 日記
  ー2-
誰かさんが 誰かさんが 
誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた
お部屋は北向き くもりのガラス
うつろな目の色 溶かしたミルク
わずかなすきから 秋の風
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた