
高徳院の本尊、銅造阿弥陀如来坐像、像高11.2m、重量121t、国宝です。

風土記稿が伝える「清浄泉寺建立序次之記」によると、
ここは、真言宗の浄泉寺の跡とのこと。
聖武天皇は、天平9年3月に浄泉寺を開基、東国の総国分寺としたようです。
開山は行基、時忠が取り仕切って大般若経を寄付したようです。
時忠とは良弁の父親、藤原鎌足の子孫、関東の総追捕使、
由比の長者とも呼ばれる染谷時忠のことでしょう。
国分寺や東大寺を作った聖武天皇、行基、良弁と複雑に絡んでます

現在の大仏は鎌倉時代に作られたものですが、開基・開山や完成年は不明です。
源頼朝と政子が、再建された奈良の大仏を見て発願し、
浄土宗の念仏僧、浄光が勧進して作ったらしいです。年表をあげておきます
1238年:深沢の里の大仏堂の事始(吾妻鏡) 1238年:深沢の里の大仏の御頭を挙げ奉る、周八丈なり(吾妻鏡) 1239年:寄付の下知を出すよう、浄光が幕府に上申 1241年:深沢の大仏殿、上棟の儀有りと<云々>(吾妻鏡) 1243年:八丈余の阿弥陀像を安じ、今日供養を展ぶ(吾妻鏡) 1252年:金銅にて八丈の釈迦如来の像を鋳始め奉る(吾妻鏡) 1262年:叡尊が来鎌、吾妻鏡(弘長2年)欠如 1264年:吾妻鏡(文永元年)欠如 1264年:鋳物師の丹治久友が「新大仏寺大工」と自称 |
仏像の高さは、髪の生え際までの高さで言うそうで、実物は9.6mです。
立った場合に8丈で、坐像だと4丈、丈は尺の10倍です。
周尺は唐尺(30cmくらい)の3/4で22.5cmとして、4丈=9mです。
実測と合うと言ってるそうですが、いいかげんなものです
完成年については、1262年説(馬淵和雄)が有力みたいです。
叡尊・忍性の律宗教団は、朝廷の支配下だった技術者を引き抜いて組織したり、
先行して勧進や土木事業を行っていた念仏僧を、官僧によらず律宗僧が
受戒する仕組みを作って取り込みました。北条得宗家は、専修念仏を追放したり、
経済的な権限を与えて支援する代わりに、律宗教団の資金や技術を利用しました。
また、吾妻鏡が北条氏や律宗の関与の記述を避けてることも謎ですが、
堕落した律宗組織との裏の関係の隠蔽、時頼の政治的陰謀の隠蔽、
地元民の安達氏の活躍の隠蔽説、とかいろいろあるようです

奈良の大仏は盧舎那仏ですが、鎌倉の大仏は阿弥陀仏です。
親指と人差指で作る円がポイントで、上生の上品、阿弥陀の定印です。
円を取ると釈迦の定印に簡単に改造できそうです。
律宗教団は釈迦信仰があったので、金銅仏は釈迦如来で作り、
江戸時代に阿弥陀に戻したという説もあるようです
与謝野晶子の「鎌倉や み仏なれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」、
阿弥陀仏と釈迦を間違って詠んでますが、間違うのも無理ないですね

札所本尊の聖観音は観月堂に安置されてます。
2代将軍、徳川秀忠が寄進したとのことです
大仏が大きすぎて注目されず、もったいないですね

いただいた御朱印です
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